沢北のことを教えてもらった数日後、今度は深津から電話が来た。相手を確認せずに応答ボタンを押して耳に当てると、「つながったピョン」と言われて驚く。その声と特徴的な接尾語がすぐに頭の中で結びつかなくて、一瞬新手の宗教勧誘かと疑った。
 「えっ」と小さく声を漏らせば、すぐに「深津だピョン」と言われて、ああと納得する。ああ、深津か。道理でへんな人だと思った。

 深津は自分から電話してきたくせに、私が出たことに驚いたようなことを言ってきて、私にますますへんな人だと思わせる。
 確かに、成人式の日に顔を合わせて、成り行きで連絡先を交換したのももう4年前。あれ以来、一度も鳴らしたことも鳴ったこともない番号だ。消していてもおかしくない。おかしくないが、わざわざ使わない番号を消すほど電話帳は逼迫していないので、そのままにしていた。その時、深津の他に交換した元同級生の番号もそのまま残っている。

「それはお互い様でしょ」
「そうだピョン。消されてなくてよかったピョン」
「それで。どうしたの?」

 深津は相変わらず淡々とした口調で用件を話し始めた。と言ってもそれは簡単なもので、来週知り合いが帰国するので迎えを頼まれていたが、自分が行けなくなったので代わりに行ってほしいというものだった。
 なんで私が。
 思わずそう口をつく。嫌だとかそういうことではなく、その状況で何故私が選ばれたのかという意味で。正直、深津とは高校時代から仲良しという訳ではなかったし、卒業後の交流もない。現に今、この会話が4年ぶりなのだ。

「知り合いは沢北って名前ピョン」
「……は、」
「共通の知り合いで、関東にいて、車持ってるのはお前しかいないピョン」
「でも」
「沢北と仲良かったピョン」

 息が詰まる。またこれだ。みんな同じことを言うんだなと思った。

 私がそう言われて言葉に詰まったのを深津は逃さない。時間はメールするピョン、と言って私の返事も聞かずに電話を切ってしまった。
 それからすぐに時間とターミナルの書かれたメールが送られてきた。断る理由を見つける前に手を打たれてはどうしようもない。本人同様淡白な文面に、重いため息を吐く。
 [分かった]と返すほかなかった。

 約束の日。成田まで車を走らせる。気は重い。何も乗せていない車すら、スピードに乗り切らない気がした。

 沢北と会うのは、彼がアメリカに行って以来。7年になる。
 深津と話したことすら久しぶりだったのに、それ以上となるとどうなるのか。想像がつかなかった。皆口を揃えて仲が良かっただろうと言ったが、7年話していない人間ならばほとんど無効だ。今、そんな言い逃れを思いついても無駄なだけだが。

 空港の駐車場に車を停める。待ち合わせはターミナル内ではなく駐車場で、と言われていた。報道陣に女が迎えにきているところを見られるとややこしい話になるから。そうであるなら尚更迎えの適任は私ではないと言いたかったが、それを言われたのは全てを承諾した後だった。

 このままだとどれが私の車か分からないだろうからと車を降りて、ターミナルとの連絡通路の前で待つことにした。

 7年。アメリカというバスケットボールの本場で戦い、その場所で抗ってきた人間が今日帰国する。
 新聞にも小さく載るだろう。テレビでの報道はないかもしれない。秋田の地方局ではあるかもしれないが、東京ではどうだろうか。
 この日本という、まだまだバスケットボールがマイナーなプロスポーツである国にとって、それは小さなニュースだ。でも、少なくとも沢北と、沢北の周囲にいた人間にとっては重大な日。そのことは、これでも理解しているつもりである。

 待っている間、手持ち無沙汰でエレベータ前の自販機でお茶を買った。フライトは長いし、向こうには美味しい日本茶はないだろうから。せめてもの労いに。
 これからの運転に備えて自分の分もと、指をボタンの前で左右に動かす。何飲みたいかを決める前にお金を入れてしまった。そういう時に限って、特別飲みたいものがないから困る。
 無難に私もお茶でいいか。迷った末にそう思った時、背後から長い指が伸びてきて、お茶の横にある清涼飲料水のボタンを押した。白地に青の水玉が特徴的なそれは、『初恋の味』というキャッチコピーで売られている商品だ。

