映画を見た。上映時間126分。出会いから別れて、もう一度出会って結婚まで。こうなるだろうなという展開そのまんま。何の捻りもない——いや、恐らくはそれが素直な若い女の子たちにはウケているのだろうと思うけど——単調で、味気のない、端的に言ってつまらない映画だった。
映画を見ませんかと誘われて家に行った。見せられたのがこれだった。
つまらない映画が悪いんじゃない。それは、私の好みの問題で、これを面白いと思う人もいるのだからそれはいい。事実、この映画は公開された当初から人気を博し、今でも時々テレビで放送されている人気作ではあるのだ。
こういう映画を好きだと思われている。
ただそのことが腹立たしかった。
この人は、私と一緒に映画を楽しみたいのではなく、映画という名目で若くてそれなりに好みの女を家に招き入れたいだけなのだ。私が普段どういう映画を見るか。そんな話をした過去のことも忘れて、『女性に人気』というだけでこのDVDを選んだ。
そのことがあまりに明け透けに伝わってきてしまって、途中から捻りのない脚本よりも腹が立って仕方なかった。
なんなんだ。馬鹿にして。ふざけんな。
そこまで考えて、虚しくなって、柄にもなく泣きたくなる。泣きたくなると決まって思い出す男の顔が、今はひたすらに憎いのに。
映画が終わる。上映時間126分。苦痛にも近い2時間が終わり、真っ黒のエンドロールにキャストの名前が流れ出す。“それっぽい”主題歌が流れ始めると、いかにも映画が“それっぽく”いい映画であったような気がするが、それはただの演出である。
隣に座っていた男が、ふたりの間に置いていた私の手に自分のそれを重ねた。私の手をすっぽりと包んだのが見えたのに、小さい手だなと思った。小さくはない。私が、一番よく知っている手よりも小さいというだけで。
触れられた瞬間に払い除けそうになるのをグッと堪えて、その続きを伺ってみる。試すような真似をした。性格は年々悪くなる。わかっていても直せない。
男の慣れた手の取り方に鳥肌が立って、ああ、やっぱり駄目だと思う。それは比べたのではなく、単純に、私の嫌悪感が優ってしまうから。大袈裟に払うのは失礼な気がして、そっと男の手の下から自分の手を引き抜いた。それをどう解釈したのか、クスリと笑った男は、空っぽになった手を、私の髪だとか首元だとか耳の辺りに寄せてきて、それからゆっくり瞼を伏せる。
何がどうしてそうなるの。
分からない。この世の男女のことなど何一つ分からない。
「……すいません」
男の肩を押して、距離を取った。今度は曖昧な、試すようなやり方ではなく、明確な意志を持って拒絶する。まさかそうなるとは夢にも思わなかったのか、男は「え」と小さく間抜けな声を零して目を丸くしている。
悪いなとは思った。心の底から本心で。
そういう雰囲気を隠しもせずに誘ってきた彼の言葉に、迷いつつも頷きここまで来たのは私の方だ。十八歳の右も左も分からないような子供じゃあるまい。家に来て、映画を見て、多少のアルコールの入った男女がどうなるかくらいは、いくら私といえど想像できる。想像しておきながら、今、それを拒絶しているのだ。
「そういうつもりじゃなかったんです」
犯罪者みたいで滑稽だ。馬鹿だ。本当、どうしようもない。
すいません、ともう一度だけ言って、ソファの真横に置いておいたカバンを手に取って部屋を出た。何が何だか分からない男からは怒りの一言も発せられなかった。きっと今まで狙って外したことなどなかったのだろう。無駄に顔の整った人だったから。
こうしようと考えて、そうならなかったことなどない。
そういう自信みたいなものが彼にはあって、それがまた彼を魅力的な男にしている。そういうところが、あの男に少しだけ似ていた。だから、こんなところまで来てしまった。
最終一つ前の電車に飛び乗って帰路に着く。過ごした時間はあまりにも無駄だったが、彼の家が私の家からそう遠くないのは幸いだった。揺れる電車の中で空いている席はまちまちあったが、真っ赤な顔して俯いたまま動かない女子大生や、吐く直前の青白い顔でカバンを抱えるサラリーマンの隣に座る気にはとてもなれない。結局ドアにもたれるようにして立ったまま帰ることにした。どうせ四駅で最寄りに着く。
