たくさんの星と宇宙を超えてきた。あの長い旅の終着点が君だった。君に出会うために、この星に導かれたのだと信じたい。


 恋とはままならないものである。感情が幾重にも重なって制御できず、とてもじゃないが正気などいられない。尾形が今まさにそうだった。
 いわゆる片思いという状態ですら、心が揺り動かされて大変であったのに、彼女もまた自分を好きであると知ってしまったら、それはつまり両思いなのである。尾形は「両思い」と口にして、中学生のようにその事実に胸をときめかせてしまった。何せ恋は初めてなので。

 両思いの男女がどうなるのか。経験はないが知っている。お付き合いというものを始めるのだ。
 その事実は知っていて、それが具体的にどういうものかはあまりよく知らないまま、尾形は彼女に「わたしたちって付き合うってことでいいんですよね」と訊かれて頷いた。彼女とお付き合いがしたかった。両思いからお付き合いにステップアップするには、双方の同意が必要らしいということも、尾形はついこの前知ったけれど。

 そういうわけで、赤子のように右も左も分からないまま恋人になった尾形を、彼女は決して笑わなかった。そういう人間であるから好きになったと毎秒尾形は彼女への恋心を膨らませている。
 デート、しませんか。
 ある日、彼女がそう言った。手始めに恋人っぽいことから始めてみるのがいいと考えたのである。

「……デートっていうのは具体的に何をするものだ」
「二人で出かけたりとかですかね」
「これは?」
「え?」
「今のこれはデートじゃないのか」

 尾形は、自分の店でカウンター越しに二人きりである状況を指して言った。いつも通りにほど近いが、家ではない場所で二人きりというデートの定義的な部分は満たせているような感じがある。

「デートに正解なんてないですから、いいですね。これもデートです」
「……?」
「でもたまには、その、……ここ以外の場所にも行きませんかっていう、お誘いで」

 彼女が顔を赤らめながら、ちょっとだけ俯いて尾形にもう一度デートに誘った。可愛いなと思う。彼女は尾形の春なのだ。永遠に花が咲き、暖かく、いい匂いがする。それが彼女である。尾形の春である彼女が、今は恋人である。
 尾形の心は表面上まったくそう見えないまま大きく脈打ち、それから沸騰しそうな勢いで血を動かした。これが恋か。これが恋人か。なんと恐ろしいのだろう。これは容易く命を奪える類のそれである。尾形は震えた。震えながら、かわいい恋人のデートの誘いを了承した。



 尾形は何も知らない、恋愛では赤子同然。そういう自負があった。
 しかし、これだけは分かる。今の状況は、デートに相応しくない、と。

 場所は繁華街から車で30分離れた山道一歩手前の古びたビル。彼女と約束していた映画館ではない。何故、どうしてこうなってしまったのか。隣で息を殺して目をぱちくりさせる彼女の横顔を見て、尾形は大きくため息を吐き出した。初めてのデートはお預けである。

 こんなはずではなかった。そんなことを言い出しても仕方のない話だが、本当に今日はただのデートの予定だったのだ。店の前で待ち合わせをして、電車で近くで一番大きなショッピングセンターに行こうと話をしていた。尾形には馴染みがなかったが、そこには映画館もレストランも洋服屋もあって、いかにもデートらしい気分が味わえるという。
 楽しみにしていた。駅で、……怪しい黒づくめの男たちに取り囲まれるまでは。

 人目があったのだ。それがダメだった。周りに人がいなければ能力で吹っ飛ばすなり移動するなり殺すなりできる。しかし、あの時、周囲に人がいて、隣には彼女がいた。
 もちろん向こうもそれを見越して、あの場で声をかけたのだろう。車の中から顔を出した、薄気味悪い笑顔を浮かべる男は頑として自らの仕事を全うしたいようだった。

「デート中ごめんね」

 尾形は心の底から死ねと思った。しかし、口には出さなかった。

 ビルの中は寂れていて、ぬるい風が吹き込んでいる。スーツの男たちに囲まれたまま、宇佐美を先頭にして中へと進んでいく。不安げに尾形の半歩後ろを歩く彼女は律儀に声の一つも漏らさなかった。

「ボス、連れてきました」

 寂れてボロボロの室内で、一際目立つ重厚な扉。その奥にいる人物の重要性が如実に表れていて悪趣味だ。
 入れ、と低い声がする。中から音を立てて扉が開く。暗い廊下に室内の光が流れ込み、汚い床の汚れが浮かび上がった。

 先頭にいた宇佐美から目で促され、尾形と彼女が部屋の中に足を踏み入れる。後ろにゾロゾロとついてきていた男たちにとっては超えてはならない線なのか、部屋の中までは着いてこない。尾形と彼女、それから宇佐美だけが室内に入った。

「——やあ、尾形くん。会いたかったよ」

 上品な髭を蓄えた紳士が、一人、部屋の中央に置かれた椅子に座り、机に両肘をついている。後ろから「ヒッ」と声が聞こえてくる。尾形の心中は実に冷静だった。なにせデートを邪魔されたのだ。燃え上がる怒りは、長すぎる片道にてとうに鎮まっていた。研ぎ澄まされた異星人の類い稀なる集中力は、今、事態の収拾のみに注がれている。

「何の用だ」
「そう結論を急がなくてもいいだろう」
「あいにく暇じゃないんでな。呼びつけたなら早く済ませろ」
「おいお前、ボスに向かってなんて口の利き方を、」
「宇佐美」

 “ボス”と呼ばれた男に名前を呼ばれ、宇佐美はすぐに口を閉ざす。気狂いではあるのだろうが、従順な部下でもあるらしい。もしくは、この得体の知れない男を崇拝しているか。いずれにせよ、尾形には馴染みの薄い感情である。

