あの日の試合について、仙道以外の誰かと初めて話したのは意外にも父だった。
 珍しく二人揃った夕食時、黙々と焼き魚を口に運んでいた父がそれをあらかた食べ終えると箸を置き、私の方を向いて「どうだったんだ」と切り出した。突然のことに何の話かと聞けば、前に見に行っていた試合の話だ、と。見にいくと私が言っていたことを覚えていたことに驚いたが、父はもとよりスポーツというものに関しては私よりずっと興味がある類の人間だ。魚住がバスケットで優れたプレーヤーになったことを魚住の両親よろしく喜んでいて、それこそ私が小さな頃は二人で応援に行ったものである。

「……負けちゃったよ、惜しかったんだけどね」
「そうか。残念だったなあ」

 父が最後に味噌汁に口をつける。父は食事の最後に味噌汁を飲むひとだった。それが冷めてしまおうが関係ない。食事の最後は汁物で終わったほうが口の中がスッキリするだろうと笑いながら言っていた。それならば冷めてしまわないように最後によそおうかと提案しても、そこまでする必要はないと言う。私にはよく分からないことだった。

「前にうちに来ていたあの背の高い子か」
「……よく覚えてたね」
「あれだけ大きかったらそうそう忘れねえさ」
「うん、あの子が出てた」

 そうかそうかと頷きながら、父はすれ違っただけの仙道の姿を思い起こしているようだった。確かに一年前とはいえ、仙道あ忘れ難いタイプであることには同意する。背が大きいだけではない。華やかな顔立ちや人好きのする笑顔、しなやかな手足の動き、何より透き通ったあの瞳を一度覗き込んでしまったら、そう簡単に記憶から消えてくれないのだ。

「……どうした、そんなくらい顔して」
「んー。うまい慰め方が分からないな、って」

 かつて、私が祖母の死に際して落ち込んでいた時、仙道は確かに慰めてくれた。優しく私を抱いて、望むままにキスをしてくれた。大丈夫とでも言うように、彼はそっとそばにいてくれた。でも私が同じことをして、仙道の心が慰められるようにはどうにも思えなくて、それで悩んでいるのだ。私の体は、彼を包み込めるほど大きくはない。

「うまい飯でも食わせてやればいい」
「ご飯?」
「人間、腹いっぱいうまいもの食ったら嫌でも幸せになるもんだ」
「そんな単純かな」
「大丈夫だって。お前の飯は美味いから」

 父の‘大丈夫’を安易に信用して、私は今、仙道の下宿先にいる。
 インターホンを押すのが躊躇われて、かれこれ五分ほど家の前をうろうろしている。側から見れば怪しい人間だ。ここで迷っていても仕方がない。自分じゃ到底食べきれない量のおにぎりをもう握ってきてしまったのだ。意を決して、目の前のボタンを押す。ブーっと低い音が鳴り、少しして中から人が出てくる。前に一度会った、下宿先のお婆さんだった。
 あら、と言った彼女にも私に覚えがあったのか、ペコリと頭を下げながら戸を開けてくれる。こんにちはと言った私の声が、どうか震えていなかったと願いたい。

「仙道くんに会いに来たの?」
「はい。彼、中にいますか」
「いいや。朝から釣り竿持って出かけて行ったよ」
「あ、そうでしたか」
「中で待つかい? いつ帰ってくるか分からないんだけども」
「いえ、大丈夫です。突然すみませんでした」

 下宿先は不発。まあ、気まぐれな彼が休日に家でゴロゴロと寝ているとはあまり思っていなかった。私はお婆さんにもう一度礼を言って別れ、次の目的地へ向かう。思い当たる節はいくつかある。釣り竿を持って、ということは行き先は海であることは確定なのだ。この町には釣りのできる場所も数箇所あるけれど、真っ先に浮かんだのは一つ。
 私が父から教えてもらった場所。仙道に「いい釣り場所がある」と言って教えたのがそこだった。私はあの日から一度も行っていないけれど、仙道はどうだろうか。慣れた道を行く。根拠のない確信が、歩くスピードを僅かに早めていく。

「……ほんとにいた」

 海へまっすぐ伸びるコンクリートの上、体躯に見合わぬ小さな折りたたみ椅子に腰を下ろし、大きな青年が一人釣り糸を海へ垂らしている。時間のせいもあるのか、釣り客は彼一人だった。
 私の呟きに反応して、仙道がこちらへ振り返った。退屈そうに欠伸をしていた顔がパッと華やぎ、見慣れた笑顔へと変わる。手を振る仙道に、同じように手を振り返しながら彼の方へと近づいてゆく。