手持ち無沙汰を埋めるようにスマートフォンを開く。水よりも情報が溢れる現代社会では、バスケットボールというメジャーとは言い難いプロスポーツの話題ですらニュースのトップに上がってくる。
[ 沢北栄治 熱愛か? お忍び帰国の目的とは?! ]
空港から大した荷物も持たずに出てきた長身の男は、黒のトレーナーとキャップを身につけ、ダークグレーのマスクで顔を隠している。そんなことしたら逆に目立つのに。高校時代に海を渡って、アメリカのバスケ界に身を置いて以降、随分と長い年月が経つというのに、未だ人の目の避け方も知らない男。馬鹿だ。本当に。
SNSに流れてくる一般人の撮ったビデオには、さっきのニュースに取られたまんまの格好で小走りで空港を出る沢北の姿が映っている。
一年のシーズンを終え、堂々と帰国せず、というか帰国のための荷物も持たず飛行機から降り立った男に、世間は過剰な関心を寄せている。そうまでして、かの男はどこへ向かうのか、と。
誰も真の理由を知らない。男はまだ語っていないからだ。
にも関わらず、名のある出版社が「熱愛」と題打ってニュースにすればそれが真実かのように流布してしまう。
沢北は女に会いに来たのだ。だから誰にも告げずに日本に戻ったのだ。
肥大な野次が、口々にそう言って話題は大きく膨れ上がり、かれこれもう三日ほど、沢北のニュースは騒がれていた。
もうそろそろだと思う。いろんな意味で潮時だ。
オフにして真っ暗になったスマートフォンの画面には、朽ち果てた二十八歳の女が一人映っている。
人生これから。まだ若いでしょ。
それが五十を超えた上司の口癖で、それは確かにその通りだけれど、女の花盛りは短いのもまた事実。時代錯誤な考えに囚われて、とんでもない自己嫌悪に襲われるのは、何よりも実感が足りていないせいなのだ。
電車を降りて、コンビニで明日の朝食にパンを買い、袋を断ってそれをそのままカバンに突っ込む。気分転換にアイスでもと冷凍庫を覗いたが、そんなことで気分が上がるようにも思えずに止めてしまった。
パン一つ分重くなったカバンを持って、家へと帰る。マンションの前、植え込みの影に身を潜めるようにして蹲っている男には見覚えがあった。つい数十分前に、スマートフォンの中で。黒のトレーナーとキャップ。スニーカーは、彼のスポンサーであるブランドの新作だ。
どうして、会いに来てしまったんだろう。
もし来なければ、今度こそ終わりにできたかもしれないのに。
自分勝手にそう思う。抱えた膝の間に顔を埋めて、眠っているのか気づいていないのか、目の前に私がいても顔すら上げない男に、心の中でひたすらに恨み言を連ねた。
なんで、どうして。こんなことするんだ、と。
もう終わりにしてしまえばよかった、と。
そうすれば、お互いもう苦しまずに済むのに、と。
「栄治」
でも言えない。思うだけだ。心の中で散々恨んで詰って責め立てても、言葉のかけら一つ声に出せない。
言ってしまったら楽だろうけど。でもきっと後悔すると知っている。私の言葉を沢北が「そうだな」と肯定して、認めて終わりにしたら、私は自分の喉をかき切って死にたくなるに決まってるのだ。
「何してんの、こんなとこで」
昨日の雨で、まだ地面は濡れている。六月とは言え、まだ夜はそれなりに肌寒い。体が資本のアスリートが、いつになるか分からない女の帰りを待つには、この場所と気温は不適である。
「……遅ぇ」
「いつからいたの。風邪引くよ」
「鍛えてるし。平気。てか、こんな時間までどこいたんだよ」
沢北が立ち上がる。そうすれば目も合わなくなって、私はひたすらに見下ろされるだけなのだ。それが悲しい。そのことが、今日までずっと悲しかったと、この男は知らない。
今この場で話を進めようとする男を促して、マンションのエントランスへ入る。オートロックを解除して、エレベーターに乗って、住んでいる七階のボタンを押す。エレベータが音もなく高度を上げる間、よく回る口は一度も開かれなかった。
深夜の共同住宅。私が多くの時間を過ごすこの住処に、この男が気を遣っている。それが分かって、所構わず泣き喚いては無闇に人目を集めていた過去の姿を思い出して、また寂しさが募った。
