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	<title>冥王星</title>
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	<description>君のいた惑星は消えてしまった</description>
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	<title>冥王星</title>
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		<title>さらわれてしまったね</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 07 May 2026 09:52:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　何が、誰が、どんな言葉と、どんな態度が——。 　明確な理由があったのではないのだと思う。今となっては全てが憶測になってしまうけれど、でもきっと、もっと漠然としたものが原因だった。 　未来に期待と夢を膨らませ、周囲の大き...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202605074033/" title="続きを読むさらわれてしまったね">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　何が、誰が、どんな言葉と、どんな態度が——。<br />
　明確な理由があったのではないのだと思う。今となっては全てが憶測になってしまうけれど、でもきっと、もっと漠然としたものが原因だった。<br />
　未来に期待と夢を膨らませ、周囲の大きな期待を背負った十八歳の青年にとって、事故とそれによる怪我はあまりに大きかった。私は当事者ではないけれど、そのことを少しは分かっているつもりだったのだ。しかし、それはあくまでも‘つもり’でしかなく、結局のところ、彼に取っては何の支えにもなれていなかったのだろう。</p>
<p>　約束した大きなおにぎりを携えて、病院へ行くと、病室はもぬけの殻だった。何度も通って、もう見慣れてしまったベッドの上には折り畳まれたシーツがあって、いつも窓の向こうの海を見ていたツンツン頭の姿はない。<br />
　「仙道くん」と私が呼ぶと、ゆっくり振り返って、それからにこりと笑う仙道の姿はそこになかった。<br />
『仙道さんなら先日転院されましたけど』<br />
　よく来ていた私のことを覚えていたのだろう看護師が、通りがかりに私に言った。耳を疑った。だが、目の前の病室の有様がそれが事実だと突きつけてくる。<br />
　どこへと聞いて、教えてくれるはずはない。患者の個人情報である。あれだけ親しげにしておいて、まさか教えてもらっていなかったのかと、驚いているのは看護師も同じだった。</p>
<p>　仙道が消えた。私の知らない場所へ、何も告げずに行ってしまった。<br />
　もしかしたら、彼と親しかった友人たちには教えたのかもしれない。でも、私はその友人たちを知らないし、少なくとも、私に教えずに行ってしまったことに何か意味があるのだと思う。彼が私に知って欲しかったら教えてくれたはずだ。言わずに行ったということは、知ってほしくないという意味で、すなわち私の方から転院先へ会いにきて欲しくはないということである。</p>
<p>　逃げるようにして病院を去った。何も悪くないことはしていなかったのに、その場にいたくなかった。病院は嫌いだ。そこには死の匂いがしている。そこにいる誰もが、永遠に届かない場所へ行ってしまうような気がしていて、実際そうなった。<br />
　病院前の大通り。ここへ来るために何度も通った道だった。仙道と会うことを思えば苦手な病院へ行くのだって苦じゃなかった。彼のためになりたかった。それが独りよがりな自己満足に近いものだと知っていながら、それでも彼の近くで、彼の悲しみをと痛みを少しでも減らしてあげたかった。<br />
　もう、ここへ来ることもない。<br />
　肩に下げたバッグがずっしりと重たい。握った大きなおにぎりは、そのまま彼への思いに成り代わってしまったようだった。</p>
<div class="su-spacer" style="height:30px"></div>
　病院を出て、そのまま足は一つの場所を目指して歩いていた。そこまでしてしまうことが正しいことなのか、分からない。でも、どうしてもそうしたかった。<br />
　一度だけ行ったことのある場所。目の前に来たことなら何度かあった。それでも、片手に収まるくらいの数だったけれど。<br />
　川の近くの古い一軒家。自分にどんな権利があって、どんな立場で、そうしているのか、尋ねられたら答えられない。それでも、呼び鈴に伸ばす手を止められなかった。<br />
　呼び鈴が鳴り、扉一枚を隔てた向こう側から、足音が聞こえてくる。扉が開かれるのを待つ少しの間、今更になって緊張が高まり、口から心臓が飛び出てしまいそうだった。</p>
<p>「あら」</p>
<p>　扉を開けて、そこに立つ私の姿を認め、仙道の下宿先の主はそう溢した。<br />
　一度だけ、ここにきた私のことをしっかりと覚えてくれているようだ。</p>
<p>「いきなり押しかけて申し訳ありません。……あの、仙道くんが転院されたと聞いて、それで、」</p>
<p>　言葉が詰まる。先に続けるべき言葉が思いつかなかった。<br />
　それで、一体なんだというのか。<br />
　転院したことを知らされていなかった。何か知っているか。どこにいるか。そこにはいないか。何か話を聞いていないか。<br />
　そんなことを訊いてどうする。知らされなかった、それが全てなのに。</p>
<p>「彰くんなら、東京行きが前倒しになったって聞いたよ」</p>
<p>　優しく、おばあさんはそう言った。ここに来るまでの間、そうなんだろうと思っていた答えだった。<br />
　そうですか、と頷いて俯いた私を案ずるように、おばあさんが扉から私の方へ近寄ってくる。関係のない人に、心配を、──いや、迷惑をかけている。分かっているのに、すぐに立ち去る力が湧いてこなくて、足が動かない。<br />
　おばあさんの手が、私の肩に触れた。<br />
　小さくて、けれど布ごしでも優しさを感じる手つきで、私の肩を撫でた。</p>
<p>「聞いていなかったのかい」<br />
「……はい」<br />
「そうかい、心配かけたくなかったのかねぇ」</p>
<p>　あんまりにも優しすぎて、じわっと涙が浮かんでくる。俯いたまま、必死に目元に力を込めて、表面で震えるその滴が、こぼれ落ちないようにした。押しかけてきて、勝手に落ち込んで、あまつさえ軒先で泣くなんて、これ以上の迷惑はかけられない。</p>
<p>「すいません」<br />
「いいのよぉ、彰くんもいなくなってしまって寂しかったからね」</p>
<p>「私、もう行きます。急に来て、本当にすみませんでした」<br />
「謝ることないさ」</p>
<p>　おばあさんは最後に、私の肩をもう一度撫でて、背中をポンとしてくれた。落ち込まずに歩けと私を励ますように。</p>
<p>「大丈夫、すぐに連絡が来るよ」</p>
<p>　深々と頭を下げて、家路へ着く。<br />
　足はひどく重かった。<br />
　仙道彰が、消えてしまった。その現実が私の肩に重くのしかかってくる。</p>
<p>　空に輝く星のように、宙を引き裂く彗星のように、仙道がいずれ手の届かない遠い場所へ行ってしまう存在になるとして、それはこんな近い未来ではないと思っていた。まだ、もう少し、私には時間があって、彼と一緒に笑っていられると思っていたし、それを許されているような気がしていた。何もかも、思い違いも甚だしいとも知らず。</p>
<p>　なんで、どうしてと騒ぐのは簡単だ。<br />
　でも、意味がない。仙道がいないのに、もう会えないかもしれないのに、一人で騒いで何の意味があるというのか。</p>
<p>　どれだけ何も考えずに歩いても、迷わず家に帰ることができた。慣れた道と、よく知った町だから。ここが、私の町だから。<br />
　行きと同じ重さのバッグを抱えて、家の階段を上がる。お店はもう閉まっていて片付けまで済んでいた。家のドアを開けると、珍しく父がいた。この時間に家にいるのは、一年でも数回。本当に稀だった。</p>
<p>「おかえり、早かったじゃないか」<br />
「……お父さんも、珍しいね」<br />
「たまにはね。晩御飯はどうする？　久々に寿司でも食いに行くか？」</p>
<p>　無邪気な顔で父が言う。<br />
　父の言う‘寿司屋’は魚住の実家のことである。<br />
　いつもなら二つ返事で「いいね」と言うところだが、今日ばっかりはどうにもそんな気にはなれなかった。そこに行けば魚住がいて、いやでも仙道の話をされるだろう。魚住は、仙道が転院して行ったことを知っているのだろうか。知っていたとしても、知らないとしても、いずれにせよ、何かを聞くのは怖い。愛想笑いをする余裕が今はまだない。</p>
<p>　ふるふると首を横に振った私に、父が少しだけ驚く。寿司が好物の娘が、まさか断るとは思わなかったのだろう。事実、「寿司屋に行くか」と父に言われて「嫌だ」と言ったことは私の記憶の中では一度もない。</p>
<p>「どうした？　なにかあったのか」</p>
<p>　玄関に立ったまま、言葉の一つも発せない娘の違和感に父が感づく。<br />
　ゆっくりと首をまた横に振ったけれど、どうしてもうまく誤魔化すことができない。嘘をつくのも、平気なふりをするのも得意なはずだったのに、どうしても今はそれができない。<br />
　ゆっくりと父が私の方へ近づいてきて、目の前まで来た。私の肩からさがったバッグに目をやる。その中が減っていないのは、膨らみを見れば外からでも明らかだ。父の手がゆっくりと肩に触れた。</p>
<p>「これ、持って行ってあげたんだろう？　前、うちに来ていた子に」<br />
「……なんで、それ」<br />
「いやこの前、純に会ってね。その時、その子が最近事故に遭ったと話していたから、病院へ行くってことはその子に会いに行ってるのかと思ってな」</p>
<p>　何もかも、父にはお見通しであったのだ。気恥ずかしさもあったけれど、今はそれより虚しさがあった。小さな声で「そうだよ」と言う。父は優しい声で「そうか」と言った。その声のトーンだけで、今日よくないことがあったと察しているのだと分かる。</p>
<p>「これ、ポストに届いていたよ」</p>
<p>　父が、封筒を差し出した。<br />
　真っ白の封筒の真ん中に、少し右上がり気味の字でここの住所と、私の名前が書いてある。ひっくり返すと、右下には「仙道彰」の文字。は、と声が漏れなかったのは奇跡だ。<br />
　ドクン、と心臓が大きな音を立てる。もう、それ以外には何も聞こえない。<br />
　ゆっくりと封を切ると、便箋が一枚入っている。</p>
<p>”<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、急にごめん。<br />
東京の病院に行くことになりました。別れの挨拶も間に合わなそうだから、手紙に。<br />
リハビリにへばっているところを見られるのは恥ずかしいので、どこへ行くかは言わずに行きます。<br />
直して、また、バスケットができるようになったら戻ってくる。<br />
必ず、会いに来るから。”</p>
<p>　私の頭に父の手が伸びて、優しく髪を撫でた。父に頭を撫でられることなんて子供の頃以来だ。厳しい人ではなかったけれど、私を甘やかすような人ではなかった。何より父は忙しくて、私たち親子のコミュニケーションはどちらかといえば希薄な方だ。<br />
　だから、その時になって初めて、自分が泣いていることに気がついた。<br />
　さっきはちゃんと我慢できたのに、ここに来て、もう限界だ。<br />
　右目から、左目から、迫り上がってくる涙を止めるすべが今はない。</p>
<p>「前に、<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>がクレープを家で焼いてくれたことがあっただろう」<br />
「……は、」<br />
「お父さんにもくれたね。でも、一番綺麗に焼けたのは違う人のところへ持って行った。それがあの子だったんじゃないかって」<br />
「……そんなことまで気づいていたの」<br />
「一番美味しいのを食べてもらいたい人っていうのは、きっと、とても好きな人だろう」</p>
<p>　全てを知っているわけでもないだろうに、まるで全て知っているかのような口調だった。父はわんわんと泣く私を見ても驚く顔一つ見せなかった。頭を撫でて、時折涙を拭ってくれた。父の手は優しい。それが今は、余計に悲しくさせた。</p>
<p>「好きな人がいなくなったら、悲しくて当たり前だよ」</p>
<p>　それでいいんだ、と今の私を肯定するように父が言う。<br />
　自分の記憶の中のどんな場面よりもたくさん泣いた。祖母が亡くなった時も泣いたけれど、あの時は仙道が涙を止めてくれた。そんなことまで思い出すと、ますます泣けた。涙の止め方なんて忘れてしまった。どうせいつか止まる。止まらなくて枯れてしまうなら、もうそれでいいとすら思った。</p>
<p>「泣くほど好きな人なんてそうそう出会えるものじゃない。立派なことだ」</p>
<p>　父が何かを言えば言うほど、私の恋が終わっていく。あの背の高い後ろ姿が、どんどん遠ざかって見えなくなってゆく。私の恋の終わりを、父の言葉が飾っていく。そうすると私はそれを受け入れざるを得ない。恋の炎は揺らめいて、今まさに消えようとしている。それを防ぐ術を私は持たない。ただ、受け入れるしかない。</p>
<p>「……お父さんも泣いたことあるの」<br />
「ああ、もちろん。母さんと別れてからずっと泣いてるよ。……だから<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>。ごめんな」<br />
「謝んなくていいよ、それは、立派なことなんでしょう」<br />
「そうだ。でも、お前に悲しい思いをさせたことは謝らなくちゃいかん」<br />
「……悲しくなんてなかったよ」</p>
<p>　母というものがいない人生だった。でも、それは悲しいことではなかった。いろんな人から愛をもらった。大切にしてもらった。誰よりも父が、私を大事に育ててくれた。<br />
　だから今までの人生は平気だったのだ。少しくらい寂しくても平気だった。<br />
　ただ、今はだめだった。泣き止み方も忘れるくらい悲しくて、悲しくてどうにもならない。</p>
<p>「でも、今日は悲しいの」</p>
<p>　私の涙が枯れてしまうまで、父は黙ってそばにいてくれた。たくさん泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れても、それでも仙道のことを考えると悲しくなった。</p>
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		<title>人魚は旅に出たらしい</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 25 Oct 2023 15:03:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　唐突だった。 　あまりに突然で、あまりに衝撃的だった。 　それは現代の悲劇だったのだ。バスケットコートで汗を流し、仙道が帰路に着いた時。二月の十七時はもう真っ暗である。公園の周りは住宅街で、街灯も少ない。交通量も少ない...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310264024/" title="続きを読む人魚は旅に出たらしい">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　唐突だった。<br />
　あまりに突然で、あまりに衝撃的だった。</p>
<p>　それは現代の悲劇だったのだ。バスケットコートで汗を流し、仙道が帰路に着いた時。二月の十七時はもう真っ暗である。公園の周りは住宅街で、街灯も少ない。交通量も少ないので普段は事故など早々に起きないはずなのに、その日、たまたまその道を通った仙道と、狭い道でスピードを出していた車がぶつかった。相手も、人通りの少ない道なので油断していたと言う。</p>
<p>　幸いにも命に別状はなかったが、無傷というわけにもいかない。全治三ヶ月、万全の状態でスポーツができるようになるまで半年以上は要する。</p>
<p>　病院に駆けつけた誰もが、その話を聞いて頭を抱え、顔を覆った。仙道だけが、一人、真っ白のベッドに寝転んだまま窓の外の海を見ていた。そこだけを切り取ると、高校の屋上でかつて微睡んでいた時と全く変わらなく見えた。ぼんやりとして覇気がなかったが、特段悲しそうにも見えない。見舞いに来た彼の友人たちの方がずっと悲しくて辛そうだった。</p>
<p>「りんご、食べる？　甘いよ」</p>
<p>　ベッドサイドで、果物カゴからりんごを一つとった。誰かの見舞いの品だった。真っ赤なりんごはよく熟れていて、今の時期がちょうど食べ頃である。三月の、冬から春へ移り変わる季節。本来なら春の匂いでも探しに散歩するか、波の強い海へ呼ばれるままに赴くか。いずれかで時間を潰すのに相応しい季節である。<br />
　しかし、私は病院にいた。海の見える病院の最上階の、突き当たりから三番目の部屋。そこが仙道の病室だった。</p>
<p>「病人じゃないからこういうの要らないって言ってんだけどなあ」<br />
「心配なんでしょう、怪我人のことが」<br />
「そういうもの？」<br />
「どうだろう、私は手ぶらだし」</p>
<p>　事故からひと月が経ち、面会が全面的に許されるようになり、タイミング良く春休みに入った私も時間を見つけてはここへ来るようになった。病室へ通うのは祖母の時以来で、薬品の漂う‘病院’という空間は今でも緊張する。しかし、ドアを開けた時、向こう側にいるのは今にも死にそうな青白い顔の老婆ではなく、健康的なやや色白の青年だった。<br />
　彼の顔色が悪くないのを見ては、毎回安堵している。病院にいる誰もがそうでないことは知っているはずなのに、何故かここの空気は私の中で死に直結しているのだ。<br />
　そして包帯の巻かれた動かない彼の脚を見ては、依然変わることのない状況に胸がちぎれそうなほど痛んだ。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」<br />
「なに？」<br />
「それ剥いたら、窓開けて」<br />
「ん」</p>
<p>　不慮の事故だった。偶然が重なって、たまたま、あの時間にあの場所にいたのが彼だっただけ。<br />
　でも、どうして彼が、と思わずにはいられない。</p>
<p>　バスケットができなくなった。たった一つの事実を、いまだに誰もうまく消化できていないままだった。勿論、それは永遠ではない。怪我が完治すれば、またプレーすることができる。その未来をひたすら信じて、今は回復に専念するのみなのだ。<br />
　幸いにも、彼の進学先は状況を考慮して、回復までサポートに当たってくれるという。連携している大学近くのリハビリ施設も紹介されて、怪我の状況が良くなればいずれそこに通うことになると、仙道は言った。</p>
<p>　仙道の話を、仙道は他人事のように私に言った。何かを報告するような口調で、あれやこれやと教えてくれる。怪我の状況や治療の様子、これからのことや、見舞いに来てくれた友人・先生たちのこと。<br />
