遥か宇宙の彼方から来たのだ。何億光年の距離を越えて。何百年も生きてきた。たった一人で。


 夏も終わりになった頃、外にはまだじんわりとした暑さが残り、店のドアが開くたびに残暑がじめっとした空気と共に流れ込んでくる。
 尾形の店を訪れるのは、もっぱら常連客ばかり。見知った顔が、暑い暑いと言って手で顔に風を送りながら入ってくる。見た目はつるりと涼しげな坊主頭。白石である。

「尾形ちゃーん、暑い。アイスコーヒーちょうだい」
「却下」
「なんで!?」
「お前、ツケはどうした。あ?」

 今度払う、今度払うを繰り返して白石のツケはゆうに一ヶ月分の店の売上ほどまで膨れ上がっている。これ以上は到底看過できない。尾形はこれまでの白石の働きぶりに免じて、支払いに関し甘やかしていたことを恥じた。それとこれとは別だ。そもそも白石の仕事、——俗に言う情報料——には別に金を払っている。

「注文する金がねえなら出ていけ」
「ひっどくな〜い?」
「黙れ」
「もう、せっかくいい話持ってきたのにさぁ」

 『いい話』。白石の言葉に、尾形はピンと動きを止めた。ぎろりと大きな目玉が白石を睨む。そんなことにすでに慣れた白石は、へっちゃらな顔で口笛まで吹かせている。腹立たしいことのこの上ない。この上ないが、白石が自ら『いい話』と言った時にはハズレがないのもまた事実なのだ。

「ね、アイスコーヒー2杯でいいよ」
「……なにしれっと1杯増やしてんだ」
「だってアチーんだもん」
「……ちっ」

 尾形は大きく舌打ちをして、アイスコーヒーを並々注いだグラスをカウンターへ置く。勢いが強すぎて若干こぼれたが、そんなことを気にする男2人ではない。邪魔が来ないように店外のプレートをピピっと「close」に変えることも忘れずに。

「あ〜生き返った」
「さっさと話せ。手短に」
「もう、そんな焦んないでよ」

 白石はヘラヘラしていて、尾形はイライラしていた。
 焦っているのではない。ただ、今日はおそらく彼女が店へ来る日だ。あと1時間は余裕があるだろうが、彼女が来た時、プレートが「close」のままでは立ち寄っていかない。それが嫌なだけ。

「例のかわい子ちゃん攫った奴らだけど、やっぱり尾形ちゃん絡みだね」
「だろうな」
「この店のマスターがセブンだって噂が広がってるみたい」
「……セブン?」
「最近大物相手にしてる麻薬のディーラー」

 なるほど、あらぬ疑いのせいで尾形へ裏社会の目が集中しているという訳だ。
 尾形は自分用にいれたアイスコーヒーを飲みながら、また強く舌を打つ。それでなんで彼女が攫われたかなど、わざわざ聞くまでもないことだ。この店で尾形が懇意にしている女。——ただ、それだけで女を攫うだの殺すだのと飛躍した話になるような馬鹿が、この時代、薬物なんぞに手を出している。それだけの単純な話だ。

「噂の出どころは」
「不明。でもあやしーんだよね」
「なにが」
「えーそこまで言うならケーキも」
「ツケ」
「あーあーわーったよ」

 白石はズーズー飲み干したアイスコーヒーのグラスをカウンターに戻す。流れるようにそこにはもう一杯分が追加される。情報料分はこれで最後だ。

「出どころの正体が掴めなさすぎてあやしーの。俺っちの勘だけど、セブン本人が噂流してる」
「七面倒なことに巻き込みやがって」
「苦労するね、異星人は」
「ほっとけ」

 白石が、アイスコーヒーの最後の一滴を飲み干して笑う。軽薄な笑い方が、カラリと店内に響いた。白石由竹という男はどこまでも金と女にだらしないが、その反面誰に対してもフラットだった。
 100億の借金があっても、人殺したことがあっても、地球生まれじゃなくても、誰にでも同じように話しかけることができる。誰でも容易く受け入れられる素直さというものを持って生まれた男。そうでなければ偏屈を煮て固めたような異星人と、気安く軽口を叩き合うような仲にはなれまい。

「いちおー言うけど、そろそろ場所変えるのが無難だよ」
「ああ」

 知ってる。尾形は、心の中でだけそう答えた。
 場所を変える。つまりは住まいを移すということ。尾形に対し不穏な連中の注目が集まっているなら、場所を変え、姿をくらますのが一番手っ取り早い。今ならまだ地の果てまで追ってくることもないだろう。
 逃げるなら今。消えるなら、今だ。

