女の涙を見て、男はギョッとした。ジャズの生演奏が行われている店内において、彼女の周りは奪い取られてしまったかのような静寂に包まれている。頬を伝う涙を、当の本人は拭いもせずにそのままにしているので、尚更それは見間違いかと、己を疑った。

「……おい、アンタ」

 男が声を掛けると、女は振り返り、思い出したかのように目元を拭う。見間違いではなかったらしい。

「何か」

 少し、掠れた声。手元のグラスには注がれた黄金色の液体が僅かに揺れる。

「……俺でよかったら話を聞くが」

 男は、許可なく女の隣の席を引いた。カウンター向こう、ギャルソンエプロンを身につけた男にスコッチをロックで頼む。目当ての品はすぐに出てきた。傾けたらカチンと氷が音を立てる。サックスの音にかき消されることなく、それは男の耳に届いた。

「意外」
「あ?」
「いえごめんなさい、でも、ほら、貴方ってなんて言うか、そんな風に声を掛けて下さるなんて思わなかったから」

 男は無言でウィスキーを煽る。喉をせり上がる熱さなど、とっくの昔に忘れてしまった。
「……で、昔のコレか」

 男が親指を立てる。女は、数分前まで泣いていたことがまるで嘘のように、微笑んだ。その笑顔もまた、男の目を惹く。女の方こそ、似合わない笑い方をするなと思った。

「どうしてそう思うんです?」

 男は、カウンターに肘をつき、女の手元のグラスをとった。女の口から、あっと小さく声が漏れる。残り少ないそれを一気に飲み干してしまえば、今度はいくらか喉が熱くなる。ような気がした。

「美人が夜にバーで一人、こんな強い酒を飲んで泣いてるなんて、男しかねぇだろう」

 曲の変わり目。女は小さく瞠目し、諦めたように息を吐いた。

「だって、あの人ったら非道いんです、私たちもう3年にもなる付き合いだったって言うのに、急に別の女に乗り換えるなんて。確かに近頃は夜帰ってこないことが多くって、あんまり話す機会もなかったんですけれど。でも、仕事が忙しい、って彼が言うもんだから、ほうら来月の私の誕生日に向けて、何かあるのかな、って期待するでしょう、普通。とびきり素敵なプレゼントをくれるもんだって期待してたら、彼、私の誕生日を前に別れを切り出してきたんですよ。もう前々から他所に女を作っていたんです。しかもその女、何処かの国の名家の血を引くとからしくて。結局お金なんですこの世は。綺麗だなんだって、見てくれ整えたって、男はお金にしか興味がないんですよ」

 女は、一息ついて、満足したのか、ごめんなさいと小さく零した。

「話を聞くと言い出したのは俺の方だぜ」

 男は、二杯目のグラスを傾けながら言った。そうだとしても情けなくって、女は言う。女の二杯目のグラスは男が贈ったものだった。もう半分近くになっている。酒に流されて、口数が増えているのかもしれない。そうでなくとも、女は考えられないほど口の回る生きものだ。

「俺が忘れさせてやろうか」

 男の言葉を、女は笑って、随分お優しいのねと言った。

「また意外だわ」

 そんなにも優しい男に見えていないのだとしたら心外だ。男はこう見えてフェミニスト、勿論、己の相棒に比べたら可愛いものだが。

「今、男は?」
「あら、それを聞いたら口説かなくちゃあいけないんですよ」
「俺は最初からそのつもりだったが?」

 女は、今度こそ驚いたという風で、グラスを揺らす手を止めた。丁度、店内のミュージックもまた新しいものへと変わる。定番中の定番。シチュエーションがいささかベタだが、女はこういう方が好きだろうと、男は「どうする?」続けた。こう見えて、彼はロマンチストでもあるのだ。

 裏路地に、いかがわしいピンクのネオン。歴史とファッションに埋もれた街において、不必要にダサいそのラブホテルは妙に目立った。若い恋人は、得てしてこういう妖しいものに惹かれる。勿論自分が若くないことなど承知の上で、男は女をここへ連れ込んだ。女は今宵何度目かの意外だを口にしながら、それでも楽しそうにしていた。お酒の力もあった。鍵を受け取った彼は、女の腰を引き、ギシギシと音のなる床を連れ立って歩く。なかなか愉快な仕組みだ。おまけに壁も薄いと来た。耳を塞いだって隣の洒落声が聞こえてくる仕様になっている。

