もう限界だ。そう思い至ったのは、麗かな春の休日だった。

 私は大きな大きな天蓋付きのベッドの上で目を覚ました。……左手を包帯でぐるぐる巻きにした状態で。
 眠っている間はなんともなかったその腕も、目が覚めると途端に思い出したように痛みがぶり返す。折れた骨がズキズキと痛み、その度に私の手を掴んだあの人の姿が脳裏を掠めた。彼にとっては、何も考えずに取った行動だったはずだ。ただ軽い気持ちで触れたら、私の腕がボッキリ折れた。あの痩せた木の枝が風に負けて折れたみたいに。

 でも。だから、やっぱり一緒に生きていくのは難しいのだと思う。 
 つまり、簡単に言ってしまえばそれに尽きる。
 折れた左腕もそうだそうだと言っている。私は包帯の上からそこを摩って、ごめんと小さく呟いた。折れるまで思い至らなくてごめん、痛いね。でもちゃんとくっつくよ、と。

「奥様、お目覚めでございますか」
「……はい。ご面倒をおかけしました」
「お気になさらず。腕の方は2週間でくっつき、1か月もすれば問題なく動かせるようになるとのことでした。それまではどうかご無理なさらず」
「はい。分かりました」
「何かございましたら、そちらでお呼びを。失礼いたします」

 機械的に会話は終わる。音もなく開いたドアは、同じようにして閉められた。

 この家の人間はおかしい。それはヴィンスモーク家だけでなく、そこで働く人間も。皆あの一家に恐れをなして、その怒りに触れることは祟りのようなものだった。あの人たちの言うことは絶対で、逆らうことはない。
 立場上、私にも敬意を払っているが「面倒には巻き込むな」という態度を私には隠さない。それは私がニジ様に「使用人に冷たくされている」などと告げ口をすることがないと知っているからだ。

 このままじゃ死んでしまう。体か心か。もしくは両方。
 ヴィンスモーク家の嫁として必死にやってきたつもりだったけれど、これ以上はもうできない。すぐ弱音を吐くのは昔から。諦めが早いのも、根性がないのも、割と投げ出しがちなのも昔から。その割には、これでもよく頑張った方。

 送り出してくれた両親に申し訳なくて、涙が出た。
 結局ダメなまんまだったな、私。ああ、もう嫌になってきた。
 ぐすんぐすん。ここでは誰にも心配されないのをいいことに、大して気にもせずに鼻を鳴らす。片腕しか使えないと涙もうまく拭えないなんて、あんまり惨めだ。

「も、やだ……」
「何がだよ」
「——っ!?」
「何がやなんだよ」
「ニジ様……?」
「なんだその変な顔」

 驚いた。驚きすぎて咄嗟に声が出なかった。
 いつ来たのかベッドサイドに、ニジ様が立っている。それで驚きすぎた私の間抜けな顔を見てガハガハ笑っている。この人たちは心も感情もないくせに、よく笑う。主に弱い人間を見下すときに。

「あ? 泣いてんのかお前」
「え、あ。……いえ、これは、」

 笑いをスンと引っ込めたニジ様は、徐にベッドに近づき、包帯でぐるぐる巻きになった私の左腕を見下ろす。そしてそこに向かって手を伸ばし、——何の躊躇いもなくそれを掴んだ。無論、いつもの強い力で。

「い“っ……!」
「ああ、なんだ。やっぱり痛くて泣いてんのか」
「は、」
「痛いと涙が出るんだろ。俺は知らないけどな」

 腕が痛んだ。でも、それ以上に心が痛んだ。
 この人たちは知らない。心を持たない人間に、痛みや悲しみを説くのは不可能だ。それなのになぜ結婚生活を続けることができるなんて思ったんだろう。結婚だの愛だの夫婦だの。この人たちにとっては、ベランダに咲くチューリップと同じくらい無意味なことなのに。

