星の光の中に貴方がいた。あまりに眩いその光たちに、私の好きな人が連れ去られてしまう気がした。だから、私は手を伸ばしたのだ。


 土曜日の夜。月が丸く光って空に浮かび、夜の黒々としたカーテンの下をシルバーの車が滑るようにしてロータリーに入ってくる。運転席の窓が開き、中から見知った顔を覗かせる。尾形さんだった。尾形さんが軽く手を上げて。私も頭を下げ、助手席に乗り込んだ。

 待ち合わせの場所は、彼の店ではなく駅前のロータリーで、少し遅くなるかもしれないからそのつもりであらかじめ言われていた。彼の話というのはてっきり私がしてしまった告白の返事だと思っていたのに、運転席の真剣な顔の尾形さんにはどうにもそういう雰囲気はない。
 車内の空気は重苦しく、窓を開けてもそれは大して改善されなかった。ラジオの音とエンジン音。夜のまだ浅い時間に似合う軽やかな声のラジオDJが、今日は満月だと言っている。

「どこへ、行くんですか」
「山」
「山ですか。何か用事があるんです?」
「ああ」

 それが何か、尾形さんは言わなかった。ただ、私の方をチラリと見て、それから「アンタに見てほしい」と言った。私に見てほしい何かが、山にあるらしいのだ。
 以前なら、きっともっと軽い気持ちで話ができた。あれがどうだ、これがどうだったと話をして、その流れで用事を教えてくださいよと食い下がることができたかもしれない。でも、今は違った。尾形さんの口が開かれる、その一瞬一瞬が怖かった。彼の口から、「好きじゃない」と言われてしまうことが怖くて、私は何も言えない。

 すぐに着くという言葉通り、彼の目的地へはそう時間はかからずに到着した。
 都心から車で1時間もかからずに着いた場所は言われた通り山の中で、キャンプ場用らしき駐車スペースがポツンとあったが、停まっている車は他にない。尾形さんはそこに車を停め、私たちは車を降りてさらに山の中へと入っていく。
 尾形さんは迷いのない足取りで、どこかを目指した。
 こんな暗くて何もない場所で一体何をするつもりなのか。私には何の見当もつかない。不慣れな山道を進むのに私は遅れて、少しずつ尾形さんとの距離が開いていく。あ、と思う。彼が離れて行ってしまう。こんなところで一人きりになったらどうなるか。想像するだけで恐ろしい。

 待ってくださいと言うべきだった。
 でも何故か恐れをなして縮み上がった声帯からは声が上手く出てこない。
 余計なことをぐるぐる考えて、ぬかるみに足を取られた。転ぶ。そう思った瞬間に、力強い手が私の腕を掴んで、転ばないようにと支えてくれる。

「大丈夫か」
「……尾形さん、なんで。もっと前にいたのに、」
「悪い。よく見てなかった」

 5歩も10歩も先にいたはずなのに。私のすぐ目の前で、尾形さんが平然とした顔をしている。不思議な人だった。いつも私のピンチを助けて、ほしい言葉をくれて、一等優しくしてくれる。私を救うその手が、神様みたいだと言ったら、きっと嫌な顔するだろうけど。

「もう着く。ゆっくりでいい」



 たどり着いた場所は、駐車場から進んだ先の開けたところだった。
 右も左も上も下も森ばかりで、取り立てて何かをするところには見えない。見えるのは夜空に浮かぶ満月くらいなものである。

 尾形さんは、私を立たせて真剣な顔でそこから動くなと言った。
 そして私から3メートルほど離れた場所に立つ。目を閉じて、開いた両の手のひらをそれぞれ上へ向ける。荘厳な雰囲気を壊してまで、何をするのかは訊けなかった。数秒開いて、彼の目が開き、視線は上へ。つきと星以外、何もない空だ。都心と違って真っ暗のここでは星が、よく見える。

「来たぞ」

 尾形さんがそう言った。それから私が見たものは、まるで夢の中だった。
 尾形さんを囲うようにして地面が光る。ライトも何も仕込まれていない場所が突如として光り始めたのだ。光の中に、尾形さんの姿が浮かび上がって、彼の差し出された手のひらを受け皿に、星の光がそこに注がれた。
 まさに星が降る。
 そんな夢のような嘘のような光景を、現実にこの目で見たのだ。

 星の光が、尾形さんに降り注いでいた。流れ星が落ちてくるように、彗星が尾を引いて吸い寄せられるように。空の光が尾形さんを中心にして集まっていた。数多の光に囲まれたその姿はやけに神秘的だった。

 夢なのかもしれない。そう思うのも無理はない。
 しかし頬をつねっても痛いものは痛いのだ。

 これは、どういうことなのだろう。何と名前のつけられた現象なのだろう。何も分からず、何の見当もつかなかった。
 その事象は5分にも満たずに終わった。集まっていた光が家に帰るようにして散り散りになり、空へ帰っていく。彼を囲う光をだんだんと消え、そこには夜の闇が戻っている。

「……見たか」
「今の、って」

 尾形さんが徐に私に向けた手のひらに、光る文字が浮かび上がっている。それが何という字か分からない。日本語でも英語でもアラビア語でもなかった。

「——俺は、あそこから来た」

 彼の指の先が、空の星を指している。
 尾形さんは、星から来たと言う。言っている意味の半分も理解できていないだろうに、それを聞いて、ああなるほどなと納得している自分もいるのだ。

