何が、誰が、どんな言葉と、どんな態度が——。
 明確な理由があったのではないのだと思う。今となっては全てが憶測になってしまうけれど、でもきっと、もっと漠然としたものが原因だった。
 未来に期待と夢を膨らませ、周囲の大きな期待を背負った十八歳の青年にとって、事故とそれによる怪我はあまりに大きかった。私は当事者ではないけれど、そのことを少しは分かっているつもりだったのだ。しかし、それはあくまでも‘つもり’でしかなく、結局のところ、彼に取っては何の支えにもなれていなかったのだろう。

 約束した大きなおにぎりを携えて、病院へ行くと、病室はもぬけの殻だった。何度も通って、もう見慣れてしまったベッドの上には折り畳まれたシーツがあって、いつも窓の向こうの海を見ていたツンツン頭の姿はない。
 「仙道くん」と私が呼ぶと、ゆっくり振り返って、それからにこりと笑う仙道の姿はそこになかった。
『仙道さんなら先日転院されましたけど』
 よく来ていた私のことを覚えていたのだろう看護師が、通りがかりに私に言った。耳を疑った。だが、目の前の病室の有様がそれが事実だと突きつけてくる。
 どこへと聞いて、教えてくれるはずはない。患者の個人情報である。あれだけ親しげにしておいて、まさか教えてもらっていなかったのかと、驚いているのは看護師も同じだった。

 仙道が消えた。私の知らない場所へ、何も告げずに行ってしまった。
 もしかしたら、彼と親しかった友人たちには教えたのかもしれない。でも、私はその友人たちを知らないし、少なくとも、私に教えずに行ってしまったことに何か意味があるのだと思う。彼が私に知って欲しかったら教えてくれたはずだ。言わずに行ったということは、知ってほしくないという意味で、すなわち私の方から転院先へ会いにきて欲しくはないということである。

 逃げるようにして病院を去った。何も悪くないことはしていなかったのに、その場にいたくなかった。病院は嫌いだ。そこには死の匂いがしている。そこにいる誰もが、永遠に届かない場所へ行ってしまうような気がしていて、実際そうなった。
 病院前の大通り。ここへ来るために何度も通った道だった。仙道と会うことを思えば苦手な病院へ行くのだって苦じゃなかった。彼のためになりたかった。それが独りよがりな自己満足に近いものだと知っていながら、それでも彼の近くで、彼の悲しみをと痛みを少しでも減らしてあげたかった。
 もう、ここへ来ることもない。
 肩に下げたバッグがずっしりと重たい。握った大きなおにぎりは、そのまま彼への思いに成り代わってしまったようだった。

 病院を出て、そのまま足は一つの場所を目指して歩いていた。そこまでしてしまうことが正しいことなのか、分からない。でも、どうしてもそうしたかった。
 一度だけ行ったことのある場所。目の前に来たことなら何度かあった。それでも、片手に収まるくらいの数だったけれど。
 川の近くの古い一軒家。自分にどんな権利があって、どんな立場で、そうしているのか、尋ねられたら答えられない。それでも、呼び鈴に伸ばす手を止められなかった。
 呼び鈴が鳴り、扉一枚を隔てた向こう側から、足音が聞こえてくる。扉が開かれるのを待つ少しの間、今更になって緊張が高まり、口から心臓が飛び出てしまいそうだった。

「あら」

 扉を開けて、そこに立つ私の姿を認め、仙道の下宿先の主はそう溢した。
 一度だけ、ここにきた私のことをしっかりと覚えてくれているようだ。

「いきなり押しかけて申し訳ありません。……あの、仙道くんが転院されたと聞いて、それで、」

 言葉が詰まる。先に続けるべき言葉が思いつかなかった。
 それで、一体なんだというのか。
 転院したことを知らされていなかった。何か知っているか。どこにいるか。そこにはいないか。何か話を聞いていないか。
 そんなことを訊いてどうする。知らされなかった、それが全てなのに。