「痛いのか、腕」
「……はい」
「だから泣いてるのか」

 ニジ様が、私の腕を折った張本人だ。同時に書類上の夫でもある。
 でもこの人は自分の妻の腕を折ったことへの罪悪感など持たない。痛いも知らない、悲しいも知らない。だから字の書き方を覚えようとする子供のような顔で、私にそんなことを尋ねてくるのだ。

「どうしてそんなことを聞くんですか」
「……俺の質問に答えろ」
「もし仮に私が痛くて泣いていたとして、ニジ様にはなんでもないことでしょう」

 ニジ様のクルンと丸まった眉がかすかに上がり、その顔に不機嫌さが滲み出る。ジャッジ様も、悲しみを子の心から奪ったのなら、怒りも一緒に奪ってしまえばよかったのに。でも、ダメか。暴力と怒りは互いに不可欠なものだから。

「ニジ様、私を追い出してください」
「何を言ってる」
「夫と妻であることを辞めましょう」
「それはお前が決めることじゃねェ」
「そうです。だからお願いしています」

 バンッ!
 ニジ様の手が力いっぱいサイドテーブルを叩く。上に乗っていた花瓶もろとも脚まで粉々になり、喉から思わず「ッヒ」と小さく声が漏れた。やっぱり圧倒的な驚きと恐怖を前にすると、人間、声が出なくなるらしい。

「——断る」

 また音もなく青い影が消える。
 そう簡単に「いいぞ」と言ってもらえるとは思っていなかったけれど、先を思うとため息が出る。この城に私がいる意味なんか、ここへ来た日からあってないようなものだ。私のことなど犬をポイッと投げるように蹴り出してくれたらいいのに。どうせ、あんな大きな音がしても、誰も様子を見に来ないような扱いなのだから。


 離婚を申し出るという暴挙に出て2週間。
 ようやく包帯と添え木も取れて、もうしばらく静かに過ごせば問題ないと言われた頃。あの後どんな手酷い折檻が待っているのかとビクビクしたが、すでに折れた左腕以上に私の体に傷が増えることはなかった。ただ、城の外へは出してもらえなくなったけど。

 それだけならまだいい。痛い思いも怖い思いもしなくて済むし、元々この城へ来てから城外へ出ることはほとんどなかった。別にいい。
 ただあれ以来、やたらニジ様が私の視界に入り込むようになった。
 それは困る。
 視界に入り込む、と言うのは例えば私が食事をしていればその場に現れて遠巻きに私の様子を観察したり、ベランダの花に水をやっていれば庭から私のことを見ていたり、そういうこと。話しかけられるわけでもなく、じっと、私の方を見ている。その視線の意味が分からないからただただ怖い。

 怒らせた? それは間違いないとしても、なんで何もしてこないのか。最近のもっぱらの悩みはそれだ。
 ヴィンスモーク家の怒りは溜め込まれることがない。即座に暴力へと変換される。そんな光景、腐るほど見ている。あの粉々になったサイドテーブルがそのいい例だ。
 じゃあなんで私はあのテーブルのように粉々になっていないのか。それが分からない。別にされたいわけじゃないけど。

「痛めつけないためだろうが」
「——はい?」

 目の前で青い髪が揺れる。サングラスの奥に仕舞われた瞳が、私の驚く顔を捉えてまたガハガハ笑った。失礼しちゃう。いや違う、大事なのはそこじゃなくて——。

「だから観察している理由が知りてェんだろ」
「は。え、……どうして、それを」
「レイジュに言われた」

 ヴィンスモーク=レイジュ様。ニジ様のお姉様であり、この呪われた一家の良心とも言える御方である。

 ニジ様との結婚以来、月に数回のペースでお茶の席を囲んでいる。冷酷な男兄弟とは違い、それなりに優しくて、静かに笑う綺麗な人だ。手放しに“優しい”とは言わないが、それでも「最近ニジとはどうなの」と聞いてくれるあたり、私に気を遣ってくださっているんだろうということは分かっている。
 だから、この前のお茶会でついうっかり言ってしまったのだ。「腕を折って以来、ニジ様に監視されているかもしれない」と。自分が離婚を切り出して怒りを買ったことは一旦忘れて。

