知らないことは怖い。知ろうとするのも怖い。知ってしまったら最後、引き返せないことは知っているから。


 彼女の助けになりたかった。彼女の安全を脅かすすべてのものから彼女を守り、悪も闇も不幸も知らないところで生きてほしい。ただそれだけだった。そこに下心や欲が全くこれっぽっちもなかったとは言わないけれど、でも、彼女の幸せを祈る、その純粋無垢な気持ちに嘘はない。

 だからこそ、尾形は困っているのである。

 恋をした。長い長い、星の一生よりは短いくらいの人生で初めての恋だった。尾形の目の前に春が来て、それは人の形をしていた。名前があって実体を持ち、よく笑い、鈴や小鳥のような心地の良い声で話をした。命長いばかりに、何かを長く続けようなどと思わなかった一生で、たった一人をずっと見ていたいと思う日が来るなんて思わなかった。

 しかして、それは春の空の雷であった。。
 嘘偽りのない気持ちで、彼女を守りたいと言った。守られることに遠慮は要らないのだと告げたかった。彼女のちょっとばかり不運なことを除けば、最近起こる恐ろしい出来事は皆尾形のせいなのだから。
 だというのに彼女が言うのだ。今にも泣きそうな顔をしながら、ぎゅっと顔に力を入れて必死に泣くまいとして。「尾形さんのことが好きだから」と。聞き間違いでも幻聴でもなく、はっきり彼女がそう言ったのだ。

 唐突に雷に打たれ、返す言葉を失った。持っていなかったと言うのが正しい。頭が追いつかず、固く結んだ口を開けなかった。
 そうしたら何を勘違いしたのか彼女がハッと傷ついた顔をして、それから「ごめんなさい」と言って去った。もう夜で、一人で帰るには危ないから送って行こうと思っていたのに、それすら言い出せなかった。情けない話である。

「——で、なんでそんな顔してるの?」
「ウルセェ」
「辛辣ぅ」

 尾形の気はそれからずっと立っている。いつ、うっかり能力で物を動かしたり、ぶつかった人を吹っ飛ばしたりしないかとヒヤリとするほど。
 そんなことなど気にも留めない唯一の男が、カウンターに頬杖をつきながらアイスコーヒーを飲んでいる。季節感なくいつもつるりと涼しげな坊主頭をした男は、暑い日も寒い日もアイスコーヒーを飲んでいる。
 尾形はあまりにも気が立っていたので、ツケのことなど忘れてそれを出した。白石はラッキーと思って特に指摘もしなかった。

「告白されちゃったんでしょ? 良かったじゃん」
「……返してない」
「ん?」
「返事。言う前に帰られた」
「……それで?」
「それから音沙汰なし」

 それまで涼しい顔して話を聞いていた白石が、うげぇと露骨に顔を顰めた。男の素直な表情筋に渾身のパンチを喰らわしたい衝動を、尾形はぐっと堪える。そんなことをしたら白石の首から上がなくなってしまう。尾形は地球人ではないが、戸籍を持っているので何かすれば警察には捕まるのだ。

 白石は、尾形の話を聞きようやく男の気の立ちように深く納得する。なるほどこれは面倒なことになった可能性がある、と。
 言われた時、すぐに尾形が「俺も」と言っていれば丸かった。でも妙に深刻そうな顔でもしたのだろう。努めて表情を柔らかくしている時以外、尾形の顔は一般的に“怖い”に分類されるから。それを悪い方向に勘違いした相手が、『告白が嫌だったのだ』と思って逃げた。そりゃそう。白石だってそうする。男は逃げのプロなので。

「フラれたと思っちゃってるんだねぇ」

 白石の言葉に、尾形は何も言わなかった。ウルセェとも黙れとも。自分でも分かっているはずだ。年の功か、必要以上に賢くて聡い男である。
 今回ばかりは尾形に同情する。これが普通の男であるなら、女の子の勇気を無碍にしやがってと言いたいところだが、男は恋を知らない異星人なのだ。恋を知るここ数ヶ月まで、白石の考えも及ばないほど長い時間を一人きりで過ごしてきた。
 だから自分が好意を抱く相手に「好きだ」と言われたって、うまい返しをすぐに見つけられるはずがない。分からないけど分かる。