「……久しぶり、先輩」
「沢北、」

 お茶ではなく、その清涼飲料水を選んだのは、大きなスーツケースを携えた沢北本人だった。

「はいコレ。勝手に選んじゃったけど」
「ああ、うん。いいや、これで」

 記憶の中よりも遥かに大人の男になっている。当然だ。もう7年経って、私も彼もとっくに成人している。まして最後に見たのはまだ幼さも残る17歳の彼なのだ。大人になったという印象を受けるのは当たり前。
 それなのに、さらに伸びた身長と太くなった腕と腰回りは見慣れないどころか別人のようで、例えようのない不安を私に与える。

「先輩、それ好きだよね」

 そう言って笑った顔は、まだあの頃の面影を残しているのに。

「……いつの話してんのよ」
「あ。それもそうか」

 大きなスーツケースを沢北は軽々と持ち上げ、私の車のトランクに押し込んだ。女一人で使う車だ。お世辞にも大きくはない。比喩ではなく、まさに押し込まなければ入りきらなそうだったのだ。なんとか入ったそれを沢北は笑って「ぴったし」と言う。どこが、ピッタリなのよ。言いかけてやめる。なぜか、彼の言葉を否定するのは昔から苦手だ。

「狭くてごめん、イスとか動かしていいから」
「平気っす。てか、迎えありがとうございます」
「いや、深津に頼まれただけだし」
「でも助かりました」

 助手席に、沢北がいる。不思議な感じがした。まるでそれが私の車ではない気がしていた。こんな未来を、7年前の私は少なくとも想像し得なかったから。

 沢北はイスを後ろに動かしてから背をわずかに倒し、シートベルトをつけた。窓のところに肘をついて、「車、先輩の匂いすんね」なんて余計なことを言うから、無言で窓を開けたら、慌てて「良い意味で!」と大声を出す。相変わらず騒がしくてちょっと馬鹿なんだと思ったら安心した。

 私が渡したお茶をものの5分で飲み終え、沢北は窓の外を見ている。
 休日の午後は交通量もそれなりにあったが、今のところ渋滞しているという情報はない。スムーズに都心まで戻れるだろう。詳しく名前は聞いていないが、東京駅の近くのホテルまで送り届けろと深津からは言われている。

「沢北、ホテルの名前覚えてる? 近くなったら地図見てもらっていい?」
「あーはい。てか場所分かります」
「そうなの?」
「日本来る時、いつもそこだったから」
「そうなんだ。じゃあ、よろしく」

 沢北が「ん」と小さく返事をして、また窓のほうに身を傾ける。眠いなら寝てもいいよ、と言った。沢北は緩く頭を振って「飛行機で寝過ぎた」と言う。どこでもよく眠れるのはいいことだ。
 アメリカで活躍するスポーツ選手は、飛行機での移動が多いからそういうことも重要なのだと、昔どこかの誰かのインタビューで読んだ。
 沢北も。”沢北栄治”も、そうしてアメリカで戦ってきたのだと思うと、途端に胸が苦しくなる。あの右も左もおっかない人間しかいない場所で、彼は懸命に自らのスキルを磨き、環境に適応しようともがいてきたのだ。

「沢北」
「んー?」
「おかえり。……ごめん、言うの忘れてたね」

 もう一度「ごめん」と言った。目を見て言う勇気がなくてごめんの意味で。
 沢北が振り返る気配がする。高速運転中に前から目は離せない。彼の、涙をぎゅっと固めて水晶玉に詰めたみたいな目が頭に浮かんだ。高校時代、幾度となく覗いた目。今はもう違うかも。それすらも姿形を変えたかも。それを確かめる勇気がない。

「ただいま。先輩」

 運転席横のドリンクホルダー、結局開けないまま、沢北に選ばれたジュースが突っ込まれている。缶だったから、運転しながら飲むのはちょっと面倒だと思って開けなかった。それを開けるのが勿体無いからではなくて。

   ▲

 二人、無言のまま車を走らせて沢北のホテルまで向かった。
 近くのICで降りると沢北はスラスラとホテルまでの道案内をしてくれた。的確に、分かりやすく。生まれても育ってもいない街で、こんなことまで出来るようになったのかとまた勝手に傷ついた。互いが互いの時間の中で積み上げた7年が、今、二人の間に薄くて硬い壁のように存在している。それに触れることも、破ることも、できそうになかった。