　彼は滔々と話した。すべてが仙道の話ではないように聞こえた。それが、私の感じ取り方なのか、仙道の話し方なのか。確かめる術はないけれど、でも、彼の言葉に‘実感’というものが伴わなくなっていたことは違いなかった。</p>
<p>　窓を開ける。風が入ってくる。その冷たさを感じ取るということが、すなわち生きているということである。<br />
　でも、仙道の場合はどうだろう。魚が水から上がったら死んでしまうように、仙道もバスケットボールを取り上げられたら、やっぱり死んでしまうのだろうか。</p>
<p>「……もうすぐ、冬が終わるね」<br />
「分かるの？」<br />
「春の海は独特なんだよ、だから分かる」<br />
「へえ」</p>
<p>　仙道の目が窓の外の海へ向く。少し見て「わかんない」と彼が言った。そうだろうなと思う。春の海は独特の様相をもって、季節の移り変わりというものを示してくれるけれど、それを感じ取るには、彼と海とは共にした時間が短い。<br />
　その独特さを、言葉で説明するのは難しかった。ただ感じ取るものだったから。父に言っても、肉屋のおばちゃんに言っても伝わる。魚住だってきっと渋い顔で同意してくれる。でも誰も、それを言葉で表すことはできないはずだ。</p>
<p>「甘いね、このりんご」<br />
「美味しそうだったもんね」<br />
「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんも食べなよ、剥いてくれたし」<br />
「じゃあ、ひとつ」</p>
<p>　この赤い果実の甘酸っぱさを、恋に喩えた人間がいる。言葉に表すのが難しいものを、どうにかして言語化したがるのは人間古来の性質である。<br />
　恋の味が、りんごに近いか、檸檬に近いかなど至極どうでもいい問題だった。<br />
　私の恋はそのどちらでもない。甘酸っぱくはなかった。味といより温度があって、色というより匂いがした。自分が剥いたりんごを齧りながら、不幸の中で黄昏れるこの青年こそが、私の他ならぬ恋であった。</p>
<p>「ここ、窓開けると海の匂いしかしねぇの」<br />
「だろうね」<br />
「薬の匂いとか、消してくれるから助かってる」<br />
「苦手なの？」<br />
「俺は別に。<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんが苦手でしょ」</p>
<p>　この恋を、何かに喩えることなどできなかった。喜びと悲しみが半々にあった。幸福と不安の狭間で、蝋燭の火が揺れていた。強い風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎が、私の心の中で揺らめていて、それは徐々に大きくなった。仙道彰という男そのものが、私の恋である。</p>
<p>「……そんなこと言ったっけ」<br />
「んーなんとなく。表情とか。病院嫌いそうだなって」<br />
「分かったの？」<br />
「そう思っただけですよ」</p>
<p>　思っただけと言いながら、その言葉に仙道は確信を持っていた。そしてそれは正解だった。<br />
　彼はなんでも知っていた。私が悟らせないようにしていることも、隠したかったことも、仙道の前では意味をなさない。彼にはなんでもお見通しだった。私は仙道のこと何も分からないのに、フェアじゃない。</p>
<p>「当たり？」<br />
「……まあ。でも、もう慣れたよ」<br />
「そっか」</p>
<p>　泣いてくれたら悲しいのだと分かる。笑ってくれたら楽しいのだと分かる。辛いと言ってくれたら辛いと分かる。でも、仙道は悲しそうにも辛そうにも見える顔で笑うから、だから分からないのだ。</p>
<p>「俺は慣れませんよ」</p>
<p>　喉まで出かかった言葉は、皆消えていく。無力を嘆くだけの人間にかけられる言葉などなかった。<br />
　今日に限ってやけに静かな海は、波音も立てずに引いて返すを繰り返す。病室には、しゃくりとりんごを食べる音だけが響いていた。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
<p>　土曜日。<br />
　珍しく手土産を持ってきた。と言っても、商店街のケーキ屋で買った焼き菓子の詰め合わせだった。私が食べたいというのが一番で、前にりんごを剥いた時、仙道が「果物は食べるのがちょっと手間」と呟いていたのをなんとなく思い出したのが二番目の理由だった。<br />
　マドレーヌとフィナンシェとクッキー。見た目はシンプルだけれど、味は町一番と店主自ら公言する、昔ながらのケーキ屋の菓子である。</p>
<p>「珍しいね」</p>
<p>　私が珍しいと思うのと同じように、病室の仙道も私に手にぶら下がった小花柄の紙袋を見てそう言った。中身を見せると、「美味そ」と言う。彼はいつも通りだった。</p>
<p>「たまにはね。私も食べたくて」<br />
「ありがとう。<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんどれ食べたいの？」<br />
「仙道くんから選びな」<br />
「いいよ、どれも二個以上あるし」<br />
「……じゃあ、フィナンシェ」</p>
<p>　私が先にフィナンシェを取って、それから仙道がクッキーを取った。残りは仕舞って、近くのテーブルに置いた。<br />
　ベッドサイドの棚には紙コップと電気ポットと紅茶のティーバッグが入っていて、全部彼の母親が持ってきたものらしかった。そういうところに家柄の良さというのが見え隠れしている。私も、ここへ来る時には使わせてもらうことが多かった。</p>
<p>　フィナンシェの程よい甘さにバターの香り。確かに、ここの焼き菓子は美味しい。ケーキよりも焼き菓子の方が美味しい稀有な店だった。店主が拗ねるのでそんなことは言わないが。あそこのケーキは、私の舌にはやや甘すぎるのだ。</p>
<p>「どう、調子は」<br />
「まあ、変わんないね」<br />
「そっか」<br />
「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんは？」<br />
「私も大して変わんないよ」<br />
「そうなんだ」</p>
<p>　仙道の足は依然として包帯が巻かれ、一ミリだって動かない。動かせることはできるというが、絶対安静ということもあって、仙道がそれを動かす素振りを見せることはなかった。<br />
　時々無性に怖くなる。<br />
　彼の足は、本当にもう一度、軽やかに動くのだろうか、と。もう一度バスケットコートを駆け回って、誰よりも高く跳ぶことができるのだろうか、と。<br />
　不安になっても仕方ない。誰よりそれを恐れているのは本人なのだ。周囲がその不安を煽るような真似をすべきではないと重々承知している。<br />
　でも、一ミリも動かない彼の足を見ていると頭の中に不安が浮かんで、それがぐるぐる回って、大抵夜まで消えることはない。吐露できないからこそ、その恐れに縛られてしまうのだ。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん前に、海に呼ばれるって話してたよね」<br />
「そうだね」<br />
「ちょっとだけ分かった気がする」</p>
<p>　この病室にいるとき、彼の視線は往々にして私か、あるいは海へ向けられていた。窓の外に広がるその雄大な景色はまさしく私の町そのものを象徴する海であった。<br />
　仙道の目が海に留まる。水面にポツリポツリと船が浮いている。<br />
　今日は天気があまり良くない。春の曇天は、いつにも増して憂鬱だ。こういう日、海は荒れやすい。実際、今日も返す波の勢いはいつもよりも強かった。灰色の海は、人を呼びやすい。波音に耳を澄ませて目を閉じると、今すぐそこへ行かなくてはならないような、そういう根拠のない焦りに体を突き動かされるのだ。</p>
<p>「呼ばれたの？」<br />
「んー、行かなきゃって思う」<br />
「海に？」<br />
「そう。行けないから尚更」<br />
「分かるよ」</p>
<p>　行ってはいけない。荒れる前、もしくは荒れた海は危険だ。容易に人を飲み込んで帰さない。自然の圧倒的な力の前で、人は皆無力である。だから近づいてはいけない。小さい頃からそう言い聞かされ、何度もその言いつけを破ってきた。滅多に怒らない温和な父が、唯一私に説教するとすればそれだった。<br />
　『海に行くなと言っただろう』<br />
　何度もごめんなさいと言った。でも、何度も私は海に呼ばれて、そこへ行った。</p>
<p>「……でも、危ないからやめてね」<br />
「心配しなくても行けないよ」<br />
「そうだけど」<br />
「まだ出れない」</p>
<p>　仙道はひどく退屈で、ひどく窮屈そうだった。今にも息が詰まりそうな顔で、シュンと眉が下がっている。<br />
　バスケットコートという海で生きる彼にとって、ここはなんと狭いところだろう。釣り上げられた魚が、バケツの中でぐるぐる同じところを泳ぐ。彼らは徐々に弱っていって、最終的には食べられてしまう運命にあるけれど。例えるなら、今の彼がまさにそれである。ベッドサイドのバスケットボールが、虚しくも鮮やかだった。</p>
<p>　安易なことは何も言えなかった。<br />
　大丈夫とも、きっと治るとも。<br />
　無力にも手を握ることしかできない。それも、彼の手は私の手よりずっと大きくて、握ろうにもただ重ねるだけみたいになってしまう。情けなかった。悲しかった。虚しかった。でも、誰より辛いだろう彼の前ではその気持ちすらも吐き出せなくて、やっぱり黙って手を握った。<br />
　その手が握り返される。私の方が「大丈夫」と言われているようだった。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」<br />
「……ん？」<br />
「また、おにぎり食いたい」<br />
「おにぎり？　そんなのでいいの」<br />
「あれ美味いじゃん」</p>
<p>　私が「いいよ」と言うと、仙道は嬉しそうだった。笑って「ありがと」と言う。彼の心を軽くしてあげたいと日々願うのに、なぜか救われるのはいつも私だった。</p>
<p>「でもなんで急におにぎり？」<br />
「手触ってたら、思い出した」<br />
「ああ」<br />
「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、手は別に大きくないのに、おにぎりでっけえから」<br />
「仙道くん用に大きく握ってるんだよ」<br />
「知ってる、ありがとう」</p>
<p>——今度来るときに。<br />
　約束をした。仙道は笑ったまま頷いていた。今までで一番大きなおにぎりを握ろうと思っていた。彼がそれを見てどんな顔をするか、想像するだけで楽しみだった。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　それが、仙道と会った、十九歳、最後の日だった。</p>
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		<title>例えば、夕陽が沈まなかったとして</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 23 Oct 2023 15:08:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　人生に何度目かの冬が来た。毎日震えそうなほど寒かった。海は時々荒れて、思い出したように静かになった。気まぐれで、気性が荒く、たまにこの世で一等優しい。家から、電車の窓から、よく歩く道から見える海が、その日ごとに変える表...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310244020/" title="続きを読む例えば、夕陽が沈まなかったとして">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　人生に何度目かの冬が来た。毎日震えそうなほど寒かった。海は時々荒れて、思い出したように静かになった。気まぐれで、気性が荒く、たまにこの世で一等優しい。家から、電車の窓から、よく歩く道から見える海が、その日ごとに変える表情を私は毎日飽きることなく見ていた。</p>
<p>　いつものように海を見ながら電車に揺られて帰路に着く。駅から出て歩いてすぐの商店街の入り口にある魚屋が私の家だ。階段に足をかけようとしたとき、隣から慌てて肉屋のおばさんが飛び出してくる。何事かと驚く私の腕を引いて、「ちょっと」と何かをすごく言いたそうにするので、階段にかけていた足を下ろして振り返った。</p>
<p>「あれ、何か聞いているのかい」<br />
「あれ？」<br />
「屋上にいるよ、さすがの私たちも話しかけられなかったんだけどさ」<br />
「屋上に誰か来てるの？」<br />
「ミコさんよ、ミコさん」</p>
<p>　刹那、世界の時間が止まる。<br />
　固まった私の様子から、それを知らされていなかったと悟り、肉屋のおばちゃんは「大丈夫かい？」と甚く心配そうな顔をした。時間がチクタク動き出す。肺の中に空気が戻り、「大丈夫だよ」とかろうじて声が出た。</p>
<p>「知らなかったけど、大丈夫。何か用かも」<br />
「今更用なんか聞いてあげる義理ないよ、追い出しな」<br />
「まあまあ。お父さんはまだ外でしょう？」<br />
「ああ、啓治さんがトラックで出てすぐ来たみたいだからねえ」<br />
「分かった、ありがとね。みんなにも大丈夫って言っておいて」</p>
<p>　まだ心配そうな顔のおばちゃんに精一杯の笑顔を見せて、今度こそ階段を上がる。二階の居室を飛ばして三階へ。ほとんど荷物置き場と化した屋上で、真っ黒の長い髪がたなびいている。背中越しのゆらゆらと立ち上るのは煙草の匂いで、それはすなわちその人の匂いだった。<br />
　変わらないなと思う。この世に不変なものなどないくせに、どうして、私の記憶の中にある美しいものは皆、そのままなのだろう。</p>
<p>「お母さん」</p>
<p>　気がついたら、１１年も経っていた。八歳のあの日、その人はここから去った。それからもう１１年だ。８歳だった少女は、１９歳になった。その人がかつて何歳であったか、定かではない。当時は、父よりもずっと若く見えていた。でも１１年経って、もしかしたら、父とそう変わらない年齢であったのかもしれないとも思う。幾つなのか、今になって見てもよく分からない。若く見えたが、それがそのまま実年齢でないことは分かる。今更になって、何歳なのかを尋ねる気など毛頭ないが。</p>
<p>「おかえり」</p>
<p>　煙草を吹かしながら、そう微笑んだその人は、紛うことなく自分の母親だった。美しさだけが取り柄のような人の目には、目尻に僅かに皺が増えた。でもそれだけだ。時を止めたように、その人はそのまま。</p>
<p>「何しに来たの」</p>
<p>　おかえりと言われて、ただいまと返せない。娘のちっぽけな自尊心を、その人は何事もなかったように見ないふりをする。半分残った煙草を取り出した携帯灰皿に突っ込んで、静かに私の方へと近づいてくる。カツカツと、聞きなれないヒールの足音がこだました。その瞬間だけはいつもの波音も遠くにあって、ほとんど聞こえなかった。</p>
<p>「大きくなったわね、美人になった」</p>
<p>　どうしてか忘れられない煙草の匂い。母の匂いだった。私を出産し、母という肩書きを持ち、でも育てることはしなかった女の匂い。決して美しい思い出ではない。<br />
　でも、嫌な気分ではなかった。悲しくも、悔しくも、恨めしくもなかった。ただ、何故この人がここにいるんだろうという疑問だけがあって、それ以外には何の感情も湧いてこない。眼前にいるその人は、母であって、家族ではない。</p>
<p>「何しに来たの」</p>
<p>　頑なに、ここまで来た要件を尋ねる私に母は曖昧に微笑んだ。誤魔化すようなその仕草が気に入らないと言えば気に入らない。でも、昔は私に向かってニコリともしない人だったから、この人の中の時間もいくらかは進んだのかもしれないとも思う。かつて、私たちは歩み寄るということができなかった。恐らくは母と父も。だから私たちの家族という形は破綻した。<br />
　でも、今ならどうだろう。<br />
　今、目の前のいるこの人が八歳の頃の母であったら、もう少しだけ長く、私たちは家族でいることができたのかもしれない。</p>
<p>「啓治さんに用があって来たのよ」<br />
「今いないよ、帰ってくるの遅いかも」<br />
「そうね、いつも遅かったものね」</p>
<p>　１１年前の‘いつも’が今でも変わらないと信じて疑わない。この人のことを、父は世界で一番愛している。かつてと今では色々なことが変わったけれど、その事実だけは今でも変わらないのだろうと、聞いたわけでもないのに確信がある。</p>
<p>「じゃあ、今日は帰るわ」<br />
「お父さんに用なら私から伝えるけど」<br />
「いいの。自分で言うわ」</p>
<p>　私の目の前で、ポケットに仕舞われていた手が伸びてくる。皺一つない、水仕事などしたこともなさそうな手だった。ツルツルとして、顔よりもずっと若い手に見える。それが私の頬に触れた。冷たかった。冬の冷えた空気からは遮断されていたはずなのに、今まで水に浸けていたかのように冷えている。それがスルリと私の輪郭をなぞった。</p>
<p>「ごめんね、……<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>」</p>
<p>　母に触れられたことも、名前を呼ばれたことも、思い返せば初めてであったような感じがする。少なくとも、私の記憶の中にはない。初めてだったが、初めてに相応しい感動はなかった。すんなりと受け入れた。こういうものかと納得した。つまるところ、血は繋がっているのだと嫌でも認めざるを得ない。</p>
<p>「いいよ」</p>
<p>　１１年前は到底言えなかった。<br />
　でも、きっと、もういいのだ。もうたくさんの時間が流れたから。私も母も父も前に進んできた。川の流れに乗ってここまで流されてきた。別れた川が再び交わることも時にはあるだろう。でも、それだけだ。一つになることはない。私はまだ、この人のことを何も知らないままだけれど、でも知らないままでも生きていけることは知ったから。<br />
　だから、もういいのだ。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
<p>　母が突然現れて風に攫われるようにして去ってから、二週間が経っていた。よく通る海辺の道で、これまたよく現れる男がニコニコと手を振っていた。肩から大きなカバンを提げて、見慣れた陵南のジャージを着ている。その格好じゃ寒いのか、中に着た紺色のセーターがジャージの下に見えていて、ちょっとだらしない様がいかにも仙道らしかった。</p>
<p>「今、帰り？」<br />
「そうです、今日は部活に顔出してて」<br />
「まだやってるんだ」<br />
「代替わりしたんで毎回ではないですけど」</p>
<p>　彼からは、まだ爽やかな青春の香りがした。夏は過ぎ、秋も終わり、とうに冬も佳境を迎えようかという頃なのに、仙道からは鮮やかな青色の気配がするのである。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんも帰り？　早いね」<br />
「今日は学校お休みだから家の手伝いとかしてたよ」<br />
「へえ、もう終わり？」<br />
「ん、まあね」</p>
<p>　仙道が私の横に並ぶ。彼が今来た方向に、人が二人立っている。そこに視線を寄せる私に気づいて、仙道は笑いながら「また知り合い？」と尋ねてきた。知り合い。まあ、間違いではないけれど。</p>