「そんなにあの子がお気に入りなの〜?」

 その選択がベストだと知っていて、それを選び取れないのは他でもなく、彼女のためだった。白石が言う『あの子』。もうすぐ、あと20分もすれば店に顔を出すであろう彼女がいるから、尾形はここに留まっている。土地になど執着したことのない異星人が、たった一人のために。

「……まあ、——うん」

 否定できない。否定したくない。
 尾形は、いま恋をしているのだ。

◆◇

 尾形百之助は、異星人だった。
 生まれ故郷は遥か宇宙の彼方。地球はおろか、太陽系ですらない。色々あって生まれた場所へいるのが嫌になり、一人宇宙へ飛び出した。それから何億光年も旅をした。たった一人、うんざりして、気が遠くなるほど長い時間を宇宙船の中で過ごした。そして辿り着いたのが、地球だった。
 それは、これまでに見送ったどの星よりも美しかった。

 その美しい星の中、住処を日本にしたのは、尾形の顔立ちが‘日本’という島国に住む人々のそれとよく似ていて、溶け込むのが容易だったから。だから最初の住処を日本にした。それから時代も変わり、世界のどこに誰が住んでいてもおかしくない世界へ変わった時には、日本以外の国に住んでいたこともある。どこに住むかに執着はなかった。
 確か、コーヒーの美味い淹れ方を教わったのは、ニュージーランドという、これまた島国だったはずだ。

 尾形が、長く一つの場所に留まることはない。
 姿形も変わらず、一切の過去を秘密とする男の存在は何年も同じ場所へ留まれば、嫌でも違和感となって浮かび上がる。だから、それなりに時間が経つと住まいを変えてきた。
 日本の北から南へ。世界の東から西へ。
 平穏さえあれば、どこで暮らそうが同じこと。そう思っていた時期がある。というか、長い長い人生の大半の時間を、そう思って生きてきた。

 だから、このお世辞にも綺麗とは言えない川の近くの喫茶店も、その仮の住処の一つだった。店を開いた最初は、そうなるはずだったのだ。

 あの日。夏の暑さも鳴りを潜め、寂しげな秋の気配が見え隠れしていた10月のある日。季節外れの引っ越しのトラックが、店の前を通り過ぎた。そんなことまで、今も鮮明に覚えている。トラックが去り、自転車が3台過ぎ、道行く人が店内を覗く。その時、客が一人もいないのはたまたまだった。

 カラン 来客を告げるドアベルが鳴る。
 小鳥のような「こんにちは」という挨拶が聞こえた。まだ若い女が一人、店のドアを押して入ってくる。尾形がいつものように「いらっしゃい」と声をかければ、女は迷いなくカウンターのイスを引いた。つっけんどんな態度と人好きするとは言い難い見た目のおかげで、大抵の一見はテーブル席を選ぶが——尾形にしてみればどうでもいいことだ。少なくともその時は、どうでもいいことだと思っていた。

「素敵なお店ですね」
「……ドーモ」
「あ。注文、……えっと、このカフェオレを一つください。ホットで」
「はい」

 注文を受け、すぐに作業へ移る。店には彼女一人しか客がいなかったから必然的にそうなった。尾形の一挙一動を見逃すまいとしているのか、興味津々という様子を隠さずに彼女が少し前のめりになって、カウンターの中の手を覗き込む。動物園の檻の前ではしゃぐ子供のようだった。

 尾形の中で悪戯心がむくりと顔を出し、カフェオレの表面にイラストを描き出す。ラテアートだって異星人の手にかかればお手のものだ。ただ致命的に絵が下手なせいで、普段はやらないだけ。
 それに気づいた彼女が小さく「あっ」と声を漏らし、目が合うと恥ずかしそうに手で口を抑える。子供だったら泣いて逃げ出す恐ろしい猫ちゃんのラテアートを、彼女の子供よりは少し大きいくらいの手が受け取った。

「す、すごい」
「……冷めるぞ」
「あ、すいません。でも、なんか、可愛い……かも」

 化け猫だと言っても嘘だと言われそうなそれを、心底もったいなさそうに扱う彼女を、心のどこかで「いいな」と思った。尾形は純粋なものが好きだった。自分にはない純粋さを好み、恨み、羨望する。「純粋」を黒く塗りつぶしたくなる衝動は、好ましく思うからこそ生まれるのだ。

