部屋に戻ると男は黒のテンガロンハットに黒のコートを羽織り、帰り支度をしていた。私の顔を見ると世話になったと頭を下げるもんだからせめて最後にご飯くらい食べていってくださいと持っていたトレイを見せる。男は私のトレイを覗き込むと、うむとひとつ頷いてコートと帽子をもう一度壁に掛けた。お嬢さんも是非一緒にとしつこく誘うので、小さなテーブルにトレイをふたつ並べて、私も席に着いた。

 その男は五日ほど前にやって来た旅人で、この島に上陸してすぐに倒れたために私の元へと運ばれた。それは久しぶりの患者だった。陽気の穏やかなこの島の人たちはあまり体調を崩さない。男の具合自体はただの流行り風邪ですぐに治ったが、何分祭りのあるこの時期には客が多く宿が全て一杯で行くところがないのだと言われては放り出すことも出来ずに私の部屋に泊めることにしたのが二日前のことだ。診療室のベッドが寝づらくって敵わない。もう宛のない旅人を担ぎ込むのはやめてくれと言っておこう。

 旅人は皿の中身を綺麗に食べ尽くすと「いやあ美味かった」とたいそう満足気に笑った。私のビーフストロガノフはグランドラインで一番だ。まだ食べ終えない私を見て、旅人は話のネタに、と海賊の話をした。何でもこの島には海賊船に乗せてもらっていたらしい。実に愉快な良い連中だと笑うので私もそれと同じ反応をした。

「そう言えばこの町にはあの火拳のエースが来そうじゃないか」

彼はこれまた実に愉快そうに話を続けた。さっき街をぶらついた時に聞いたのだと言う。

「火拳のエース、知ってるだろう?」
「…ええ」
「ほらあの、去年だかその前の年だかに処刑されて大騒ぎがあった海賊の、」

そのことについては新聞で見て知っていたので頷いた。男は海賊が好きなのかその手の話題が好きなのか、はたまた海軍贔屓なのかは知らないが「お嬢さんも会って話したそうじゃないか」としつこくその海賊のことについて尋ねてきた。たしかにその海賊を二週間ほどこの部屋に泊めた。理由は目の前の旅人と同じ。その時のことを思い出してまた曖昧に返事をすると、どうだったと続け様に質問されて正直ウンザリだった。

「そうですね、貴方様みたいな帽子を被っていたのは覚えているんですけど」

それ以外は、と考えるふりをする私を見て男は満足そうに頷いた。彼のはオレンジで飾りのついた帽子だった。そのオレンジがよく似合っていたなと思い出し、私はまた口を開いた。

「──太陽みたいな人でしたね」

男はそうなのかと笑うと、興味深い話までありがとうと頭を下げた。私はいいえと首を横に振る。男は今度こそ帽子とコートを手に取り、帰るようにしたようだった。

「本当に世話になった」

男が口にした三度目の感謝に返すことも面倒になり、私は笑うだけでほかには何もしなかった。そのうち扉の前まで来たところで、男が振り返り最後にひとつ聞いてもいいかと言うので頷いた。

「あの部屋の隅の大きな鞄、気になっていたんだが、ありゃあ何だ」

男が指さす先には確かに旅行用より少し大きめの鞄が置いていた。あああれの事かと思ったが今更説明するのは億劫だったので黙っていた。

「この部屋も荷物が少ないし、まるで出ていく直前みたいだ」
「…はあ」
「まさか夜逃げかい?」

──男は声を潜めて私に尋ねた。当たりだろうと言わんばかりの笑みに若干腹が立ったが、そこはどうにかこうにか気を鎮める。

「夜逃げだなんてそんな、」
「じゃああれかい、駆け落ちだ」

小指を立てながら男はまた笑う。私はあながち間違いでもないその答えに頷くことで返事とした。

「ええ、まあ」
「ほう、島の男か」
「いえ」

私はそこでめいいっぱい空気を吸い込む。笑顔を作るにはそれなりに体力がいるもんだ。

「でも、迎えが来なくって」

待っているんですけどね。いつでも行けるようにと。私の言葉が意外だったのか男は深刻そうに頷くと、そうかとしか言わなかった。最後に道中お気をつけてと手を振ると、ややあって男は手を軽く上げて扉の向こうへと消えた。