「なに笑ってんだ」
「だって、貴方も似合わない自覚はあるんでしょ」

 女の首と、腰。緩く支えながら、息のかかる距離で話をする。男のヒゲが、ちくちくと刺さる。女の変わらずよく回る舌を止めるように、男は口を塞ぎ、耳の裏と首の付け根に舌を這わせる。

「名前を、聞いてなかったな」

 慣れた手つきで下着を取り払う。女も男のジャケットに手をかけて、シルビアと名を告げた。

「貴方は?」

 ジャケット、ネクタイ、シャツ。帽子は外さないのが流儀らしい。女にとってはどうでもいいことだ。

「次元大介」
「ステキな名前」

 名前は、意外じゃあないのね。と、女が言う。男は黙って、行為を続けた。

 翌朝、もぬけの殻になっているベッド。男がいた痕跡は、煙草の匂いだけだった。女は夢を見ていたのか、はたまた。ホテルの代金は支払われていたが、自分のバッグが見当たらない。昨日バーにいた時は確かに膝の上に持っていたと記憶している。しかし昨晩は、結構お酒を飲んだ。男のことすらあやふやなのだ、自分がどこにバッグを忘れたかなど、覚えているはずもなかった。

 前回と同じジャズミュージック。前回と同じ男にスコッチをロックで頼むと、今回は少し待たされた。数分して、ようやく出てきたそれを手に、カウンター席の隅で、ひとり酒を飲む女の隣の席を引いた。今回は泣いていない。こうなってくると前回のあれは、やはり見間違いな気がしてくる。

「貴方はいつも許可なく隣に座るのね」

 男は懐から煙草を取り出し火をつける。部屋に残っていたものと同じ匂い。

「それで探し物は見つかったかしら、泥棒さん」
「生憎、カバン荒らすのは俺の担当じゃないんでね」

 ハニートラップ。音の響きに反して、卑劣な犯罪である。レディを惑わせて鞄を盗むとは。

「貴方が私の担当だったことの方が意外だけれど」

 前回の晩で、すっかり納得してしまったと、女は続ける。ルパン三世とその一味。世間で知らぬものなど居るのだろうか。次元大介は、ルパンの右腕。顔は大々的に知られていなくとも、名前くらいは皆知っている。

「女嫌いなのに、セックスがお上手ね」

 ルパン三世の相棒、射撃の名手。紺のソフト帽と、顎髭がトレードマーク。相棒とは反対に、女に靡かないことでも有名だった。

「……の割に、情報は売ってもらえなかったみてぇだが」

 この時代、女の生き方は千通り。望めば何だって叶えられる今、女が選んだ仕事だった。ローマ外れのバー。ジャズが流れる店内の一角で、ロックグラスを飲んでいる女がいたら、ひと声掛けて、隣に座れ、と。彼女は界隈の有名人。その多様な情報網を、世界中の悪党が欲しがり、涙を呑んできた。彼女は、この街を決して動こうとはしなかった。

「知っていたくせに」
「……フン、シルビアなんて嘘つきの飲む酒だ」
「いやね、偏見よ」

 情報や、シルビア。彼女の誠の名は誰も知らない。情報を初めて買った時、必ず偽の情報を掴まされることも、ごく一部の間では知られている。要は客を試しているのだ。情報を売るに値する人間かどうか。

「煙草、一本頂いても?」

 男は懐からケースを取りだし、一本手渡す。ライターをまさぐる間に、女は煙草を口に咥え、男が咥えている煙草にそれを合わせる。火が移り、煙が立った。とことん、意地の悪い女だと、男は先のことを思って頭を抱えたくなった。

「まあ今回は合格ということで」

 小さなICチップ。女が話していた、前の男に関する情報である。

「どーも」
「それにしても残念ね、ベッドでの睦言は、全部でまかせかしら」
「さあ忘れたな」

 まだ半分以上残った煙草を、男はウィスキーグラスに突っ込む。情報が手に入ったら、さっさと退散するのが吉とみた。丸まった背中。また会えるだろうから、今は見逃してあげる、と女は立ち上がる男を座ったまま見送った。

「最後に、俺からも質問だ」
「どうぞ」
「本当の名は」
「情報やから金を払わずに情報を買おうって?」

 舌打ち。女のくすくすと鼻につく笑い声は、妙にしっくりくる。やはり前回のあれは偽物だったか。

「何事も、対価が必要でしょう」

 男は、ICチップを懐に入れ、右手を上げた。

「考えておく」

 意外と前向きな返事。女は楽しみにしておこうと、店主にボトルキープを頼んだ。スコッチを、次元大介で。顧客リストの代わり。シガーキスは、契約書の代わりである。

あなたの子宮は単純でいいね

title by 草臥れた愛で良ければ