※現パロ

「好きだからだろ」
「ぶほっ」
「汚ねえなァ、おい」
「慰めるか貶すか、どっちかにしてください」

 派手に飲んでたレモンサワーを吹いたが、私のせいじゃない。元はと言えば、尾形さんが『好き』とかわけのわからないことを言い出すから悪い。店員さんにおしぼりは頼んだから、これでトントンってことで。だって、あれは不可抗力でした。

「俺がいつ貶した」
「はっきり汚いって言いましたよね?」
「ついでに、生をもう1つ」
「話聞いてないし」

 おしぼりを持ってきてくれた店員さんに、ジョッキを渡す彼は何処吹く風。全く気にも留めずに、おしぼりで机を拭いていらっしゃる。

「話聞いてねえのはどっちだ」
「聞いてますよ?」
「じゃあ俺は何て言った」
「汚ねえなァ、おい」
「その前」
「………」

 尾形さん、もしかして今日は年に一度の調子悪い日で、たった二杯のビールで酔っ払ったのではないだろうか。だから、うっかり鬱憤晴らしに女引っ掛ける感じで、私に思ってもいないことを言ってしまったのでは。そういえば、最近仕事忙しそうで、なんかずっと不機嫌だったし、それが原因で後輩ちゃんが泣きそうになっていたし。…きっと、そうだ。

「もう帰りますか?」
「あ?」
 こわーい。

 さてさて、何でこんなに不機嫌なんだ。私は上司のことを気遣って言っているのに。尾形さんは無愛想だし、基本怖いし、みんなから好かれているとはお世辞にも言えないけど、新人の頃から私の面倒をよく見てくれて、主に厳しく、極稀に優しく、私を立派な社会人にしてくれた人だ。こうして愚痴を聞くためだけに飲みに行ってくれたり。たっぷりと感謝している。

「俺はお前にそこそこ期待してきた」
「えっ、ありがとうございます」
「覚えは早い、要領も悪くない。やればできる」

 それは尾形さんの魔法の言葉。『やればできる』彼のその一言に騙されて、何度無理難題をこなしてきたことか。いや、もちろん全部上手くいったわけじゃあないけども。

「俺が馬鹿だった」
「そんな失望させるようなことしました?」
「今日が調子の悪い日で、変な酔い方してる訳じゃない」

 尾形さんは、ガンと持っていたジョッキを机に置くと、じっと私を見据える。捉えて離さない。彼の瞳は一等深い黒色だ。

「あと、鬱憤晴らしに女遊びはしてねえ」
「嘘……」
「このところ機嫌が悪く見えたなら、仕事のせいじゃなくお前のせいだ」
「最近はご迷惑をおかけしていないはずですが」
「あともう1つ」
「まだあるの……」
「俺は愚痴を聞くためだけに飲みには行かん」

 ……と、いうことはどういうことなんだろう。私もこう見えてレモンサワーを二杯飲んでいるので、ちょっと酔ってる。尾形さんみたいにお酒は強くない。今日は、私が三年付き合った彼氏に二股を掛けられていた愚痴を聞く会ではなかったのか。そうか。――え、申し訳ない。

「で、でも、それじゃあ尾形さんが私のこと好きってことになってしまいますよ」
「だからそう言ってんだろ」
「うっそぉだ」
「うっそぉじゃねえよ、残念だったな」

 尾形さんが、フッと笑う。心臓が跳ねる。よーくよく考えてみれば、「主任が優しいのアンタにだけよ」って言われたことあったし、元彼の話をするたびに、ちょっと嫌そうな顔をしていたし、「さっさと別れろ」と言われたこともあった。純粋に、他人のそういう話が好きではない人だと思っていたけど、それも私だけ……?

 私の、尾形さんへのイメージがガラガラと崩れてゆく。愛想はなくても女にモテるタイプの人だから、私のことなんて眼中にもないかと思っていた。

「し、知りませんでした」
「彼氏がいるやつに告白するほど馬鹿じゃねえ」
「仰る通りで」

 今日の尾形さんは、いつも以上に辛辣だ。正論がズバズバ突き刺さってくる。今日は私の恋の傷を癒してもらいたかったのに、むしろ深手を負わされているのは、なぜ?