<p>「んーん。父親と母親」</p>
<p>　それは本当にたまたまだった。私と父が店仕舞いをしている時に母が再び現れて、父に話があると言った。家の中で話せばいいのを母が嫌がって、結局私が店仕舞いを引き受けた。二人がどこへ行ったかは知らなかったけれど、片付けが終わって、よく歩く道を散歩していたら、そこに二人がいたのである。<br />
　先へは進めなかった。二人に近づいて話しかけようなんて、とてもじゃないが思わない。さっさと引き返せばよかったものを、なぜか足が縫い止められたように動かなくて、結局仙道が現れるまでそこにいた。</p>
<p>「あれ、<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんのお母さんなんだ」<br />
「そう、私もこの前すごい久しぶりに会ったよ」</p>
<p>　仙道が現れて、ようやく息ができたような気がした。ここは陸で、水の中ではなくて、私は魚でもなくて。それまで何故か息が詰まっていた。溺れるほどではない苦しさがあった。それが、この男の微笑み一つでなかったことになってしまう。ほんの少し、それが怖かった。自分の中で膨れ上がる彼の存在が、ほんの少し。</p>
<p>「本当に、綺麗な人なんだね」</p>
<p>　今は、素直にそれに頷くことができる。母に「ごめん」と言われて「いいよ」と返せた今なら。仙道の言葉を、父の変わらぬ愛情を、「そうだね」と肯定することができた。<br />
　母は魚のような人だった。人の目を惹く魅力的な鱗を持っている。美しかった。手に入れたいと願う人がいた。でも、彼女は陸ではうまく息ができない生き物だから、だから虚しく離れて行ったのだ。<br />
　それが仕方のないことだと今なら理解できる。さようならの言葉もなく去った人を、私は自分の中で許したから。僅かな苦しみだけを残して、過去をゆっくり消化していく。そうしてまた、私は前へ進んでいく。</p>
<p>「何話してるか、<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんも知ってるの？」<br />
「ううん、いいの。私は知らなくていいことだと思う」</p>
<p>　私が知るべきことであるなら、父が教えてくれるだろう。今はまだその時じゃない。そして私はここに留まるべきでもない。私に決して見せない父の表情は、きっとあの人だけのものだから、私がここから見るべきではないのだ。<br />
　仙道へ「行こう」と言った。同じ場所に帰るわけでもないのに「帰ろう」と言った。仙道はそれ以上、何も尋ねない。そのちょうどいい距離感に甘えている。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」<br />
「なぁに」<br />
「もっと我儘に生きてもいいよ、多分」</p>
<p>　仙道が空いた手で、私の手を取る。大きい手にすっぽり包まれた私の手は、そのまま彼のジャージのポケットに仕舞われてしまった。ガサガサとちょっと固くなったカイロが当たる。起き抜けのベッドよりも暖かなそこは、なんと言っても心地よかった。</p>
<p>「……純ちゃんも似たようなこと言ってたよ」<br />
「魚住さんが？」<br />
「二人とも、優しいのね」</p>
<p>　別に無理をしているわけじゃないのだ。人よりも生きるのが下手くそなだけで、不幸でも可哀想な人生でもない。そういう風に見せているという自覚もない。<br />
　だから、ただ「ありがとう」と返す。もっと他人に期待して、もっと自分の心に我儘になる。二人がいいよと言ってくれたような、そんな生き方が自然にできる日が、いつか来るかもしれないし、そんな日は来ないかもしれない。それで構わないのだ。そうやって言ってくれる人がいるという事実だけで、人生はきっと素晴らしいものだから。</p>
<p>「じゃあ、我儘、今言ってもいい？」<br />
「勿論」<br />
「卒業する時、仙道くんの何かを頂戴」<br />
「何か？」<br />
「そう。ほら、憧れの先輩とかにボタンとかジャージとかもらうでしょう、ああいうの」</p>
<p>　私の我儘が意外だったのか、仙道が目を丸くした。それから声を上げて笑い出す。彼のツボというのはよく分からない。突然笑ったり、困ったり。不可思議な生き物だ。だから余計に惹かれてしまうのだろうけど。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、そういうの興味あったんですね」<br />
「人並みにね」<br />
「いいっすよ、何欲しい？」<br />
「なんでもいいの。仙道くんがあげてもいいものなら何でも」</p>
<p>　思い出が欲しかった。強いて言うならそれが最大の我儘だ。彼の卒業を機に終わりにするとか、そういうことではなくて、ただ何となく、青春と呼ぶに相応しい彼との時間を形にした何かが欲しかった。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんになら、何あげてもいいよ」</p>
<p>　迷いのない瞳で、彼が告げる。やっぱり、彼が眩しかった。</p>
<p>「じゃあ、ボタン。心臓に一番近いとこ」<br />
「ボタンだけでいいの」<br />
「うん、十分」<br />
「分かった、約束」</p>
<p>　ポケットに入れたまま、器用に小指を結んで、顔を見合わせて「約束ね」と言い合った。他愛もないことだった。叶わなくても怒る気にもならないような、冬の日に交わした小さな小さな約束だった。<br />
　私たちはそれをポケットに仕舞ったまま、二人の体温と冷め始めたカイロで温めた。それが恋の温度そのものだった。火傷するほど熱くはないけれど、でも確かに温度がある。触れたら優しい気持ちになって、ずっと手離したくないと思う。でもそれを握り続ければ、いつかは火傷してしまう。手離さなければいけない日が来てしまうとしたら、ずっと先であればいいと、その日の私は願っていた。父と母が迎えたような寂しい別れが、もっとずっと先の未来であるように、と。</p>
<p>　結局、その約束が叶わなかったのは結果論で、正直なところ春を迎える頃にはそれどころではなかった。信じて疑わなかった、美しく切ない春は予想とは全くかけ離れた形で訪れた。<br />
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　仙道が事故に遭って大怪我を負ったのは、卒業を控えた二月のことである。</p>
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		<title>あの子は彗星</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 22 Oct 2023 14:59:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　時の流れは早い。瞬く間に過ぎるとはその通りで、夏は一夜の嵐のように過ぎ去っていった。不完全燃焼で終わった彼の夏に、その後大きな事件はなく、夏はただ暑いだけだった。全国へと駒を進めた神奈川二校が、どんな成績を収めたか、結...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310224018/" title="続きを読むあの子は彗星">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　時の流れは早い。瞬く間に過ぎるとはその通りで、夏は一夜の嵐のように過ぎ去っていった。不完全燃焼で終わった彼の夏に、その後大きな事件はなく、夏はただ暑いだけだった。全国へと駒を進めた神奈川二校が、どんな成績を収めたか、結局、私が知ることはなかった。私はバスケットに興味があるのではない。ただ、仙道彰のバスケットが見たかっただけなのだ。</p>
<p>　私の単調な専門学生ライフにも変化はなく、日々難度を上げていく授業には着いていくのが精一杯で、時々仙道に会っては、その愚痴を言うのがお決まりだった。彼はいつも笑っていて、最後に「楽しそうでよかった」と言う。私の話の何を聞いて、‘楽しそう’と表現しているのはさておき、仙道と会うのが楽しかったのは間違いない。</p>
<p>「あ、俺。東京戻ることになりました」</p>
<p>　涼しくも、暑くもない夜のことだった。学校帰り、駅から出ると仙道がいて、大きいスポーツバッグを肩から下げて立っていた。仙道ほど背が高ければ、雑踏の中でもすぐに見つけることができる。彼は私を見つけるとニコニコと手をふり、自分はちっとも疲れていないような顔で「お疲れ様です」と言った。<br />
　それから私たちは歩き出し、家の前を過ぎて商店街を抜け、仙道の下宿の前を通り過ぎた。「もう少し」を重ねて、伸ばしに伸ばした散歩だった。前に一度来たことのある川辺の遊歩道まで辿り着いたところで、唐突に彼が切り出した。</p>
<p>「東京？　戻るって、帰省とかではなく？」<br />
「来年の春から。東京の大学から推薦来て、それで」<br />
「あ、進路」<br />
「ここ、気に入ってたんですけどね」</p>
<p>　柵にもたれかかった仙道は、星のない空を見上げて言った。あまりにあっけらかんとした言い方だった。それをきいて私の中に生まれたのは、驚きや寂しさではなく、納得だけだった。<br />
　仙道のことをよく知らない。知っているようで、きっと知らないことの方が多い。バスケットに関することなら尚更だ。彼がすごいプレーヤーであると言われていることは知っていても、それがどのレベルであって、どんな風に評価されているか、私には分からない。<br />
　だから彼の言う『東京の大学』がどんな場所で、そこへ行くことがどういう意味合いを持つのか、きっと知る日は来ないだろうと思う。それでも、彼がそういう場所へ行ってしまうということだけには甚く納得していて、『ああ、やっぱり』と思っている自分が確かにいる。</p>
<p>「ここから遠い？」</p>
<p>　納得していると思いながら、その質問はひどく未練がましかった。<br />
　神奈川と東京。大した距離じゃない。電車に乗れば一時間と少し。二時間はかからない。そんなこと分かりきっているくせに、あえて彼にそう訊いた。本音を言うと、仙道の言葉で「遠くない」と否定してほしかった。大丈夫だと安心させてほしかった。私がそう願う立場にないことには見て見ぬふりをして。</p>
<p>「んー、海は見えないかも」</p>
<p>　そっか、と返す。私の声は小さかった。<br />
　海の見える町で育った。波音が絶えず響く場所で生きてきた。海の見えない場所は、すなわち遠いところである。</p>
<p>「……寂しくなっちゃうね」</p>
<p>　私に言えることは何かと考える。ただそれだけだった。引き止めることはない。春には笑顔でバイバイと言うだろう。でも、せめて「寂しい」とは伝えたい。わたしたちがなんでもない関係であったとして、少なくとも友達ではあったから、友との別離をただ惜しむのである。</p>
<p>　仙道の眉が下がった。困ったときにする顔だった。困ったと言っても、迷惑に感じているわけではない。どう言えば私が傷つかないか、悲しませないか、思案して困っている時の顔である。<br />
　困らせたくなかった。でも、彼が困っているということにわずかばかりの喜びも感じている。彼を傷つけるとしたら、それは自分だけであってほしかった。彼の心を、他の誰かが揺らしてしまえるのは、どうしても、耐えられない。</p>
<p>「会いに来ます」</p>
<p>　星のない空で、仙道という存在だけが輝いて見えた。彼はたった一つの星のようだった。目を背けたいほど眩しいのに、ずっと見ていたいほど美しい。綺麗だから、やっぱり彼がほしかった。離れないでほしいと、本当は思っている。</p>
<p>「どうせ俺が会いたくなるから」<br />
「……なにそれ」</p>
<p>　自分がちっぽけに思えた。それなりに大きな水槽でゆらゆら泳ぐ熱帯魚みたい。自分自身はその場所に何の不満を感じていないのに、遠くの美しき魚の鱗を見た日から、それが忘れられなくなった。海を知らないくせに、何者かに憧れている。私も‘それ’になりたかった。願うだけで努力が足らない。努力しても叶わない。<br />
　私の目の前にある星は、やっぱり近いようで遠いのだと殊更感じさせられる夜だった。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
<p>　朝が来る。<br />
　鮮やかな朝日が海を照らしている。私と仙道は、また同じ道を歩いていた。もちろん、夜通し歩き続けていたわけではない。明日も会えるかと聞かれたので、朝、学校へ行く前でいいならと答え、「俺も部活あるから」と彼が言って、今、一緒にいる。<br />
　会うと言っても、こんな早朝にどこかに行けるわけではない。できることと言えば、精々一駅分ともに歩くことくらい。だから、私たちはまた同じ海沿いの道を進んでいた。波音もまた共にある。ここは私の町だと強く実感させられる音。</p>
<p>　ザブンザブンと寄せては返す波の音。歩いている道から砂浜を見下ろすと、ちらほらと人影が見える。こんな早朝から海にいるのは、散歩好きの犬と老人、それか波乗りくらいだ。<br />
　海の水面をスイスイと進む波乗りの中に、一人見知った顔を見つけた。褐色の肌と焦茶色の髪。スポーツマンらしい体躯は、彼が生粋のサーファーなのだと誰もが信じられるものである。</p>
<p>「あ」</p>
<p>　思わず、私の足が止まる。声も出た。久しぶりに見たのだ。四年か、五年ぶり。中学の頃以来だったのだ。自分でもよく気づいたなと思う。</p>
<p>「どうしたの？」<br />
「うーん、知ってる人見つけた」<br />
「知り合い？」<br />
「まあ、正確には純ちゃんの知り合いだけどね」</p>
<p>　私の視線の先を、仙道が追う。探そうにも、そこには一人しかいない。どの人？と聞く必要もなかった。<br />
　その人は、私の記憶の中の面影と寸分違わぬ形をしてそこにいた。もちろん背も高くなり、成長しているが、醸し出す雰囲気や、目を背けたくなる爽やかさは、まさに思い出と一致している。記憶とは得てして美化されてしまうものだから、彼が、私の淡い思い出を裏切ることなく、変わらぬまま存在しているというのはある種の奇跡だった。</p>
<p>「知り合いって、……牧さんのこと？」<br />
「……もしかして、バスケで知ってる？」<br />
「うん。というか、牧さん有名人だし」<br />
「そうなんだ、昔から上手い上手いって言われてたもん」</p>
<p>　そうだ、私と彼が知り合ったのも純ちゃんがプレーしていた体育館である。彼もまたバスケットに傾倒している人間の一人だった。<br />
　あのかつて私がよく行っていたミニバスの体育館で、いつも人の目を引いていたのが彼だった。彼を見ると、おじさんたちは示し合わせたように「上手いねえ」と言った。私にはバスケットの上手い下手は分からないので、それをそうなのだとしか受け取ることはできなかったが、確かに、彼はいつもたくさん点を取っていたような記憶がある。バスケットというものに根本的に興味が薄いので、誰であれ、プレーの内容はどの時代でも曖昧だ。</p>
<p>「昔から知り合いなの？」<br />
「純ちゃんがミニバスやってた頃によく見に行ってて、別のチームに牧くんもいたの」<br />
「へえ」</p>
<p>　それは、まさに幼く、可愛らしいだけの思い出である。<br />
　あれは、小学生の私が初めて抱いた他者への淡い感情だった。かつて仙道にも話したことがある。</p>
<p>「ほら、前に年上の子がモップがけ手伝ってくれてって話したの覚えてる？」<br />
「あーはい」<br />
「あれが牧くん」<br />
「え、でも年上じゃあ」<br />
「そう、昔から大人びてたから年上だと思ってたんだけど、後々同い年って知ってビックリしちゃった」<br />
「……へえ、そうなんですか」</p>
<p>　手伝うよと言ってくれた男の子。優しいなと思った。ありがとうと告げた後の微笑みが素敵だなと思った。ただそれだけで始まって、何事もなく終わった。憧れに近い。何度か体育館で姿を見ることがあったからその度にいいなと思って、でもそれから何かをすることもない。純ちゃんにも打ち明けることはなかった。あれが、私の初恋である。初恋は、ガラス瓶に入れて心の中に仕舞ってある。</p>
<p>「初恋が牧さんかぁ」<br />
「もうずっと昔の話ね」<br />
「でも、見る目ありますね。<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」<br />
「そうなの？」<br />
「だって男から見てもカッケェもん」</p>
<p>　仙道はポケットに手を入れて複雑そうな顔をしていた。彼の寝癖まじりの黒髪が海風に吹かれている。<br />
　今も、私は恋をしている。そしてそれは、あの頃に牧に抱いていたような淡く不確かなものとは全くの別物なのだ。匂いも温度も、感触も違った。同じ‘恋’というラベルを貼ってしまうのが躊躇われる程。この感情はどこへ行くのだろう。昔のように、泡沫と消えるとはとても思えない。明確な終わりのある恋を、私はまだ知らない。</p>
<p>「今見てもかっこいいじゃん、牧さん」<br />
「そうだね」<br />
「初恋は特別？」<br />
「どうだろう、……終わったものはみんな特別なんじゃないかな」</p>
<p>　終わってしまったから、失ってしまったから、それを惜しむ。だから特別なものであったように思う。それは物体でも感情でも人でも同じだ。初恋というガラス瓶に仕舞った記憶が、殊更大事なのではない。初めて味わって、それで形にならずに終わったしまったものだから少しだけ特別なだけ。<br />
　今、終わっていないものの中で‘特別’に感じるものが、真に一番大切なものであると思う。家族とか、友人とか、将来とか。隣で難しい顔をしている背の高い彼とか。</p>
<p>「仙道くんはどうなの」<br />
「どうって何が」<br />
「仙道くんにも初恋の思い出が？」<br />
「んー」</p>
<p>　仙道の中に、それらしい記憶が浮かんでいる。その横顔を見ているのは、少しだけ胸が痛んだ。でも、少しだけ。だって私と彼はそもそも生まれ育った場所が違うのだ。同じ時間をほとんど共有していない。知らない彼が多くあることは当然のことだ。それを全て知ってしまいたいというのは私のエゴで、それを叶えることは許されない。</p>
<p>「それっぽいのはありますけど、今考えると多分違います」<br />
「違うの？」<br />
「強いて言うなら真っ最中すね」</p>
<p>　仙道が、大きな手を自分の首裏に当てる。見られたくないものを隠すような、でもとても自然な動作で。<br />
　初恋の‘真っ最中’だと言った。胸がどきりと音を立てる。ここで、誰に？と聞くのは反則だろうか。望まれないことだろうか。恐れがある。彼の口から、全然知らない女の子の名前が出たら、どうなるだろう。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」<br />
「ん？」<br />
「行きましょ、学校遅れますよ」</p>
<p>　自分がその時、どんな顔をしていたか。鏡を見るのも怖かったから、俯いて、初恋からも、今の恋からも目を逸らした。直視する勇気が湧かなかった。やっぱり自分が強いだなんて、とてもじゃないが思えない。</p>
<p>「仙道くんに言われると変な感じ」<br />
「はは　ひっでぇ」<br />
「進路決まったからって学校サボっちゃダメよ」<br />
「分かってますって」</p>
<p>　彼は前に、いつまでも前に進んでいく。<br />
　私はいつまで、この道でその背中を見ていられるのだろうか。</p>