名前さんも釣り? 珍しいね」
「まさか。仙道くん探して辿り着いただけ」
「俺?」
「そう。お昼もう食べた?」
「まだっすけど」

 肩に下げていたカバンから、大きなおにぎりの入ったタッパーを取り出す。そこまでして恥ずかしくなって、「良かったら」と控えめな振りでそれを仙道へ渡す。私が両手で持っても大きなおにぎりも、仙道が持つと普通サイズに見えるのが、何度見ても妙なのだ。
 釣り竿から離れた仙道の手が、おにぎりで塞がれる。大きな口でそれを食べてくれるのは作った方としては気持ちがいい。どんどん減っていくお米を見ながら、自分のお腹まで満たされていくようだった。

「久々に食べた、うまい」
「良かった」
「これを届けにわざわざ?」
「……そう、食べてほしくて」

 両頬をご飯でいっぱいにしたまま仙道の動きが止まる。
 ああ、今の答えはよくなかったかもしれない。そう思った時にはもう言葉は出てしまった後で、どう頑張っても取り消しにはできないのだ。口の中のものを全部飲み込んだ仙道が、「心配した?」なんて直球に聞いてくるものだから、私は誤魔化すことも曖昧なままにしておくこともできなくて、俯いたままうんと答えた。本音だった。隠しようがなかった。心配なんてお節介な感情は隠しておきたかったけれど、それ以上に彼に嘘を吐くのは嫌だった。

「心配、というか、元気出たらいいなって」
「……元気ですよ、俺」
「もっと」
「もっと?」

 私の言葉に、仙道はうーんと長く悩んで最後に「難しいな」と笑った。難しいだろう。元より彼は元気いっぱいを体で表現するようなタイプの人間ではないのだから。
 だからつまり、私が言いたいのはそういうことではなくて、悔しいことがあったから、少しでも嬉しいことが彼に起きてくれたらそれでよかった。私がそれになれるか否かは置いておくとして。ただ、彼の力になりたかったのだ。微力で、ほとんど無力に近い。分かっている。分かっているけれど、それでも、その人のためになりたいという感情を、私たちはきっと‘好意’と呼ぶ。私が彼へ抱く感情は、まさにそれであった。

「氷魚さん」
「ん?」
「これ、捌ける?」

 彼が私とは反対側に置いていたバケツをヨイショと持ってきて、中を見せた。銀色の鱗が綺麗な魚が一匹、狭いバケツの中に生きていた。今日の釣果は寂しいがそれだけであったらしい。
 捌けるよと返す。こう見えて魚屋の娘である。おまけに今は調理の専門学校へ通う身分だ。学校でも、魚は得意中の得意である。

「じゃあ、名前さんの手でご飯にして。食べたい」

 嫌とは言えなかった。言うつもりもなかったけれど、いつもどうしてか、仙道の目を見るとノーと言えない。私は「いいよ」と言って、二人で立ち上がった。イスと釣り竿を片付ける彼の横で、私も持ってきたタッパーとゴミをまとめる。クーラーボックスも持っていない仙道は、バケツにゴロゴロと氷だけを入れて、それを手に持った。反対の手で釣り竿を担ぐ。私もその横に並んだ。背の高い彼が、釣り竿を持つとますます背が高く感じて、彼のことをますます遠くに思う。小さな自尊心だと思う。いちいち彼との距離を気にしている。一番近いところがどこかも知らないくせに。

 私たちはそれぞれの荷物を持って、並んで歩いた。行きはバスに乗ったけれど、歩いて帰れない距離でもない。海沿いの道をひたすら進む。全てが海と共にあるこの町は、この道さえ進めば大体の場所へ行くことができる。学校も、図書館も、駅も商店街も全部この海の近くにあるのだ。
 いつも波の音があった。それが当たり前だった。
 だから、十九歳になって、この町ではない場所へ電車に乗って行くと、学校には海の音がしないのだ。静かで、誰も喋らない授業中は先生の声が映画館の中みたいに響く。不思議な感覚だった。窓の外を見ても海がない。空は晴れの日も、曇っているように灰色がかって見える。たぶん気のせい。でも、その小さな違和感が私をいつもこの町へ引き戻してくれる。

 仙道が、「学校はどう」と切り出した。「静かだよ」と言った。何それと笑われる。確かによく分からない返事だった。学校が静かであるはずがないのだから。授業をする先生の声、休み時間の生徒の話し声、実習中の油が跳ねる音。いつも音がしている。しかし、それでも、そこは私にとって‘静か’な場所なのだ。

