唐突だった。
 あまりに突然で、あまりに衝撃的だった。

 それは現代の悲劇だったのだ。バスケットコートで汗を流し、仙道が帰路に着いた時。二月の十七時はもう真っ暗である。公園の周りは住宅街で、街灯も少ない。交通量も少ないので普段は事故など早々に起きないはずなのに、その日、たまたまその道を通った仙道と、狭い道でスピードを出していた車がぶつかった。相手も、人通りの少ない道なので油断していたと言う。

 幸いにも命に別状はなかったが、無傷というわけにもいかない。全治三ヶ月、万全の状態でスポーツができるようになるまで半年以上は要する。

 病院に駆けつけた誰もが、その話を聞いて頭を抱え、顔を覆った。仙道だけが、一人、真っ白のベッドに寝転んだまま窓の外の海を見ていた。そこだけを切り取ると、高校の屋上でかつて微睡んでいた時と全く変わらなく見えた。ぼんやりとして覇気がなかったが、特段悲しそうにも見えない。見舞いに来た彼の友人たちの方がずっと悲しくて辛そうだった。

「りんご、食べる? 甘いよ」

 ベッドサイドで、果物カゴからりんごを一つとった。誰かの見舞いの品だった。真っ赤なりんごはよく熟れていて、今の時期がちょうど食べ頃である。三月の、冬から春へ移り変わる季節。本来なら春の匂いでも探しに散歩するか、波の強い海へ呼ばれるままに赴くか。いずれかで時間を潰すのに相応しい季節である。
 しかし、私は病院にいた。海の見える病院の最上階の、突き当たりから三番目の部屋。そこが仙道の病室だった。

「病人じゃないからこういうの要らないって言ってんだけどなあ」
「心配なんでしょう、怪我人のことが」
「そういうもの?」
「どうだろう、私は手ぶらだし」

 事故からひと月が経ち、面会が全面的に許されるようになり、タイミング良く春休みに入った私も時間を見つけてはここへ来るようになった。病室へ通うのは祖母の時以来で、薬品の漂う‘病院’という空間は今でも緊張する。しかし、ドアを開けた時、向こう側にいるのは今にも死にそうな青白い顔の老婆ではなく、健康的なやや色白の青年だった。
 彼の顔色が悪くないのを見ては、毎回安堵している。病院にいる誰もがそうでないことは知っているはずなのに、何故かここの空気は私の中で死に直結しているのだ。
 そして包帯の巻かれた動かない彼の脚を見ては、依然変わることのない状況に胸がちぎれそうなほど痛んだ。

名前さん」
「なに?」
「それ剥いたら、窓開けて」
「ん」

 不慮の事故だった。偶然が重なって、たまたま、あの時間にあの場所にいたのが彼だっただけ。
 でも、どうして彼が、と思わずにはいられない。

 バスケットができなくなった。たった一つの事実を、いまだに誰もうまく消化できていないままだった。勿論、それは永遠ではない。怪我が完治すれば、またプレーすることができる。その未来をひたすら信じて、今は回復に専念するのみなのだ。
 幸いにも、彼の進学先は状況を考慮して、回復までサポートに当たってくれるという。連携している大学近くのリハビリ施設も紹介されて、怪我の状況が良くなればいずれそこに通うことになると、仙道は言った。

 仙道の話を、仙道は他人事のように私に言った。何かを報告するような口調で、あれやこれやと教えてくれる。怪我の状況や治療の様子、これからのことや、見舞いに来てくれた友人・先生たちのこと。
 彼は滔々と話した。すべてが仙道の話ではないように聞こえた。それが、私の感じ取り方なのか、仙道の話し方なのか。確かめる術はないけれど、でも、彼の言葉に‘実感’というものが伴わなくなっていたことは違いなかった。

 窓を開ける。風が入ってくる。その冷たさを感じ取るということが、すなわち生きているということである。
 でも、仙道の場合はどうだろう。魚が水から上がったら死んでしまうように、仙道もバスケットボールを取り上げられたら、やっぱり死んでしまうのだろうか。

