女とローが初めて会ったのは、グランドラインでハートの海賊団がいちばんはじめに立ち寄った小さな島でのことだった。町の酒場で働いていた女はよく笑い、料理が上手い気立ての良い女だった。美人だから島の男で奪い合いだと聞いてもいないことを酒場の親父は話した。ローが興味を持ったのは女の見目や料理の腕ではなくその手の甲の刺青だった。蛇を象った不思議な柄で、とてもファッションタトゥーには見えない。カウンターで酒を傾けるローがそれを見詰めていたのに気付いたのか、女は笑いながらこれは生まれた時からあるのだと言った。

「…生まれた時から?」

 とても蒙古斑のような柄には見えない。明らかに人為的なものだったが産まれたばかりの赤ん坊にそんなことをする母親がいるとも考え辛い。ローの疑念も最もだと女は洗っていたグラスを片付け、ローの右腕を取った。そしてその腕に小さく刻まれた傷の上に左手を翳すと、そこに確かにあったはずの切り傷が綺麗さっぱり消えたでは無いか。

……!
 悪魔の実の能力者か、とローは近くに立てかけてあった鬼哭に手を伸ばす。女はそれも最もな反応だとまた呑気に洗い物を再開した。

「ちなみに私、泳ぎはそこそこ得意です」

 パチリと飛ばされたウィンクには興味が無い。傍から見れば、それは女がローに好意を持っているのだと勘違いされてもおかしくなかったし女もそれを理解しているようだった。そして警戒と興味を深めるローをいつまでも女は笑って見守っていた。

 次の日、朝いちばんで出航を予定していたハートの海賊団は船長の一言で出発を一時間遅めることとなった。それを伝えたその足で街へと逆戻りした船長に、今度はなんの気まぐれか、はたまた本を買い忘れでもしたのかと船員たちは大して気にする素振りも見せなかった。

 そして各々が風呂に入ったり掃除をしたり軽く海を泳いだりして時間を潰していると、船長が女をひとり連れて帰ってきた。これこそ船内は騒然である。女を見れば昨日の酒場で働いていた女だった。町の住人が美人だ美人だと囃し立てていた人物であり、また船長にハートを飛ばしていたと船員の間で僅かに話題に上ったその人でもあった。しかしいやまさかあれしきのことで自分達の船長が落ちたとは考えられない。船員は一旦円陣を組んだ。

「どういうことだ」
「美人だとは思う」
「でもこの前の島の女の子も同じくらい可愛かったぞ」
「あーあのキャプテンにこっぴどくフラれた娘な」
「じゃあなんでだ」
「からだの相性?」
「昨日の夜はキャプテンずっと一緒だったろ」
「うーん」
「……なんかの能力者か」
「「「「それだ」」」」

 出された結論は彼女が何らかの力を使ったということ。世にはあるゆる人間を魅了する力が手に入る悪魔の実もあるという。彼女はその能力者で我等のキャプテンはその毒牙にかかったのではないか、いやそうであれ。──というのが全員の意見だった。

「キャプテン、彼女に、」

 騙されているのではないか。そう言おうとしたシャチの言葉を遮るように、ローは「この女を船に乗せる」と言ってのけた。皆が慌てて止めようとする中、ローは全く意に介さずといった様子で甲板への階段を上っていく。女は船員たちを前に一度深く礼をするとそれに続いて黄色い潜水艦に乗り込んでしまう。

「文句は後で聞く、とりあえず乗れ」
「「「「「アイアイ!」」」」」

 そのあと食堂へ集められた船員たちの前に現れた女は、もう一度深く礼をすると自らの名前を述べた。

「今日から此方の厨房で働かせて頂くことになりました、」

よろしくお願いします、とハッキリと言われ皆からパラパラと拍手が送られる。ローが言うには正式な仲間としてではなく非戦闘員のコックとして乗船するという話だった。確かに少数精鋭でやってきたハートの海賊団は未だ専任のコックがおらず食事は船長以外が当番制でやっており負担も少なくはなかった。それに昨晩の飯は美味かったではないかと、全員が船長は籠絡されたのではなく彼女の料理の腕を見込んだのだと安堵した。今まであれほど女性という生物に無関心だった船長がいきなり船に乗るように誘ったのだから100%シロだとも言いきれないが、見たところ騙されているような様子もない。ひとまず様子見だと船員たちは仕事に戻った。