「彰くんなら、東京行きが前倒しになったって聞いたよ」

 優しく、おばあさんはそう言った。ここに来るまでの間、そうなんだろうと思っていた答えだった。
 そうですか、と頷いて俯いた私を案ずるように、おばあさんが扉から私の方へ近寄ってくる。関係のない人に、心配を、──いや、迷惑をかけている。分かっているのに、すぐに立ち去る力が湧いてこなくて、足が動かない。
 おばあさんの手が、私の肩に触れた。
 小さくて、けれど布ごしでも優しさを感じる手つきで、私の肩を撫でた。

「聞いていなかったのかい」
「……はい」
「そうかい、心配かけたくなかったのかねぇ」

 あんまりにも優しすぎて、じわっと涙が浮かんでくる。俯いたまま、必死に目元に力を込めて、表面で震えるその滴が、こぼれ落ちないようにした。押しかけてきて、勝手に落ち込んで、あまつさえ軒先で泣くなんて、これ以上の迷惑はかけられない。

「すいません」
「いいのよぉ、彰くんもいなくなってしまって寂しかったからね」

「私、もう行きます。急に来て、本当にすみませんでした」
「謝ることないさ」

 おばあさんは最後に、私の肩をもう一度撫でて、背中をポンとしてくれた。落ち込まずに歩けと私を励ますように。

「大丈夫、すぐに連絡が来るよ」

 深々と頭を下げて、家路へ着く。
 足はひどく重かった。
 仙道彰が、消えてしまった。その現実が私の肩に重くのしかかってくる。

 空に輝く星のように、宙を引き裂く彗星のように、仙道がいずれ手の届かない遠い場所へ行ってしまう存在になるとして、それはこんな近い未来ではないと思っていた。まだ、もう少し、私には時間があって、彼と一緒に笑っていられると思っていたし、それを許されているような気がしていた。何もかも、思い違いも甚だしいとも知らず。

 なんで、どうしてと騒ぐのは簡単だ。
 でも、意味がない。仙道がいないのに、もう会えないかもしれないのに、一人で騒いで何の意味があるというのか。

 どれだけ何も考えずに歩いても、迷わず家に帰ることができた。慣れた道と、よく知った町だから。ここが、私の町だから。
 行きと同じ重さのバッグを抱えて、家の階段を上がる。お店はもう閉まっていて片付けまで済んでいた。家のドアを開けると、珍しく父がいた。この時間に家にいるのは、一年でも数回。本当に稀だった。

「おかえり、早かったじゃないか」
「……お父さんも、珍しいね」
「たまにはね。晩御飯はどうする? 久々に寿司でも食いに行くか?」

 無邪気な顔で父が言う。
 父の言う‘寿司屋’は魚住の実家のことである。
 いつもなら二つ返事で「いいね」と言うところだが、今日ばっかりはどうにもそんな気にはなれなかった。そこに行けば魚住がいて、いやでも仙道の話をされるだろう。魚住は、仙道が転院して行ったことを知っているのだろうか。知っていたとしても、知らないとしても、いずれにせよ、何かを聞くのは怖い。愛想笑いをする余裕が今はまだない。

 ふるふると首を横に振った私に、父が少しだけ驚く。寿司が好物の娘が、まさか断るとは思わなかったのだろう。事実、「寿司屋に行くか」と父に言われて「嫌だ」と言ったことは私の記憶の中では一度もない。

「どうした? なにかあったのか」

 玄関に立ったまま、言葉の一つも発せない娘の違和感に父が感づく。
 ゆっくりと首をまた横に振ったけれど、どうしてもうまく誤魔化すことができない。嘘をつくのも、平気なふりをするのも得意なはずだったのに、どうしても今はそれができない。
 ゆっくりと父が私の方へ近づいてきて、目の前まで来た。私の肩からさがったバッグに目をやる。その中が減っていないのは、膨らみを見れば外からでも明らかだ。父の手がゆっくりと肩に触れた。

「これ、持って行ってあげたんだろう? 前、うちに来ていた子に」
「……なんで、それ」
「いやこの前、純に会ってね。その時、その子が最近事故に遭ったと話していたから、病院へ行くってことはその子に会いに行ってるのかと思ってな」