 静かではない海のすぐ近くの道を進むと駅がある。生まれた頃から使っている駅である。駅を抜けるとすぐのところに商店街があり、その入り口近くの魚屋が私の家だ。仙道は久しぶりに来たわけでもないのに、なぜか感慨深そうに建物を見上げ、それから満足そうな顔をして階段に足をかけた。一階がお店、二階が住居、三階が屋上だ。彼と初めて会ったのも、私の家の屋上だった。

「そこで待ってて」

 仙道の手からやっと魚を受け取る。ちゃぶ台の近くの座布団を指差した。仙道は半分腰を落としながら「手伝おうか」と聞いてくれたけれど、ここで彼が手伝えることは何もない。テレビでも見ていればと提案したが、結局仙道はテレビをつけず、座ったまま台所の方に視線をやっていた。
 作業の間、ずっと後ろから視線を感じる。この家にはないことだった。
 私が料理をしている間、父はほとんど不在だし、もしいたとしても、たいていはビールを開けてテレビで野球中継を見ている。仮に父が台所に立っていたとしても、私がそれを観察することはないだろう。

「楽しい?」
「んー珍しい」
「珍しい?」
「ほら、母親、料理とかしないから新鮮なんです」

 それを聞いて「ああ」と言ったけれど、何に納得したかは分からない。仙道の母は家が裕福だと言っていた。だから家事に積極的な人ではなかったのだろう。彼の祖父母については知らないが、この家のように居間のすぐ近くに台所があって、それがよく見える家ではなかったのかもしれない。彼のことは謎ばかりだ。

 仙道の視線を背中で受けながら、手を動かせばご飯は完成する。シンプルに焼き魚を選択したのであっという間に出来上がった。
 おにぎり用に炊いたお米はまだ余っている。それをよそって、味噌汁を温め直す。焼き魚に副菜と、白米、お漬物と味噌汁。家庭科の教科書のような食卓が出来上がって、流石に自分で笑えてしまう。ここまでいくと逆に珍しい。

「できたよ」
「わ、うまそ」
「おばあちゃん家みたいなご飯になっちゃったね」

 シンプルで、こういうのが一番美味しいとは知っているが、如何せん、おにぎり、クレープときて、彼に作る三番目がこれかと思うと少し恥ずかしい。

「美味い」
「よかった」
「料理、本当上手ですね」
「そうでしょう。いいお嫁さんになると思わない?」
「ふは そうかも」

 古い感性のこの町で、いい女の条件は飯が美味いことだった。飯さえ上手に作れれば嫁の貰い手には困らない。それがご近所のおばちゃんたちの口癖みたいなもので、言葉通り、どのおばちゃんもみんな料理がべらぼうに上手かった。
 自分の祖母もそのいい例である。祖父は胃袋で仕留めたと笑っていて、祖父は最後の最後まで、祖母の作った味噌汁を飲みたがっていた。
 小さい頃からの、一つの憧れだった。料理のできる女になることが。いい女ではなく、いい嫁になることが。

名前さんも、お嫁さんになりたいとかあるんですね」
「どういうこと?」
「俺、結婚にあんまりいいイメージなくて。片親ってそういうとこあるでしょ」
「あー……うん」

 仙道の言うことは最もだった。親が離婚しているということは、親が結婚に失敗しているということである。全ての別れがネガティブなものであるとは思わない。思わないけれど、少なくとも私や仙道の親は「結婚っていいな」と思わせるような夫婦像ではなかったことに間違いない。
 何せ『いい女の条件は料理上手』と当然のように言われるこの町で、私の母親であるあの人はただの一度も台所に立つことはなかったのだから。何もしない人だった。何もできない人だったかは知らないまま消えてしまった。あの人はいい母親でもなければ、いい女でもなかった。でもなぜか、父が心の底から愛した人だった。

「気持ち分かる。でも、誰かと家族になるってすごいことだと思わない?」
「まあ」
「いいなって思うよ」

 一生一緒にいられる恋は、どんな恋なのだろう。
 その答えを得るのに、私たちはあまりに幼い。でもきっとそれはとても稀有なもので、自分の持てる最大の慈しみを持って為されるものなのだろうと思う。簡単ではない。でも、私もやってみたいのだ。一生一緒にいたいと願った人と、生まれも育ちも違くても、一つの家族になってみたい。

「……名前さんは、つよいな」
「そうかな」

 すっかり食事を終えた、午後六時二十分。開けてもいない窓の向こうから、波の音が絶えず部屋の中に響いていた。この先、思い描く未来図の中に彼を置いてしまう勇気がなくて、彼の言葉に素直に「うん」と言うことはできなかった。