「尾形ちゃんはどうしたい訳?」

 つまり、ここまで来るとそれ次第であると白石は思った。前に進むも後ろに退くも尾形次第なのである。
 尾形はすんとした顔で考えていた。自分がどうするべきか。何が最善か。尾形は異星人で、長いこと同じ場所にいる訳にはいかなくて、おまけに今現在は変な奴らに付け狙われている。
 何を切り取ってみても、彼女と一緒にいていい理由がない。自分が全くの他人であったとしたら「さっさと離れろ」と即座に口にしたはずである。それが自分自身に言えないから苦しんでいる訳だが。

 たっぷり一分か二分、あるいはそれ以上思案した。焦らせることはしない白石は、尾形の気持ちを尊重しているのではなく、単純に二十秒を過ぎたあたりで一旦興味を失っただけである。

「……傷つけるのは、嫌だ」

 そうして悩んだ末に出した答えは、驚くほどすんなりと受け入れることができた。そうだ。そうである。今後のことは置いておくとして、単純に尾形は彼女を傷つけたくはないのだ。何せあらゆるものから守りたいと願っていたくらいなのだから。
 だから今、もうすでに彼女が尾形の行動を理由に傷ついているのだとしたら、それは何としても癒さねばなるまい。考えていることは勘違いだと告げて、アンタの好意に答えたくない訳じゃない、と言うべきである。彼女という人間を否定するものは、たとえ自分であっても許せない。

「そっか。じゃあ、その気持ちに従えばいいんじゃない?」

 理解のある人間のような顔で白石がそう言った。本音はもう興味の半分近くを失っているので、ここらで話をまとめようと思っただけ。あとはどうにかツケを減らせないかと考えてる。紛うことなき下心だった。

◆◇

 上手く生きられている自信などなかった。ただ命が長い種族であっただけ。生きることに長けていれば、生まれ故郷の星を飛び出して何億光年先にある星へ移り住んだりしていない。
 生まれた星が違うという根本的なことではなく、生来の気質として人と関わるとか、そういうことに不向きなのだろうと思う。友達付き合いですら怪しいのに、恋や愛など論外だ。

 今の現状は、当然の結果である。
 恋の仕方を知らぬ赤ん坊であるから、彼女を困らせ傷つけている。勇気を出して好きと言ってくれたのに無碍にした。今頃どんな顔をしているだろう。想像するだけで胸が詰まる思いがする。尾形のせいで、あの美しい春に雨が降っていたら。尾形の気持ちまでどんよりと曇りだしそうな勢いだ。

 どうしようか悩んで、尾形は待つことにした。店でではなく駅で。
 いつもは店で待っていた。彼女があの扉を開き、「こんにちは」と言ってくれるのを。でも、もう一ヶ月近くあの扉を押し開ける白い手を見ていない。であるならば、今度は尾形の方から彼女を待つべきなのだ。確実に会える場所で。家の前だと怖いだろうから、最寄駅にした。人が多くとも、確実に見つける自信がある。

 尾形は待った。彼女がその日駅を使うかも知らないし、使ったとしてそれが何時になるかも知らないが、どうあれ、何日でもそこで待っていればいつか会えると考えて。
 駅の改札から外へ出るところ。駅の入口が一つしかないのは幸いだった。分身はできるがあれは体力を消費するので長期戦には向かない。
 待ち続けて、5時間経った。駅の前で立ち続ける男を道行く人は不思議に思ったが、皆一瞬で過ぎ去っていくので、その男がまさか5時間その場所に立っているとは思わない。尾形の長い長い一生で、5時間など瞬きであるはずだった。なのにそれが一生のうちで一番長く感じた。あれも違う、これも違うと星から星へ渡り歩いていた時の方がずっと短かかった。

「……尾形さん?」

 そしてその軽やかな春を耳にした時、尾形の永遠にも近い5時間は報われたのである。何も持たず、突っ立ったままの男に怯むこともなく話しかけてくる。その顔には多少の驚きが見てとれた。
 一ヶ月ぶりに見る彼女の顔はこれほどまでにと疑う程度に愛らしかった。どうしてだろう。どうして彼女だけが、他の誰とも違う愛しさを持っているだろう。尾形には分からない。それが恋をしているからだと言われても、そう簡単に納得できない。恋とはつまり混乱なのか。

