日毎に募る思いを色にすれば淡い光の色をしていた。そしてその色で描いた絵は、あなたと同じ顔をしていた。私だけの神さまと、同じ顔。


 日常は取り戻された。穏やかで、平穏。
 乗り遅れると思って乗った電車が全然違う方向へ走り出したり、銀行のATMに傘を置き忘れた日に限って雨が降ったりしたけれど、それは平和そのものだった。あの恐ろしい事件の前にも、そんなことは日常茶飯事だった訳だし。
 というか、そんなものはまだマシな方で、早帰りの日に現れる変質者や落ち込んだ日にやたらかかってくるクレームに比べたら、うんと可愛い悪運である。

 仕事というものはうんざりするのが常で、それ自体は致し方のないことだと割り切れる。楽しいこともあるけど、それはほんの一握り。職場の人の大体がいい人だから続けているだけで、ちょっと嫌な人との比率が逆転したらいつ辞めてもいい。そんな気持ちで仕事をしている。子供の頃に見たような気がする、『仕事には人生懸ける価値がある』みたいな広告って一体なんだったんだろう。

 だからうんざりした仕事のない週末には、癒しを求めて散歩に出る。
 散歩コースは大体決まっていて、家を出て川沿いの道を歩く。四季折々の花がその道を彩っているのがなかなか気持ち良く、歩くたびに誰が管理しているのだろうと疑問に思うが、ただの一回も土いじりをしている人を見たことはなかった。

 川沿いの道をずっと行くと、尾形さんの喫茶店がある。こじんまりとした見た目だが、レトロな雰囲気が可愛いらしい。重い扉を押し開けると軽やかな音が鳴り、奥から「いらっしゃい」と低くじんわりとした声が聞こえてくる。それだけで週の疲れのほとんどは吹き飛んだ気持ちになるから、私ってやっぱり単純だ。

「こんにちは」
「ああ。いつものか」
「今日、チョコレートラテあります?」
「ある」
「じゃあ今日はそれをください」

 店には、私の他にお客さんがもう一組。奥まったテーブル席に老夫婦が座っている。
 シワシワの顔を突き合わせて、ああでもないこうでもないと何か熱心に話をしている。その姿をチラリと視界に収めて、私は改めてカウンターへ向き直る。幾つになっても、ああして二人で外に出て、いい雰囲気のカフェで休憩し、楽しそうに話をするのは、きっととても幸福なことだ。
 羨ましい。その感情は、ありふれた、しかし得難い幸せな未来を夢見るただの女として抱いたもの。
 その相手は。考えて、その最中にうっかり顔を上げたから尾形さんと目が合った。向こうもたまたま私を見ていたらしい。不自然にも「あ」なんて声が出て、彼が「ん?」と反応してしまう。黙って目を逸らせば、それで済んだことだったのに。

「いや……あ、あのご夫婦も常連さんですか」
「来るのは2回目くらいだが、近所に住んでるらしい」
「そうですか、いいですね。なんか」

 私のチョコレートラテをつくる尾形さんが、目で「なにがどんな風に」と問うてくる。思っていたことを明け透けに言葉にするのは恥ずかしいけど、でも、今は上手い他の言葉が見当たらない。最近の私はどうにも変だ。特に、この人を前にすると。

「ああやって、年を取っても仲良くいられるの。素敵です」

 尾形さんと、そうなりたいって意味じゃないけど。でも、さっき想像の中には確かに私の前に尾形さんがいた。だから余計に恥ずかしくて、顔が火照っているのは分かっていたけど、でもどうしようもなかった。
 その時は自分のことに精一杯で、尾形さんが少しだけ悲しそうな表情を見せたことに、私は気付けなかったのだ。

◆◇

「それって好きってことなんじゃないの?」

 あっけらかんとそう指摘され、私は肩を落とした。的外れだったからではなく、きっとそうだろうという思いが私の中にもあったから。ズバリ言い当てられると、もう言い逃れができないような気がする。認めてしまわないと不誠実な気さえしてくる。不思議だ。昨日まで、彼女に会う前までは、まだ知らないふりができるという自信があったのに。

「……やっぱり?」
「うん」
「でも、店長と客ってだけだし」

 自分で言って悲しくなった。私と尾形さんを繋ぐものはあまりに心許ない。あの店だけが私たちの繋がりなのだ。例えば私が引っ越しをしてあの店に行かなくなれば、すぐに縁は切れる。会うことも話すこともなくなってしまう。それは寂しい。
 それに例え私がしつこく通っても、二人の距離はずっと、変わらないような気がしてしまう。私にとっては唯一無二のお気に入りだとしても、尾形さんにとっての私はたくさんいるお客さんの一人に過ぎない。

「それがなんかの理由になるの」
「なんかって」
「例えば諦めるとか、告白やめるとか」
「それは、……ならないけど」
「じゃあいいじゃん」

 彼女はいつも私の味方でいてくれる。彼女もまた私にとっての『いい人』だった。いい人だからずっと友達でいたいし、そのためにお互い気づかせない程度の努力を多分している。そんな彼女に、それが何だと弱気を吹き飛ばされてしまったら、単純な私は「そうか、いいのか」と思い直してしまう。それからもう少しだけ頑張ってみようかなんて思い始めて、気付けば、私を救ってくれた背中と声を頭の中に描くのだ。

 あの時、尾形さんが神さまに見えた。あるいは天使。いずれにしろ救われた。
 この感情が感謝と尊敬を混濁してしまった果てに生まれたものなら、いつかその魔法は解けるのだろうか。それとも。そうではなくて、初めから存在していた思慕に、ただ、私が余計なものをたくさん乗せてしまっただけなら?
 神さまを好きになったら。私は、一体どうなってしまうんだろう。



