名字はいつも迷子のような顔をしていた。不安げに揺れる瞳や、時折クシャりと歪められるその口元、鼻の頭を触る癖、気づけば俺は、彼女のことをよく知っていた。

 クラスで、名字が友達と言える人物は少なかったように思う。ひとりぼっちということはなかったが、好んで群れるタイプではなかった。窓側後ろから2番目の席は彼女の特等席で、いつもそこに座って窓の外の何かを目で追っていた。その席を訪れる女子は数人、一言も言葉を聞かずに終わった1日もある。そんな彼女はマネージャーの藤原とは随分親しいようで、グラウンドの隅でよく話しているのを見かけた。すごく、すごく楽しそうに見えた。その時に疼いた心臓は何を意味していたのか。俺にはよくわからない。

 その日も、太陽が傾きかけて、グランドに差す校舎の影が大きくなって来た頃、俺は水飲み場の隣でグラウンドを見ている名字を発見し、何を思ったかそのまま歩み寄った。ファンのように毎日ギャラリーは耐えないが、ここから見ている生徒は彼女のみ。ここはグラウンドが見えづらい。さて何と話しかけようかと思案していると、俺に気がついた名字の方から声をかけてくれた。結城くん、と名前を呼ばれ、ああ俺の名前を知っていたのかと少し驚く。素直に嬉しかった。

「あの、……お疲れ様」

 うむ、確かに先ほどのノックは相当疲れた。

「ありがとう」

 彼女は俺に話しかけたことを後悔しているのか、この状況が気まずいのか、俺の汗の匂いが気になるのか、いや全部その通りかもしれないと思ったし、全部違うようにも感じた。とにかく2人の間に会話は生まれなかった。俺は手に持っているスポーツドリンクの入ったボトルとさっきおろしたばかりのタオル、それらを握ってなぜ俺はここへ来たのかと考えて、彼女の顔を見て、名字のことが好きかもしれないという一つの可能性に行き着いた。彼女は少し俯いて、また少し悲しそうな表情を浮かべている。何が悲しいのか、それを聞く権利も勇気も有していないことが歯がゆい。

名字は、」

 口にして、言葉を飲み込んで、また口を開く。俺がさっきから繰り返している行為は生産性がない。

「野球が好きなのか」

 俺の問いに彼女は迷う様子もなく、ううんと言った。あんまりわからない、と。

「ごめんね」

 彼女の口にする言葉の一つ一つが、どうしようもなく悔しい思いにさせる。まだ何も言ってないのに切り捨てられたような、そんな気持ちだった。「そうか」それでも俺には時間がない。召集の号令が聞こえて来た。今、ここで彼女に野球の素晴らしさを説いて聞かせる時間はない。

「好きになってもらえるように努力する」

 野球を。俺の一番大事なものを。自分に言い聞かせるようにしたその音を、彼女は小さく目を丸くして、そうしてうんと頷く。――頑張ってね。その他人行儀な言葉が今の俺にはピッタリだ。

 それから、結果的に俺と名字が会話をする機会は増えた。夏の大会を控えて、俺の教室に出入りすることが増えた藤原を交えて3人で話すこともあった。掃除の時、早弁してしまって手持ち無沙汰になる昼休み、HR前の短い時間、何かにつけて言葉を交わす。時には野球の面白さも説いたし、片岡先生が優れた指導者であることも伝えた。他愛もない雑談、というのは俺の不得手とするところではあったが、彼女は非常にスムーズに俺との会話を組み上げた。『結城くんって意外に天然なんだね』と名字が言って、藤原がそうなのと笑う。天然とはなんのことかと聞いても、藤原に伊佐敷くんに聞きなさいと追い払われて、純には「オメーのことだよ」と言われる。人というのは実に難解だ。

 夏の大会を前に練習は激しさを増す。だから私生活は少々疎かになる。それほど、この夏に懸けていた。手のひらの豆が潰れて痛そうだねと顔を顰めた名字に、テーピングにもたつく俺を見兼ねて私がやろうかと言ってくれた名字に、テーピングは藤原に習ったのだと自慢げに話す名字に、思わず「好きなんだ」と告げてしまうほど、俺は頭が回っていなかった。