 それから、女が船に馴染むのは早かった。島の男達の評判通り、気立てもよく優しい彼女は船員たちからも直ぐに好かれたし何よりその料理の腕は確かなものだった。毎日男の作る簡単な飯ではなく精がつくように配慮された食事は、食べ盛りの若い男たちを大いに満足させた。

名前、何か手伝おうか」

 ベポが洗い場で山盛りの皿を洗う彼女に声をかけると彼女は首を横に振ってそれを断った。

「これは私の仕事ですから、ベポさんはゆっくり休んで下さい」

 それは決して邪険にしているのではく、彼女なりのプライドだった。仲間であれば助け合うのは当たり前のこと。しかし自分は仲間ではなくただの乗船員でバイト──毎月この仕事で船長からお給料を頂いている身分なのだ。そのビックリするほどの額に見合う働きはせめてしたいと彼女は常々考えていた。「それなんだけどさ」ベポはそんな彼女が摩訶不思議だと言わんばかりに首(と言って良いのか知らないが)を傾げた。

名前はどうして仲間にならないのさ」

 この立派なコックが船長から何度も正式な仲間になるように勧誘されているのは、船員ならば皆知っていることだった。しかし、それが了承されたことは未だかつて一度もない。

「海賊になるのは嫌?」
「嫌だなんてそんな、」

 彼女は手を止めることなくベポの言葉を否定する。その言葉に嘘偽りはなかった。海賊になるのが嫌だとは思わない。むしろこの人たちとあらゆる海を超える仲間になれたらどんなに楽しいだろうと思う。

「……お気持ちだけで十分なんです」

 名前はまた肝心なことは何一つ言わずに全てを否定する。船長はこの頑なな姿勢の理由を知っているのだろうかとベポは思って、そっかと引き下がった。

「でも僕は友だちだと思ってるからね!」
「嬉しいです」


 女はひとり、甲板で膝を抱えていた。三日ぶりの浮上に皆が喜んで宴を始めたのはまだ日が暮れるかどうかという時間だった。飲み始めが早ければ潰れて寝てしまうのも早かった。日付が変わる頃には各自部屋に戻り、艦内は閑散としていた。名前は、宴の輪には加わらずひたすらツマミを作っていたので全く酔っていない。お前も来いと言われるのは毎度のことだったが、彼女がその中に加わらないこともまた毎度のことだった。それも彼女なりのケジメである。

 カンカンと誰かの足音がして、名前は顔を上げた。見れば、酔った様子もない船長がこちらを静かに見下ろしていた。「船長さん」乗船した時から続く呼び名は、ローをいつももどかしい思いにさせる。ローは彼女の隣に腰を下ろすと、黙って空を見上げる。月がひとつだけ浮かんでいた。名前はローの酒臭さに苦笑して、また膝の中に顔を填めた。今日はひとりでいたい気分だったのに、彼ならば良いかと思ってしまう。これは一体何なのだろうかと答えの見えない問いに苦しんでいた。

「お前に出会った晩も今夜のような月が見えていた」

 ローの静かな声に彼女は顔を上げる。

「そうでしたっけ」
「……ああ」

 そんなことよく覚えているなと思ったが、敢えて口にはしなかった。彼が言うのならそうなのだろう、だって彼は一度も間違ったことは言わない。それは他の船員同様、名前も盲目的に信じていることだった。

「こんなに月が綺麗だと悲しい気持ちになります」

 それなのに部屋にこもっていようとは思えない。不思議な心地だと彼女は笑った。ローはその笑顔を見下ろして、燻る気持ちの正体については考えていた。答えは見えない。いや己が受け入れる覚悟をしない限り永遠に分からないのだろう。

「そうか」

 試しに隣の彼女の細い肩を抱き寄せてみた。触れた部分が異様に熱い。ああやっぱりかとローは思って慌てて心に蓋をする。

「船長さん?」

 不思議そうな声を上げながら、それでも突き放しはしない彼女をローはいつまでもいつまでも自分の腕の中に留めておいた。


 女が船を下りると言ったのは、彼女がハートの海賊団の船にのって3年と4ヶ月目のことだった。突然告げられたそれに、全員たちは皆一様にそれを引き止めた。どうしてだとか何故だとか理由を問う質問に、彼女は「やるべきことがある」としか言わなかった。そのやるべき事は何なのか、自分たちには手伝えないのかという問いには答える気は無さそうであった。