 異星人だ、と彼は言った。地球ではない別の星で生まれ、宇宙船に乗って地球へ来た。長い旅だった。旅の果てがこの星で、この星に来てからもう300年は経ったと言う。
 寿命の長い種族で、地球人の一生を10回繰り返してもまだ彼らの種族は老いることはないらしい。じゃあ尾形さんは今いくつなんですかと訊ねたら、「とうに忘れた」と言われてそれもそうかと思う。数えられる年数だから、私たちは自分の年齢を数えるだけで、数えきれないほど長いのならば最初から数字を振ったりはしないのである。

 尾形さんの口から語られる全てが、御伽話や都市伝説のようなものだった。まさかそんなことあるわけがないと普通なら考える。私だって、尾形百之助という人間をこれっぽっちも知らなければ、単に作り話の上手な人なんだと思ったはずだ。

「信じるのか」

 でも、私は知っている。私だけの神様がどんな人なのか。
 そして少しだけ安堵する。私だけの神様は、やっぱり誠に神だったのだ、と。

「普通なら信じちゃいけないのかもしれないけど、でも、尾形さんだから」
「……信じる、と」
「うん、信じたいです。尾形さんが宇宙人って、ちょっとだけなんかわかる気もしますし」

 嘘でも作り話でも本当でも何でもいい。私が今さっき見た光景と、これまで経験してきたこと、感じてきた僅かな違和感。それら全てを総合すると、“彼の話が本当である”ことの確立が一番高いような気がするだけだ。

「俺が言うことじゃないが、アンタはそんなんだから厄介ごとに巻き込まれるんだ」
「そうかも……?」
「優しさにつけ込まれる、人を信じるな。疑え、いつか死ぬぞ」

 尾形さんが怖い顔でそう言って、私はその顔を見て笑った。なんで笑われたのか分からないって顔してる。みんながこの人を怖い人だって言うけれど、本当は全然そんなことはない。優しい人。少なくとも私には。
 だから好き。優しくて、守ってくれて、かっこいい。だから好きなんだ。いつの間にか、彼の口が開かれることへの恐怖はなくなった。彼の口から「好きじゃない」と言われても、私が傷つくことはないだろう。だって、尾形さんは優しいから。きっと、私を傷つけるような言葉の選び方はしない人だから。

「大丈夫ですよ」
「何が」
「だって、危ない時は尾形さんが助けてくれるから」

 彼の口がキュッと閉じる。丸くなった目が猫みたいだった。
 もう一度だけ言ってみる。
 尾形さんが誰でも「やっぱりあなたが好きです」と。

◇◆

 降り注ぐ星は、尾形さんの生まれ故郷からの使者なのだと言う。本当なら生まれ故郷を離れて暮らすなんて許されないところを、ああして時々交信し、地球の技術を提供することを対価にこの星の滞留を許されているらしい。
 と言うのは、今しがた、車に戻り真顔で説明されたことである。つい数分前に信じますとは言ったが、100%理解できますという意味ではないので、「へえ」以外の言葉が出てこなかった。だって、なんか映画みたいで。

「怖くない、のか」
「怖い?」
「同じ生き物じゃないんだ、怖いだろ。ふつう」

 尾形さんが時々すごく早く移動したり、すごく重いものを軽々持ち上げたりするのもぜんぶ彼が異星人であるからで、彼は私と同じ地球で生まれた生き物じゃない。
 確かに、それって本当はすごく怖いはず。私は地球以外で生まれた人と話したことは今のとこないので、未知のものは大概怖い。
 それなのに、尾形さんには微塵もそう思えないのだ。

「怖く、ないです」
「は」
「尾形さんが地球人でも宇宙人でも、怖くないです」

 守ってもらった記憶が、怖いという感情を打ち消して私に「大丈夫」と言ってくる。尾形さんは大丈夫。知らないことばかりでも、怖くはない。ちゃんと全て、受け入れる。時間をかければ理解だってできるはずだ。それを、私が望むから。

 尾形さんの瞳が揺れている。車の中、頭の上の電気ひとつで照らされている私たち。夜明けがもうすぐそこまで迫っている気がした。
 怖いのだ。尾形さんは、きっと、私と向き合うことが怖いのだと思う。薄い膜のように張られた彼の感情にそっと触れてみる。同じ生き物じゃなくても、生まれた場所が同じじゃなくても、大丈夫なのだ。少なくとも、今、この瞬間は怖がることなど、何もない。

「尾形さんが思うことを、素直に言ってください」
「思う、こと」
「なんでもききます。私にとっていいことでも、嫌なことでも」

 彼のことを知るまでは私も怖くてたまらなかった。彼の口から彼の言葉で否定されてしまうことが。あんたのことなんか好きじゃない、とはっきり言われてしまったらきっと泣くだろうという確信があった。でも今は違う。
 彼の揺れる瞳と噤まれた言葉の理由を知ったから、もう怖くはないのだ。

「——アンタが、好きだ」
「はい」
「だから、アンタを守りたかった」

 揺れる瞳に、直接触れることができたらいいのに。そんなふうに誰かに対して思ったのは初めてだった。
 嬉しくて私が笑えば、尾形さんも微かに笑う。二人の間に置かれた手に、自分のそれを重ねてみれば確かにひとの温度がする。何が違くても、彼には体温があって、生きていて、その動く心で私をちゃんと思ってくれている。それ以外の何が違くても、そのことさえ確かなら、これ以上、何を望むと言うのだろう。