「それも、もう終わりだがな」
「私、まだ全然次の恋への準備が出来てないです」
「俺が何年待ってると思ってんだ」
「待って、それは格好いい」

 ずるいずるいと顔を覆う。指の隙間から覗いたら目が合って、また流し目で笑われる。これがあの尾形さんだってことも信じられないのに、尾形さんが私を好きだなんて、どうやって信じろと言うのか。いや、ここまで言われたら、信じるしか、ないんだけども。

「今はまだ待ってやる」

勘弁してください。


「やっぱり好きなんだ」
「は?」

 悪かった。本当にごめん。そう言って、勢いよく頭を下げる二十九歳の成人男性。自分の非を認めて、しっかりと謝れることは大事なこと。特に大人になると難しい。そういうハッキリしたとこは彼の美徳だと思うし、私もいいなと思っていた。まちがいない。

 ただ、三年も付き合った女に『実は大学時代から付き合ってる人がいる』と言っておいて、『やっぱり好きなんだ』? 正直引く。

「いや、いやいやいやいや」

 会って話したいことがあると言われたので、てっきりあのことは隠しておいて、みたいな泣き言だと思って来た。先日の尾形さんの一件で手一杯になってしまったので、三年付き合った男への未練も消え失せ――そもそも二股を告白された時点で百年の恋も醒める――目下、新たな議題に取り組む必要がある。こんな茶番に付き合ってる場合ではない。

「二股されてフラれたのは私なんだけど」
「本当にすまなかった」
「それについて、どうして私の許しを乞うてるの? 好きってなに、誰の話してる?」

 彼は神妙な面持ちで、また頭を下げる。だから謝れとは言っていないし、そもそも許す気もない。説明してよ、と言えば彼は言いづらそうな顔で口籠った。

 彼が言うには、大学時代の彼女にはもう気持ちはないが、向こうがトンデモナイメンヘラ女なので、別れるに別れられず、半ば脅されるような形で私と別れた。そんな彼女も振り切って来たから、もう一度チャンスをくれないか、と。まとめるとそういう話。

 こんな与太話、誰が信じると思っているんだろう。
 こんな男に三年も捧げたとか、恥ずかしいから忘れたい。

「そんな面白い冗談言える人だったの?」
「え?」
「ん?」

 私と彼が丸くした目と目を合わせていると、後ろからハッハッハと悪意と嫌味に満ち満ちた笑い声が聞こえて来た。肩に触れる腕、それは私が仕事を頑張った時に「おつかれさん」と言ってくれる時のそれと、まるで、同じなのだ。

「日頃からあんなに口の立つ男だったらフラれなかったかもな」
「なッ……」
「結婚しようと思っていた女にフラれたから、キープと元サヤって訳か」
「えっ、フラれたの?」

 彼は、顔を真っ赤にして机をバンと殴った。なんなんだアンタは、と激昂するのを見て、尾形さんの話は本当なのかと知る。ため息しか出ない。恥ずかしい人。

「いつまでもこの女が自分のものだと思っていない方がいい」
「だが、アンタのもんでもない!」
「それはどうかな」

 私は尾形さんの女ではないはずなのに、彼の隣でクズと対峙しているうちに、段々と尾形さんのことが好きなような気持ちになるから、本当に恐ろしい。もしこれも全て尾形さんの作戦であるなら、抗いの仕様がない。大人しく、手のひらでヒラヒラ踊ると約束してもいい。

「ここまで恥を晒して、さっさと帰るか、死ぬかどっちかにしたらどうだ」
「何を、」
「アンタの二股の件、触れ回るのは、そう難しいことじゃない」

 どっから持って来たのか、彼の名刺。この会社なら知り合いがいるんだ、と薄ら笑いを浮かべた尾形さんは、本気であった。味方であるはずの私でさえ、泣きそうになるくらい怖かった。この人、前世で何人殺したんだろうか。血も涙もない軍人だったに違いない。

「判断の遅さは命取りだぜ」

 彼はバタバタと席を立つと、逃げていった。なんとも憐れな終わり方である。よく分からないけど「あー」って声が出た。一周回って可哀想。

「えーっと、……ありがとうございます?」
「それで?」
「それでとは?」
「俺と付き合うか」

 やることなすこと急すぎてついていけない。私は凡人。

「ま、まだ、ちょっと、」
「……飲みに」
「飲みに⁉」
「奢るぞ」
「行きますけど」

 彼が伝票持って立ち上がる。いたずらに笑った彼は、やっぱり私のことを面白がっているし、確信犯だし。それでも、まあ悪くはないと思っているのは私自身で。『今はまだ』彼の言葉の有効期限も、そう遠くないような気がしてる。

ゆりかごから愛の墓場