「はい、着いたよ」
「……先輩、今日は1日暇なの」

 メインエントランス前のロータリーに車をつける。ここでお別れと思っていたら、沢北が降りるそぶりも見せずにそんなことを聞いてくるからつい「いや、」と正直が顔を出す。言った後で「ある」と言わなければと思ったが、時すでに遅い。
 沢北は私の言葉を最後まで聞く前に、「じゃあ荷物だけ預けてくる」と言って、颯爽と車を降りてゆく。待ち構えていたフロントマンが沢北と二、三、言葉を交わす。沢北が指で後ろを指すので、トランクのロックを解除すると“ピッタリ”詰まれた彼の荷物は、ホテルのカートへと移されて行った。

「お待たせ」
「え? 荷物、……チェックインは?」
「後ででいいって。いつも使ってるし」
「後ででって、どこか行きたいの」
「うん」

 迷いのない返事。沢北は「ドライブ」と言った。ドライブ、という返事は目的地を持たない人間が使う言葉である。私の言う『どこか』は明確な目的地はあるのか、という意味で、沢北の肯定はここではない『どこか』という意味だ。

 ダメだよとか。嫌だとか。言うことはある。それを言う権利も、おそらく私にはあるだろう。私に与えられた任務は、沢北を空港からホテルまで送ることで、彼に1日付き合うことではない。
 でも、結局それを言うことはなかった。沢北がわざとらしく眉を下げて「ダメ?」と尋ねたら、私はダメだと言うことができない。私は彼を否定できないのだから。そして、それは彼も知っていることなのだから。

 再び都心の二車線しかない狭苦しい道を走りながら、どこへ行くかを考える。当てもなくぐるぐると周回し、ガソリンを減らすのは嫌だった。

「行きたいところある?」
「俺、東京に何あるか全然知らないっす」
「あー……そりゃそうか」
「だから先輩に任せる」

 勝手に車に戻ってきておいて、任せる、って。勝手だな。でもそれを憎たらしいとは思わせない。そういう雰囲気というか力が、昔から沢北にはあった。そんなんだから沢北に甘いと散々言われてきたが、こればっかりは深津に聞いても同意してくれるはずだ。なんだかんだ、あの男は沢北には甘かったので。

 ドライブを提案した本人からはなんの意見も得られなかったので、せめて成田と反対方向に向かうかともう一度高速に乗った。高速料金が値上がりしたニュースがチラリと頭をよぎったが、それは窓の外のビル群と一緒に一瞬にして過ぎ去ってゆく。まあいいや。今はそう思える。今日だけは。

 休日ということもあって、そこへ向かう道は成田の帰り道よりも混雑していた。一度だけ渋滞というには短い混雑に嵌る。5分足らずで抜け出して、それからはスムーズだった。沢北の目は相変わらず外へ釘付けで、視線を感じることはない。日本も東京も久しぶりだから、珍しいのかもしれない。生産性のない会話を投げかけて邪魔する気にはなれなかった。

「——おだいば?」
「そう、お台場」

 ショッピングモールの平置き駐車場に車を停める。景色と交通標識で認識したのか、沢北が首を傾げながら場所を訊ねる。言葉を覚えたての子供が言うような、拙い言い方だった。
 東京に住み始めて2年。お台場に来るのは2回目で1年ぶりだった。家からアクセスが悪い場所なので、滅多に来ない。用もないし。
 それでもそこがドライブコースとして人気だと、雑誌やらテレビやらで紹介されているのは何度か目にしている。行きたいとも思っていなかったが、頭に残っているということは多少は興味があったのかもしれない。ドライブ、と聞いて一番最初に思いついた場所だった。

「へえ、俺初めて来たかも」
「海が見えるよ。ほら」
「マジだ、ちけー」

 沢北と海の近くの道を歩く。高い建物ばかりの場所なのに、そこには海があって、砂浜があって、夏には海水浴もできるらしいのだ。今の時期はもっぱら犬の散歩に使われている。足元を真っ白にした毛の長い犬が、キャンキャンはしゃいでいるのがちょうど眼下に見えた。

 沢北と歩くと、うんと背が高いから周囲の視線を集めることが多い。すれ違う人がこっそりと「スポーツ選手かも」と囁いている。本人はどこ吹く風だ。私はそれらに心の中で「そうですよ」と返しながら、何食わぬ顔で彼の隣を歩く。足の長さもスピードも違うはずなのに、沢北に置いて行かれたことは一度もなかった。

 真新しいその道を進むと、突然それは目の前に現れる。
 沢北は驚いたのか、「うわっ」と声を上げていた。お目当てというほどでもなかったけど、せっかく来たなら見ておきたかったそれを、私もしっかり視界に映す。数年前にできたばかりのその銅像はピカピカで、何の歴史も感じさせない。とびきり大きいレゴブロックのようだった。
 おもちゃにしては大きくて、本物を想像して見るとあまりに小さい。