 何もかも、父にはお見通しであったのだ。気恥ずかしさもあったけれど、今はそれより虚しさがあった。小さな声で「そうだよ」と言う。父は優しい声で「そうか」と言った。その声のトーンだけで、今日よくないことがあったと察しているのだと分かる。

「これ、ポストに届いていたよ」

 父が、封筒を差し出した。
 真っ白の封筒の真ん中に、少し右上がり気味の字でここの住所と、私の名前が書いてある。ひっくり返すと、右下には「仙道彰」の文字。は、と声が漏れなかったのは奇跡だ。
 ドクン、と心臓が大きな音を立てる。もう、それ以外には何も聞こえない。
 ゆっくりと封を切ると、便箋が一枚入っている。

名前さん、急にごめん。
東京の病院に行くことになりました。別れの挨拶も間に合わなそうだから、手紙に。
リハビリにへばっているところを見られるのは恥ずかしいので、どこへ行くかは言わずに行きます。
直して、また、バスケットができるようになったら戻ってくる。
必ず、会いに来るから。”

 私の頭に父の手が伸びて、優しく髪を撫でた。父に頭を撫でられることなんて子供の頃以来だ。厳しい人ではなかったけれど、私を甘やかすような人ではなかった。何より父は忙しくて、私たち親子のコミュニケーションはどちらかといえば希薄な方だ。
 だから、その時になって初めて、自分が泣いていることに気がついた。
 さっきはちゃんと我慢できたのに、ここに来て、もう限界だ。
 右目から、左目から、迫り上がってくる涙を止めるすべが今はない。

「前に、名前がクレープを家で焼いてくれたことがあっただろう」
「……は、」
「お父さんにもくれたね。でも、一番綺麗に焼けたのは違う人のところへ持って行った。それがあの子だったんじゃないかって」
「……そんなことまで気づいていたの」
「一番美味しいのを食べてもらいたい人っていうのは、きっと、とても好きな人だろう」

 全てを知っているわけでもないだろうに、まるで全て知っているかのような口調だった。父はわんわんと泣く私を見ても驚く顔一つ見せなかった。頭を撫でて、時折涙を拭ってくれた。父の手は優しい。それが今は、余計に悲しくさせた。

「好きな人がいなくなったら、悲しくて当たり前だよ」

 それでいいんだ、と今の私を肯定するように父が言う。
 自分の記憶の中のどんな場面よりもたくさん泣いた。祖母が亡くなった時も泣いたけれど、あの時は仙道が涙を止めてくれた。そんなことまで思い出すと、ますます泣けた。涙の止め方なんて忘れてしまった。どうせいつか止まる。止まらなくて枯れてしまうなら、もうそれでいいとすら思った。

「泣くほど好きな人なんてそうそう出会えるものじゃない。立派なことだ」

 父が何かを言えば言うほど、私の恋が終わっていく。あの背の高い後ろ姿が、どんどん遠ざかって見えなくなってゆく。私の恋の終わりを、父の言葉が飾っていく。そうすると私はそれを受け入れざるを得ない。恋の炎は揺らめいて、今まさに消えようとしている。それを防ぐ術を私は持たない。ただ、受け入れるしかない。

「……お父さんも泣いたことあるの」
「ああ、もちろん。母さんと別れてからずっと泣いてるよ。……だから名前。ごめんな」
「謝んなくていいよ、それは、立派なことなんでしょう」
「そうだ。でも、お前に悲しい思いをさせたことは謝らなくちゃいかん」
「……悲しくなんてなかったよ」

 母というものがいない人生だった。でも、それは悲しいことではなかった。いろんな人から愛をもらった。大切にしてもらった。誰よりも父が、私を大事に育ててくれた。
 だから今までの人生は平気だったのだ。少しくらい寂しくても平気だった。
 ただ、今はだめだった。泣き止み方も忘れるくらい悲しくて、悲しくてどうにもならない。

「でも、今日は悲しいの」

 私の涙が枯れてしまうまで、父は黙ってそばにいてくれた。たくさん泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れても、それでも仙道のことを考えると悲しくなった。