あの人は、今思えば夏の蜃気楼のような男だった。

 海の静かな夜は彼を思い出してしまう。そう言ったのははてどのくらい前のことだったろうか。一年も経てば、どれだけ苦しくても人間痛みを忘れてしまう。都合のいい生き物だと思う。

 ドアを叩く音がして、その乱暴な叩き方にすぐに彼だとわかった。はあい、と聞こえるはずもないけれど返事をして、ドアを開けた瞬間に香る葉巻の匂いがいつしか嫌なものではなくなった。

「おかえり、パウリー」

ご飯の用意するからお風呂入りなよと背中を押せば、そうすると言ってシャワールームに消えていく。彼が使うシャワーの音が雨音のように部屋に静かに響いた。

「…まぁた吸ってる」

 テーブルの上のお皿を片付けている間に、さっきまでは感じなかった葉巻の匂い。部屋の壁にすっかり染み付いてしまったそれに顔を顰めて怒ったフリをするのは、私がいつも通りでいるためには必要な過程だった。鈍感なようで鋭い彼はきっとその事に気づいているのだろう。悪ぃと悪びれた様子もなく笑うのも、また私には必要なことなのだ、と。パウリーは優しいひとだから、決して私を自分のものにしようとはしなかった。こうして家に泊まっても、酔った勢いでキスをしても、頑なに私の心を尊重しようとしているのがすぐ分かる。そんな不器用なこの人を私が愛し始めていることを、もうそろそろ伝えても許されるだろう。

 ゆっくりと夕日が沈むように進んでいく恋を、私は目の前と彼としたいと願う。

「ねえ、」
「あ?」

 彼の口から葉巻を取って、テーブルの上の灰皿に押し付ける。

「…たまにはハレンチなことしようよ」

 その太い首に腕を回せば、彼が目をぱちくりさせて、やがて怖い顔で馬鹿野郎と言った。愛の言葉はもう少しマイルドに伝えてほしいな、なんて。


 水の町・ウォーターセブン。世界一の船大工が集まる島だ。水路で繋がるこの島ではみんな専らヤガラに乗って移動するけれど私はこの水の町を自分の足で歩くのが昔から好きだった。少し磯の香りがして、絶え間なく船の作られる音がする。その全部が当たり前で、この当たり前の風景の中にいつの間にかあの人はいた。何時からかは思い出せない。あの人がこの町に船大工としてやって来たのは6年前で、私たちは出会ってから坂を転がり落ちるように恋をした。……つもりだった、少なくとも私は。

 ガレーラではアイスバーグさんも公認のカップルとして社内でも恋人らしい素振りは隠さなかったし、私が作る弁当を受け取る時の柔らかいほほ笑みが好きだった。

「ルッチ」

 人前では自らの口を開くことのない彼が、私の前だけでは素直に自分の名前を呼んでくれるのが嬉しかった。何処までも何処までも、落ちていく私は恋の痛みなどちっとも感じることは無かった。ベットの上でふたり迎える夜明けに、彼がため息をつくことも、時々ぱったりと連絡がとだえることも、思い詰めた怖い顔で私を見つめていることも、全部知っていて、私はその愛を疑わなかったのだ。

名前
「なあに」

 彼の髪の毛を自分の指に絡めて弄ぶ。私の頬を撫でる彼の手はゴツゴツしていたけれど優しかった。

「愛してるんだ、お前を」

 それは彼が紡いだ初めての愛の言葉で、──「うん、わたしも」──又、最後の言葉でもあった。

 一年前、無事にエニエスロビーから帰還したパウリーを迎えたとき、私はもう二度とあの人には逢えないのだと分かった。『里帰り』パウリーたちは何度も何度も私にそう言って聞かせてくれたから、それを無下にすることも出来ず、私は寂しくなるねと言った。それが私に出来るすべてだった。

 家に帰って、小電伝虫を取り出す。あの人にしか繋がらない番号を鳴らせば、驚いたことに彼は出た。そして、何も無かったように「……名前か」と私の名前を呼んだのだ。

「ルッチ?」
「…ああ」

 じわじわと視界がぼやけていく。悲しいも寂しいも、何の感情もなかった。ただ終わりなんだなと思うだけで。

「突然里帰りなんてするからアイスバーグさん困ってるよ。カリファもカクも同時だなんて、ウォーターセブン中が困ってるんだからね、経理の仕事だって増えるんだから分かってる?」

 勝手なんだから。──薄れていく彼の匂いを、声を、表情を、温度を、その時の私は肯定するのに必死だった。

「退職金は?どこに振り込めばいいのよこのままじゃあ全部パウリーの借金返済に当てちゃうからね」

 ポタリポタリと彼が買ってくれたワンピースにシミをつくる。何も言わない彼が恐ろしくて、自分もあの人も生きていないような気さえした。「ルッチ」だから名前を呼んで、何度も何度も名前を呼んで、私の愛した人を、ずっと忘れないようにしたかった。

「どうしてあの時、あんなこと言ったの?」

 全部作り物だったなら何も欲しくなかった 。あの日々の中で私が見たあの人はすべて幻だったのではないかと恐ろしくなるよりは、ぜんぶ偽物だったと切り捨てる方が楽なのだ。

「ねえルッチ、」
「──サヨナラだ、名前
「待って!」
「幸せに」

その言葉を最後に私は声を上げて泣いた。あの愛の転がり落ちる先がこの町でもこの世界でもないのなら、私はあの人と一緒にいきたかった。



「──サヨナラだ、名前

 ルッチはぷつりと切った小電伝虫を見下ろして、彼女に繋がるこいつはさっさと野生に返さねばならないと考えた。「…ひどい顔じゃのぉ」ドアに凭れ掛かるカクはいつからそこに居たのか、何にせよ悪趣味な奴だ。

「おぬしも人間じゃったというわけか」

 ルッチはたった今、電話の向こうで涙を流しているだろうかつての恋人に対して抱いた気持ちをカクに見透かされたようでたいそう気分が悪かった。

 はじめ、ガレーラの経理部で働く彼女に近付いたのは有益な情報を得られるかもしれないという打算に過ぎない。それなのに彼女と過ごした5年間がこんなにも重荷になるとは予想外だった。女から情報を引き出すのに色欲を利用するのが一番手っ取り早い。そして用が済めば早々に切り捨ててしまうのが常だったというのに。己もまだまだだと今回の一見で痛いほどわかった。恋に現を抜かすなど愚かなことだ。

「俺達の退職金はパウリーの借金返済に当てるそうだ」
「それは惜しいのぉ」

明けない夜があってもいい

だから君を忘れない

title by 草臥た愛で良ければ