「なんで自由の女神?」
「なんかできたんだって。話題になったんだよ」
「へえ。てか。フハ、小せぇなあ」

 それは、明らかに本物を知っている人間の笑い方だった。本物を知らない私ですら、これが小さいのだと分かる。本物を知っている彼にとってはましてそうだろう。
 それが出来たというニュースを聞いた時、咄嗟に沢北のことを思い出した。アメリカという国の象徴のようなそれがここに出来ると聞いて、真っ先に飛び立って行った17歳の背中を思い出したのだ。

「自由の女神って聞くと、アメリカだなって感じがするじゃん」
「まー。……でも、これは小さいからビミョーっすね」
「うん、そうだろうね。でもね、これ出来たってニュース聞いた時、沢北のこと思い出した」
「俺?」
「アメリカって聞いたら、真っ先に沢北のことが浮かぶ」

 自由の女神でも、金髪の大統領でも、大きなハンバーガーでもなくて。18歳の頃に失くした初恋が、私にとってのアメリカだった。私の初恋を掻っ攫っていったものこそがアメリカだったから。

 そう、言葉にしてから後悔する。言う必要のないことだった、と。
 でも、どうしてか。ここに来てこれを見て、言ってしまいたかった。衝動が抑えきれなかった。これを言うためにここに来たのかと、自分自身を疑うほどに、それはすんなりと言葉になった。

 数秒沈黙があって、それからまたさっきとは別の犬の鳴き声が聞こえてくる。海の方から強く風が吹いていて、私の髪を空に舞い上がらせる。高校時代よりは伸びたけど、まだ短い沢北の髪も先っぽだけが風に揺れていた。

「先輩」

 意志の強い、戦うことから逃げない男の声がする。
 昔からそれはそうだった。でも、あの頃よりもさらに逞しく、頼り甲斐のある人間になったのだと気付かされる。色んなものと逃げずに戦ってきた彼だからこそ、得られたものだ。私には眩しい。振り向くのすら躊躇うほど臆病な自分は、あの頃からきっと何も変わっていない。
 この7年。変わることを恐れていた。
 自分の立場や住む場所や責任が変わるごとに、中身まで作り替えられてしまうような恐ろしさがあった。だから頑なに変わるまいとして、結局成長を犠牲にしたのだと思う。そうまでして守りたかった、たった一つの感情を。その名前を、存在を。私は知っている。

「先輩、こっち向いて」

 抑え込んで、鍵をかけて。鎖までして蓋をした感情が、今ガタガタと音を立てながら揺れている。もういいだろ。箱の中身が叫んでいる。駄目。駄目だ。両手でまた押さえ込んだ。彼の言葉の一つも否定できないくせに、自分の感情になら臆することなく、それを向けられる。出てきては駄目なのだと言い切れる。

 一向に振り向こうとしない私の腕を沢北が掴んで引っ張った。力でかなうはずもなく、抵抗虚しく彼と向き合う形になる。
 今日、初めて沢北と真正面から向かい合った。目を見てすぐにそう思う。心に浮かぶのは懺悔でも後悔でもなく、諦めだった。
 向かい合ったら分かってしまう。分かっていた。
 沢北の瞳はもう涙でつくられていないのだと。そこに宿る闘志はまだメラメラと燃えているのだと。
 それに何より。あの頃、18歳が感じ取っていた17歳の思慕が、今もまだそこに残っているのだと。

「俺、またアメリカ行きます」
「——え?」
「一旦日本に戻るけど、また行くから。またあそこでぜってーバスケするって決めてるから」

 ぎゅっと握られた拳が僅かに震えている。
 沢北は、敗北と悔しさと悲しみと、そこから這い上がっていく術をもう知っている。知っているから、今は色んな道を選べる。
 我武者羅にしがみつくしかないと決めつけるのではなく、一度別のルートを経ても、いつかはそこへ戻れる。それを叶える努力ができることも、見合う実力があることも、23歳の沢北は知っていた。

 頷くことしかできない。背中を押すことしかできない。私は、固く閉じた箱に「初恋」とラベルを貼って、時間にも環境にも、誰にも奪われないように後生大事に抱え込んでいることしか。

「沢北なら、大丈夫だよ」
「……はい」
「応援してる。ずっと、応援するからね」
「ん。だから、先輩」

 それに、今、目の前の男が手をかけようとしていた。
 誰にも触らせないように守ってきたのに、沢北にだけは「ダメ」と言えないから。触らないで開けないで、と言えない。彼がそれを開けようとするのなら、私には止められないのだ。

