お酒を飲むと時間をワープすることができると、高校時代からの親友が言っていた。お酒を飲まないと心底笑うことのできない人間の台詞だと憐れんでいたのは、昨日までの私である。今、私はまさにその“ワープ”を経験した。時間にしておよそ4時間程度。スマートフォンの画面の数字が“0”に変わったのを確かに見たはずだが、今、同じ画面に浮かぶ数字は“4”である。絶対に、絶対におかしい。
 
 「4:19」と表示されたロック画面には、数時間前まで一緒にお酒を飲んでいた友人たちから私の安否を心配するメッセージが届いていた。「大丈夫?」だの「帰れた?」だの。そう思うなら帰るとこまで見届けてくれよとも思ったが、こればっかりは自己責任なので仕方がない。残念なことに私もいい大人なのだ。
 
「大丈夫かピョン」
「ヒッ」
「なに驚いてるピョン。幽霊でも見たピョン?」
「え、深津? え、なんで……」
 
 私を見据える双眸の奥に、呆れと失望が映る。
 ジト目で私を睨む身長一八〇センチの大男は、大学時代の友人である深津一成である。鍛えられた筋肉は細身の黒スーツの下に隠されていて、その格好を見て、ああそう言えば深津も昨日の式に出ていたっけと思い出す。本当に、申し訳ないがその程度の薄い記憶しかない。
 今、酔って潰れた私の隣に、なぜこの男がいるのか。何かしらやりとりは交わしたのだろうが、そこはワープして今に至るので知らない話だ。
 
「やっぱり覚えてないピョン」
「ぐ」
「酔うと記憶なくすタイプって大声で言ってたのは本当だったピョン」
「待ってそんな恥じらいのないこと言ってた?」
「……恥じらい?」
「すみません」
 
 出来ることなら、深津にも4、5時間ほどワープしてほしかったが、この男がそんなガードの甘い失敗を演じるはずもなく。卒業以来、久しぶりの再会だというのにとんでもない女になってしまっている。恥ずかしい。普段はこんなんじゃないよ、なんて陳腐な言い訳も今となっては何の意味も成さない。深津にとっての私は『酔うと記憶なくすタイプ』の女である。控えめに言っても最悪。
 
「とりあえず水でも飲むピョン」
「あ、ありがとう」
「始発まであと1時間ピョン」
「うん」
「辛いならタクシー呼ぶピョン」
「大丈夫です、電車で。もう元気」
「じゃあ家まで送るピョン」
「え」
 
 驚いて漏れた声に、『なんか文句あるのか』と深津の表情が語っている。文句はない。ないけど、単純に驚いている。だって、一つ勘違いしないでほしいのは、私と深津は数年振りの再会であったことに加えて、在学中も大して仲の良い友人ではなかったということである。もちろん『友人』ではあった。それは否定しない。でも、それはよく飲んだり遊んだりするグループの一員という程度で、二人きりで出かけることおろか、話すことすら両手に収まる回数しかなかった。
 にも関わらず。今、私たちは二人きりで朝を迎えている。初めて来たよく知りもしない町の駅で。
 
 昨日はその大学時代よく遊んでいたグループの一人の結婚式で、卒業以来、初めてグループのメンバーがほぼ全員集まった。久しぶり、元気だった?とお決まりの会話をして。仕事は順調かなんて尋ねたりもして。そうして楽しい食事は、式の後も二次会、三次会と続いていき、気が付いたらワープしていたという訳だ。情けない。
 お酒をたくさん飲んだ。だから潰れた。それは分かる。駄目だが初めてのことじゃない。でも、酔いが覚めた時に理解できない状況に陥っているのは初めてなのだ。端的に言うとパニックで、これからどうすべきか皆目見当もつかない。
 
「私、昨日なんか言った?」
「なんかって何ピョン」
「えっと、それを聞いてるんだけど」
「例えば?」
「家まで送れとか、死ぬまで酒付き合えとか」
「飲み会で毎回そんなこと言ってるピョン?」
「神に誓って言ってませんね」
「じゃあ言ってないピョン」
「じゃあって何。じゃあって……」
 
 喋りながら、少しずつ思い出していく。ああ、深津ってこんな感じだったなって。見るからに真面目そうな青年なのに、口を開くと違和感があり、会話をするとそれが確信に変わるタイプ。変人という枠に、人生で出会った人間の中から一人当てはめるとしたら、ちょっと迷って深津を選ぶ。そのレベル。
 しかも弩級の変人のくせにバスケットボールは全国クラスで、大学卒業後も実業団で競技を続けていると聞いた。もう全くもって意味の分からない男なのだ、深津という人間は。だから酔いが覚めたばかりの頭で会話をしても、成立してるんだかしてないんだか分からない状態になっていても無理はない。だって、素面でも会話上手くいかないし。
 
「飲み過ぎは控えたほうがいいピョン」
「はい、反省します」
「女性が男と飲んで酔うなんて無防備だピョン」
「うん」
「本当に分かってるピョン?」
「分かってるよ。でも深津にそんなこと言われると思わなくて」
「俺のことなんだと思ってるピョン」
 
 水を飲みながら深津の顔を見る。
 あ。髪、伸びたな。高校時代からこれで楽だからとか言って、大学時代は四年間坊主だったのに。
 
「深津は、深津でしょ?」
 
 背ももしかしたら伸びたかも。久しぶりに会ってことさら大きく感じているだけの可能性は否めないけど。流石バスケット続けているだけあって、体は大きくなった気がする。顔の割に体ががっちりしていて素敵だって、一部の女子から人気があったな。懐かしい。
 
「大学時代から片想いしてる男にそんなこと言うのは酷だピョン」
「は」
「しかもその話したことも忘れてるなんてあんまりだピョン」
「え、ちょ」
「何もなく四時まで付き添う訳ないピョン。下心ピョン」
「ストップ」
 
 慌てて深津の口を塞ぐ。伸ばした手のひらに、深津の唇がぶつかった。勢いで深津に触れてしまったことへの羞恥心とか、現在進行形で言われたことでもう脳内はカオスになっているとか、焦っているのは私だけ。対する深津は変わらぬジト目を、私から逸らさなかった。流石に日本一のガードとか言われていただけはある。
 
「――本当に?」
 
 心臓が壊れそうなくらい鳴っていて、後ろから背中を叩かれたら口からこぼれ出しそうなほどだった。
 ゆっくりと持ち上がった手が、私の手をそっとどかす。
 
「嘘ピョン」
 
 解放された唇から発せられる言葉に、壊れそうに高鳴っていた私の心臓は萎んでいく。
 嘘ピョン? 嘘? 言ったこと全部嘘?
 
「でも全部は嘘じゃないピョン」
「は。どういうこと?」
「ちょっとは自分で考えるピョン」
 
 私たちだけが待つホームに、電車が滑り込んでくる。始発列車だ。いつの間にか、世界は朝を迎えている。私が混乱に陥り、深津一成の掌の上でリンボーダンスを踊り狂っている間にも、無情に時は流れたらしい。
 
「ほらさっさと帰るピョン」

 電車には誰も彼もが俯いて、今にも眠りに落ちてしまいそうな顔で座っている。先に乗り込んだ彼を追いかけるようにして私も始発列車に乗った。ようやく、この知らない町から抜け出せる。静かに走り出した列車の窓の外には、知らない海が見える。私も、……きっと隣に座るこの男も知らない町の海だった。

あなた以外が愚かですとも

title by 草臥れた愛で良ければ