 週末以外に、そこに足を運ぶことはほとんどなかった。だから、あの喫茶店が夜の何時まで営業しているかも知らない。いつも日の出ているうちに訪れて、それが沈むと同時に帰っている。
 だから、少し覗くだけ。駅で降りた時、自分にそう言い聞かせる。覗いてもしまだやっていたら一杯だけコーヒーをもらって、終わっていたら、それはそれで構わない。家へ帰る道を少し外れて、川沿いの道に出る。夜になると人が少なくてちょっと不気味だけど、大きな道路も近いし、まあ大丈夫だろう。店はすぐそこだ。

 そう、確かに私に油断があった。自分の運の悪さなんて忘れてしまって、“大丈夫”なんて何の根拠もない自信と慢心があった。
 川沿いの道。誰かが、行く先に立っている。気づいて避けようとしたら、目の前の立っていた人がくるりと振り返って、こっちを見た。坊主頭の、唇の両端に黒子のある、一度見たら忘れられなさそうな顔の男の人。そのギョロッとした目は、確かに私を捉えて、唇はゆっくりと弧を描く。

「……いた、」

 知らない人だ。でもなぜか、頭の中に『見つかった』という言葉が浮かぶ。
 誰に? 探されてもいなかったはず。少なくとも心当たりはない。でもなぜか、その人がただの他人で、私とはまるで関係のない通行人であるとは思えない。私を見て笑いながら、確かに「いた」と言った。それは私を探していたという意味で。

「私に何かご用ですか……」
「君っていうか、君の知り合いに用があるんだけど」
「知り合い?」
「尾形百之助って知ってるよね?」

 知らない人だと、言うことは許されないだろう。言ってもないけど確信がある。でも、ここで簡単に「知ってますよ」と言うのは不用心な気がした。「あそこの店のマスターで、」なんてこの人に言ったら、何か取り返しがつかないような。淡い予感。拭い去れない。だから、口を開けない。

「——知ってるよね?」

 もう一度、男が念を押す。男の人は怖い。自分より背が高くて力が強い。笑っていても何を考えているか分からない。本当はとても怒っているかもしれないし、私が知っていると言ったらまた攫われるかも。怖いのは嫌だ。でも、あの人を危険に晒すのも、同じくらい嫌だ。
 魚のような目から逃れるように下を向く。ダンマリを決め込むことがすなわち肯定の意になっていることは承知の上で、それでも言葉にするのは躊躇われた。

「俺に何の用だ」

 まただ。

「あら本人登場じゃん」
「用があんのは俺なんだろ」
「そうだけど、聞きたいことがあったんだよ」

 私の前に、背中がある。夜に浮かぶ煙草の火。それがぽいっと地面に捨てられて、茶色の靴底がそれを踏み消した。
 また、私を守るようにして立ちはだかる背中がある。私を救うための声がある。私の目の前に、私だけの神さまがいる。

「おい、」
「は、はい」
「店で待ってろ。これ鍵」
「鍵、」
「開けて入れ。すぐ行く」

 手の中に銀色の鍵が捩じ込まれ、さっさと行けと彼が背中を押す。私は2回振り返り、それでも尾形さんの奥に立つ男の人の顔が怖くて、早足で店へと向かった。結局、あの恐ろしい人の前に尾形さん一人を残して来てしまった。そうならないようにと頭を捻っていたのに。
 でも、あの場にいて私にできることなんか何もなかっただろう。だから彼も行けと言ったのだ。だったら言うことに従うのが一番いい。でも。

 10分。15分は経っていなかった。
 店のガラスをこんこん叩く音がして顔を上げると、尾形さんがいる。
 私は慌てて立ち上がり、鍵を開け、店主を中に招き入れた。頭から爪先まで尾形さんを見て、怪我のないことを確認し、分かりやすくホッと息を吐いた。物騒な話し合いにはならなかったらしい。

「大丈夫でしたか」
「問題ない。アンタは」
「私はただ話しかけられただけなので……」

 尾形さんはそうかと言って、いつものようにカウンターの中に入っていく。店のイスは全てカウンターとテーブルに上に上げられていて、とっくに店仕舞いが終わっていると分かった。一脚だけ。私のためのように残ったままのイスに、促されるようにして座った。

「これ飲んだら帰れ。家まで送る」

 グラスコップに入ったアイスカフェオレ。ブラックは苦手だと知っていて、わざわざミルクをたっぷり入れてくれた。自分の手元のグラスは綺麗な深茶色なのに。
 情けないと思う。大人になっても人に心配をかけて助けてもらってばかりだということを。それでも助けてもらって嬉しいと思っている。

「いつも、すみません」
「謝らなくていい」
「でも、私尾形さんに迷惑ばっかりかけて」
「いい」

 強く、尾形さんが言い切る。猫みたいな目の中に、情けない顔をした私がいる。そんな顔見せたくない。でも、彼の前で嘘をつくのも無理をするの嫌だ。嫌なことばっかり。恋ってこんなに難しいんだろうか。もっと楽しくて、キラキラしたものが恋だと思っていた。

「いいから、期待して」
「え?」
「アンタが危ない時は、俺が助ける」

 苦しい。それなのに泣きたいくらいに嬉しい。彼が眩しい。私だけの神さまが、柔らかな微笑を湛えてそこにいる。私をまた助けると言う。私が前に、期待してしまうなんて無責任なことを言ったから。

「私、本当に尾形さんに迷惑かけたくないんです」
「迷惑じゃない」
「助けてもらってばかりじゃなくて、私もあなたの助けになりたい」

 泣きそうだった。もしかしたら泣いてしまえば楽だった。
 でもその前に、なけなしの理性が顔をぐしゃぐしゃにして押し留める。

「私、尾形さんのことが好きだから」