 そしたら、今日。というか今。
 久方ぶりに私の目の前に現れたニジ様が、藪から棒にそう言った。聞けばレイジュ様に言われたと言うし。黙っていてくださいとも言ってないけど、まさか本人に伝わると思って口にした悩みではなかった。

「……痛めつけないため、ですか」
「痛いと泣くだろお前」
「それは痛ければ泣きますけど。……でも、その、ニジ様が近くにいるだけなら、別にどこも痛くはなりませんよ」

 眉間に皺を寄せたニジ様が、一歩踏み出す。
 ふたりの距離が近くなった。この前会ったとき、私はベッドの上にいたから立った状態でこんな近くにいるのは——ああ、もしかしたら初めてかもしれない。顔を上げると、サングラスの奥の瞳と視線がぶつかる。
 別に『近くにいてほしい』って意味で言ったんじゃない。
 心の中で言っても、誰の耳にも聞こえない。流石のジェルマも人の心の中までは覗けないから。

「やっぱ痛いんだろ」
「え?」
「この前と同じ顔だ」

 意味が、分からない。これまで心は通じ合えなくとも、会話は通じていたのに。一体全体どうしたのか。
 ますます分からない私と、ますます眉間の皺が深くなるニジ様。何も知らない人間が側から見れば私たちは夫婦だなんて誰も思うまい。よくて王族と従者。角度を変えれば、今まさに弱いものいじめが始まる現場そのものだし。

 私の理解が追いつく前に、ニジ様の手が伸びて、私の右手を掴んだ。いつものように、とても同じ人間とは思えない強い力で。
 痛くてまた声にならない音が出る。じわっと反射で涙が滲み視界がぼやける。ぼやけた視界の中でも、ニジ様の表情はやっぱり変わらない。

「弱い、脆い。すぐ泣いて痛がる」
「何を、」
「なのになんで城を出ようとする。死ぬぞ」

 彼は、至って真剣そのものだった。
 掴まれたままの手が、痛い痛いと訴えている。骨が軋む音も聞こえそうなほど。なのに、ニジ様の顔を見たら思いっきり振り払おうとは思えない。なんで。
 悲しみも、痛みも知らないはずだ。なのになんで、そんな顔をするのか。表情ひとつ変えないまま、なんで。

「……ニジ様、痛いです」
「だろうな」
「もっと、力を緩めてくれませんか」

 ようやく動かせるようになった左手を持ち上げて彼の手の上に添えれば、ニジ様が少しずつ手の力を抜く。そうしてようやく人並みの強さになった頃、それでいいよと左手で彼の手を撫でた。
 彼の眉間の皺は、心なしかマシになっている気がする。また機嫌を損ねたら今度こそ死ぬ覚悟だったが、なんとかそれは免れたらしい。

「も、大丈夫です」
「こんな力じゃ掴んでるとは言わねェ」
「いいんです。ね、見てください」

 左手を離し、掴まれすぎて真っ赤になった右手を動かす。
 彼の手の中で手をひっくり返して、私もそっと彼の手を握った。ニジ様の表情は変わらない。でも一瞬前とは違う。それもそうか。結婚してこんなに経つのに、私たちは手を握り合ったこともなかった夫婦だもの。

「手を握るときは二人で握るんです。だからあなた一人が掴む必要はない、……半分の力でいいんですよ」
「ふたり、」
「そうです。これなら、私も痛くないし泣かなくて済みます」

 ニジ様は握り合った手を持ち上げて、自分の目の前でしげしげとそれを見つめた。興味津々。まさにそんな顔だった。ちょっと握る力を強めたり、弱めたりして、それでも私が彼の手を握り返している限り離れない手を見て、満足しているみたいに見えた。まあ、そう見えただけ。彼の本音など知りようがない。