「今度、アメリカ行くときは先輩も一緒に来て」

 駄目だと否定して、出てこないでと抑え込んできた。溢れたらどうなるか分からなかったから。彼が好きだと叫んだって、それは海を渡って行かないと知っていたから。だから必死に見て見ぬ振りをした。7年、捨てる決断もせず、諦める勇気もなかったくせに、一丁前に大人ぶろうと必死だった。

 それなのに、沢北がそれを大きな一歩で軽々と超えてくる。

 沢北。私たち、なんでもないんだよ。恋人でも家族でも友達でもない。ただの先輩と後輩。『仲良かったよね』ってたった一言で済んでしまう関係なんだよ。
 それを、アメリカ行こうなんて。この男は、どこまでも勝手で、でも決してノーとは言わせない。単に、私が彼に弱いだけかもしれない。どっちにしろ、今、ここで「だめ」も「いや」も言えないのだから同じことだ。

「……私、英語できないけど」
「大丈夫、俺もそんな出来ない」
「ダメじゃん、それじゃ」
「うん、だから一緒に勉強して、行くときも一緒」

 言葉に詰まりながら、「しょうがないなあ」と言った。笑ったつもりだったけど、全然格好つかない。目が痛い。泣いてないけど赤くなっている自信はある。
 私の返事を聞いて、沢北がガバリと私を抱きしめる。潰されそうなほど強い力で。「ちょっと」とそれを諌める間もなく、薄い唇がふわりと私の頬で跳ねた。変なところだけアメリカナイズされている。

「もう、ヤバかった」

 何がとは聞かない。今の彼を引き離すのは気が引けたので、好きにさせた。大きくなった背中を撫でながら、「そうだね」と言った。沢北は、もう泣かないんだなと思った。

   ▲

 お台場から首都高速を抜けて、またホテルまで戻る道すがら。行きはめっきり静かだった沢北が、犬みたいな顔で「見てこれ」とストラップのついた鍵を取り出した。

「何それ」

 ジロジロ見るわけにもいかないので、チラリと見たからそれが何かイマイチ分からない。そっけない言葉がお気に召さなかったのか、沢北はええ、とやけに不満そうな声をあげる。ええ、と言われても分からないものは分からない。

「昔、先輩が集めてたじゃん」
「集めてた?」
「ジュース飲むとシール付いてきて、それ集めるとなんかもらえるって」

 そう言われて、やっとその正体を思い出す。
 今日、空港で沢北が押した清涼飲料水。それがまさしくそのジュースだった。何本か飲んでシールを集めるとストラップがもらえるキャンペーンをやっていた。そのストラップが当時私がハマっていたキャラクターコラボのもので、欲しい欲しいと必死になっていたのだ。

 ——ああ。だからこれを私が好きだと思っていたのか。

 一時期、狂ったようにこれを飲んでいたことがある。枚数を集めるのがなかなか大変だったのだ。ひたすら飲んでシールを集めてやっとの思いで手に入れたストラップは、しばらく私の家の鍵に付いていた。でも、沢北がアメリカに行く前に突然私に「なんかください」なんて言い出すものだから、何も持ってなかった私は、鍵についていたそれをあげたのだ。

「まだ持ってたの?」
「トーゼン。いざとなったら泣き落としの時に使おうと思って」
「使えないよ」
「いや、今でもこれ持ってるくらい俺はずっと好きなのに、て言ったら、流石にグラつくでしょ」

 自信満々に沢北が答える。それはどうだろう。グラつくかな。笑っちゃいそうな気もするけど。でも、嬉しいかもしれない。自分がそれをあげたことすら忘れていても。

「ねえ」
「なあに」
「だから先輩だけじゃないよ」
「……なにが」
「……7年、待ってたの」

 一瞬、目が合う。すぐに前を向いた。沢北も目を逸らしただろう。髪で隠せない耳はほのかに赤くなっていたように見えた。

 7年、私は沢北が迎えにくるなんて、一度だって考えなかった。再び巡り会うことなんて諦めていた。それを忘れる努力はせずに、その痛みを受け入れていただけだった。

 でも、彼にそう言われたら、もしかしたらと思えてしまうから不思議だ。
 もしかしたら、私は心のどこかで、見えないフリをしていた場所で、今日のこの日が来ることを待っていたのかもしれないと思った。