情事のあとの、ゆっくりと月の寝息に耳を傾ける時間。彼女は俺の長い黒髪を指先で弄びながら、生温い息を吐き出した。そしてひと言、──もう会えないの。
「え?」
「だから、今日で最後」
サラサラと、髪の束が彼女の指から零れ落ちる。何が楽しいのか、名前はベッドに寝転ぶといつもこうしてイルミの髪を触った。イルミは特に何も言わない、そのことについては関心がないのだ。彼女はいつも通りの、ゆったりとしたふたりのペースを崩さなかった。息を吸って吐く。イルミの隣で、彼女は淡々と別れを告げた。
「結婚することになったの」
「そう」
イルミと名前の関係を言葉にするのは難しい。ふたりは友達というには些か淫乱で、恋人と呼ぶには軽薄な関係だった。強いて──イルミの言葉を借りて──言うなら、ふたりはとびきり相性が良かった。精神的な面で、自分が正常であるとは流石に思っていないイルミであるが、彼女も大概。気狂い同士気が合ったんだね、とはふたりの関係を唯一知るヒソカの言葉である。勿論相性の良さは、心だけではない。いや寧ろ、そちらはオマケに過ぎない。本当に抜群の相性だったのは身体の方だ。イルミは名前とのそれを、生涯最高のセックスだったと断言する。目と目が合って始まる恋ではなかった。しかし、ふたりなりに重ねてきた時間を互いに慈しんでいたように思う。結果として、ふたりが単なる〈セフレ〉という関係に収まるとしても、だ。
「あんまり嬉しそうじゃない」
「そうね、……うん、惜しいじゃない?」
「何が」
「もちろん、イルミが」
彼女は髪から今度は、イルミの首へと手の位置を変えた。首にするりと腕を回し、形のいい額を彼の晒された鎖骨の間に押し付ける。イルミは緩慢な動きで、その手を彼女の後頭部に添えた。
「こんな素敵な相手、そうそう出会えるものじゃないでしょう」
それは、夜の相手、という意味で。
「たしかに」
残念だ、と口にしながらイルミは音を立てて旋毛にキスした。本当に、残念だし、口惜しい。彼女とのセックスは、イルミにとって生涯最高のものであるから。
「……殺ってやろうか」
邪魔な相手は、消してしまえばいい。イルミにとってそれは一般的なオフィスワークと同じだ。彼女がパチパチとパソコンを叩く間、イルミは人を殺している。ひとりやふたりじゃない。名前にとって、イルミがゾルディック家の人間であるとか、暗殺を生業とするとか、残忍で冷酷な人間であるとか、そんなことにはとんと興味がなかった。そんなところも、イルミは気に入っていたのだが。
「止めてよ、イルミが言うと冗談に聞こえない」
「うん、だって……」
冗談じゃあないからね。ごっくんと、生唾と共に飲み込んだ。彼女の赤みがかった茶髪が、真っ暗な部屋の中でも目に浮かぶようだ。
「だって?なに」
「なんでもない」
イルミは気紛れに、後頭部に添えていた手を動かした。上に下に。彼女がすりすりと寄ってくるのが、好きだった。
「結婚することと、俺と会うことは関係あるの?」
別に彼女が望むなら結婚後だって好きなだって相手をするし、もしそれが嫌だって言うなら結婚はやめればいい。イルミのような相手とは、多分、一生、もう出会えないだろうから。
「イルミって本当に何も分かってない」
彼女はまた怠そうに息を吐いた。睫毛が触れる距離で、彼女が笑う。首に回った腕には、少し力が込められた。
「愛とか恋って、そんな簡単なことじゃないのよ」
0か1か、1と2か。そういうことではないらしい。イルミには、よく分からない。恋は人間が生存本能を正当化するための錯覚に過ぎない。愛に至っては存在すら証明できない蜃気楼だ。
「まあいいか」
分からなくても。今から始まるのは、最後の、生涯最高のセックスだ。本当に本当に惜しい。だから彼女に永めのキスをねだった。
それから数年経って思うに、名前は結婚相手のことを、つまるところ、愛していたのだと思うし、イルミも名前のことを愛していたかもしれない。あの晩を最後に彼女との縁は切れる。一度街ですれ違った彼女は、愛おしそうに見つめ合いながら腕を絡めて男と歩いていた。
彼女は、名前は知らない。イルミは普通情事のあとにピロートークはしない男であること、未だに赤みがかった茶髪を見かけると目で追うこと。夜になると、唐突に、ぬらりと彼女の蜃気楼が浮かび上がってくることがある。それは消えてくれない。恋とか愛とか、簡単なことじゃあないのだろう。これが愛でないなら何が愛だ。