「あの、ニジ様。それでこの前の話ですが」
「左腕は」
「? はい」
「もう痛くねェのか」
「ええ、骨はくっつきました」
「じゃあまた来る」

 私の話を遮り、あれだけ熱心に見ていた手をあっさり離して、彼は消えた。何が『じゃあ』でなぜ『また来る』のかも語らずに。


 それからのニジ様は、端的に言えばもっとおかしくなった。私の悩みはもっと増えたとも言う。
 所構わず私と手を繋ぎたがるのだ。
 廊下を歩いていたらどこからともなく現れて私の手を取る。部屋を突然訪ねて来たと思ったら手を握り離し、また握るを繰り返して去っていく。それはいい。何が気に入ったのか知らないが、別にその程度なら支障はないし。以前のように手を握りつぶされることもなくなった。

 困るのは食事の時だ。

「あの、ニジ様」
「なんだよ」
「これは流石に困るというか」
「文句か」
「文句ではないんですが、困るんです。食べづらいですし」

 これまで食事を共にしたことなんか結婚前の顔合わせの時だけだったのに、最近はやたら私の食事の席に同席したがり、挙句の果てには隣に座って手を繋ぐのだ。食べづらいことこの上ない。

「片手だとどうにも。それにニジ様も右手が使えなかったら困るでしょう」
「俺は左手でも食える」
「ニジ様は、そうかもしれませんが……」

 この男を私と同じ尺度で考えてはダメなのだ。分かっているけど、普通の常識の範囲内でしか咎めることができないのだから、もうこれ以上何も言うことがない。
 利き手は右だと思っていたが、ジェルマの体には『利き手じゃないから』という理屈がないのか、なんの問題もなく片手一本で器用にご飯を食べ進めている。そんなところで鍛えた器用さを発揮する必要はない。

 助けてくれと周囲に目配せしても、まさかここに私の味方がいるはずがない。むしろ、私とご飯を食べればニジ様は無闇矢鱈と機嫌を悪くすることも、食事の皿をひっくり返すこともないので、感謝されている。という実感はある。口にされたことはない。

「そんなにこれが気に入りましたか」
「悪くない」
「どうしてですか」

 食事の手を止めて、彼の方へ半身を向ければ、同じようにニジ様も手を止めた。繋がった手を離そうと力を緩めれば、あからさまに彼の眉間に皺が寄るのが少しだけ可笑しい。でも、食事中に手を繋ぐのは、そもそもおかしいのだ。

「これは痛くねェんだろ」
「はい?」
「お前最近泣いてねェだろうが」
「それが、何の関係が——」

 繋がった手に、ちょっとだけ力が込められた。ニジ様だ。ニジ様の握る力が少しだけ強くなる。まるで行くなと泣く子のようで、表情も何も変わらないのに、なんで。なんで、彼のまとう空気とこの恐ろしいはずの手だけは、こうも“普通”の素直さを持っているのか。

「——ニジ様」
「んだよ」
「食事の後、何かご予定はありますか」
「それがどうした」
「なければ、お話がしたいんです。ふたりで」

 彼の唇がムッと突き出る。手は一瞬とても強く握られて、パッと離された。手がじんと痛みを訴える。ごめんごめん。でも我慢して。これでようやくフォークとナイフが両手で使えるようになったよ。

 こっちです、と手を引いた。私から初めて彼の手を取って、最近禁止されていた庭へ出る。禁止していた張本人と一緒ならまあいいだろう。久しぶりに外の風を全身で感じ、花の匂いを体いっぱいに吸い込む。私が城へ閉じ込められている間にも、春は姿を変えていたのだ。

「ニジ様」

 庭の隅、小さなベンチが一つだけある。きっと私しか知らないだろう。花を愛でることの素晴らしさも知らない人たちが、ただ形ばかり、王族の威厳を示すために作らせた庭だから。
 季節の花々に囲まれて、私たちは息をする。手を繋いだまま。今も私たちなら、もしかしたら夫婦に見えるかもしれない。二人の心の中さえ見なければ、もしかしたら。