鍵を開けて室内に入ると、沢北は靴も脱がずに私をじっと見下ろした。「なあ」と先ほどの答えを促す声には、多分に不満が含まれている。
靴を脱いで、一段分、彼と近くなる玄関の淵で彼を見上げる。
遠かった。こんなに遠かったっけと思うほど。
「映画見てた」
「誰と。なんの」
「職場の人と、二年前くらいに流行ったやつ」
空気が冷える。物理的にではなく概念として、そういう感じがあった。空気を一瞬で冷やしてしまったのは目の前にいる男で、その原因は私。自覚がある。これは良くない。良くないことをしている自覚を持ってしてしたのだから、確信犯なのだが、いざそれを告白しようとすると緊張している自分がいた。
「それって、男?」
沢北の声も、目も、全部が冷たかった。
同じ季節の国から帰ってきたはずなのに、彼は冷え切っていた。ずっとあそこで私を待っていたからではない。今、私に傷つけられて冷たくなっているのだ。
「そうだよ」
互いの心臓のすぐ横に、鋭い刃を突きつけている。一歩間違えれば刺さるだろう。そこから血が溢れて、痛んで、腐り落ちる可能性すらあった。しかし、それだって今に始まった話じゃない。もうずっと、私たちはそうしてやってきたのだ。互いを今にも殺してしまいそうな勢いで、互いに欲と思いの丈をぶつけ合う。それが恋愛だと思っていた。
「なんで? なんでそういうことすんの」
「誘われたから」
「誘われたら、誰にでも着いていくワケ? 馬鹿じゃねえの」
手の届くか、届かないかギリギリのところに小さな海が現れる。じわじわ湧き上がる彼の感情が、しっとりと彼の目玉の表面を濡らしていく。
ずるいよね。すぐ泣くじゃん。泣き落としは女の専売特許なはずなのに。あ、今そういうこと言ったら怒られるんだっけ。
でも、泣くのはずるいじゃん。
露骨に眉間に皺が寄った。それを見て、沢北が顔を顰める。不用意に表情筋を動かすものだから、わずかな揺れで耐えきれなくなった海が溢れる。雨が降った。昨日止んだばかりのはずの雨が、彼の頬を伝って玄関に滴った。
「……ちょっとだけ栄治に似てたから」
「は。何それ」
「だから、いいかなと思って。映画誘ってもらって、のこのこ着いて行った」
「マジで意味分かんね」
「映画つまんなくて、つまんないなと思ってたらね。終わって、キスされそうになって」
「は?」
シクシク駄々を捏ねながら泣いていたのが嘘みたいに怖い顔で、沢北が私の腕を掴んだ。指が肉に食い込んでひどく痛かった。それなのに普段バスケットボールを軽々と扱う彼の手はやっぱり力強いんだなと感心して、その手の大きさに安堵すら覚えている。馬鹿だった。この世界で一番馬鹿で、愚かで、どうしようもないのは、私でよかった。
「でも無理だったから、断って帰ってきたよ」
似てると思ったけど、やっぱり違うね。
当たり前のことを言う。この世に同じものなど何一つない。でも似たもので埋まってしまうものもあるから、だから埋めようとした。でもやっぱり駄目だと気づいた時には、ポッカリ空いた穴に気づいた時よりも虚しかった。
私の言葉を聞いて、沢北が力なくその場に蹲った。律儀に腕を離さずにそうするから、私まで引きずられるようにして腰を下ろすことになる。
廊下の先にはリビングがあって、沢北が座っても窮屈にならないサイズのソファもある。クッションだって、カーペットだってあるのに、なぜか私たちは狭い玄関から一歩も動かない。真横は壁で、目の前には沢北。狭い。世界がこのくらいの広さしかなかったら、私も彼も、きっと傷つけることはなかったんだろうと思う。
「栄治はどうだった」
「……何が」
「可愛い女の子と食事して。あと何したか知らないけど」
「どうって」
「あの子、私にちょっと似てる」
三日前、彼の帰国と熱愛が報じられた。相手は公営放送の、今そこそこ人気のある女子アナだった。彼女が日曜夜のスポーツニュースを担当していて、その縁で沢北とは過去に取材や特集で面識がある。出版社は得意げにそう書き連ね、二人で食事に行く隠し撮りまで出回って、世間はより盛り上がった。
写真がある。だからそれは事実だ。
食事くらい行くだろう。私に会社の接待があるように、沢北にだって大人の事情がある。バスケットボールばかりやっていればいいのではない。今や日本バスケットボールの未来を背負う男に課されたものは大きいのだ。