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		<item>
		<title>一片の氷、慈しみの条件、消えない波音</title>
		<link>https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310164016/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 16 Oct 2023 14:18:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　あの日の試合について、仙道以外の誰かと初めて話したのは意外にも父だった。 　珍しく二人揃った夕食時、黙々と焼き魚を口に運んでいた父がそれをあらかた食べ終えると箸を置き、私の方を向いて「どうだったんだ」と切り出した。突然...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310164016/" title="続きを読む一片の氷、慈しみの条件、消えない波音">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　あの日の試合について、仙道以外の誰かと初めて話したのは意外にも父だった。<br />
　珍しく二人揃った夕食時、黙々と焼き魚を口に運んでいた父がそれをあらかた食べ終えると箸を置き、私の方を向いて「どうだったんだ」と切り出した。突然のことに何の話かと聞けば、前に見に行っていた試合の話だ、と。見にいくと私が言っていたことを覚えていたことに驚いたが、父はもとよりスポーツというものに関しては私よりずっと興味がある類の人間だ。魚住がバスケットで優れたプレーヤーになったことを魚住の両親よろしく喜んでいて、それこそ私が小さな頃は二人で応援に行ったものである。</p>
<p>「……負けちゃったよ、惜しかったんだけどね」<br />
「そうか。残念だったなあ」</p>
<p>　父が最後に味噌汁に口をつける。父は食事の最後に味噌汁を飲むひとだった。それが冷めてしまおうが関係ない。食事の最後は汁物で終わったほうが口の中がスッキリするだろうと笑いながら言っていた。それならば冷めてしまわないように最後によそおうかと提案しても、そこまでする必要はないと言う。私にはよく分からないことだった。</p>
<p>「前にうちに来ていたあの背の高い子か」<br />
「……よく覚えてたね」<br />
「あれだけ大きかったらそうそう忘れねえさ」<br />
「うん、あの子が出てた」</p>
<p>　そうかそうかと頷きながら、父はすれ違っただけの仙道の姿を思い起こしているようだった。確かに一年前とはいえ、仙道あ忘れ難いタイプであることには同意する。背が大きいだけではない。華やかな顔立ちや人好きのする笑顔、しなやかな手足の動き、何より透き通ったあの瞳を一度覗き込んでしまったら、そう簡単に記憶から消えてくれないのだ。</p>
<p>「……どうした、そんなくらい顔して」<br />
「んー。うまい慰め方が分からないな、って」</p>
<p>　かつて、私が祖母の死に際して落ち込んでいた時、仙道は確かに慰めてくれた。優しく私を抱いて、望むままにキスをしてくれた。大丈夫とでも言うように、彼はそっとそばにいてくれた。でも私が同じことをして、仙道の心が慰められるようにはどうにも思えなくて、それで悩んでいるのだ。私の体は、彼を包み込めるほど大きくはない。</p>
<p>「うまい飯でも食わせてやればいい」<br />
「ご飯？」<br />
「人間、腹いっぱいうまいもの食ったら嫌でも幸せになるもんだ」<br />
「そんな単純かな」<br />
「大丈夫だって。お前の飯は美味いから」</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
<p>　父の‘大丈夫’を安易に信用して、私は今、仙道の下宿先にいる。<br />
　インターホンを押すのが躊躇われて、かれこれ五分ほど家の前をうろうろしている。側から見れば怪しい人間だ。ここで迷っていても仕方がない。自分じゃ到底食べきれない量のおにぎりをもう握ってきてしまったのだ。意を決して、目の前のボタンを押す。ブーっと低い音が鳴り、少しして中から人が出てくる。前に一度会った、下宿先のお婆さんだった。<br />
　あら、と言った彼女にも私に覚えがあったのか、ペコリと頭を下げながら戸を開けてくれる。こんにちはと言った私の声が、どうか震えていなかったと願いたい。</p>
<p>「仙道くんに会いに来たの？」<br />
「はい。彼、中にいますか」<br />
「いいや。朝から釣り竿持って出かけて行ったよ」<br />
「あ、そうでしたか」<br />
「中で待つかい？　いつ帰ってくるか分からないんだけども」<br />
「いえ、大丈夫です。突然すみませんでした」</p>
<p>　下宿先は不発。まあ、気まぐれな彼が休日に家でゴロゴロと寝ているとはあまり思っていなかった。私はお婆さんにもう一度礼を言って別れ、次の目的地へ向かう。思い当たる節はいくつかある。釣り竿を持って、ということは行き先は海であることは確定なのだ。この町には釣りのできる場所も数箇所あるけれど、真っ先に浮かんだのは一つ。<br />
　私が父から教えてもらった場所。仙道に「いい釣り場所がある」と言って教えたのがそこだった。私はあの日から一度も行っていないけれど、仙道はどうだろうか。慣れた道を行く。根拠のない確信が、歩くスピードを僅かに早めていく。</p>
<p>「……ほんとにいた」</p>
<p>　海へまっすぐ伸びるコンクリートの上、体躯に見合わぬ小さな折りたたみ椅子に腰を下ろし、大きな青年が一人釣り糸を海へ垂らしている。時間のせいもあるのか、釣り客は彼一人だった。<br />
　私の呟きに反応して、仙道がこちらへ振り返った。退屈そうに欠伸をしていた顔がパッと華やぎ、見慣れた笑顔へと変わる。手を振る仙道に、同じように手を振り返しながら彼の方へと近づいてゆく。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんも釣り？　珍しいね」<br />
「まさか。仙道くん探して辿り着いただけ」<br />
「俺？」<br />
「そう。お昼もう食べた？」<br />
「まだっすけど」</p>
<p>　肩に下げていたカバンから、大きなおにぎりの入ったタッパーを取り出す。そこまでして恥ずかしくなって、「良かったら」と控えめな振りでそれを仙道へ渡す。私が両手で持っても大きなおにぎりも、仙道が持つと普通サイズに見えるのが、何度見ても妙なのだ。<br />
　釣り竿から離れた仙道の手が、おにぎりで塞がれる。大きな口でそれを食べてくれるのは作った方としては気持ちがいい。どんどん減っていくお米を見ながら、自分のお腹まで満たされていくようだった。</p>
<p>「久々に食べた、うまい」<br />
「良かった」<br />
「これを届けにわざわざ？」<br />
「……そう、食べてほしくて」</p>
<p>　両頬をご飯でいっぱいにしたまま仙道の動きが止まる。<br />
　ああ、今の答えはよくなかったかもしれない。そう思った時にはもう言葉は出てしまった後で、どう頑張っても取り消しにはできないのだ。口の中のものを全部飲み込んだ仙道が、「心配した？」なんて直球に聞いてくるものだから、私は誤魔化すことも曖昧なままにしておくこともできなくて、俯いたままうんと答えた。本音だった。隠しようがなかった。心配なんてお節介な感情は隠しておきたかったけれど、それ以上に彼に嘘を吐くのは嫌だった。</p>
<p>「心配、というか、元気出たらいいなって」<br />
「……元気ですよ、俺」<br />
「もっと」<br />
「もっと？」</p>
<p>　私の言葉に、仙道はうーんと長く悩んで最後に「難しいな」と笑った。難しいだろう。元より彼は元気いっぱいを体で表現するようなタイプの人間ではないのだから。<br />
　だからつまり、私が言いたいのはそういうことではなくて、悔しいことがあったから、少しでも嬉しいことが彼に起きてくれたらそれでよかった。私がそれになれるか否かは置いておくとして。ただ、彼の力になりたかったのだ。微力で、ほとんど無力に近い。分かっている。分かっているけれど、それでも、その人のためになりたいという感情を、私たちはきっと‘好意’と呼ぶ。私が彼へ抱く感情は、まさにそれであった。</p>
<p>「氷魚さん」<br />
「ん？」<br />
「これ、捌ける？」</p>
<p>　彼が私とは反対側に置いていたバケツをヨイショと持ってきて、中を見せた。銀色の鱗が綺麗な魚が一匹、狭いバケツの中に生きていた。今日の釣果は寂しいがそれだけであったらしい。<br />
　捌けるよと返す。こう見えて魚屋の娘である。おまけに今は調理の専門学校へ通う身分だ。学校でも、魚は得意中の得意である。</p>
<p>「じゃあ、<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんの手でご飯にして。食べたい」</p>
<p>　嫌とは言えなかった。言うつもりもなかったけれど、いつもどうしてか、仙道の目を見るとノーと言えない。私は「いいよ」と言って、二人で立ち上がった。イスと釣り竿を片付ける彼の横で、私も持ってきたタッパーとゴミをまとめる。クーラーボックスも持っていない仙道は、バケツにゴロゴロと氷だけを入れて、それを手に持った。反対の手で釣り竿を担ぐ。私もその横に並んだ。背の高い彼が、釣り竿を持つとますます背が高く感じて、彼のことをますます遠くに思う。小さな自尊心だと思う。いちいち彼との距離を気にしている。一番近いところがどこかも知らないくせに。</p>
<p>　私たちはそれぞれの荷物を持って、並んで歩いた。行きはバスに乗ったけれど、歩いて帰れない距離でもない。海沿いの道をひたすら進む。全てが海と共にあるこの町は、この道さえ進めば大体の場所へ行くことができる。学校も、図書館も、駅も商店街も全部この海の近くにあるのだ。<br />
　いつも波の音があった。それが当たり前だった。<br />
　だから、十九歳になって、この町ではない場所へ電車に乗って行くと、学校には海の音がしないのだ。静かで、誰も喋らない授業中は先生の声が映画館の中みたいに響く。不思議な感覚だった。窓の外を見ても海がない。空は晴れの日も、曇っているように灰色がかって見える。たぶん気のせい。でも、その小さな違和感が私をいつもこの町へ引き戻してくれる。</p>
<p>　仙道が、「学校はどう」と切り出した。「静かだよ」と言った。何それと笑われる。確かによく分からない返事だった。学校が静かであるはずがないのだから。授業をする先生の声、休み時間の生徒の話し声、実習中の油が跳ねる音。いつも音がしている。しかし、それでも、そこは私にとって‘静か’な場所なのだ。</p>
<p>　静かではない海のすぐ近くの道を進むと駅がある。生まれた頃から使っている駅である。駅を抜けるとすぐのところに商店街があり、その入り口近くの魚屋が私の家だ。仙道は久しぶりに来たわけでもないのに、なぜか感慨深そうに建物を見上げ、それから満足そうな顔をして階段に足をかけた。一階がお店、二階が住居、三階が屋上だ。彼と初めて会ったのも、私の家の屋上だった。</p>
<p>「そこで待ってて」</p>
<p>　仙道の手からやっと魚を受け取る。ちゃぶ台の近くの座布団を指差した。仙道は半分腰を落としながら「手伝おうか」と聞いてくれたけれど、ここで彼が手伝えることは何もない。テレビでも見ていればと提案したが、結局仙道はテレビをつけず、座ったまま台所の方に視線をやっていた。<br />
　作業の間、ずっと後ろから視線を感じる。この家にはないことだった。<br />
　私が料理をしている間、父はほとんど不在だし、もしいたとしても、たいていはビールを開けてテレビで野球中継を見ている。仮に父が台所に立っていたとしても、私がそれを観察することはないだろう。</p>
<p>「楽しい？」<br />
「んー珍しい」<br />
「珍しい？」<br />
「ほら、母親、料理とかしないから新鮮なんです」</p>
<p>　それを聞いて「ああ」と言ったけれど、何に納得したかは分からない。仙道の母は家が裕福だと言っていた。だから家事に積極的な人ではなかったのだろう。彼の祖父母については知らないが、この家のように居間のすぐ近くに台所があって、それがよく見える家ではなかったのかもしれない。彼のことは謎ばかりだ。</p>
<p>　仙道の視線を背中で受けながら、手を動かせばご飯は完成する。シンプルに焼き魚を選択したのであっという間に出来上がった。<br />
　おにぎり用に炊いたお米はまだ余っている。それをよそって、味噌汁を温め直す。焼き魚に副菜と、白米、お漬物と味噌汁。家庭科の教科書のような食卓が出来上がって、流石に自分で笑えてしまう。ここまでいくと逆に珍しい。</p>
<p>「できたよ」<br />
「わ、うまそ」<br />
「おばあちゃん家みたいなご飯になっちゃったね」</p>
<p>　シンプルで、こういうのが一番美味しいとは知っているが、如何せん、おにぎり、クレープときて、彼に作る三番目がこれかと思うと少し恥ずかしい。</p>
<p>「美味い」<br />
「よかった」<br />
「料理、本当上手ですね」<br />
「そうでしょう。いいお嫁さんになると思わない？」<br />
「ふは　そうかも」</p>
<p>　古い感性のこの町で、いい女の条件は飯が美味いことだった。飯さえ上手に作れれば嫁の貰い手には困らない。それがご近所のおばちゃんたちの口癖みたいなもので、言葉通り、どのおばちゃんもみんな料理がべらぼうに上手かった。<br />
　自分の祖母もそのいい例である。祖父は胃袋で仕留めたと笑っていて、祖父は最後の最後まで、祖母の作った味噌汁を飲みたがっていた。<br />
　小さい頃からの、一つの憧れだった。料理のできる女になることが。いい女ではなく、いい嫁になることが。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんも、お嫁さんになりたいとかあるんですね」<br />
「どういうこと？」<br />
「俺、結婚にあんまりいいイメージなくて。片親ってそういうとこあるでしょ」<br />
「あー……うん」</p>
<p>　仙道の言うことは最もだった。親が離婚しているということは、親が結婚に失敗しているということである。全ての別れがネガティブなものであるとは思わない。思わないけれど、少なくとも私や仙道の親は「結婚っていいな」と思わせるような夫婦像ではなかったことに間違いない。<br />
　何せ『いい女の条件は料理上手』と当然のように言われるこの町で、私の母親であるあの人はただの一度も台所に立つことはなかったのだから。何もしない人だった。何もできない人だったかは知らないまま消えてしまった。あの人はいい母親でもなければ、いい女でもなかった。でもなぜか、父が心の底から愛した人だった。</p>
<p>「気持ち分かる。でも、誰かと家族になるってすごいことだと思わない？」<br />
「まあ」<br />
「いいなって思うよ」</p>
<p>　一生一緒にいられる恋は、どんな恋なのだろう。<br />
　その答えを得るのに、私たちはあまりに幼い。でもきっとそれはとても稀有なもので、自分の持てる最大の慈しみを持って為されるものなのだろうと思う。簡単ではない。でも、私もやってみたいのだ。一生一緒にいたいと願った人と、生まれも育ちも違くても、一つの家族になってみたい。</p>
<p>「……<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんは、つよいな」<br />
「そうかな」</p>
<p>　すっかり食事を終えた、午後六時二十分。開けてもいない窓の向こうから、波の音が絶えず部屋の中に響いていた。この先、思い描く未来図の中に彼を置いてしまう勇気がなくて、彼の言葉に素直に「うん」と言うことはできなかった。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>あなた以外が愚かですとも</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 13 Oct 2023 15:21:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[SD短編]]></category>
		<category><![CDATA[深津]]></category>
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					<description><![CDATA[　お酒を飲むと時間をワープすることができると、高校時代からの親友が言っていた。お酒を飲まないと心底笑うことのできない人間の台詞だと憐れんでいたのは、昨日までの私である。今、私はまさにその“ワープ”を経験した。時間にしてお...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/sakebitai/202310144013/" title="続きを読むあなた以外が愚かですとも">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　お酒を飲むと時間をワープすることができると、高校時代からの親友が言っていた。お酒を飲まないと心底笑うことのできない人間の台詞だと憐れんでいたのは、昨日までの私である。今、私はまさにその“ワープ”を経験した。時間にしておよそ４時間程度。スマートフォンの画面の数字が“０”に変わったのを確かに見たはずだが、今、同じ画面に浮かぶ数字は“４”である。絶対に、絶対におかしい。<br />
 <br />
　「４：１９」と表示されたロック画面には、数時間前まで一緒にお酒を飲んでいた友人たちから私の安否を心配するメッセージが届いていた。「大丈夫？」だの「帰れた？」だの。そう思うなら帰るとこまで見届けてくれよとも思ったが、こればっかりは自己責任なので仕方がない。残念なことに私もいい大人なのだ。<br />
 <br />
「大丈夫かピョン」<br />
「ﾋｯ」<br />
「なに驚いてるピョン。幽霊でも見たピョン？」<br />
「え、深津？　え、なんで……」<br />
 <br />
　私を見据える双眸の奥に、呆れと失望が映る。<br />
　ジト目で私を睨む身長一八〇センチの大男は、大学時代の友人である深津一成である。鍛えられた筋肉は細身の黒スーツの下に隠されていて、その格好を見て、ああそう言えば深津も昨日の式に出ていたっけと思い出す。本当に、申し訳ないがその程度の薄い記憶しかない。<br />
　今、酔って潰れた私の隣に、なぜこの男がいるのか。何かしらやりとりは交わしたのだろうが、そこはワープして今に至るので知らない話だ。<br />
 <br />
「やっぱり覚えてないピョン」<br />
「ぐ」<br />
「酔うと記憶なくすタイプって大声で言ってたのは本当だったピョン」<br />
「待ってそんな恥じらいのないこと言ってた？」<br />
「……恥じらい？」<br />
「すみません」<br />
 <br />
　出来ることなら、深津にも４、５時間ほどワープしてほしかったが、この男がそんなガードの甘い失敗を演じるはずもなく。卒業以来、久しぶりの再会だというのにとんでもない女になってしまっている。恥ずかしい。普段はこんなんじゃないよ、なんて陳腐な言い訳も今となっては何の意味も成さない。深津にとっての私は『酔うと記憶なくすタイプ』の女である。控えめに言っても最悪。<br />
 <br />
「とりあえず水でも飲むピョン」<br />
「あ、ありがとう」<br />
「始発まであと１時間ピョン」<br />