「聞いてもいいですか」
「なんだ」
「どうして私が泣くのが嫌なんですか」

 ニジ様は黙った。怒っても、悲しんでも、楽しんでもいなかった。
 ただなんでもない顔のまま、黙っていた。

「泣くのが嫌で、泣かせないようにしてくれてるんでしょう」
「……」
「理由は、特にないですか」

 ないならないで、別にいい。ただ、最近やけに「お前が泣くから」と言ってくるニジ様の心境の変化に、ちょっとだけ興味があっただけ。弱くて脆くて、すぐに泣いて痛がる私と、どうして彼が手を繋ぎたがるのか。知りたかった。ただ、それだけだ。

「——街で見たんだよ」
「何をです」
「オットとツマがこーしてるの」

 彼の唇が、ぎこちなく夫婦を語る。彼が少し持ち上げた手は、まだしっかりと結ばれたまま。
 ニジ様の言わんとすることに頭を巡らせて、ようやく、ああ、だからあの日私の腕を掴んだのかと合点がいった。腕と腕を絡めて歩く男女を見て、それが夫婦だと学習したのか。正当な家族の形など知らないこの人が。だから、それをやろうとして、それで私の腕を折ったのか。ああ、だから。

「私のこと、妻だと思ってくださってたんですか」
「ハ? 何言ってんだお前」
「てっきり嫌われているのかと、思っていたので」

 正直に告白すれば、ニジ様はキョトンとして、それからまた大きく口を開けて笑った。珍しく馬鹿にしたからではなく、心底おかしいって意味で。

「嫌いだったら殺してる」

 散々笑った後であっけらかんとそう言われ、確かに。ああ確かにと納得する。おっかないことを平気な顔で言われてるのに、なぜか私まで笑えてきた。なんでだろうなんて、くだらないことで悩んだものだ。ニジ様は、彼なりに私と“夫婦”になろうとしていただけなのに。

「お前、……」
「なんです、……ちょ、」

 ニジ様が私のほっぺをぎゅっと摘んだ。思いっきり……よりは、少し弱いくらいの力で。それでも痛いので、私はまた「いっ」と小さく声をあげ、それを聞いたニジ様が「あ」という顔をする。
 それからそーっとそっと力を弱めて、やっと痛くないところまで落ち着いた時には、ニジ様の顔にはまた皺が出来ていて、これは滑稽な絵面だろうなと思ったらまた笑えた。

「どうしました?」
「難しいんだよ」
「力加減ですか。今は痛くないので触るならこれくらいにしてください」
「違う」

 ほっぺを摘んでいた手が離れ、それが赤子の肌をなぞるような手つきで私の頬の上を滑った。彼が私へ向ける弱い力は、彼の持ちうる最大限の優しさなのだ。きっと。やっと気づいた。

「お前が泣いてばっかで笑わねェから」

 拗ねたような物言いに、私は今日何度目かの笑いを堪えきれなくなる。
 もう痛まくなった左腕が、一人だけ仲間外れにされたことに怒り出しそうで、私は空いた手で彼の手を取る。片手だけじゃ分からなかったことも、両手を繋げば、もう少しだけ分かる気がする。そんな気がする。

「それならもう痛い思いはさせないでください」
「誰に向かって指図してんだ」
「指図ではなく、お願いです」
「お前のお願いなんか聞かねェよ。それも、——あれも」

“ニジ様、私を追い出してください”
“夫と妻であることを辞めましょう”

 痛みも悲しみも知らない人が、泣くなと言って手を握り、笑えと言いながら頬をさする。夫婦になどなれないと頑なに生きていたのは私だけだと知った今、彼の手をますます振り払えそうにないことが、ちょっとだけ恐ろしい。
 そんな夜。まだ、何も始まらない。今は、まだ。

「じゃあせめて私のこと嫌いにならないでくださいね」
「知るか。そん時はそん時だろ」

 彼の気まぐれが終わったら、死んじゃうらしい。結局恐ろしいのは変わらない。でも、まあ私を手にかけるその時もこうして優しく手を繋いでくれたなら、怖さも半分くらいにはなるかも。なんてね。

そん時は死ね

ニジ×政略結婚