※現パロ
9月14日。夏も過ぎ去り、徐々に冷たい風が吹くようになってきた今日この頃。まだ半袖で外を歩けるとは言え、べたつく暑さは鳴りを潜めた。来たる10月。とうとう華の20代に別れを告げ、三十路という未開の地に足を踏み入れることになる。30歳ってもっと大人だと思っていたのに、人間って案外成長しない生き物だ。同じことを、20歳の時も考えた。やっぱり進歩がない。
〈30歳までに結婚〉
これまた大きく出たね、と友達に笑われつつ、特に理由もなく、私は余裕だろうと思っていた。晩婚化の進む昨今、結婚しないという選択肢ももちろんあるが、結婚に憧れる女が絶滅する必要もない。いや、だって、実際つい数週間前まで恋人はいた訳だし。付き合い始めて、丸1年。そもそも28の女を捕まえた時点で、結婚意識してませんとか、なにそれどういう嫌がらせ?って話では。私は、この人と結婚するんだろうと漠然と思っていたのに。1年間私に見せた誠実さと優しさが嘘のように、浮気された。そういう人に見えなかったから驚いた。正直今でも嘘だろうと思ってる。フラれたくせに未練たらしいだなんて、酷なことは言ってくれるな。
「……っていう訳なんですよね」
ハハハと笑った私とは対照的に、尾形百之助は冷めた目をしていた。満面の笑みを向けられたら怖くて泣くとは思うけど。
「なにがという訳なんだよ」
「いや、まさかあの時の口約束が本当になってしまうとは私も思ってなかったんですけどね… 予想外すぎる」
「おい」
「言霊ってやつですかね? いや~滅多なこと口にするもんじゃないですね」
参った、参った。こんなはずではなかったけど、仕方ない。目の前の男を見る。ソファの上であぐらをかいてる元上司。本社に栄転した後も目覚ましい活躍で出世コースをひた走っているとか、いないとか。まあ、それはいい。
なんだよ、と私を見つめるジト目。顔は悪くない。同じ職場にいた頃も隠れて女性社員からは人気があった。性格のきつさ故、好かれていたとは言わないが。背は高くないとしても、小さくはないし、体もがっしりしている。仕事はできるし、お金も稼げる。問題は性格だけど、なぜか私とはウマが合う。ジト目を見つめ返しながら考えてみても、悪条件が全然ない。これは如何に。
「仕方なしで結婚する男が、元彼よりスペック高いのってどうなんです?」
「知るか」
「まあ、尾形さんより好条件な男の人なんてそうそういないか」
「褒めてんのか貶してんのか、どっちだ」
「どっちでもないです、受け入れてるんです」
我ながら勝手なことを言っているのは承知の上だが、尾形百之助と渡り合っていくには、このくらいじゃないとダメだ。彼に飽きられたら東京湾の魚たちの餌にでもなりそうな気がする。そういう底知れない恐ろしさを隠した人。嫌いじゃあないけど。ハイリスク、ハイリターン。まあ、いいや。
「でも優しい人って騙されやすいって言いますし、元彼もそういう感じだったんですよね。その点、尾形さんは大丈夫そうだし。浮気の心配もないし、うん、考えたら、すごくいい縁談な気がしてきました」
「俺の意見は」
「えっ 今更断ります?」
舌打ち、ジト目、ため息。スリーアウト、チェンジ。
隅に置かれた灰皿を引き寄せ、おもむろに煙草に火を付ける。今時、禁煙をしていない店も店だが、確認も取らずに喫煙する彼も彼。せめて部屋の中では吸わないでと言わなくちゃ。
「…で、いつなんだよ」
「なにがです」
「お前の誕生日」
「10月です、10月26日」
「日柄がいいのは」
「う~ん、直近だと明後日が大安ですね。あ、でも来週の月曜が一粒万倍日なので、そっちのが良いかも」
「じゃあ来週の月曜、仕事終わりに迎えに行く」
ふむふむ、なにが? はあ、と歯切れの悪い返事を返す。俺の欄以外は書いとけよ、と言われてやっと今さっきの流れを理解した。結婚ね、籍だけ入れとこうって話。私に負けず劣らず自分本位な男。うまくやっていけそう。
「もしかして、私との結婚、結構乗り気です?」
「最初から嫌がってはねえだろ」
「関白宣言ですか、流行りませんよイマドキ」
全く、いつの時代の男をやってるんだか。とりあえず、早いうちに婚姻届を取りに行って、友達の都合を聞いて、書いてもらって。ああ、お母さんたちにも連絡しなきゃ。詳細は後でいいか。さっさと結婚しろって言ってたし。
「もしかして、私が彼と別れたのも尾形さんのせいだったりして~」
彼が、猫のように目を細めて笑う。映画の悪役みたい、お似合いだ。
「そうだったら? 優しい奴は騙されやすいんだっけか」
探り合い、腹の読み合い。私をヒールに引きずり込むのはやめてくれ。こう見えて、25年前は、プリンセス志望だ。
「やめるか? 結婚」
「やめませんけど」
どうにでもなってくれ。騙すならバレないように。裏切るならありったけの慈悲を込めて。気付かなければ、火の中だって幸せにはなれるもの。