「うん」<br />
「辛いならタクシー呼ぶピョン」<br />
「大丈夫です、電車で。もう元気」<br />
「じゃあ家まで送るピョン」<br />
「え」<br />
 <br />
　驚いて漏れた声に、『なんか文句あるのか』と深津の表情が語っている。文句はない。ないけど、単純に驚いている。だって、一つ勘違いしないでほしいのは、私と深津は数年振りの再会であったことに加えて、在学中も大して仲の良い友人ではなかったということである。もちろん『友人』ではあった。それは否定しない。でも、それはよく飲んだり遊んだりするグループの一員という程度で、二人きりで出かけることおろか、話すことすら両手に収まる回数しかなかった。<br />
　にも関わらず。今、私たちは二人きりで朝を迎えている。初めて来たよく知りもしない町の駅で。<br />
 <br />
　昨日はその大学時代よく遊んでいたグループの一人の結婚式で、卒業以来、初めてグループのメンバーがほぼ全員集まった。久しぶり、元気だった？とお決まりの会話をして。仕事は順調かなんて尋ねたりもして。そうして楽しい食事は、式の後も二次会、三次会と続いていき、気が付いたらワープしていたという訳だ。情けない。<br />
　お酒をたくさん飲んだ。だから潰れた。それは分かる。駄目だが初めてのことじゃない。でも、酔いが覚めた時に理解できない状況に陥っているのは初めてなのだ。端的に言うとパニックで、これからどうすべきか皆目見当もつかない。<br />
 <br />
「私、昨日なんか言った？」<br />
「なんかって何ピョン」<br />
「えっと、それを聞いてるんだけど」<br />
「例えば？」<br />
「家まで送れとか、死ぬまで酒付き合えとか」<br />
「飲み会で毎回そんなこと言ってるピョン？」<br />
「神に誓って言ってませんね」<br />
「じゃあ言ってないピョン」<br />
「じゃあって何。じゃあって……」<br />
 <br />
　喋りながら、少しずつ思い出していく。ああ、深津ってこんな感じだったなって。見るからに真面目そうな青年なのに、口を開くと違和感があり、会話をするとそれが確信に変わるタイプ。変人という枠に、人生で出会った人間の中から一人当てはめるとしたら、ちょっと迷って深津を選ぶ。そのレベル。<br />
　しかも弩級の変人のくせにバスケットボールは全国クラスで、大学卒業後も実業団で競技を続けていると聞いた。もう全くもって意味の分からない男なのだ、深津という人間は。だから酔いが覚めたばかりの頭で会話をしても、成立してるんだかしてないんだか分からない状態になっていても無理はない。だって、素面でも会話上手くいかないし。<br />
 <br />
「飲み過ぎは控えたほうがいいピョン」<br />
「はい、反省します」<br />
「女性が男と飲んで酔うなんて無防備だピョン」<br />
「うん」<br />
「本当に分かってるピョン？」<br />
「分かってるよ。でも深津にそんなこと言われると思わなくて」<br />
「俺のことなんだと思ってるピョン」<br />
 <br />
　水を飲みながら深津の顔を見る。<br />
　あ。髪、伸びたな。高校時代からこれで楽だからとか言って、大学時代は四年間坊主だったのに。<br />
 <br />
「深津は、深津でしょ？」<br />
 <br />
　背ももしかしたら伸びたかも。久しぶりに会ってことさら大きく感じているだけの可能性は否めないけど。流石バスケット続けているだけあって、体は大きくなった気がする。顔の割に体ががっちりしていて素敵だって、一部の女子から人気があったな。懐かしい。<br />
 <br />
「大学時代から片想いしてる男にそんなこと言うのは酷だピョン」<br />
「は」<br />
「しかもその話したことも忘れてるなんてあんまりだピョン」<br />
「え、ちょ」<br />
「何もなく四時まで付き添う訳ないピョン。下心ピョン」<br />
「ストップ」<br />
 <br />
　慌てて深津の口を塞ぐ。伸ばした手のひらに、深津の唇がぶつかった。勢いで深津に触れてしまったことへの羞恥心とか、現在進行形で言われたことでもう脳内はカオスになっているとか、焦っているのは私だけ。対する深津は変わらぬジト目を、私から逸らさなかった。流石に日本一のガードとか言われていただけはある。<br />
 <br />
「――本当に？」<br />
 <br />
　心臓が壊れそうなくらい鳴っていて、後ろから背中を叩かれたら口からこぼれ出しそうなほどだった。<br />
　ゆっくりと持ち上がった手が、私の手をそっとどかす。<br />
 <br />
「嘘ピョン」<br />
 <br />
　解放された唇から発せられる言葉に、壊れそうに高鳴っていた私の心臓は萎んでいく。<br />
　嘘ピョン？　嘘？　言ったこと全部嘘？<br />
 <br />
「でも全部は嘘じゃないピョン」<br />
「は。どういうこと？」<br />
「ちょっとは自分で考えるピョン」<br />
 <br />
　私たちだけが待つホームに、電車が滑り込んでくる。始発列車だ。いつの間にか、世界は朝を迎えている。私が混乱に陥り、深津一成の掌の上でリンボーダンスを踊り狂っている間にも、無情に時は流れたらしい。<br />
 <br />
「ほらさっさと帰るピョン」</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　電車には誰も彼もが俯いて、今にも眠りに落ちてしまいそうな顔で座っている。先に乗り込んだ彼を追いかけるようにして私も始発列車に乗った。ようやく、この知らない町から抜け出せる。静かに走り出した列車の窓の外には、知らない海が見える。私も、……きっと隣に座るこの男も知らない町の海だった。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
<h2>あなた以外が愚かですとも</h2>
<p>title by 草臥れた愛で良ければ</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>まだ空を知らない</title>
		<link>https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310144008/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 13 Oct 2023 15:14:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　鬱蒼とした天気が続く憂鬱な梅雨の季節に、珍しくも気持ちのいいからりとした風の吹く日だった。とはいえ、体育館の中にいれば外の天気なんて少しも関係ないのだが、それでもここへ来るまでの道中や、窓から見える景色に晴れた空がある...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202310144008/" title="続きを読むまだ空を知らない">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　鬱蒼とした天気が続く憂鬱な梅雨の季節に、珍しくも気持ちのいいからりとした風の吹く日だった。とはいえ、体育館の中にいれば外の天気なんて少しも関係ないのだが、それでもここへ来るまでの道中や、窓から見える景色に晴れた空があると少しは気分が上がる気がする。<br />
　その日、これまた珍しく、私が体育館にいた。母校・陵南高校の体育館ではなく、地域の総合体育館である。行われるのは陵南高校対湘北高校の試合。種目は言わずもがな男子バスケットボール。夏の全国大会最後の席を賭けた、奇しくも昨年と全く同じ対戦だった。</p>
<p>　誘われたのだ。仙道に。<br />
　『<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、試合来る？』と。<br />
　断ってももちろんよかった。近頃は専門学校での勉強も忙しく、授業のない日にも実習や授業の予習復習にかなりの時間を奪われている。そしてそのことは、仙道にも少なからず伝わっているはずのことだ。私がそれをそうと見えないようにしていても、彼は会った次の瞬間に「疲れてますね」と言ってくるような男なのである。<br />
　だから、「最近忙しいから」と言って断ったところで、仙道はどうとも思わなかっただろうというのは分かっていたことだった。彼はそういう小さなことでいちいち機嫌を損ねたりするような小さな人間ではないのだ。<br />
　でも。どうしても、見たいと思ってしまった自分の心には抗えない。<br />
　バスケットコートという小さな海の中で生き生きと動き回る仙道彰という男の試合を、どうしてもこの目に収めたくなったのだ。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
「……まさか見に来るとはな。誘われたか仙道に」<br />
「……まあ、そんな感じ」<br />
「その様子じゃまだ付き合ってないのか」</p>
<p>　体育館へと向かう道中、不躾にそう尋ねたのは私の幼馴染であり、元・陵南バスケ部主将であった男である。<br />
　私と仙道の関係に心底驚いたというような顔をしているが、自分だって板前の修行ばかりでまだ人生の春が遠いことはご近所付き合いから筒抜けだ。とはいえ、彼ほど性根の優しい男もそういないので見つけてくれる人さえいればそうそう失敗することはないだろうとは思っているが、悔しいので言わないでおく。</p>
<p>「だって。……好きとか付き合おうとか言われてないし」<br />
「どう見たって好き合ってるだろう、お前ら」<br />
「分かんないでしょ、仙道くんのことだもん」</p>
<p>　私がそう言うと、魚住はバツの悪そうな顔で口を閉ざした。私の言葉に多少なりとも感じるものがあったらしい。そうなのだ。仙道彰という男は、どれだけ考えても不可思議で魅力的で掴みどころがない。自分のものになったと思うのは間違いで、自分が彼のものになれたというのも勘違い。気が付いたら何事もなかったように消えてしまいそうな、そういう独特の雰囲気をあの歳で平然と身に纏っている。</p>
<p>「仙道は、悪い男じゃないぞ」<br />
「分かってるよ、そんなの」<br />
「やつも男だ、大事な試合が終わったら動くかもしれん」<br />
「やめて、期待とかそういうのしないって決めてるから」</p>
<p>　仙道と出会って一年が経った。短くはないが、長くもない時間だった。彼は私にいつも優しかった。仙道のような、生きているだけで異性の心を掴むような人間を好きになるべきではなかったことだけは分かっている。でもそれは無理だったのだ。私も彼の周りに棲息する数多の魚たちと同じように、彼に振り返って欲しくなってしまった。彼が自分だけを見ればいいのにと願ってしまった。欲を持ったらもう戻れない。純粋に、先輩と後輩だった僅かな時間軸にはもう戻れないのだ。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>」<br />
「んー？」<br />
「お前は、もう少し期待して生きていい」<br />
「……なに、突然」<br />
「いろいろ大変だったことは分かってる。でも人生辛いことばかりじゃねぇ。もっと自分と周りに期待しろ」</p>
<p>　幼馴染と並んで歩くと、見上げるほど高い位置に顔があった。それをずっと見ていると首が痛くなると笑ったのは、私と魚住の母親で、小さな頃からずっと変わらなかった。同じ年に同じ町に生まれたはずなのに、彼はなぜかいつも私の先にいる。太陽で霞んで見えないくらいの場所に、いつも魚住がいる。<br />
　それに追いつこうとも追い抜かそうともしてこなかった。彼はいつも、私の横を同じ歩幅で歩いてくれる人間だと幼心に知っていたからだ。</p>
<p>「……純ちゃんと出会えたのは幸運だったと思うよ」</p>
<p>　人生、悪いことばかりじゃない。寂しことばかりじゃない。それを証明するいくつかの事柄の一つに、魚住純という人間の存在がある。<br />
　魚住は口を硬く閉じたまま私の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。せっかく整えた髪型が崩れたけれど、久しぶりの手の安心感にそんなことも忘れて笑ってしまった。この大きくて強く、そして優しい幼馴染は私の数少ない誇りである。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
　他のＯＢたちと合流する魚住とは体育館の入り口で別れ、私は一人で陵南サイドの観客席後ろに自分の席を取った。<br />
　緊張感に包まれた体育館。コートの中央には青と赤のユニホームを着た選手たちが対峙している。普段道を歩けば頭ひとつ抜け出てしまう彼も、こうしてバスケットマンの中に混ざればそう目立たない。<br />
　試合開始の笛が鳴り、中央の二人が高く跳ぶ。あっと思う間もなく、彼らの運命を決する試合が始まってしまった。選手たちはコートの中に散り散りになり、一つのボールを追いかける。右へ攻めたと思ったら今度は左へ。宙へ上がったボールはゴールネットを揺らす時もあれば、虚しくリングに阻まれることもある。その度に観客席からは「ああ」や「よし」と言った声が漏れた。<br />
　行き場のない両手は、無意識に胸の前で重なっていた。<br />
　神様なんて曖昧で不安定なものに、彼らの勝利を祈っていいのか。でも他に、私にできることはない。</p>
<p>　少しずつ少しずつ得点が積み重なっていく。両チーム、力はほとんど拮抗しているのか大きく差が開くことはない。僅かに湘北がリードしているが、ベンチや陵南サイドからは「まだ行ける」と大きな声が飛んでいる。<br />
　プレーの合間に時々笛が鳴り、選手たちがベンチへ下がる。ベンチに座ってタオルを被った仙道の顔はここからは見えなかった。<br />
　彼が今、何を思ってプレーしているのか。どんな重圧を背負って、チームメイトに笑いかけているのか。分かるはずがなかった。思い返すと、遠い昔に何度か見た試合中の魚住は怖い顔ばかりしていて、笑っているところなんてほとんど見たことがなかったのに。<br />
　仙道は笑うのである。商店街の片隅で、陵南高校の屋上で、通い慣れた浜辺で、私にするのと同じように。試合中も、優しくみんなの緊張をほぐすように。まだ余裕だと証明するように。</p>
<p>　勝ってほしいと思う。当然の感情だった。彼らの頑張りがどうか報われてほしい。去年の今も同じことも思っていた。ここではない場所で、彼らのプレーも見ずに。<br />
　あの日はもっと気楽だった。勝てばいい、きっと勝つだろうと。バスケットのなんたるかも知らず、そう思っていた。しかし、現実はそう甘くない。魚住たちは全国へ行けなかった。あれだけ頑張ったって、同じように頑張っている相手とは僅かな差で決着がついてしまうのだ。</p>
<p>　じわじわと試合時間がなくなってくる。未だ六点ビハインド。<br />
　まだ行けると言っていた観客たちの声にも焦りが混じる。同じ言葉をかけながら、良くない未来が頭をよぎって、言葉が詰まる。まだ勝てる。信じている。信じたい。<br />
　コートの中の選手たちはそうした周囲の焦りや不安などものともせずに、ただひたすらにボールを追いかけている。右へ跳び、左へパスを渡し、正面からリングを狙う。点を決めればキラリと笑い、厚い手のひらをバシンと重ねる。そこに、正しく輝く青春があった。あまりに眩く、あまりに美しい。それは高校生という時間の全てをバスケットに注いだ彼らが、今日まで必死に築き上げてきたものだ。<br />
　仙道の長い腕が宙へ伸びる。ボールはするりと転がるようにネットの中へ吸い込まれる。流れるようなそのワンシーンに、誰もが息を呑む。みんなの目を奪っていることよりも、次の点を取ることにだけ集中した男は涼しい顔でハイタッチをかわし、すぐにディフェンスへと走っていく。</p>
<p>　仙道彰という男が、その場所で生き生きと生きていた。<br />
　まさに水を得た魚のように。楽しくて楽しくて仕方なのないという顔で、彼はバスケットをしていた。誰よりも高く跳び、誰よりも点を決める。誰もが彼を天才と呼ぶ。技術の上手い下手など知らないが、それでもそう呼びたくなる人たちの気持ちは少しだけ理解できる気がした。そう呼びたくなるような人を圧倒する力が、彼にはある。</p>
<p>　試合時間はあと二分。点差は四点。届きそうで届かないもどかしさに、固く握った手にも力が入る。頑張れと叫ぶことも憚られるような雰囲気にじっと試合を見守っていると、タイムアウトから戻ってきた仙道がふと観客席の方へ目を向けた。視線は陵南サイドを端からなぞり、一番隅に座っていた私の方へ向く。<br />
　あっと思った。目があったから。<br />
　仙道が私を見つけ、顔を緩ませる。笑っている余裕などもうないだろうに、仙道は私に向かって笑ったのだ。大丈夫の願いを込めて、握った拳を彼に向けてそして頷く。仙道も同じように頷き返してくれた。</p>
<p>　最後の二分に向けて、選手たちがコートへ出揃う。秒針も追い抜いてしまいそうな速度で心臓が鳴っている。怖かった。コートに立っているわけでもないのに、試合が終わってしまうということがただひたすらに怖かった。<br />
　青いユニホームの選手が跳ぶ。相手の守りもかたい。当然無効だって必死だ。みんな同じものをかけて戦っている。残り時間を告げるタイマーが次第に数を減らしていく。焦りだけがあった。不安はもうない。目を逸らすことすらできそうになかった。息を止め、残り僅かの彼らの青春を見届ける。あと一分。二点差。一本で追いつける。その一本が遠かった。陵南が一本決めれば、負けじと湘北にも点が入る。距離が縮まらない。あと一本。あと一本だったのだ。<br />
　誰もが夢を見た。陵南のエースがチームを救う夢を。<br />
　試合終了のホイッスル。最後に仙道の手から放たれたボールは、放物線を描いてゴールへ向かった。ガゴンと鈍い音を立ててリングが揺れ、ボールがゴトリと落ちた時、陵南高校、全国への夢は絶たれたのである。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
　人生どうにもならないことがある。スポーツなんていうのはまさにそれで、究極の平等は不平等の紙一重だ。努力がすべて報われるわけではない。勝利の女神は気まぐれで、何が足りなかったのかは教えてくれず、ただ残酷な結果だけを知らせてくる。<br />
　何がどうしていれば勝てただろう。それは誰にも分からない。分からないからこそ苦しい。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」</p>
<p>　誰かが私を呼ぶ。帰り道の浜辺で、私を呼ぶこの声の主を私は知っていた。</p>
<p>「お疲れさま、——仙道くん」<br />
「すみません、勝てなくて」<br />
「謝らなくていいよ。悔しいのはみんなでしょう」<br />
「うん、でも。……あー、うん。悔しい」</p>
<p>　一年前、同じ場所で仙道に会った。雨の中、バッグを肩からかけて立ち尽くす背中に駆け寄った。試合を見にいかなかったのに、それだけで結果は知れてしまって。それがあったからか、今日もここへ彼が来るんじゃないかと思ったのだ。<br />
　そうであるなら待つべきだと思った。彼が一人きりで苦しむことがないように。今日はあの日と違って晴れだけど彼が一人、心の雨に打たれることがないように。</p>
<p>「見せたかったな、勝つとこ」<br />
「格好いいところはたくさん見れたよ」<br />
「はは　そりゃよかった」</p>