「……ふむ。では単刀直入に言おう、——私の仲間にならないか」
「断る」
「そう早まらないでくれ。君のことは知っているよ」

 男の鋭い視線が尾形へ向けられる。尾形は嫌な予感がしていた。それは一種の勘である。その先を聞くのは良くない。己の勘がそう告げている。しかし、近くには宇佐美が控え、背後にはあの重い扉で塞がれている。まして彼女が一緒なのだ。逃げ出すのは容易ではない。それにここで逃げても居場所はバレている。結局同じことを繰り返すだけである。

「CPX589003、……あれはいい星だ。なぜ、ここへ越してきたのかな」

 尾形の嫌な予感が、確信へ変わる。考えうるさまざまな可能性の中で最悪のものだった。CPX589003。この場の誰の耳にも馴染みのないはずのその文字列は、尾形が生まれた星の通称である。数多、銀河に存在する惑星に付けられた通し番号だ。

「何者だ、お前」
「君の仲間だよ。怖がらなくていい。私も、遠くから来たんだ」

 男の長い指が空を指す。正確には天井だったが、尾形の背後にいた彼女は、その指先にあの夜の宇宙を思い出す。尾形も同じように宙を指し、そこから来たと言っていた。それと同じ、尾形の仲間だということは。

「……異星人?」
「ご名答!」

 ポツリと彼女が漏らした声に、尾形は苦虫を噛み潰したような顔をして、男は大きく口を開けて笑った。不気味だった。尾形は最悪の気分だった。
 それが嘘であるならいい。頭のおかしな人間の妄言であるならいい。しかし、そうではないのだと尾形の、生まれながらの本能が警鐘を鳴らしている。この男はダメだ。近寄ってはいけない。関わってはいけない。必ず、面倒なことになる、と。

「尾形さん、」

 尾形が後ろ手に彼女を自らの背後に隠した。怯えている。当然だ。こんな恐ろしい場所で、いるのは異星人2人と、一番言葉の通じなさそうな人間1人である。怖いに決まっている。

「正体を明かし、俺を仲間にして、何がしたい」

 尾形も同じ立場であるからこそ分かる。ここで正体を明かすことのリスクの大きさを。誰も信じないのが前提ではあるが、それにしても自分たちには地球人には備わっていない能力がいくつかある。それを人は超常現象と呼ぶが、何かの拍子でそれが本物だと知れたら。
 かつてない混乱を招くのだ。それはいけない。尾形は平穏に生きていたい。

「——戦争だよ」
「えっ」
「は、」
「金を稼ぐ。国を建てる。この星に、私と君で力を合わせて国をつくるんだ」
「くに……」
「興味ねえな」
「分かっているはずだ。私たちなら、それが出来ると」

 尾形の背後で、彼女がごくりと唾を飲み込んだ。

「返事は?」
「断る」
「よろしい。ならばまずは手始めに、君と戦争を始めようか」

 ——この星で。
 尾形は、彼女の腕をぎゅっと掴んだ。彼女も怖いのか、尾形の手を強く握り返す。もうこんな野蛮な話は聞いていられない。尾形は力を体の中に溜め込み、息を吐くと同時にそれを放つ。体が宙に浮かび上がるような独特の感覚。
 そうして尾形は、彼女と共に部屋から消えた。

◆◇

 その場しのぎである。相手は同じ異星人。どんな力を使えるかなどとっくに把握されているだろう。
 しかし、当然だがこの星の異星人の能力を押さえ込むような技術は発達していない。その場しのぎでも、屋外に出られたら十分だ。尾形は、彼女を片腕に乗せ走った。ガタガタと揺れながら走る車よりも、背を押す風よりも速く走った。彼女は何のことか分からずに目を回している。

「これって夢ですか」
「ならよかったんだがな」

 あいにく、これはれっきとした現実である。
 彼女にとってすれば、好きになった相手が異星人であったことも、その男をきっかけに別の異星人と出会ったことも、何もかもが非現実的な話のはずだ。今、細い腕でしがみついている風よりも速い恋人も、完全な地球外生命体なのだ。

「すまん。巻き込んだ」
「みたいですね」
「これからどうなるか、俺にも分からん」

 尾形は走る。もうすぐ大通りに出る。まだ追いつかれていない。ということは、あの連中のうち異星人であるのはボスと呼ばれていたあの中央の男だけである可能性が高い。それならまだ。いや、望みはかなり薄いが。

「大変なことになっちゃいましたね」
「運の悪い女だな」
「本当に。これからどうなるんでしょうか」
「……別れるか?」

 尾形は走る。別れたくはない。しかし、何よりもまず彼女の安全を守りたい。彼女は尾形の春なのだ。傷つくことなど許さない。彼女にはいつも朗らかな幸いの中にいてほしい。

「まだデートもしてないのにですか?」
「はっ それもそうだ」

 尾形は走る。希望が見えてきた。彼女だった。彼女は尾形の春であり、恋人であり、光である。己を包む星よりも強い光。それは眩しいが、手の中にあると思えば離し難い。自分の首に巻きつく細っこい腕が、尾形から離れていくことを想像すると、肝が冷えるのだ。

 いざとなればやるしかない。
 尾形は走りながら決意を固める。まだ口には出さない。異星人同士が、生まれ故郷でもない土地で戦争を始めようなど、今どきSF映画にもない展開である。誰も信じないだろうが、唯一、この世で尾形の全てを信じる人間がいる。
 尾形はその人間をあらゆる困難と災厄から守ると決めているので、今はまだ、口には出さずに、彼女の安心のためにひた走った。

「星から来た」 〆
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