「……もうすぐ、冬が終わるね」
「分かるの?」
「春の海は独特なんだよ、だから分かる」
「へえ」

 仙道の目が窓の外の海へ向く。少し見て「わかんない」と彼が言った。そうだろうなと思う。春の海は独特の様相をもって、季節の移り変わりというものを示してくれるけれど、それを感じ取るには、彼と海とは共にした時間が短い。
 その独特さを、言葉で説明するのは難しかった。ただ感じ取るものだったから。父に言っても、肉屋のおばちゃんに言っても伝わる。魚住だってきっと渋い顔で同意してくれる。でも誰も、それを言葉で表すことはできないはずだ。

「甘いね、このりんご」
「美味しそうだったもんね」
名前さんも食べなよ、剥いてくれたし」
「じゃあ、ひとつ」

 この赤い果実の甘酸っぱさを、恋に喩えた人間がいる。言葉に表すのが難しいものを、どうにかして言語化したがるのは人間古来の性質である。
 恋の味が、りんごに近いか、檸檬に近いかなど至極どうでもいい問題だった。
 私の恋はそのどちらでもない。甘酸っぱくはなかった。味といより温度があって、色というより匂いがした。自分が剥いたりんごを齧りながら、不幸の中で黄昏れるこの青年こそが、私の他ならぬ恋であった。

「ここ、窓開けると海の匂いしかしねぇの」
「だろうね」
「薬の匂いとか、消してくれるから助かってる」
「苦手なの?」
「俺は別に。名前さんが苦手でしょ」

 この恋を、何かに喩えることなどできなかった。喜びと悲しみが半々にあった。幸福と不安の狭間で、蝋燭の火が揺れていた。強い風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎が、私の心の中で揺らめていて、それは徐々に大きくなった。仙道彰という男そのものが、私の恋である。

「……そんなこと言ったっけ」
「んーなんとなく。表情とか。病院嫌いそうだなって」
「分かったの?」
「そう思っただけですよ」

 思っただけと言いながら、その言葉に仙道は確信を持っていた。そしてそれは正解だった。
 彼はなんでも知っていた。私が悟らせないようにしていることも、隠したかったことも、仙道の前では意味をなさない。彼にはなんでもお見通しだった。私は仙道のこと何も分からないのに、フェアじゃない。

「当たり?」
「……まあ。でも、もう慣れたよ」
「そっか」

 泣いてくれたら悲しいのだと分かる。笑ってくれたら楽しいのだと分かる。辛いと言ってくれたら辛いと分かる。でも、仙道は悲しそうにも辛そうにも見える顔で笑うから、だから分からないのだ。

「俺は慣れませんよ」

 喉まで出かかった言葉は、皆消えていく。無力を嘆くだけの人間にかけられる言葉などなかった。
 今日に限ってやけに静かな海は、波音も立てずに引いて返すを繰り返す。病室には、しゃくりとりんごを食べる音だけが響いていた。

 土曜日。
 珍しく手土産を持ってきた。と言っても、商店街のケーキ屋で買った焼き菓子の詰め合わせだった。私が食べたいというのが一番で、前にりんごを剥いた時、仙道が「果物は食べるのがちょっと手間」と呟いていたのをなんとなく思い出したのが二番目の理由だった。
 マドレーヌとフィナンシェとクッキー。見た目はシンプルだけれど、味は町一番と店主自ら公言する、昔ながらのケーキ屋の菓子である。

「珍しいね」

 私が珍しいと思うのと同じように、病室の仙道も私に手にぶら下がった小花柄の紙袋を見てそう言った。中身を見せると、「美味そ」と言う。彼はいつも通りだった。

「たまにはね。私も食べたくて」
「ありがとう。名前さんどれ食べたいの?」
「仙道くんから選びな」
「いいよ、どれも二個以上あるし」
「……じゃあ、フィナンシェ」

 私が先にフィナンシェを取って、それから仙道がクッキーを取った。残りは仕舞って、近くのテーブルに置いた。
 ベッドサイドの棚には紙コップと電気ポットと紅茶のティーバッグが入っていて、全部彼の母親が持ってきたものらしかった。そういうところに家柄の良さというのが見え隠れしている。私も、ここへ来る時には使わせてもらうことが多かった。

 フィナンシェの程よい甘さにバターの香り。確かに、ここの焼き菓子は美味しい。ケーキよりも焼き菓子の方が美味しい稀有な店だった。店主が拗ねるのでそんなことは言わないが。あそこのケーキは、私の舌にはやや甘すぎるのだ。