<p>　私の隣に立つ仙道は、ここではやっぱり大きかった。彼より大きな人はいなかった。さっきまでは違和感なんてまるでなかったのに、コートを出れば彼の存在は途端に浮いてしまう。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんは、よく海にいるね」<br />
「……たまに呼ばれる気がして。見においでって」<br />
「呼ばれるの？」<br />
「そう。それで嵐の日も海に行って、昔はお父さんによく叱られた」</p>
<p>　どこにいても思い出せそうな母なる海の音が、私を呼ぶのだ。ちょっと驚いたような顔をした仙道の顔を見て、ああそういえば誰にも話したことなかったと思い出す。怖いかな。怖いだろう。海に呼ばれるなんて、死ぬ直前の人間みたいだ。<br />
　私の話は終いにしようと、「仙道くんは？」と尋ねる。私ほどではないだろうが、仙道もよく海にいる。釣りが好きだとは言っていたけれど、釣り竿がない日も彼をこの場所で見かけることはままあった。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんがいそうな気がして」<br />
「……え？」<br />
「特に今日は。絶対いてくれると思いました」</p>
<p>　高くにある彼の顔を見上げる。白い肌は夕焼けのおかげで朱に染まっている。私と目が合うと一層下がる彼のまなじりには、少しの照れ臭さが隠しきれていなかった。</p>
<p>「触っていい？」</p>
<p>　一年前と同じ。彼が尋ねる。躊躇いもなく「いいよ」と言えば、仙道がふっと笑った。</p>
<p>「仙道くんだから、いいよって言ってる」</p>
<p>　一年前にはなかった勇気を奮ってみる。彼らの頑張りに感化されたみたいで恥ずかしいけれど、そっかと微笑んだ仙道の顔を見ればまあいいかと思える。<br />
　つい数時間前、ボールを巧みに操っていた分厚い手が私の肩を引き寄せて、二人の距離はゼロになる。夕方の海で抱き合う男女にわざわざ興味を持つような殊勝な人間は、もうこの湘南にはいないに等しい。</p>
<p>「お疲れ様」</p>
<p>　大きな背中だった。一年前は魚住たちが彼らに示したように、仙道の背中もまた大きかった。後輩たちもきっとそれを感じ取って、来年以降に繋げてくれるはずだ。そうして、チームは続いてゆくものだから。<br />
　何も言わずに私を抱く仙道の体温がいつもより少しだけ低い。それが分かって悲しくなる。悲しくなると泣きたくなって、瞳の膜が潤んだけれど、今泣いていいのは私ではない。溢れないように目を閉じなければ、涙になりきれなかったものは全部海の風が乾かしてくれる。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、あったけぇ」</p>
<p>　君が冷たいんだとは、言えなかった。<br />
　だからトントンと彼の背中をさすりながら、自分の体温を分け与える。もう七月だ、寒いわけではないだろう。でもまだ暑いというほどでもない。寄せては返す波の音に耳を澄ませて、彼に触れるたびに悲しくなる心の声は聞かなかったことにした。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<item>
		<title>春冷えの夜が始まる</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 06 Sep 2023 14:15:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　私の卒業を待っていたかのように、祖母が亡くなった。76歳になった3日後のことだった。 　突然ではなかった。冬の間から随分と体調が悪くなっていることは聞いていたし、入院してからは幾度か見舞いにも行っていた。忙しい時期にわ...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202309063998/" title="続きを読む春冷えの夜が始まる">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　私の卒業を待っていたかのように、祖母が亡くなった。76歳になった3日後のことだった。<br />
　突然ではなかった。冬の間から随分と体調が悪くなっていることは聞いていたし、入院してからは幾度か見舞いにも行っていた。忙しい時期にわざわざ来ることないよと、何度も祖母は言ったが、私が行くと嬉しそうですねと看護師さんたちは言っていた。素直に生きられないのは我が家の血筋である。</p>
<p>　亡くなった祖母は心底安らかな顔をしていて、この世にもう悔いはないのだと言っていた言葉通り、心置きなく逝ったらしかった。棺には祖父との写真が収められ、花に囲まれた祖母の顔は心なしか嬉しそうでもあった。彼女は、死ぬまで祖父を愛していた。それがどれだけのことであるかを、おそらく私は理解していない。しかし、そのことを私も父も知っていて、それは私たち家族の間では当然のことだった。<br />
　あの家から降りてくることを拒んだ祖母。魚屋の亭主として生を全うした祖父の影を近くで感じながら生きることを、祖母は最後まで嫌がっていた。結果、体調の悪化に私たちが気づいた頃には病も進行し、発覚から入院、そして最期に至るまで随分と短い間であった。<br />
『もう、長生きなんかしたくないんだよ』<br />
　そう言って、泣きたいのか笑いたいのか分からない顔をした祖母に、かける言葉はなかった。それが祖母の唯一で、一等強い願いであるなら、私のどんな言葉も慰めにも気休めにもならないのだから。<br />
　そっかと言って、皺だらけの手を撫でる。情けない孫の顔を見ながら、祖母は優しく笑っていた。<br />
『あんたは、幸せになれる恋をしなさい』<br />
　それが、祖母からもらった最期の言葉である。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　別れとは、得てして寂しいものである。もう二度と会えないと決められているなら尚更に。祖母との別れは、胸がちぎれそうな寂しさを残した。それは2週間そこらでは到底癒えそうにないものだった。<br />
　母との別れ。友との別れ。さまざま別れがあった。『人生は出会いと別れ』と言い切った偉人がいたが、まさしくその通りなのだと思う。私の人生にも別れがあった。その分の出会いもあった。どれも美しく、忘れがたく、そして強烈な感情を私の中に残していった。</p>
<p>　海辺に立ち水面で反射する光を目で追えば、日に焼けたせいか、少しだけ潮風が染みる。あ、と思った。その瞬間にはもう手遅れで、涙がぽろんと落っこちていた。<br />
　風が染みた。日に焼けた目に、しょっぱい海の風が染みたのだ。<br />
　手持ち無沙汰で家を出てきてしまったせいか、落っこちてくるものを拭うものがない。誰の目にも止まりたくない。そう思うのに、季節外れの海にも人はちらほらいるのである。<br />
　蹲って、抱えた膝の間に顔を隠す。下を向いたら鼻水まで出てきてしまって、これはいけないと思うのに、どうしようもなかった。</p>
<p>　‘おばあちゃん’　波音にかき消されるくらいの声で呼んだ。私以外の誰にもその声は届かなくても、祖母にはきっと届くのだ。海の上にいる。雲の上にいる。祖父と二人で私を見ていて、そんなところで泣くんじゃないよと言っているはずだ。</p>
<p>「——<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん！」</p>
<p>　どのくらいそうしていたか、と思う間もなくすぐだった。<br />
　砂浜を駆ける足音。私の名前を呼んだのはよく知った声だった。</p>
<p>「仙道くん、」<br />
「どうしたの、こんなとこで」</p>
<p>　彼が慌てていると分かった。無理もない。春の海で、女が一人、しゃがみ込んで泣いているのだ。ましてその女はよく知った人間である。<br />
　珍しく余裕のない顔で、仙道は私のそばにしゃがみ込み、私の顔を覗き込んだ。涙に濡れ、恐らくは砂だとか汚れだとかがついた私の顔を。彼の長い指が伸びてきて、顔に触れた。涙を拭ってくれようとしているのか、砂を払おうとしているのか分からなかった。私の頬と眦を滑る、彼の手つきにだけは覚えがあった。</p>
<p>「……泣いてる」</p>
<p>　悲しそうな声だった。去年の夏、大会で負けた時も、私が卒業した時も、そんな声は聞かなかったのに。彼は、何故だか心底悲しそうな声を発した。<br />
　私の顔の上を滑っていた彼の指が、今度は耳のほうへ近づいていって。それから彼の大きな両の手が、私の両頬を包む。<br />
　あっという間だった。唇の端っこと、眦、それから額に。彼の唇が触れた。触れるだけのキスだった。ただ優しくて、私を慰めるためだけにあるような、そんなキスだった。</p>
<p>「突然だね」<br />
「……驚いたら、泣き止んでくれるかと思って」<br />
「そういうことなの？」<br />
「そう。お願い、泣かないで」</p>
<p>　少しずつ溶かされる。胸の中に巣食って大きくなった寂しさが、少しずつ少しずつ彼の体温に溶かされて、海に流れ出していく。<br />
　うんと頷いてから、それから目を閉じた。彼がキスをしてくれる、それだけに期待して。</p>
<p>　浅ましく、欲深く、それでいて寂しさを隠しきれない私に、彼は望み通りキスをしてくれた。触れて、それから長いこと触れ合ったままでいた。幸せで、嬉しくて、どうしようもない寂しさもまだあった。でも、それでいいのだと思う。<br />
　私は大切な人と別れたのだから、寂しいままで、きっといいのだと思えた。</p>
<p>「泣き止んだ？」<br />
「うん」<br />
「悲しいことがあったの？」<br />
「……うん」</p>
<p>　少しだけ迷って、それから「あのね」と話し始めた。誰にも言う機会がなかったことを、彼に言ってしまおうと思って口を開く。家族を亡くしたのだ。死は平等にあるもので避けようがない。だから悲しみに暮れる必要はないのだけれど、寂しさもまたどうしようもないものなのだ。私だけの、私と父だけの寂しさを、彼にも知ってもらいたかった。<br />
　祖母が亡くなったという私の話を、仙道はうんうんと頷きながら、最後まで優しく聞いてくれた。大きな手で私の手を取り、手の甲を太くて硬い指で撫でながら、私の話を聞いてくれたのだ。<br />
　その頃には本当に涙もきちんと止まっていて、私たちは爽やかな海の風に吹かれていた。春が過ぎ去りそうな頃の日曜日の、暖かな日だった。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　家族の死というものを経ても、生活に大きな変化はない。ただぽっかりと空いた穴を、どうやって埋めていくかというだけである。<br />
　新生活は順調だった。高校より遠いところにある学校へ、毎朝お弁当を作って向かい、授業を受けて、クラスメイトと話して笑って、山ほど課題を抱えて帰る。父と顔を合わせる機会はますます減ったが、夜や朝に見かける顔は変わりないように見えた。<br />
　大丈夫な時もそうでない時も、大丈夫に見えるように生きることが、大人になるということなのかもしれない。高校を卒業したくらいで「大人」を語るなんて笑われてしまいそうだが、しかし、そう思うのだ。私たちは時間の流れに背を押され、否応無しに大人の階段を登らされる。なりたくもないものになることもまた人生なのだ。その中で少しでも自分の思いに沿うように努力する。それだけが、私たちにできることなのだと、切に思う。</p>
<p>　新生活が始まり、祖母が亡くなり、様々なことが変わっていった。変化もまた時の経過の宿命である。様々なことが変わっていくことをその都度に惜しんだが、その一つに仙道の存在があった。仙道彰という男は、ふらふらと広い海を泳ぎ回る自由な魚のように見えて、その実、まだ高校という池の中、もっと言えばバスケットコートという狭い水槽にのみ生きる男なのだ。私が高校を出ると、途端に会う機会は減った。あの背の高いツンとした頭を、高校の廊下や窓の向こうに探すことはできなくなったのである。</p>
<p>　だからその日、私の家の下で待っていたかのようにして立っている姿を見た時、私は驚き、小さく「えっ」と声を漏らした。声に気づいて振り返った仙道は、階段を降りてくる私に手を振って、そうなることが必然であったかのように「どうも」と笑った。全く、いつも通り、数ヶ月前まで頻繁に見ていた姿と変わりのない仙道だった。</p>
<p>「どうしたの。何か用事あった？」<br />
「んーまあ、そんなとこです」<br />
「なに？」</p>
<p>　仙道は私の質問に答えなかった。曖昧に笑って、はぐらかした。私はそれを、どうせ彼お得意の気まぐれだろうとさして気にもとめず、それ以上の深追いはしなかった。<br />
　肩から大きめのカバンを背負った私を見て、仙道が「どこ行くんですか」と尋ねる。行き先は祖母の家だった。父と私で手分けして少しずつ家の整理をしているのだ。故人の家だ。今後住む予定もない。どうするかは後で考えるとして、とにかく綺麗にはしておこうという話になったのだ。大雑把で豪快だった祖父とは違い、祖母は繊細で神経質でとても几帳面な人だったから。綺麗にしておかないと雲の上から怒って落ちてきそうだ、と。そう言って笑った父に、もう母を亡くした息子の悲しみはなかった。ただ少しだけ寂しそうではあった。</p>
<p>「俺も行っていい？」<br />
「いいけど。せっかくの休み、そんなことに使っていいの」<br />
「ん。荷物持ちとか、掃除なら俺だって」<br />
「できる？」<br />
「たぶん？」</p>
<p>　仙道に、家の掃除がきちんとできるイメージはこれっぽっちもなかったが、着いて行きたがるのにも何か理由があるのかもしれないと思ってそれを了承した。実際人手があった方が助かるのは本当なのだ。<br />
　財布をズボンのポケットに押し込んで、ほとんど手ぶらだった仙道は私の肩から荷物を取ると、軽々とそれを自分の肩にかけた。それから駅へ向かって、「行きましょうか」と言う。彼と一緒に学校へ行ったことなどなかったが、なんとなく懐かしさがあった。<br />
　大きな荷物を持って歩く仙道の姿を何度も見た。その荷物がバスケットに関わるものでないことだけが違和感だった。</p>
<p>　駅から電車に乗る。20分乗って、バスに乗り換え坂を登る。高台の上にある祖母の家は見晴らしがよく、交通アクセスさえ除けば立地はよかった。現に辺りには別荘らしき建物もちらほら見える。祖母はよく「ここは静かでいい」と言っていた。<br />
　道すがら、私たちも少しだけ会話をした。多くはなかった。会話の中で、私は仙道に高校３年生としての生活やバスケットのことを尋ねた。陵南高校バスケット部の主将を引き継いだ仙道は、慣れないながら毎日励んでいるという。<br />
　コートに立って、礼をする。その時に背番号４を背負い、掛け声をかけるのは魚住から仙道の役目になった。彼は誰よりも高く跳び、速く駆け、点を決めるだろう。<br />
　プレーする姿を直接この目で見たことはなかったけれど、ずば抜けて上手いと神奈川中の噂になる男だ。その姿は容易に想像がついた。私は話を聞いて、「そっか」と言って言葉に悩んだ。頑張ってるねと言うのはプレッシャーになるかもしれないし、偉いねと言うのは私の立場で言うべき言葉ではない。凄いというたった一言が、本人の尊重すべき何を軽視し、相手にどんな圧力を与えるか。想像がつかないのなら簡単に発するべきではないのだ。</p>
<p>「……見たいな」</p>
<p>　迷って、悩んで、結局言えたのはそれだけだった。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんが来てくれたら、俺100点決められるかも」</p>
<p>　バスでの会話はそれが最後だった。どんどん窓の下の方へ下がっていく海を見ながら、言うべきではないと切り捨てた言葉たちがぐるぐると私の頭の中に巡っていた。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
　祖母の家で、淡々と片付けを進める私のそばで仙道もそれを手伝ってくれた。棚や引き出しにあるものを出して、箱に詰めたり、不要なものは捨てたりを繰り返す。仙道は時々私に「これは？」と訊きながら、存外丁寧な手つきで作業を進めた。どこまでも器用な人間なのだと思った。重いものは仙道が積極的に持ってくれたおかげで楽になったし、高いところにあるものも仙道がいれば危ない脚立に乗る必要もない。<br />
　夕暮れを迎える前には、その日やるべきことをすっかり終えて、私たちは家の縁側にいた。海の見える縁側は、祖父と祖母が一等気に入っていたものだ。小さい頃、よくここで二人と話をした。私は二人の間にいて、学校でのことや父のことを話した。母の話はしなかった。すれば決まって、悲しそうな顔をすると知っていたからだった。</p>
<p>「お疲れ様。手伝ってくれてありがとう」<br />
「いえ、いい気晴らしになりました」<br />
「そう？　なら良かった」</p>
<p>　仙道は、私が渡したお茶のペットボトルをぐびぐび飲んで、爽やかに笑った。いかにもスポーツマンらしい笑顔だった。海からの風が、疲れた私たちの周りを包む。夏を前にした湘南の海は、今日は穏やかである。</p>
<p>「それ、<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんの家族？」</p>
<p>　仙道が、私の手の中にある写真を指差す。そうだよ、と言った。ほとんど唯一に近い家族写真だった。祖父母と父と私が映っている。私の小学校の入学式の時の写真だった。その時、まだ父と母は夫婦だったが、その写真に母の姿はない。<br />
　そのことに仙道が気づかないはずがなかった。家族写真というのは往々にして両親が在るものである。そのことを私はよく知っている。父子家庭で育ったという事実を恥じたことは誓ってない。誓ってないが、それを公にすることもまた望まなかった。普通で大多数を占めるものの力が、この国ではちょっとばかり強過ぎるのだ。</p>
<p>「8歳の時にね、出て行ったよ。その前からほとんど家にいなかったけど」<br />
「え？」<br />
「お母さん。映ってないでしょう」</p>
<p>　ほら、と写真を仙道の方へ見せる。去年のクリスマスを二人で過ごした時、両親が離婚していることを仙道に話した。彼は私がそのことについて触れるとき、いつもなんでもないことのような顔をして聞いていた。ただ一言、「そっか」と言って。他の人がするように、私を傷つけることも慰めることもしなかった。ただ、私の話を受け入れてくるのだ。<br />
　私はかつて、母を「魚みたいな人」だと彼に言った。どんな意味でもなかったはずなのに、仙道があの時「綺麗な人だったんだ」と言ったから。それから、私の中での母は可哀想な人だけではなくなった。綺麗な人であったのだ。どこか生気がなく、頼りなく、人の温度に弱い。触れるとすぐに火傷を負ってしまいそうな雰囲気を、あの人は持っていた。</p>
<p>「俺の父親も、俺が10歳の時に出て行きましたよ」<br />
「そうだったの」<br />
「はい。母親の実家が地元で力のある家で、父は婿養子だったんですけど、色々上手くいかなくなったみたいで」<br />
「そっか」</p>
<p>　仙道の話を聞いた。彼が自分の生い立ちを語るのはとても珍しいことのような気がした。彼の目を見て、彼の心に耳を傾ける。私は彼の痛みや喜びを知らない。他人であるから仕方のないことなのに、今はそれがひどくもどかしい。<br />
　少しだけ怖かった、恐ろしかった。彼に絡め取られていく四肢が。彼しか見えなくなる目が。彼以外に動かされることのない心が。何もかも、十九年、経験したことのない感情が怖くて恐ろしくて、私は震えている。恋とは何たるものなのか、私は知らない。今の私は得体の知れない感情に支配され、震える感情の奴隷である。</p>