だから、それが二人きりであろうとなかろうと、食事に行った事実を切り取って、それを浮気だとは思わない。
沢北に実は日本に恋人がいるという事実を知る人は片手もいないほどに限られている。となれば、その写真と起きたことを世間が「熱愛」と騒ぎ立てるのはもはや仕方のないことだった。
「全然似てねぇし」
「そう? 最近たまに言われるんだけど」
「似てねぇ。笑い方とか、髪とか、飯の食い方とか、全然ちがった」
「……だから、やめたの?」
だから、やっぱり私に足らなかったのは、世間からの公認でも、彼からの謝罪や説明でもなく、ただ実感だけだったのだと思う。
沢北の恋人は自分であるという実感。それが圧倒的に欠如していた。だから些細なことで不安になるし、苛々するし、投げやりになって、全てを捨ててしまいたくなる。それが今だった。潮時だと感じた所以でもある。
「……いぢわる」
「ん。知ってる。ごめん」
「あれで妬いたの」
「そう。もうずっと、何にでも嫉妬してるよ」
もう、心がいくつあっても足らない。
要らないことばかり教えてくるスマートフォンもテレビも捨ててしまえば楽なのに、そうすると遠い異国で戦う恋人の勇姿を見られない。試合の結果が分からない。唯一の繋がりであるメッセージも届かない。だから無理だった。
彼の周囲の、一挙一動に嫉妬している。
例えばあのアナウンサーが初めて沢北と会った時に見せた雌の表情にも、コートで彼に投げられるアメリカ人の黄色い声援にも、チームメイトが何の気無しに肩に回した太い腕にすら。
末期だ。手の施しようがない。これはどうしようもない熱病の、もっとひどいものだから、だから今すぐにでも手放さねばならない。沢北もまた同じである。このままじゃ、この恋愛が、互いの命を削ってしまう。
「なら、そう言えばいいのに」
「本当にね。馬鹿だね。なんか、言ったら駄目な気がして」
「いいよ。言えばいいじゃん。言わないで、浮気される方が無理」
「……ん」
腕を掴む彼の手が緩む。痛い方がいい。痛い方が実感が伴う。痛い方が、目の前に沢北がいて、私に触れているのだと、より強く実感できる。
ここまで来たら、手酷い方法で痛めつけられてしまった方がマシなんじゃないかとか、いっそ泣き喚いて大騒ぎして彼に嫌われた方がいいんじゃないかとか、実行に値しないような考えが頭の中を埋め尽くして、言葉を失くしてしまう。
言えばいい。思ったこと全部。
簡単に言うけど、それができたら大抵の人は苦労して生きてない。
「俺だって同じだし」
「え?」
「会った時から、知らない匂いさせてんのほんとやだ」
沢北の目にまた海が広がって、それは音もなく溢れ出して。地球の海はかつてこうして広がったのだろうと私に思わせる。私と沢北の住む場所を隔てる海も、遠い昔、こうして溢れて広がったのだ。きっと。神さまも、それを見て美しいと思ったはずだ。
「その髪、引きちぎってやりたかった」
真剣な顔で彼がそう言うから、もう全部が駄目になってしまう。何も知らない。何も知らずに、沢北は私の人生をぐちゃぐちゃにする。私はそうされている自覚があるのに、彼にはその自覚がない。不平等だ。でも、世界って大体がアンフェアだから仕方ない。
嫉妬する、って悪いことだと思ってた。
異国の地で、バスケットボールひとつにすべてを懸けて戦う恋人に、どうしようもないことを思って言うのは、いけないことだと思っていた。
だから、言えなかった。我慢した。女の子と会わないで、とも、無駄に愛想振りまかないで、とも、私以外の誰のことも好きにならないで、とも。
そうしたらいつの間にか、会いたいも寂しいも言えなくなってた。言えない間に、彼は可愛い女と食事に行ったと知った。帰ってくるの一言も、私には告げなかったくせに。
紛うことなき嫉妬心が、今、リボンをかけられてご丁寧にふたりの間に置かれている。
私のそれと、沢北のそれ。二人分。
心臓の真横に刃を突き立て、言えなかったことを言葉に変えて、嫉妬心を晒しあって、それから。来るとこまで来た。手探りで進んできた道の、多分一番奥まで。
「いいよ。引きちぎっても、栄治なら別に」
「……やだ。長い方が好き」