「おい」

 沈黙を貫いてきた船長が口を開くと、騒然としていた艦内が一気に静まり返る。女は黙ってローを見据え、ローもまた彼女を深く見つめていた。

「お前の雇い主は俺だ」

 勝手な下船は許せないとローが言う。そうだそうだとベポが言った。

「船長さん、私は」

 それでも負ける気は無いのだと彼女が口を開いたが、ローはそれすら飲み込むように彼女に言葉を突きつけた。

「言いたいことはわかった、そのやるべきことが何なのかはあえて聞かない。ただしそれが終わったら、必ずもう一度船に戻れ。契約はそこまでだ」

 船に戻った後は辞めるなりなんなり勝手にしろとローが告げると、女はややあって分かったと頷いた。必ず戻ると約束した彼女に、ローが渡したのは自らのビブルカードだった。

「これで追いかけてこい」

 あまりに強気な物言いに、名前は久しぶりに笑った。

 彼女が船を降りて、飯はまた当番制へと戻った。彼女よりも遅くハートの海賊団の仲間になった一部の見習いはそんなのがあったのかと驚いていた。新しくコックを仲間にすればいいという意見も出たが、ローはそれに対して何も言わなかった。只黙って、微妙な味付けのカレーを口に運ぶだけである。「名前の飯が恋しい」と各方面から上がる声にも聞こえないふりをしていた。

 あの日、彼女を船に乗せた日から下りることを許可した日まで、彼女にいち船員に対する想いとはまた別の感情を抱いてたと推測することは、シャチやペンギン、ベポには簡単なことだった。あの船長が珍しく固執しそばに置きたいと思ったはずの女だ。今もベポの握ったおにぎりを食べながら、遠い空の下にいる彼女を考えているのではないかとベポは声をかけた。

「キャプテンキャプテン」
「……なんだ」
名前のこと好き?」

 ローは3秒ほど何も言わず、そして観念したように口元を緩めた。

「ああ」

 その返事にベポは大いに満足した。


 女が船と合流したのは、彼女が船をおりて丁度一年後のことだった。彼女が言うには用事は半年もかからずに終わったがこの船を追うのに半年かかったらしい。ベポは喜び溢れて抱きついた。

「お久しぶりです船長さん」

港に停泊した船の甲板で、名前はローに声をかけた。ほかのメンバーはシャチとペンギンの計らいで街に出払っている。船にはふたりだけだった。

「用事は済んだのか」

 ローの問いに、女はお陰様でと答えた。その答えにローは安心に似た別の何かを思う。それが何かもうこの長い時間の中で答えは分かっていたし、それを受け入れる覚悟もとっくのとうに完成していた。女がなにか迷ったように口を開き、それは言葉になる前に閉ざされた。女の迷いなど今知ったことか。海賊ならば自らの欲望に忠実であれとローは考える。

「約束通り、これで契約は終わりだ」

 もう女がこの潜水艦の厨房で働く義務はないしローが女を縛る権限もない。

「船をおりてどこかに行きたいなら好きにしろ」

 女はまだ何も言わなかった。ローは、その態度はなにか見透かされているようで気に入らなかったが、ここで意地になるのも無駄に思えたし後悔するのは自分だと知っていた。

「だから最後にもう一度だけ言う」

 ローは一年ぶりに女の瞳を見た。黒く輝く瞳には、もう迷いなどないように見えた。あの頃、いつも遠くを見つめているように思えたそれは今確かに目の前の自分を見ている。ローはそれだけで満足だった。

「俺の仲間になれ」

 もう十二分に待ったと彼は思う。自分はもとよりそんなに気の長い質ではない。それがもう4年近く女ひとりのために辛抱したことを思えば、自分を褒めてやりたい気持ちになる。女はローの言葉に喜びを隠さなかった。

「私を船に乗せてください」

 女のその言葉は、ローが4年待ってようやく手に入れたものだった。それを告げられた時の彼女の笑顔を見たら、たまには気長に待ってみるのも悪くは無いなとローは思う。そしていや彼女だからこそかと考え直して、目の前の細い体を真正面から抱き締めた。じきに船員たちもこの船に戻ってくるだろう。宴のためのありったけの酒と食材をその腕に抱えて。

星になるための仮眠

title by 星食