<p>「……いろんな道を経て、私たちはここにいるんだね」<br />
「不思議っすね」</p>
<p>　これまで経験してきた寂しさや悲しみが、すべて必要なものであったと思いたい。最善の今に至るために必要な、私が人として成長するために必要な過程であったのだと。誰もそんな曖昧なものを保証することなんてできやしないと分かっているけれど。それでも、今、仙道と出会い笑って話をしている今があるなら、これまでのことは何ひとつ無駄ではなかったと信じたいのだ。</p>
<p>「今日、会えて良かった」</p>
<p>　彼は真面目な顔で「会いたかった」と言った。それに、私もと言った。大いなる勇気を要する言葉だった。会いたかった。仙道に会いたかった。いるはずのない窓の外に、雑踏の中に、彼の姿を探すほどには、私も彼に会いたかった。<br />
　それなのに私たちは、会う理由となりうる決定的な言葉は何も交わさず、ただ「同じだね」と言って笑い合った。それだけだった。付き合おうとも、好きだとも言わなかった。関係性に名前がつくことをきっとどこかで恐れていて、その恐れを相手に悟らせないことに必死だった。私たちはまだ若かった。若いからこそできた恋だったのに、それを若く幼いからこそ大切にすることができなかった。私たちには、いつも燦然たる‘今’という瞬間があって、その煌めきを少しでも損ねる可能性のある道は選び取ることができなかった。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>水槽は狭い</title>
		<link>https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202306253958/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 25 Jun 2023 10:03:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　唐突に春は来た。 　正確に言うならば、「春」という暖かな温度と花咲き乱れる様はまだ到来していないが、それよりも先に「卒業」という春の概念が先に私たちの元へ訪れたのである。 　昨年中に専門学校への進学を決めた私は、正月明...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202306253958/" title="続きを読む水槽は狭い">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　唐突に春は来た。<br />
　正確に言うならば、「春」という暖かな温度と花咲き乱れる様はまだ到来していないが、それよりも先に「卒業」という春の概念が先に私たちの元へ訪れたのである。<br />
　昨年中に専門学校への進学を決めた私は、正月明け早々に行われた統一試験をもって受験生というものから脱していた。未だ受験の終わらない同級生とは違い、登校し、何の意味もなさない授業を受けているところである。卒業後、本格的な板前修行に入る魚住も私とほとんど同じような立ち位置であった。</p>
<p>　「卒業」の日がいずれ来るだろうと知ってはいた。知ってはいたが、それはもっとずっと先にある未来のような気がしていて、二月になってもどうにも実感が伴わない。一ヶ月先には自分は陵南高校の学生ではなくなってしまって、さらにそのひと月先には違う学校に通うのである。<br />
　授業終了のチャイムが鳴る。意味のない授業をしている自覚は教師側にもあるのか、最近では授業後の課題すら提出の義務がなくなった。数ヶ月前の受験を控えた熱意ある授業とは打って変わって、やる気のなさそうな退職間近の教師がただ教科書を読み上げるだけで終わるのだ。それでも受験の終わった生徒が学校へ来るのは、残り僅かになったクラスメイトとの時間を過ごすためだった。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>」</p>
<p>　午前で授業は終了し、残って友人と昼ごはんを食べる者、早々に帰宅する者、最後に部活に顔を出す者。皆、過ごし方は様々だった。<br />
　眠そうにあくびをするクラスメイトの間を縫って、一際大きな体が近づいてくる。魚住だ。体躯のせいか、小さく見えるカバンを肩から下げて、私の前に立つ。話すとき首痛いでしょ、と笑ったのは礼儀知らずの彼の部活の後輩である。</p>
<p>「今日、母さんから啓治さんに渡すものがあるから寄ってほしいそうだ」<br />
「私が取りに行けばいいの」<br />
「啓次さんが<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>に行かせると言ったらしい」<br />
「ふ〜ん、分かった。純ちゃんもう帰るなら一緒に行くよ」</p>
<p>　魚住と並んで学校を出る。同じ電車に乗り、同じ道を歩いて三年間同じ学校へ通った。なのにこうして並んで学校へ行ったのは、それこそ入学式の日だけだった。魚住は三年間バスケットボールに打ち込み、朝も昼も夜も、いつもあの体育館にいた。私は離れた場所で、その音を聞いていただけである。<br />
　最後に、彼のバスケットボールを見なかったことを少しだけ後悔している。魚住は板前になるために、バスケットを高校で終えることは薄らと知っていたのに、彼に「見に行っていいか」と聞く勇気を私は最後まで持たなかったのだ。<br />
　私が友人と遊んだり、店の手伝いをしたり、海を見たりして浪費した放課後の時間、そのほとんどを彼はバスケットへ捧げていた。それは最後にどんなものに代わったのか、この目でそれを見たかったな、と今更ながら考える。</p>
<p>「純ちゃん、調理の学校行くんでしょう」<br />
「聞いたのか」<br />
「うん。お父さんが教えてくれた」<br />
「お前も栄養の勉強をするらしいな」<br />
「そう」</p>
<p>　人生がここまで十八年あって、その半分以上をこの男と過ごしてきた。長かった。ずっと一緒にいるほど仲が良かったわけではないが、それでも長い時間を共有してきた。あとひと月で、その道が初めて別れる。同じ道につながる日はもうないかもしれない。そう思うと、何だか感慨深い思いがする。</p>
<p>　魚住は板前を目指して調理学校へ。父親のもとで本格的な修行も始めると聞いている。私は栄養の勉強をして、それ以降はまだ未定だ。私には、魚住と違って明確な夢や目標があるわけではない。ただ、料理は好きでそれなりに得意で、それが自分のアイデンティティの一つである気がして、それを磨いてみようと思ったのだ。ただ、それだけだった。</p>
<p>「啓次さん喜んだだろう」<br />
「どうだろう、多分ね。いいねって言ってたよ」<br />
「それは喜んでるんだよ」</p>
<p>　電車が最寄駅に停車して、ガタンと大きく揺れる。反動で私の体も揺られてバランスを崩したとき、手のついた先は魚住の体だった。勢いをつけてぶつかったのに、何でもないことのように大きな手が私を支えて「大丈夫か」と尋ねた。「大丈夫」と言って、「ありがとう」とも言って。それから、その大きな体に、たくさん支えられてきたのだと実感する。<br />
　道は別れる。でも、それは人としての別れではない。同じ町に、同じように家がある。繋がりは消えず、彼はこれからも私の人生に存在する。それがどれだけ素晴らしいことかを、別れの目前にてようやく理解した。</p>
<p>　大切な幼馴染に心秘かに感謝を告げると、その彼が改札を抜けたところで何やら神妙な顔で「一つ聞いてもいいか」と切り出したので先を促す。進路の話ですら、そんな顔は見せなかった彼が。</p>
<p>「……仙道と、付き合ってるのか」</p>
<p>　何を聞かれるのかと思った矢先、魚住がそう尋ねた。<br />
　思わず吹き出すと、彼の眉間に皺が寄る。怖い顔がより一層怖く見えるから、やめた方がいい。客商売には向かない顔だ。</p>
<p>「改まって聞きたかったことって、それ？」<br />
「悪いか」<br />
「いやいいけど。純ちゃんもそういうの興味あるんだ」<br />
「……早く答えろ」<br />
「あー……付き合ってないよ？　そういう話してないし」</p>
<p>　私の答えが意外だったのか、魚住が目を丸くする。気持ちは、確かに分かる。よく一緒にお昼を食べているし、彼は時々クラスに顔を出していくし、廊下ですれ違う時に手を振られることなんかしょっちゅうだった。極め付けは、あのクリスマスの日である。魚住が、私たちをそういう関係であると捉えても無理はない。</p>
<p>「……でも、好きなんだろう」</p>
<p>　魚住の声が僅かに下がる。それは問いかけるというよりも、確かめるに近かった。もう答えは分かっていて、一応念のため聞く。そういう問い方だった。<br />
　何もかも、長年一緒にいた幼馴染に明け透けになっていることは恥ずかしいけれど、ここで嘘をつくわけにもいかないし、その必要もない。肩から下げたカバンの持ち手を強く握って、小さく「ん」と頷いた。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
<p>　卒業式前最後の行事は、任意参加の球技大会だった。三学年合同で、クラス内でチームを組み、学年関係なくトーナメントが組まれる。１年、２年はほとんど全員が何かしらの種目に参加するが、３年は受験がないか早く終わる人間のみが参加するので、参加者は学年の半分以下になる。<br />
　今年は出なくていいかなと思っていたけど、仲の良い友人が暇なら出ようよと言うので、確かに暇だからいいかとそれを受けた。進路は決定済みで、春からも家から学校に通う私に新生活の準備はないに等しい。それなりに課題はあるが、球技大会に出られないほどではなかった。</p>
<p>「バスケットボール？」<br />
「知らなかったけどそうらしい」<br />
「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんできるの？」<br />
「逆にできると思うの？」</p>
<p>　私がそう言うと仙道は苦笑して、肯定も否定もしなかった。それはすなわち肯定である。<br />
　午前で授業が終わった日の昼休み。まだ午後から授業もある仙道が、明日は一緒に昼食べませんと昨日誘ってくれたので、わざわざお弁当を用意してきた。からりと晴れた空の下、上る話題はやっぱり球技大会のことだった。昼休みにも各クラスで練習している様子が、屋上からならよく見える。<br />
　私が安易に「いいよ」と参加を了承した球技大会は、種目がいくつかあってその中から選択して出るのだが、友人は元々バスケットボールで出場したかったらしく、知らない間に私もそのメンバーに名を連ねていた。そう時間もないし、卓球だとかドッチボールだとか、そういうもっと練習があんまり必要のない種目に出ると思っていたのだ。完全に誤算だった。</p>
<p>「じゃあ練習とかしてるの」<br />
「ちょっとね。下手っぴだけど」<br />
「……俺、教えようか」<br />
「嬉しいけど、流石にもったいない気がする」</p>
<p>　強豪・陵南高校のエースがど素人の私にバスケットを教えるなんて、側から見たら笑ってしまいそう。いくらなんでもと私は冗談のつもりだったのに、すっかり本気になってしまったらしい仙道が今度の日曜は空いているかなんて予定を聞いてくる。空いているけど。わざわざ部活がオフの日に、私にバスケット教えるなんて、それってなんか悪い気がする。</p>
<p>「いいじゃん、日曜も<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんに会えるし」<br />
「……仙道くんがいいならいいけど」<br />
「俺も体動かしたいし。ちょうどいいです」</p>
<p>　仙道はそう言って鼻歌を歌いながらご機嫌で、パンの最後の一口を齧った。大きく開いた口に大きなカケラが飲み込まれる。つい先日の魚住とのやりとりを思い出しながら、私もいつの間にこの男の腹の中にいたのだろうなと思った。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　約束の日曜日。仙道は部活帰りによく見るＴシャツとバスパン姿で私のことを迎えにきた。私服の仙道はスタイルがあまりに良くて街を歩けばモデルなのかと視線を集めるが、こうしてバスケットボールを小脇に抱えればたちまちバスケ部に見える。<br />
　私も動きやすい服装で、彼と一緒に彼がよく行くストリートコートへ向かった。慣れない場所には、仙道とまではいかないがそれなりに背の高い男子が何人かいて、和気藹々とバスケットボールを楽しんでいる。私という存在は完全に場違いだった。</p>
<p>「とりあえずシュートの練習すればいいか」<br />
「お手柔らかに頼みます」<br />
「はい。こちらこそ」</p>
<p>　仙道から慣れた手つきでパスが出される。それを受けて、シュートを放ってみる。もちろん誰かに習ったことも練習したこともないので、完全にアドリブだ。体育の授業でやっているようにボールを放る。ガゴンと音がして、重みのある橙色の球体はリングにあたってから地面にぼとりと落ちた。そう上手くいくものじゃない。当たり前だ。運動神経に関しては良くもないが、悪くもない。特別得意も不得意もないので、そもそも目立たないタイプだった。</p>
<p>「……どう？」<br />
「フォームさえ直して練習すれば入るようになるよ」<br />
「フォームね」<br />
「そう。ちょっと触ります」</p>
<p>　仙道が私の後ろに立って、それから前に手を回した。私の体を後ろから抱えるような体勢で、私の手を取り、これはこうとフォームを覚えさせる。背中はピッタリ彼の前面に密着していて、仙道は屈んでいるのか、振り返ったら顔もきっとすぐ近くにある。気配がすぐそこなのだ。何を言われても話が上手く理解できない。</p>
<p>「仙道くん、近い」<br />
「ん？」<br />
「近くて、集中できないからもう少し離れて」<br />
「はは　すみません、わざとです」</p>
<p>　悪びれもせずにそう言って、仙道は離れた。それからちょこちょこと手の位置や肘の位置を調整して、どうぞと言われる。フォームはこれで完成らしい。これならあんなに近づかなくても絶対によかったはずだ。<br />
　彼に言われたままの姿勢で、膝を意識してボールを放る。さっきよりも少し高い位置で放物線を描いたそれは吸い込まれるようにしてネットを揺らす。振り返った先で笑う男は、憎いが、どうしたって格好いいのだ。</p>
<p>「上手」</p>
<p>　一回、二回とシュートが入り、私が満足したところで仙道がそろそろ休憩しましょうかと切り出して、コート外のベンチに並んで座る。勝手は分かった気もするが、これが本番まで持続するかと聞かれればまたそれは別の話。もちろん努力はするけれど。<br />
　ダムダムとボールのつく音が響くコートそば。仙道がだらんと投げ出した長い足の先には海が見えて、単純に綺麗な場所だと思う。海があって、気持ちいい風が吹いて、大きな道路から離れているおかげか、静かで。隣に座る仙道が、風を受けて気持ちよさそうに目を細める。品のいい犬みたいだなと思ったけれど、それを口に出すことはしなかった。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、卒業したらどこ行くの」<br />
「専門学校。栄養の勉強する」<br />
「遠いとこ？」<br />
「……いや？　実家から通うつもりだけど」</p>
<p>　彼の小さな笑いが、二人の間に落っこちて、その後に「そっか」という囁きが続く。彼はどこか安心したような顔で私の話を聞いていた。彼が私の言葉の何に安堵したのか分からない。さっきと同じ場所で、同じようにドリブルの音が響き、同じ乾いた風が吹いていた。私たちの髪が風に揺れる。風の行く先は春であり、その先に別れがあった。<br />
　私はこの春、あの学び舎を卒業する。３年通った学校から新たなる場所へ進む。同じようにこの男とも別れるのである。しかしその時、私たちの間の物理的な距離が完全に離れることはない。私はこの土地に留まり、仙道にはまだ１年があるからだ。そのことに、この何事にも関心の薄そうな男が安堵しているのかと思うと、それだけで少しだけ嬉しくなる。単純だ。恋は人を愚かにする。私はいま、正しく愚かであった。</p>
<p>　好きだとも、付き合おうとも言わなかった。私も、彼も。今はまだこの距離でいいと思っていたし、名前のある関係性に縛られてしまうことが怖かった。好きだったけれど、好きだと言うのが怖かった。だから曖昧なものを曖昧なままにして、けれどそれを大切にしようとしていた。それが、十八歳と十七歳の恋だったのだ。</p>
<div class="su-spacer" style="height:80px"></div>
　球技大会当日。卒業式の５日前だった。<br />
　朝から校舎内は騒がしく、校庭、第二グラウンド、体育館、剣道場、さまざまな場所で各種目が進行した。私たち３年生にとって最後の球技大会であり、最後の学校行事でもある。<br />
　体育館の真ん中、第２コート。３年９組バスケットボールチームの第２試合。広い体育館を二つに分けたコートの中央に、私は立っていた。周囲に壁があり、ギャラリーから人に見下ろされ、ああだこうだと声が聞こえてくる。ボールをドリブルする音と、体育館シューズが床に擦れる音がした。<br />
　水槽のようだった。箱の中に生きるものと、それを見ているものがいる。<br />
　そこはもっと、広い場所だと思っていたのだ。魚住や仙道を虜にするバスケットボールというものは、うんと背の高い彼らでも伸び伸びと泳ぐことのできる広い場所でするものだ、と。私は勝手にそう思っていた。小さい頃、魚住がいた場所は、あの頃の私にとってとても広い場所に見えていたから。</p>
<p>「……仙道くん、わざわざ見に来たの」<br />
「ちょうど空いてたんで。ファイトです」</p>
<p>　でも違った。<br />
　体育館の端っこで私に笑いかける彼はいつも通りで、そこが窮屈そうにはまるで見えない。なのに、私が立つコートの中はとても狭くて、息苦しいところだった。四方の壁が呼吸を圧迫する。私たちを取り囲む生徒たちの目が、ここを居心地の悪い場所にする。<br />
　私はここでは生きられない。そう思った。単純に、生きる世界が違うのだ。海と川とで生きる魚が違うように。魚が陸に上がっては生きられないように。私と仙道は、違う場所で生きているのだ。</p>
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		<title>昏い海の底にも光は在って</title>
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		<dc:creator><![CDATA[kirameki33]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 25 Jun 2023 10:02:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[あの夜のさかなたち]]></category>
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					<description><![CDATA[　冬の寒さに似合わない陽気なメロディーは、世界で一番幸せそうな音色をしている。 　誰も彼もが寒さに身を縮こませ下を向いて歩いてもおかしくない季節に、皆が顔を上げているのは街路樹を彩る美しいイルミネーションのおかげだ。駅前...  <a class="excerpt-read-more" href="https://thirsty25.stars.ne.jp/atthatnight/202306253893/" title="続きを読む昏い海の底にも光は在って">続きを読む</a>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>　冬の寒さに似合わない陽気なメロディーは、世界で一番幸せそうな音色をしている。<br />
