※卒業後
なんかいる。隣でもぞもぞしてる。手が腹に当たってくすぐったい。くすぐったいけど、それを口に出すのは面倒で黙ったまま身を捩ったら、するりと、隣でもぞもぞしていたものはベッドを抜け出していった。
5分くらいして、ゆっくり目を開く。カーテンの隙間から差し込む陽の光はもう強くなっていて、こりゃあ寝過ごしたなと思った。5分というのも俺の体感。目を閉じている時の5分は大体1時間だ。
いくら休日とはいえいつまでも寝ていると怒り出す誰かさんのことを思い出し、自分ももぞもぞとベッドから起き上がる。土曜日の朝、10時23分。ドアの向こうからテレビの音とコーヒーとトーストの匂い。平日では絶対ありえないそれらにも、もう驚くこともない。慣れだ。慣れって怖い。最近よく思う。
「あ、おはよ」
「……はよ」
休日でもちゃんと“午前中”と呼べる時間に起きて、顔洗って歯磨いて、一服する前にいれてもらったコーヒーを飲む。コーヒーの苦味でニコチン不足を補って、「ああ」と絞り出したような声を出す俺に、彼女がにっこり笑って「我慢できてえらい」と言う。そんな朝。『洋平くんも健康的になったもんで』とは、10年来の付き合いになる友人たちの弁である。
煙草を我慢できるえらい俺は、煙草を我慢する代わりに美味い朝食を作ってもらえるらしい。ぼーっとしてたらテーブルの上には、焼きたてのトーストとスクランブルエッグが1つのプレートに収まったシンプルなモーニングが用意された。
朝はご飯派? そんなことを思っていた昔の俺に言ってやりたい。馬鹿め、作ってもらったものには「ありがとう」と「美味い」以外は何も言うな、と。それが正しい男の生き方だ。
「ねえ、今日あそこ行ってみようよ」
「ん? どれ」
「あれ。美味しそう」
彼女が指差した画面の中。最近よく見かける芸人と、俺たちが学生の頃からいる女性タレントが一緒に生姜焼き定食を食べている。
定食と言っても、学生時代に通った茶色くなった座布団があって、暖簾をくぐった瞬間に店主の顔が飛び込んでくるような、ああいう古き良き定食屋の定食ではない。天井の高い店内に洒落たインテリアがあって、女の子も入りやすい、——というかむしろ男性だけでは入りにくい——流行りの雰囲気のある店だ。
最近はやたらめったら「ネオ〇〇」と言えばいいと思ってんだな。
そんな意地悪なことを思ったけれど、彼女が美味しそうと言ったそれは、確かに美味しそうではあったし、場所も家から電車で20分の駅にあるらしい。俺一人では行くこともないだろうが、彼女と一緒であるなら構わない。彼女は古いものも新しいものも等しく関心のある人間だから、こういうことはよくあった。
「昼行く? 夜?」
「んー、混みそうだから夜の早めの時間に行こうか」
「了解」
寝て起きて、申し訳程度の飯と煙草が5本。発泡酒の缶2本。そういう俺はもういなかった。部屋も仕事も見た目も変わらないけれど、隣にいる人間が違うだけで「生きる」ということそのものが変わっていく。
それに慣れて、それを当然のように受け入れている。だから今は慣れることが少し怖い。彼女と生きることを当たり前だと思うことが、少しだけ恐ろしい。
なんかいる。電車の案内板の右側に。虫かも。虫だ。小さいハエみたいなのが一匹運賃も払わず同乗している。まあ、あれくらいならほっといて問題ない。
朝、約束した洒落た定食屋に行く途中。久々に電車に乗った。会社に行くにも彼女と出かけるにもバイクか車が多いので、電車に乗ったのは前に旅行に行った日以来。休日の夕方のそれは空いているとも混んでいるとも言い切れない程度には人がいた。
一つ空いている席に彼女を座らせ、自分はその前に立つ。彼女が小さな声で「空いてること座れば」と言ってくれたのを「へーき」と簡単に断った。
「洋ちゃん」
「……ん?」
「あれ、知ってた?」
彼女の言葉が聞こえやすいように屈むと、彼女が体の影に隠しながらこっそりと目の前に座る人の新聞の見出しを指差す。そこには見覚えのあるバンド名の下に大きく「電撃解散」と書かれていた。そのバンドは俺ら世代が高校生の頃にやけに流行った曲を歌っていたバンドで、と言ってもその流行りの曲とその次の曲くらいしか売れなかったが、俺ら世代には馴染みがある。
最近はトント話を聞かなかったが、急に解散という運びになっていたらしい。むしろ今まで活動していたのか、という方が驚きだけど。
「いや、知らなかったな」
「洋ちゃん、好きだったよね。あのバンド」
「え?」
流行っていたという記憶はある。流行っていた曲も知っている。
あの頃はどこに行ってもあれが流れていたから。でも、特別好きだった記憶はないし、それを彼女に話した覚えもなかった。
「昔、歌ってたじゃん。あの、名前忘れちゃったけど、売れてた曲」
「いつ?」
「初めて会った日のカラオケ」
「……そうだっけ、全然覚えてねぇな」
初めて会った日のカラオケ。それは覚えてる。でもそこで自分が何を歌ったかなんて覚えてない。部屋のL字ソファの角っこで、控えめに拍手をしていた彼女のことは覚えてるのに。薄い青のシャツワンピースを着ていたことまで。
「歌ってたから好きなのかと思ってた」
「いや全然」
強いて言うなら、あのバンドを好きだったのは高校時代にちょっとだけお付き合いした一つ上の元カノで、彼女が会うたびにあれを口ずさむものだから自分まで刷り込まれるようにして覚えてしまった。そういう誰にも言わないし言いたくない話ならあるけど。
「よく覚えてたな、結構昔なのに」
「んー。その時、この人歌上手いなと思ったの」
「そうか?」
「好きになったキッカケ」
突然の告白に俺は声を出す代わりに目を見開いて、恋人を驚かせている自覚もない彼女を見下ろす。「マジ?」と聞けば可愛い声で「まじだよ」なんて。へえ、全然知らなかったな。いいこと聞いた。
「……今日、定食屋行ったらカラオケでも行くか」
「いいけど。珍しいね、カラオケ誘ってくれるの」
「最後に歌っとかないと、もう忘れそうだから」
彼女は声をひそめて笑いながら「いいね」と言う。記憶というのは得てして美化されるものだから、今日の俺はウン年前の俺よりも下手くそだと思うけど、まあ許してよ。
「それに、俺も歌ってほしいやつあるし」
あの日の彼女が歌った曲3つ。覚えてるよ。俺だって。