 誰かが叫んだ海に人が落ちたという声で村人総出で引き上げたのは悪魔の実の能力者だと分かった。オマケに腕と背中に入った刺青からあの白ひげ海賊団の二番隊隊長だと分かるのは早かった。そんな厄介者を私の診療所へ運び込んだのかと村の者を恨みはしたが、患者に非は無い。目の前に失われゆく命があれば己の命を懸けて助けるそれが医者というものだと常々父は語っていた。その志と、この診療所を受け継いだからには、私も同じように生きなければいけない。

 幸いにも落ちてすぐに拾われた彼の状態は悪くなく、丸一日眠ったあと目を覚ました彼はとても元気だった。助かった恩に着る、そう繰り返すその海賊に助けたのは私ではなく村の人だと伝えたが同じことだと言われてしまう。村の人もおっかない海賊に関わりたくはないらしく、暫くはそちらで預かってほしいと村長直々に頼まれてしまったのだ。

 その海賊は名をエースと言った。今は訳あって仲間とは別れてひとりで仇を探しているらしい。オレンジのテンガロンハットを傾けながら、彼はよく食べよく眠り、また沢山話をしてくれた。幸いなのか何なのか、暇な私の診療所に来る患者はおらず一日の大半を彼の言葉を聞いて過ごした。海の話、海王類の話、海賊の話、生まれた町の話、弟の話。自分が海に落ちたのは大きな海王類に船をひっくり返されたのだと言っていた。いやあ迂闊だったと笑う姿はとても懸賞金が億を超える大悪党には見えない。最初は暇つぶしに聞いていた彼の話はとても面白く、私は気付けば前のめりになって彼の話を聞いていた。医者の父のもとに生まれ、医者になることだけが全てだと思ってきたこれまでの人生。これ程までに他の何かに惹き付けられたことは無かった。
 広大な海、道の生き物、見知らぬ土地や人。それらを見て回ることが出来たならどれほど楽しいだろうと思った。すっかり海に心を奪われた私を、エースは楽しそうに笑った。その笑顔は太陽みたいに眩しかった。

 彼が滞在して一週間が過ぎた頃、彼は私に好きだと言った。あまりに突然の告白であったが嘘ではないと言う彼の目はとても真剣だった。この一週間で、知れた互いのことはほんの一部に過ぎない。けれどそれでも惹かれる何かがあったことは認めよう。うんと頷いた私の答えを彼がどう解釈したのかは知らないが、ニカッといつもと同じように笑っておやすみと言った。

 彼が旅立つ前の晩、私は彼に貴方は強いのかと尋ねた。海で生きたことの無い私は勿論海賊がどれほど強いのか、又、エースがどれほどの力を持った人なのか知らなかった。

「大切なものを守るには強くなくちゃいけねぇんだ」

彼は当然のように言った。とても格好良かった。己の為だけでなく誰かのために強くあろうとするこの人が。

「弟がいてよ、すっげえ泣き虫で」

だから先に死ぬわけにはいかねえんだとも言った。家族がいるんだ、とも。

 そんな彼を私はとても羨ましいとも妬ましいとも思った。そんな醜い感情ばかりを抱えた醜い私を見て、エースは乱暴に私の頭を撫でる。

「他に守りてえ奴も増えたしな」

私はまたうんと頷いた。彼の胸元に頬を寄せれば、彼は力強く抱き締めてくれた。その温かさがやっぱり太陽みたいだと思ったのだ。

名前

エースの声と匂い、あの太陽のような輝きは今もまだ私の胸の中で褪せる事を知らない。「ちゃんと片つけてくっから、そしたら一緒に海に出ようぜ」この記憶すべていつか枯れてしまうと言うならそれでも良かった。もしその瞬間が来たのなら、私も幸せになれるだろうから。

「荷物まとめて待ってろよ」

彼は当然のように言った。私はうんと頷いた。彼は額に悲しいキスをくれた。私は彼の左胸に寂しいキスを送った。彼が約束を守るその日が来たら、私は父の志とこの診療所を捨てることになるけれどそれも父は笑い飛ばして許してくれるだろうと確信があった。だからせめてその日が来るまでは父の信念の元に生きようと。そんなことを思いながら、遠ざかる彼の背中の白ひげマークを見ていた。それは夕陽の中に消えて、もう二度と見えなかった。

どうせ男と女

title by 草臥た愛で良ければ