　誰も彼もが寒さに身を縮こませ下を向いて歩いてもおかしくない季節に、皆が顔を上げているのは街路樹を彩る美しいイルミネーションのおかげだ。駅前の大通りに植えられた銀杏の木に色とりどりの電飾が光る。小さな駅の一角にしては気合の入ったその飾りは、地元では有名なデートスポットだった。</p>
<p>　クリスマスが近い。斜向かいのお肉屋さんはクリスマスに向けて仕入れで慌ただしく、父のトラックも近頃は駆り出される頻度が上がっている。商店街には「メリークリスマス」と書かれた横断幕が掲げられ、いかにも地元の商店街という風貌とは不釣り合いな飾り付けで、そのイベントを盛り上げようとしていた。<br />
　とはいえ、魚屋には繁忙期と言えるほど忙しくもないため、例年家でおとなしくそれが過ぎるのを待つか、惣菜屋のおばちゃんの手伝いに出向くかの二択だった。今年はどうだろう。壁にかけられたカレンダーの25の数字の下の白枠には、未だ何の予定も書かれていない。父は、おそらくその日も仕事だ。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん、クリスマスのご予定は」</p>
<p>　　ポトリ。箸から卵焼きが落ちる。ご飯の上に落ち、転がって、地面に落ちる寸前で横から伸びてきた掌がそれを受け止めた。仙道だ。「セーフ」と言って、手に乗った卵焼きをパクリと口に収める。あっという間の出来事だった。</p>
<p>「……クリスマス？」<br />
「うん。家族？　友達？」</p>
<p>　屋上で、仙道とご飯を食べていた。いつもそうしているのではなく、不定期に思い立った時にここへ足を運んでいるのだ。その時に仙道がいれば一緒に食べるし、いなければ一人で食べる。12月になり、出席日数の足りた生徒は既に登校を減らし始めていた。専門学校への進学を決めた友人もその例外ではない。いつも昼を共にしている友人がいない時、私は屋上へ来ることが多かった。<br />
　ふと湧いてきたシーズナルな話題に、不自然に聞こえない程度に口ごもる。クリスマス。12月になれば、毎日のように目にする単語だ。みんながそれに浮かれている。もの寂しいはずの冬を色とりどり煌びやかな季節に変えた功績は大きい。</p>
<p>「予定ないよ。友達は受験とかあるし、親は仕事だし」<br />
「クリスマスも仕事なの？」<br />
「うん、毎年」</p>
<p>　父の仕事に休みはない。年がら年中働いて、それを生きがいにしている人だ。店が休みの日も、仕入れだったり他の人の手伝いだったり町内会の活動だったりと忙しない。家にいるのは夜くらいで、夕飯の時に顔を合わせなければ、丸３日喋らずに過ごすことも珍しくなかった。<br />
　そんな生活も今に始まったことではない。少なくとも、母と別れてからはそうだった。片親として経済面で苦労をかけていることもあるし、単純に母のいない寂しさを忙しさで埋めようとしていたのかもしれない。そもそも父はイベントごとには疎い人で、認識しているのは正月くらいなのだ。毎年、カレンダーのクリスマスの日には、父の帰宅時間だけが記されている。</p>
<p>「その日、体育館の点検で部活午前中だけなんだけど」<br />
「……ん？」<br />
「午後、会いません？」<br />
「25日に？」<br />
「そう」</p>
<p>　膝の上に肘をついて、「どう？」と私の顔を覗き込む仙道はここが屋上であって、他の人の目があるということも微塵も気にしていないようだった。真冬に屋上でご飯を食べようという変わった人間は少ないが、少ないだけで私たち以外にも一定数は存在しているのだ。仙道の背の向こう側、お菓子を囲んでいた女子たちの目が、その大きな学ランの背に向けられているのを、きっとこの男は気づいていない。あるいは、真っ当に無視している。</p>
<p>　クリスマス。それは不思議な一日だ。ただの12月の一日であって、その日に生まれたと言われている神を日本人の多くは信仰していない。もちろん、世界のあらゆるイベントごとの‘楽しい部分’だけを切り取って味わうという宗教観念の薄さを批判する気は一切ない。楽しいことに便乗したい気持ちは私にだってある。<br />
　だがしかし、クリスマスというのはややその中でも厄介で、その日に誘うということ自体が一定以上の意味を持ってしまうのだ。特に恋愛関係の方面で。</p>
<p>「仙道くんこそいいの？」<br />
「え？」<br />
「クリスマス、私と一緒で」</p>
<p>　仙道がにっこり笑って、うんと頷く。その瞬間を心待ちにしていたような気がした。狡いと思う。彼に誘ってもらっておいて、挙句、「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんがいい」という言葉まで欲しがるなんて。でも、どうしても。心に浮かぶ微細な不安をそのままにするのは落ち着かないから、だからどうしても、自分というものを彼の言葉で肯定してほしかった。<br />
　彼が、そうしてくれると知っていたから。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　師も走るほどめまぐるしいひと月と書いて師走。その師走のカレンダー、25日の枠に、午後不在と書いた。誰がと書かなくても、この家には父か私の二人しかいない。本当なら口頭で済む話を、私が度々聞き逃したり、忘れたりするからと、中学進学と同時にリビングに設置されたものだった。<br />
　父も父で、12月後半の予定が埋まりつつあるのか、カレンダーに向かってペンを握る。25日に書かれた私の字を見て、「お」と小さな声が上げる。恥ずかしくて聞こえなかったフリをして、何事もなかったようにと「おやすみ」を言う。父親の生暖かい視線に晒されて、平気な顔をしていられるほど、私はまだ大人ではないのだ。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　目まぐるしい季節は、師走の名に相応しくあっという間に過ぎた。冬休みだの、休み明けの統一試験だの、その先の受験だのと話をしていたらクリスマスを迎えていたのである。<br />
　クリスマスというものを私はよく知らない。小さな頃にはケーキとチキンを食べて、父親からプレゼントを渡されたような記憶はある。サンタさんから預かったのだとか何とか理由をつけられて、私は純粋にそれを喜んだ。しかし、それだけだ。<br />
　例えば家族以外の人間と過ごすクリスマスはどんなもので、何をするのか。私は知らない。知らないことは知っている人間に聞けば良かったのだが、如何せん、友人にクリスマスに男の人と過ごすときはどうしたらいい？と聞く勇気がなかった。根掘り葉掘り聞かれた時に、説明できるような肩書きや約束を、私と仙道は持っていなかった。</p>
<p>　当日。仙道からは家まで迎えに行くと言われていた。凍てつくような冬の寒ささえなければ、駅前でいつまでも待てたが、今の時期ならそうも言っていられない。大人しく言うことを聞くことにして、私は髪と服の支度を済ませ、彼を待った。<br />
　時計が14時を示す少し前。インターホンが鳴る。父はすでに仕事に出かけた後だった。はしゃいでいると思われないよう、努めてゆっくりと玄関に向かう。ドアを押す手は柄にもなく緊張すらしているようだった。</p>
<p>「お待たせしました」<br />
「早かったね。部活お疲れ様」</p>
<p>　品のいい黒のロングコートをサラリと着こなした仙道は、まさにモデルのようだった。その姿にますます緊張が高まるのが分かる。逸る気持ちをそうとは見えないように押し隠しながら、カバンを持ち、ガスと電気を消したことを確認して家を出た。</p>
<p>　歩き慣れた商店街を抜け、電車に乗って、駅隣の街に来た。この辺りでは一番栄えていて、店の数も多い。クリスマスということもあってか、普段よりもさらに人も多いようだった。<br />
　土地勘のない仙道が「デートで行くようなところ」とリクエストして、私が挙げた場所だ。足を伸ばせば鎌倉や横浜もその候補に上がるが、そこまで行くと流石にやりすぎな気がした。その点、ここならアクセスも良く、歩くだけでも楽しいし、それっぽい気分も十分に楽しめる。地元をよく知る友人に言ったら、中学生みたいと言われそうだが、私にはそれで十分だったのだ。</p>
<p>「どこか見たいところある？　あの先にお店がたくさんあるんだけど」<br />
「……寒いけど、<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん外歩いても平気？」<br />
「ん。平気。慣れてるからね」</p>
<p>　じゃあ歩こうか。仙道が言う。彼の長い足に遅れないように気持ち大きめに一歩を踏み出す。並ぶだけで長い足だと分かるし、おまけに顔もいいので、先ほどからすれ違う人の目はみんな仙道に向いている。やっぱり仙道は、どこにいても目立つ男だった。</p>
<p>　店が集中するエリアに足を運び、外から店の中を覗きながら歩いた。気になったお店に入って、何も買わずに「いいね」とだけ言って外へ出る。お金の代わりに時間と好奇心だけは無限に存在する、高校生だからできることだ。<br />
　その中で、入ったお店の一つが雑貨屋だった。数年前に来た時の記憶にはない。外観からして真新しそうな洒落たお店だった。<br />
　入りたがったのは仙道で、私はもちろんいいよと言って後に続く。中には女の子２人組と、カップルが1組。私たち３組目が入ると、店はすぐに窮屈になる。横幅はないが、縦に大きな男が一人いるのでそのせいでもあったかもしれない。</p>
<p>　仙道は見上げるほどの背を丸め、大きな手で小さなそれらを壊さないようにして、そっと置かれたものを手に取る。ピアスだった。ブルーの小さな石があしらわれたシンプルなフック型のピアスだ。<br />
　色とりどりのストーンの中、迷いのない動きで、ブルーを選び取る。仙道の手の中に収まるとそれはますます小さく見えた。仙道はそれを興味深そうに眺めて、石を指で撫でた後、それを掲げて、私の耳元に近づけた。</p>
<p>「似合う」</p>
<p>　甘やかな響きをしていた。少なくとも、私にはそう聞こえてしまった。それなりの慈しみと年相応の下心。そういうものがそこにはあったようだった。人目のあるところで、——否、人目のないところで言われたとしても同じことを思ったとは思うが——露骨に向けられた恋心じみたものが恥ずかしくて照れ臭くて、でも、それを嫌だとは思わない。<br />
　一度、キスをしたのだ。人生で初めてのキスを、仙道とした。<br />
　それから彼や私がそのことについて意味を問うことはなかったが、以前と全く同じにはなれない。私の中の仙道が変わってゆく。ただの後輩ではなくなった。じゃあなんだ、と言われても、その答えを今は持たないけれど。</p>
<p>「買っていいですか。クリスマスだし」<br />
「でも、」<br />
「俺がつけてほしいから。できれば、……今日とか」</p>
<p>　その言葉に流されるようにして頷いた。そういうところにも仙道という男の器用さが表れているようだった。決して押し付けることはせず、確実に願った流れに持ち込むところ。結局、私は仙道の見立てたピアスをもらい、お店を出たところでそれをつけた。一応これも、と渡された空っぽのラッピング小袋に、今日つけてきていた自分のピアスを入れて、カバンにしまう。私に耳についたピアスを見て、仙道はもう一度「似合う」と言った。</p>
<div class="su-spacer" style="height:40px"></div>
　いかにもデートらしいデートだったと思う。他に経験がないので比べようがないが、私が一般常識として知っているデートとそれは一致していた。<br />
　華やいだ冬の街を並んで歩き、私は彼からピアスを贈られた。お返しに、と次に立ち寄ったお店でリアルな魚のキーホルダーを買ってプレゼントしたら、仙道に「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんらしい」と笑われて。嫌なら私がつける、と言えば仙道は「嫌だ」と言いながらそれに自分の家の鍵を二つつけていた。実家の鍵と下宿先の鍵だという。</p>
<p>　冬だから早くに日が沈んで、電車に乗って最寄駅に戻った。夕飯は食べても食べなくてもどちらでもいいと思っていたが、彼に誘われたので行くことにして、連れられた先は仙道の下宿先だった。<br />
　てっきり駅前のファミレスとか、そうでなくとも学生の財布にも優しい飲食店はそれなりにあるので、まさかと少しだけ驚く。嫌だって意味じゃなくて、何故の方で。</p>
<p>「私、手土産とか何も、」<br />
「んー？　いいよ、要らないっす」<br />
「でも、」<br />
「おや。彰くん、おかえりかい」<br />
「はい。ただいま」</p>
<p>　下宿先とはいえ、仮にも誰かの家である。となれば手土産など持って然るべきであって、今日そんなつもりのなかった私に準備はない。それでまごついていると、一階の障子が開いてお婆さんが出てきた。仙道を親しげに彰くんと呼ぶ。二人が家族であると言われても信じられそうだった。<br />
　突然の家主の登場に私は慌てて頭を下げ、「お邪魔しています」と告げた。友人の家にふらりと遊び行くのとは訳が違って緊張してしまう。仙道に向けたのと同じ優しい笑みを浮かべたその女性は、私にも「いらっしゃい」と声をかけてくれる。そこまで来て、やっぱり帰ると言い出すのは難しく、結局私は二人分の微笑に負けて、靴を脱いだ。</p>
<p>　どうして、という思いは確かにある。しかし、仙道彰という男への少くも多くもない情報をかき集めて照らし合わせると、そういう突飛な思考と行動に飛躍するのも十分あり得るような気がして、どうにも指摘する気が失せる。現に、私が「先に教えておいてくれれば」という台詞も、彼の心には何ら引っ掛かっていないようだった。</p>
<p>　どうぞ、と招かれた部屋。<br />
　二階の階段を登って左側にあるドアの先。一応内側から掛けられる鍵もついていて、部屋の広さも十分ある。壁際には布団らしきものが畳まれて追いやれていて、聞けば元々あったベッドは仙道の体のサイズと合わずにクビになったそうだ。納得である。<br />
　窓際に勉強机と棚があって、教科書、本、バスケ関連の雑誌に道具が乱雑に仕舞われている。自分の家とも、友人の家とも違う‘男子高校生’らしい雰囲気があった。</p>
<p>「ここ座って待っててください」</p>
<p>　部屋の真ん中の置かれたローテーブル。床にはクッションが二つあって、その一つを指した長い指は私がその上に腰を下ろすとすぐに離れてゆく。仙道はコートとバッグを床に下ろすと、そのまま部屋を出て行った。<br />
　待ってる、って何を。肝心なところで彼は言葉が足らないのだ。</p>
<p>　部屋の中をぐるぐる見回す時間も終わって、彼が床に置き去りにしたコートもハンガーに掛け終えた頃、ようやく部屋のドアが開いた。入ってくるのは仙道だと思っていたのに、声をかけて入ってきたのはお婆さんで、両手に唐揚げの皿と寿司桶を持っていた。<br />
　玄関先で見たニコニコ顔のまま料理をテーブルに置いたお婆さんは、いっぱい食べてねと言い残してすぐに部屋を去ってしまう。部屋には御馳走のいい匂いが充満し、そのテーブルの上だけを切り取れば、本当にパーティのようだった。</p>
<p>「お待たせしました、あ。美味そ」<br />
「美味そ、ってこれ」<br />
「魚住さんとこの。二人分って言ったのに、こんなに沢山」<br />
「……純ちゃんのとこの？」</p>
<p>　遅れて戻ってきた仙道が、テーブルの上に取り皿と割り箸、飲み物と入れるコップを並べる。これが私たちの夕飯であることは間違いないらしい。寿司は仙道が魚住の店に頼んだもので、唐揚げは下宿先の方のご好意。ここでご飯を食べたいと相談したら快く作ってくれたと言われ、ますます手ぶらで来たことが悔やまれる。</p>
<p>「食べましょ、あったかいうちに」<br />
「こんなに用意してくれてたの、……知らなかった」<br />
「まあ、サプライズなんで」<br />
「でも、せめてお寿司のお金くらいは」</p>
<p>　仙道の大きな手が、私を制する。<br />
　要りませんとはっきり言って、それから彼の目尻が少し下がった。</p>
<p>「魚住さんに<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さんと食べるって言ったら、海老たくさん入れてくました」</p>
<p>　好きなの？　仙道が問う。私は仙道の言葉と、魚住の優しさと、懐かしさを全部一緒くたにして受け取って、うんと頷いた。魚屋の娘なのに魚がまだ食べられなかったうんと小さな頃の話。魚住の父が気を遣って、海老をたくさん握ってくれた。それが大好きだった。<br />
　美味しいだろうと笑ってくれる魚住家の人たちも、良かったなと頭を撫でてくれる父も。全部合わせて、それが大好きだったのだ。</p>
<p>「ありがとう、仙道くん。いただきます」<br />
「ん。俺もいただきます」</p>
<p>　魚住家の寿司と、出来立てで熱々の唐揚げ。寿司をクリスマスに食べるのは、少しだけ変な感じがしたけれど、でも美味しいものはいつどんな時に食べても美味しいのだ。<br />
　綺麗に握って並べられたお寿司の中の、卵焼きだけがいつもとは少し形が違っていた。魚住の父親は型で抜いたみたいに綺麗な真四角の卵を焼く。桶に入っていたそれも十分綺麗だったけれど、比べるとどうしてもまだ僅かな歪さがある。魚住本人が、焼いてくれたのだろう。後輩と幼馴染が一緒にクリスマスに寿司を食べると聞いて、何を思ったかは知らないけれど。でも、きっとたくさん優しさを込めてくれたのだろう。だから、魚住家の寿司はとびきり美味しい。</p>
<p>「……私、小さい時に親が離婚してて、父親は仕事で忙しかったから、クリスマスとかちゃんとお祝いしたことなくて、」<br />
「うん」<br />
「今日、すごい楽しい。嬉しいし。……ありがとう」</p>
<p>　振り返れば寂しかったのだと分かる。<br />
　誰も彼もが浮き足立つこの季節に、一人きりで家にいることが。でも、私のためにと日夜働く父にそんなことはとても言えなかった。言葉にしない感情は、いずれ静かに死んでいって、それから全てに慣れてしまう。慣れない方がいいことにも、慣れる必要がないことにも、繰り返されれば慣れてしまうものなのだ。<br />
　それは覆されて初めて気づく。<br />
　寂しくないクリスマスが来て初めて、ああ、今までは寂しかったのだと分かる。それは少しだけ悲しいことだけれど、でも、今日が美しく暖かなものであるから、もうそれで十分なのだ。</p>
<p>「<var style="font-style:normal" class="myName name1">名前</var>さん」<br />
「ん？」<br />
「寂しいときはちゃんと言って。一人で悲しい顔しないで」<br />
「……そんな顔してた？」<br />
「たまに」</p>
<p>　仙道が微笑う。彼の言っていることはとてもよく分かった。そうだろうな、と思う。自覚もある。改善できるかどうかは別として。気休めのように「気をつけるね」と言った。頷きながら口いっぱい唐揚げを頬張る彼に、その時、咄嗟に「仙道くんもだよ」と言えなかったことを私はいつか後悔するだろうか。</p>
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