 言った後、カランとテーピングが床に落ちる音を聞いて、ようやく自分の言葉の意味を理解し始める。今はそんなことを言っている場合じゃないという反省と共に、やっと言えたという安堵もあった。

「結城くん?」

 彼女の瞳がいつも以上に揺れている。俺の言葉一つで、彼女はこうも動揺する、そのくらいの関係は築けていたのだと認識した時には遅く、俺はすでに自分勝手な男だった。

「すまない」

 口をついて出たのは謝罪。彼女は床に転がったテーピングを拾い上げ、それを綺麗にテーピングが施された俺の手の上に戻した。彼女はまたううんと首を横に振る。私は絶対に結城くんの気持ちに応えられないという彼女の声はぼんやりと聞いて、それでも片隅では早く部活に行こうと思っていた。

「貴子が好き」

 彼女はごめんと言った。俺たちは何に謝っているのか。謝らなくていけないことは何もない。俺は名字が好きで、彼女は藤原が好き。それは自明の理であり、公式の解のようにすんなりと俺の心に落ちてくる。

「いいんだ」

 この夏に懸けている、だから今は満たされなくていい。


 照りつける日差しの下で、彼女は俺を待っていた。恐れ知らずに晒されている白い肌は、目に毒だ。いつかと同じく、水飲み場の横に立っている彼女に近づいて、俺はまた何と話しかけようかと悩む。彼女と目と目を合わせて話すのは、あの告白以来だった。

 夏が終わって行った。いや正確にはこれからやってくる夏に、名前を刻むことは叶わなかった。あれほどこの夏に懸けていたのに、終わってみると呆気ない。

 名字は俺の姿を見つけると手をあげたので、俺も手をあげる。特に待ち合わせをしていた訳ではなく、ただ何となく彼女に会いたくなったのでここへ来た。彼女はそんな俺のことすらお見通しだと言わんばかりの笑顔で、お疲れ様と言う。最初と何もかも同じだった。名字がそれを覚えているとはとても思えなかったが。

「ありがとう」

 ようやく彼女の目の前まで来て、俺は空っぽの掌を見つめる。ポケットに自転車の鍵が入っているのみの軽い体。こんな晴れた日に、太陽が高くある中で野球をしていない時間は随分と久しぶりだと思った。名字は何も言わない俺に、泣いていたねと口にする。それは俺のことか、それとも藤原の話なのか、俺には分からない。でも、あの時、みんな確かに泣いていた。終わっていく夏を見ながら、ただ言葉を噛み締めていた。

「私、野球が好きになったよ」

 そして、今、俺の目の前で名字#が泣いていた。

「野球が好きになったのは、結城くんのおかげだよ」

 流れ落ちていく涙は、あの日、掴み損ねた夢によく似ていた。こんな時に限っておろしたてのタオル、いやハンカチすら持っていない。少し迷って、シャツの裾を彼女の頬に伸ばす。俺のシャツの裾はどんどん冷たくなる。彼女の涙は、毒だ。

「俺はまだ名字のことが好きだ」

 彼女がウンウン頷いて、やりきれない思いがする。彼女は決して口にしないであろう想いを、俺は好き勝手に伝え続けていることが不公平にも感じる。

「だが、名字が野球を好きになってくれたなら、俺は嬉しい」

 だから泣くな。名字は頷くばかりで、ちっとも泣き止まない。風が2人の間をすり抜けて、早く夏になったらいいねと語りかける。そう、思うさ俺も。早く夏がくればいい。俺が追いかけ続けた夏はもう二度と来ないとしても。名字は変わらず親と逸れた子供のような目で、それでも赤くなった鼻の頭を触りながら、『ありがとう』と言う。俺はその言葉が聞きたかった、やっぱり名字が好きだから。

僕らはけして綺麗じゃない

企画サイト「吝嗇家」様へ提出