「そっか。じゃあ、お風呂入って、3回シャンプーする」
「いいよ、今日は俺が洗う」
「え、それはちょっと」
やっと笑った。雨は止んで、海の水面は静まりかえって、ようやくそこに夜明けが訪れたようだった。
掴まれた腕を引かれる。一度、二度。三度目に口が触れ合った時には私の方が泣きそうになった。でも泣かない。堪える。泣き顔がこの世で一番似合う人を知っているから、だから不細工な自分の泣き顔は晒さない。
「……ごめん」
「謝るのは私じゃないの」
「不安にさせたのは俺だから。ごめんな」
「謝らなくていいよ、どうせこの先もずっと不安なままだから」
何があっても、この不安は消えることはない。私が沢北と恋愛をしている限り、不安も嫉妬も恨み言も、消える日など来ないのだ。でもそれでいい。それでも、何を差し置いても、私の唯一がそうであるように、彼の嫉妬や不安が向くのは、私一人であってほしい。
彼が小走りで空港を出た。その行く先が私の家だったのだと分かっている。でも人の目を避けるのは大変で、どこからか噂を聞き付けた知り合いに食事に誘われれば断れない。スポーツはスポンサーと興行なしでは成り立たない。
それで、タイミング悪く写真を撮られて。またホテルから出られなくなった。
日を空けてやっとの思いで抜け出してここに来たのに、肝心の恋人は不在で、知らない家の匂いを纏って帰宅する。だからグズグズに泣いていたんでしょう。私と同じようにもう終わりだって思ったはず。
終わりにもできたはずだ。
怒りに任せて、心にあることもないことも全部言ってしまって、それでもう「別れる」だとか「会わない」とか言えば、しっかり終わることもできた。
飛行機十三時間の距離はそう簡単には埋められない。距離がなくても、沢北栄治は今や手の届かない世界で戦う男だから、一度別れれば、再び道が交わることはなかった。
でもそうしなかったから。
臆病で勇気がないだけの私とは違って、彼は彼の意思で終わりにしないことを選んでくれた。
だから私も私の意思で、ちゃんと進む先を選んで行く。女の花盛りが短いのなら、一度枯れ果てたと思うなら、この国にどんな未練があると言うのか。
「……栄治」
「ん」
「私、今日のこと謝らないから」
126分間。沢北ではない男の隣で映画を見た。つまらない映画だった。今となっては、どんな顔の人間がどんなことをしていたかもあやふやだ。でも、丸っ切り無駄だと思っていたあの時間は、そうではなかった。
一つ。言わずにおいた答えを取り出す。
いつからか持っていたけれど、それを彼に差し出すには私は臆病すぎて駄目だった。臆病なくせに一丁前に嫉妬はするし、寂しいって泣きたくなるし、もっと彼の近くにいたくて仕方なかった。
長い間仕舞っておいたせいで、もうピカピカに磨き上げられた、宝石よりも輝かしく、瓦の石より硬くなってしまった。アンバランスで滑稽だ。
「許さなくても許してもいいから、だから、私のこと連れて行って」
「——え?」
「見える範囲に置いておいて。私に、全部捨てろって言ってよ」
言うの、遅くなってごめん。ずっと待っててくれたのにね。
手の届く場所に行く。遠くて遠くて、もがいても足掻いても届かない場所で拗ねていじけて腐るのは今日で終わりだ。あの126分は、そのためにあった。そのことを決意するための時間だったのだ。
嵌る瞳がこぼれ落ちそうなほど開かれた目は、下瞼のあたりが赤くなっている。泣いたから。たくさん泣いたからだ。それが子供みたいでまた愛しさが募る。積もり募った感情は、いつどういう形になるかも知らないが、それも素直に曝け出そう。今まで言えなかった言葉全部、見せられなかったもの全部。全部、私なのだ。
「……捨てて」
「うん」
「……後悔させないから、俺と一緒に行こう」
「うん。分かった」
今、最果てにいる。傷つけ合うことが恋愛だと主張してきた私たちの、一つの最果て。ここから始める。ここで全部終わらせて、また、一から始める。狭苦しい玄関から飛び出して、リビングよりも、エントランスホールより、日本よりも広いところへ。
目線を合わせて、一緒に、高く跳ぶのだ。
ぼくの叡智を呪え
♪「Happier Than Ever」Billie Eilish
title by BACCA