※現パロ

 テレビの左上の数字が21:00に変わる。現れたアナウンサーが神妙な顔つきで、今夜のニュースを読み上げる。どこそこで誰かが死んだ、犯人は依然逃走中、金目的の犯行か。恐ろしいはずのニュースも、どこか身近に感じる。もっと恐ろしく、醜い争いがあることを、月島基は生まれた時から知っていた。リモコンを手に取り、電源を落とす。スイッチ1つでこの世の中と隔絶できる。なんとお手軽で静かな世の中になったことだろう。この世界しか知らないはずの己が、いつも不思議に安堵感を覚える。自分じゃない自分が自分の中にいるような、独特の感覚はずっと昔から感じていて、それでも誰にも言うことはなく、この歳まで生きてきた。人生、何十年考えてもわからないことの1つや2つあるのだと言い聞かせ。

 立ち上がると同時に、インターフォンが鳴る。タイミングがいいのか、悪いのか。画面を覗くと、知った顔。下のドアを解除すれば、どうしたと聞く間も無く、影が進んで画面から消えた。1分経って、ドアを開ければ、丁度エレベーターホールと繋がる廊下の角から彼女が現れる。今度こそどうしたと尋ねても、彼女はそれに答えず、俺を見て、うんと笑って頷いた。

「お風呂、まだ入ってないよね」

銭湯へ行こう、と彼女が脇に抱えたお風呂セットを高らかに掲げる。この時代、スマホ1つで簡単にメッセージのやりとりができるのに、どうしたって彼女は連絡を寄越す前にこうして家を訪ねて来る。もし、俺が仕事でまだ帰っていなかったら?もし、もう風呂に入って疲れて寝ていたら?そもそも、こんな時間に女が一人で外を歩くのは感心しない。

「今、用意するから」
「はぁい」

脱衣所の棚、タオルを仕舞った上の棚に置いたまんまの銭湯セット。この前、これを使ったのは彼女が突然訪ねてきた、正月休みが明けて早々のこと。その前は、クリスマスの前の前の晩。彼女と一緒に身を縮めて寒空の下を歩いた。何度思い返しても、銭湯へ行くのは彼女と共に。風呂好きの自分だから、広い風呂はもちろん好きだ。しかし、一人では、疲れて重くなった腰は上がらない。彼女が見慣れたカエルの袋と笑顔を携え、『一緒に行こう』と言えば、こんなにも簡単に動くのに。

「お待たせ」
「いえいえ。暖かくなってきたねー」

 銭湯は俺の家からゆっくり歩いて15分の場所にある。いつも右側にカバンを提げて、彼女は左側にいないと落ち着かない。それがたまたま車道側を歩いてくれているんだね、と勘違いされ、弁明するのも恥ずかしく、誤魔化して、だんまりを決め込んだのがずいぶん昔。まだ、ふたりが中学生と高校生だったあの頃の話だ。甘酸っぱい感情はあの時代の名残か、それともとうの昔に腐らせたからなのか。今の俺にはわからない。

 思い出したような会話を繋ぎ、カバンが揺れて服と擦れる音を聞きながら進む道。うるさい年下上司のいない夜は静寂で溢れていて心地が良い。すれ違う車のヘッドライト、眩しさに負けて霞んだ都会の星。俺たちの故郷の星空を、もう何年見ていないだろう。この街の星なら数え切れてしまいそうだ。

「じゃあ、また後でね。先に上がったらここで待ってるから」
「ああ」

男女風呂に分かれ行く。毎回同じ口上を聞くが、俺より先に彼女が上がった夜など一度もない。長風呂だと同僚に笑われる俺よりも風呂の長い彼女。今晩だってきっと俺が待つことになる。湯上がりでまだ濡れた髪を振って焦る彼女の顔を心待ちにしながら。

 広い湯船に浸かり、大きな富士の絵を眺める。北の大地からでは流石に日本一の山といえど拝めない。一度登ってみたいものだと思いながら、やっぱり重い腰は上がらない。俺ももう歳か。彼女が、登山リュックを背負って俺の目の前に現れたら俺は行くのだろうか。きっと行くだろうと、早々に答えを出して瞼を下ろした。

 ここで待っている、と言われた場所で彼女を待って8分。ようやっと女湯の暖簾の向こうから顔を出した彼女は、眉を下げて小走りになって俺の元へ来た。焦る必要はないと言う。刹那掴まれた手はそれなりに冷えていて、言葉は意味をなさない。待たせてごめんね、と謝る彼女。構わないと、その肩にかかったタオルを取り、ポツリポツリと水を垂らす髪を拭った。タオルの隙間から覗く瞳は嬉しそうに細まった。

「基ちゃんお疲れだったんだね」

仕事忙しかったのかと彼女が聞く。一年中忙しいから何とも思わなかったが、確かにここ2ヶ月ほどは激務続きでボロボロだった。すっかり湯に溶けていった疲労たちを思い出し、頷いた。「ああって声、女風呂まで聞こえていたよ」俺の手渡したフルーツ牛乳を聞きながら、彼女が笑う。それは恥ずかしいな、とコーヒー牛乳を飲んだ。風呂上りはこれに限る。

「お前は変わりなかったか」
「ん?」
「しばらく会っていなかったからな」

彼女はああと頷き、少し思案して、「告白されちゃった」と言った。俺はコーヒー牛乳を吹き出し、むせ返る。彼女が小さな手のひらで俺の凝り固まった背中を撫でた。

「それで?」
「お断りしたの。でも、向こうもなかなかしつこくて」
「そうか」
「その人に告白されるのは2度目でね、同じ断り方したら、怒られちゃった」

なんて言ったんだと問うと、彼女は『プロポーズされるのを待っている』と答える。俺は手に持った瓶を危うく落としかけた。危ない。彼女は突飛な人間だが、まともなやつだ。それがどうしてこんなことを。

「お前、付き合っている男いたのか」
「やだ、基ちゃんったら」

ニコニコ笑いながら、グビグビ飲み干す。湿った髪は風に揺れず。俺の肩にかかる白いタオルだけが揺れていた。

「いや、お前が今、プロポーズって「じゃあ聞くけど、基ちゃんは、私以外の女の人と結婚するつもりなの?」

ピシリと指を突き付けられる。考えるより先に、口が勝手にそれを否定していた。彼女以外と結婚?考えたこともなかった。昔から当たり前だったから、彼女が俺と離れるとか、俺が彼女と離れるとか微塵も想像したことがなかった。なるほど、これは俺が悪いのかと気づいたらあとは簡単だ。「…すまない」「いいよ、――で?」彼女が右手を出し、俺の左手がそれに重なる。自分より一回り小さな手の体温、彼女が仄かに見せてくれた俺への好意と期待、今日が週の真ん中だってこと、何もかも忘れていた。

「それはまた今度」

できれば、近い週末に。準備が必要だ。一生に一度のことだから。

「今度は俺が迎えに行くから」

ピンクフロイドを口遊むように