「ありがとうございます。——とっても美味しいです」

 目を合わせて、カップは丁寧に両手で持ち、柔い微笑を浮かべながら。
 発せられた言葉が、春のような優しさと儚さをもって尾形の周りを包み込む。ついこの間、夏が終わったばかりだったのに、その時、目の前に春があった。
 尾形は季節というものに疎い。生まれ故郷にはない事象だから。だから、何百年と日本に住んでいながら季節というものを、あまり理解していなかった。ただ暑くなるだけ、ただ寒くなるだけ。それだけの認識を、彼女がいとも簡単に塗り替える。
 彼女こそが春だった。
 それが恋だと、その時はまだ知らなかった。



「こんにちは」

 尾形は思考の海から自分の意識を引きずり上げる。つい数分前まで白石が座っていた席に、今は彼女が座っている。彼女は、いつもそこに座った。「ここなら尾形さんの手の動きがよく見えるんです」。人の気も知らないで、彼女がそう言ったのは、彼女がこの店に馴染み始めて、そう時間の経たないうちだった。

「無事か」
「そう何度も危ない目に遭いませんよ」
「どーだか」
「尾形さんまでそんなこと言って……」

 突き出された下唇と、くるりと丸まった瞳が上目遣い気味に向けられる。反射でヤメロと言いそうになるのを堪えて、尾形はなんとか笑みを浮かべるに留めた。幼気ない無邪気さと素直さを備えた彼女に、邪な感情を抱くことが、なぜか罪深いことのように感じる。尾形は、神も仏も信じていなかったけど。

「なんかでも、あれは、すごい経験でしたね」
「まあ」
「ロープで縛られるとか、男の人にあんなに囲まれるとか、もう二度とないかも」
「2回もあってたまるか」

 そうは言いながらも、尾形はこれからも彼女に危害が及ぶことを危惧した。一度失敗したからと言って諦めるような人間は、裏社会に落っこちたりしないのである。2回もあっては堪らない。しかし、彼女が二度とないかもと笑う“すごい経験”は高い確率で、再び彼女の身に降りかかる。
 その前に、決断を下さなければならない。
 分かっている。最善とは何か。

「でも、1回あんなことがあったら、次何かあった時も期待しちゃうような気がします」
「……なにを」
「尾形さんが、助けに来てくれるの」

 でも、彼女がそう言って笑うから。彼女がいつまでも春のまま、尾形の心に居座って離れてくれないから。だから最善を選び取れない。彼女のための最善を、彼女のせいで選べないのだ。

「何かあったら、俺に言えばいい」
「ありがとうございます。でも、流石に悪いですよ」

 その言葉に他意はなかった。彼女は、行きつけの喫茶店の店長と客という間柄でそんなことを頼むのは気が引けると、至極真っ当なことを言っている。理解はできた。でも尾形は、そうか、とそこで引き下がる気はない。
 ただでさえ尾形という厄介ごとに巻き込まれている彼女が、自分のせいで危ない目に遭うのなら守ってやりたい。まして彼女に、今ただならぬ恋をしている最中であるから尚更。

「俺が、……そうしたいと言ったら」

 ずるい言い方だ。自覚はあって、わざと、彼女が断りづらいように仕向けた。尾形はこれまで何度も人の心をのらりくらりと交わして生きてきたのだ。どうすれば避けられて、どうすれば避けられないかを知っている。伊達にウン百年も生きてない。

「それは、断れないですよ」
「知ってる」
「尾形さんは、なんでも知ってますね」

 そう、尾形百之助はなんでも知っていた。この世界の大半のことは知っている。この星の生まれもないくせに、今、生きている誰より長くこの星にいるから、大抵のことは知っていた。どこで誰がなにをして、なにがどうなって歴史はつくられたのか。目で見たものもあるし、実しやかに囁かれる噂話で聞いたものもある。
 でも、たった一つ——他にもあるかもしれないが、今のところ——だけ知らないことがあったのだ。それに気付いたのは最近だった。それが恋だった。
 恋というものを、尾形はなにも知らなかった。誰かを好きになるということが、どういうものか。尾形は知らない。だからどうしていいか分からないし、どうするのが一番いいかも分からない。この世に生を受けたばかりの赤ん坊、言葉の知らない場所に下ろされた旅行者。気分はそれと同等だ。

「そんなこともないさ」

 他でもない、彼女が教えたのだ。一人を見ると、暖かになるこの心の動きを。
 それは流石に言えなかったけど。