「どう、調子は」
「まあ、変わんないね」
「そっか」
名前さんは?」
「私も大して変わんないよ」
「そうなんだ」

 仙道の足は依然として包帯が巻かれ、一ミリだって動かない。動かせることはできるというが、絶対安静ということもあって、仙道がそれを動かす素振りを見せることはなかった。
 時々無性に怖くなる。
 彼の足は、本当にもう一度、軽やかに動くのだろうか、と。もう一度バスケットコートを駆け回って、誰よりも高く跳ぶことができるのだろうか、と。
 不安になっても仕方ない。誰よりそれを恐れているのは本人なのだ。周囲がその不安を煽るような真似をすべきではないと重々承知している。
 でも、一ミリも動かない彼の足を見ていると頭の中に不安が浮かんで、それがぐるぐる回って、大抵夜まで消えることはない。吐露できないからこそ、その恐れに縛られてしまうのだ。

名前さん前に、海に呼ばれるって話してたよね」
「そうだね」
「ちょっとだけ分かった気がする」

 この病室にいるとき、彼の視線は往々にして私か、あるいは海へ向けられていた。窓の外に広がるその雄大な景色はまさしく私の町そのものを象徴する海であった。
 仙道の目が海に留まる。水面にポツリポツリと船が浮いている。
 今日は天気があまり良くない。春の曇天は、いつにも増して憂鬱だ。こういう日、海は荒れやすい。実際、今日も返す波の勢いはいつもよりも強かった。灰色の海は、人を呼びやすい。波音に耳を澄ませて目を閉じると、今すぐそこへ行かなくてはならないような、そういう根拠のない焦りに体を突き動かされるのだ。

「呼ばれたの?」
「んー、行かなきゃって思う」
「海に?」
「そう。行けないから尚更」
「分かるよ」

 行ってはいけない。荒れる前、もしくは荒れた海は危険だ。容易に人を飲み込んで帰さない。自然の圧倒的な力の前で、人は皆無力である。だから近づいてはいけない。小さい頃からそう言い聞かされ、何度もその言いつけを破ってきた。滅多に怒らない温和な父が、唯一私に説教するとすればそれだった。
 『海に行くなと言っただろう』
 何度もごめんなさいと言った。でも、何度も私は海に呼ばれて、そこへ行った。

「……でも、危ないからやめてね」
「心配しなくても行けないよ」
「そうだけど」
「まだ出れない」

 仙道はひどく退屈で、ひどく窮屈そうだった。今にも息が詰まりそうな顔で、シュンと眉が下がっている。
 バスケットコートという海で生きる彼にとって、ここはなんと狭いところだろう。釣り上げられた魚が、バケツの中でぐるぐる同じところを泳ぐ。彼らは徐々に弱っていって、最終的には食べられてしまう運命にあるけれど。例えるなら、今の彼がまさにそれである。ベッドサイドのバスケットボールが、虚しくも鮮やかだった。

 安易なことは何も言えなかった。
 大丈夫とも、きっと治るとも。
 無力にも手を握ることしかできない。それも、彼の手は私の手よりずっと大きくて、握ろうにもただ重ねるだけみたいになってしまう。情けなかった。悲しかった。虚しかった。でも、誰より辛いだろう彼の前ではその気持ちすらも吐き出せなくて、やっぱり黙って手を握った。
 その手が握り返される。私の方が「大丈夫」と言われているようだった。

名前さん」
「……ん?」
「また、おにぎり食いたい」
「おにぎり? そんなのでいいの」
「あれ美味いじゃん」

 私が「いいよ」と言うと、仙道は嬉しそうだった。笑って「ありがと」と言う。彼の心を軽くしてあげたいと日々願うのに、なぜか救われるのはいつも私だった。

「でもなんで急におにぎり?」
「手触ってたら、思い出した」
「ああ」
名前さん、手は別に大きくないのに、おにぎりでっけえから」
「仙道くん用に大きく握ってるんだよ」
「知ってる、ありがとう」

——今度来るときに。
 約束をした。仙道は笑ったまま頷いていた。今までで一番大きなおにぎりを握ろうと思っていた。彼がそれを見てどんな顔をするか、想像するだけで楽しみだった。

 それが、仙道と会った、十九歳、最後の日だった。