「元気、だったか」
「はい。尾形さんも?」
「ああ。変わりない」
「今日はどうしたんです? 誰かと待ち合わせですか」

 腹に力を込めて、心うちの混乱を目の前の相手に悟らせまいとした。「アンタを」と切り出した声は情けなく細いものだったけど、彼女にはちゃんと聞こえたらしい。驚いた顔がその証拠。

「アンタを、待っていた」

 なんで、と彼女の顔に書いてある。
 ここで彼女を待ったが、肝心の話をこんな場所でする気はなかった。長くなるのだ。だから尾形は、彼女に話がしたいのだと告げた。ここではしない、できない、とも。
 訳を知らない彼女は少しだけ困っていたが、それでも素直に尾形の提案を受け入れて、二人は次の土曜日の夜、会う約束をした。
 そこで尾形は腹を決めた。それが最後の夜になるかもしれぬという予感もある。それでも悔いのないように。彼女の心に傷ひとつ残さぬように。尾形は行く先を決めたのだ。



「へぇ、ちゃんと逃げずに来たじゃん」

 胸元から取り出したのは煙草とライター。ベロア調のソファに腰を下ろすと同時に尾形は煙草に火をつける。壁際に置かれた銀色の灰皿を引き寄せて、吸っていいかの確認などするはずがない。一部を除き、尾形は不遜な男である。何せ異星人。怖いものなど地球にはない。
 尾形の向かいに座る男。宇佐美は派手な柄のシャツを着て、怪しげな微笑を浮かべている。格好はさながらヤのつくそれで、喫茶店の店員からは普通に怯えられていた。どう考えてもお近づきになどなりたくない二人である。尾形は煙草に火をつけるなり、遠くで待つ店員に「こいつと同じものを」と注文し、光の速さで出てきたホットコーヒーに口をつける。味は悪くなかった。自分の店のコーヒーの方が十倍美味いが。

「用件は」
「ん〜? もう知ってるんじゃないの」
「話す気がねぇなら俺は帰るぞ」

 尾形の凄みにも動じない。宇佐美はニタニタと笑みを浮かべたまま、不機嫌な男を見据えた。あと10秒。それでこの男が用件を話し出さなければ本気で帰る。尾形がそう決めたところで、コーヒーカップから手を離した宇佐美の口が開かれる。いつも笑っているように見える、へんな形の口だと思った。

「うちのボスが会いたがってる」

 ジリジリと、煙草が秒針を追うようにして短くなってゆく。ああ、そうだろうなと尾形は宇佐美の言葉に息を吐く。あの手この手で尾形の気を引こうと必死なのだ。
 彼女の最初の誘拐もおそらくはセブンとかいうこの男たちの集団が裏から手を回したものに違いない。麻薬のディーラーが尾形百之助に何の用があるかは知らないが。

「……会いに来りゃいいだろう」
「人の目があるところでは話せない」
「じゃあ諦めるんだな。俺だって暇じゃねぇ」
「お前を連れてくるのが僕の仕事なんだけど」
「んなこと知るか」

 用があるのは向こうだけ。ならばそっちが出向けと突っぱねた。尾形の言うことは最もである。しかしそう簡単に出向いてくるような男なら、今までこうも回りくどい真似はしていないだろう。
 宇佐美は、やれやれとため息を吐く。その後に続く言葉は、言われずとも想像がつく。今日、尾形がわざわざこの喫茶店に呼び出された理由と同じであるから。

「——彼女、かわいいね」

 ほら。やっぱり。

「お前のこといたく信用してるみたいだったし? 分かるでしょ」

 くそだと思う。尾形は心の中で男に唾を吐きかけた。この手の輩は皆やり口が同じで吐き気がする。人の弱みにつけ込んで、あたかも自分自身が強いような顔をする。尾形にどれだけの力があろうと、完全ではない。尾形は完全体ではないのだ。
 完全ではないから、“絶対に”彼女に危害が及ばないようにすることは不可能なのである。絶対がない限り、尾形は彼らの言うことを「勝手にしろ」と突っぱねることはできなかった。

 それが人間一人に恋をした、己の背負った業である。