男は神か天使か、あるいは両方。
 そういった類のものを目の当たりにするのは初めてだった。


 私は、——思うに、運が悪いのだ。両親からも友達からもこれまで何度も何度も言われてきたが、「たまたまでしょ」だけでそれらを片付けてきた。だって、本当にたまたまだと思っていたから。でも、今なら分かる。私って、運悪いんだ、と。

 もしも私の運が悪くないのだとしたら、今の状況はなんだ。
 柄の悪い男たち——ざっと視界に入るだけで10人はいる——に囲まれている。それぞれの手には包丁やらバールやら、とにかく俗に言う武器がたくさん。相手は私1人なのに大層な装備だ。私なんか、イスにロープでくくりつけられていて、一歩も動けやしない。ヒンヒン泣いてるだけ。

「おい、素直に吐け」
「……だから何の話ですか……」
「シラを切ろうったってそうはいかねぇぜ」
「ほらほら、痛い思いはしたくないんだろ?」
「こーんなに泣いちゃってさあ、カワイソ」

 私が泣けば、男たちから汚い笑い声がどっと湧いて、ますます恐ろしい気持ちになる。
 さっきから何か秘密らしきことについて、吐けだの話せだの言われているが、私にはなんのことか皆目見当もつかない。多分もうすぐ秘密よりも先に私の胃の中身が吐き出される。あんまり怖いから、さっきからずっと胃がちくちくするのだ。

「喋らないなら、しゃーねーな」
「あーあ。俺、かわいい女の子いたぶるの好きなんだよな」

 ニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべて、男たちが一歩、また一歩と近づいてくる。怖い。怖いけど、なんだか現実じゃないみたいだ。だって、現実でこんなことってあるかな? あるのか。運が悪いって言ったって、私、何にもしてないのに。何にもしてないのに死ぬのか。この男たちに、あのおっかないアレコレで痛ぶられて、こんなどこだか分からない場所で死ぬのか。嘘みたいな話。でも、きっと嘘じゃない。嘘じゃないって、死んだ後で気づくんだろうな。ああ。怖、

「——おい」
「あ?」
「誰だお前——ヴォハッッ」
「ヒッ」

 私のすぐ右側にいた男が吹っ飛ぶ。後ろへ、軽く2メートルは飛んだ。多分。
 あんな大きな体が、何か得体の知れない力によって、空気の抜けた風船みたいにクタクタになった。私の喉から漏れた声は弱々しくて、今度はなによと震え上がる。さっきからなんだってこんな非現実的なことばかり起きるのか。ああ、もう。

「その女解放しろ」

 私に集中していた男たちの視線は、後方の一点へと注がれていて、そこには、邪魔が入ったことへの苛立ちと今さっき起こったことへの好奇、恐怖が入り混じっている。一体、なんだと言うのか。錆びたブリキみたいにギコギコになった首を回して後ろを振り返ろうとする。すると、シンと静かな声がした。

「目ぇ、瞑ってろ」

 誰に向けて言ったのか。聞くまでもないことだった。
 私は咄嗟に目を瞑る。フンッと鼻で笑う声がする。視界は黒に閉ざされる。でも怖くない。なぜか、さっきまで身体中に巣食っていた恐怖が、今はどこにもない。硬く目を閉ざしたまま縛られた私の横を、強い風が吹き抜ける。

——この匂い、

 知っている匂い。耳に残る声にも、思い起こすと聞き覚えがある。
 「あ」と小さく声が出る。そうだ。脳裏に呼び起こされたその人と、その風に混じる煙草の匂いが一致した。

 男たちのうめき声と、何かが弾ける音、鈍い衝撃音が響く中。そっと目を開けた。私の目の前に、一人の背中がある。さっき私を囲っていたもののどれとも違う。私を救う背中だ。そう、直感で確信する。

「……尾形さん」

 脳裏に浮かんだ男の名前を告げる。背中が、ゆっくりと振り返った。
 ゆらゆらと上がる煙草の煙。それを咥える薄い唇と、その下に残る傷跡とヒゲ。目を見るまでもない。尾形さんだ。尾形さんに違いなかった。

「目瞑ってろって言ってんだろ」

 ごめんなさい。そう言う前に、視界が1メートルちょっと高くなる。……高くなる!?

「わぁっ!?!?」
「なんだ、声出んのか」
「尾形さん!? な、何して」
「も、行くぞ」

 私が縛り付けられたイスごと軽々と持ち上げた尾形さんは、それを神輿みたいに肩に担いで走り出す。倒された男たちからは悲鳴のような負け惜しみのような声が上がったが、誰も追いかけて来られるような状態じゃなかったようだ。
 結局、尾形さんは私をイスごと担いでスタコラ走り、あっという間に閉じ込められていた倉庫のような建物を脱出してしまった。



「おい無事か」

 無事か無事じゃないかで言えば無事だ。奇妙なことに。

「無事です」
「よし」

 今まさに死ぬところだったけど、それは尾形さんの手によって防がれた。だから無事だ。私には傷ひとつついていないし、……あ、縛られたところが擦れて赤くなったけど、死ぬに比べたら無傷みたいなものなのでノーカウント。なんなら尾形さんも、傷ひとつない。パッと見た感じ、返り血っぽく赤くなっているところはあるが、それは尾形さんのもんじゃないだろう。

「じゃあ帰るぞ」
「えっ」
「残んのか」
「帰ります!……でも、その」
「なんだ」
「腰が、抜けて……」

 立てない。そう言った時の私の顔。尾形さんがパチクリと目でシャッターを切る。恥ずかしいのと情けないので死にたくなったが、しょうがない。そう、しょうがないはずだ。むしろ、あんな大乱闘の後で平然としている尾形さんの方が、どちらかといえば異常である。

「ったく」
「す、すみませ……わっ、ちょ」
「おとなしくしてろ、落とすぞ」

 さっきまであんなに軽々とイスと私を担いでたことなんか忘れたように、尾形さんが「よっこいせ」と私を持ち上げる。しかし落とすぞと言いながら安定感は抜群だ。全く落とされる気がしない。まあ尾形さんが落とそうと思ったら落ちるけど。

「本当にケガしてねンだろうな」
「してないですよ、本当に」
「ならいいが」

 ぎゅっと、尾形さんの胸もとの服を掴む。なんとなく。……なんとなく。
 ねえ、おがたさん。——子供みたいな声が出た。さっきまでブルブル震えていた喉は、声の出し方を忘れてしまったのだ。
 なんだよ。——ぶっきらぼうな言い方で、でも決して無視はしない。うん、そういう人だった。よくよく知りはしないけど、でも、なんとなく、そういう人なんだろうっていう確信が今までも、今もある。

「なんであそこにいたんですか」

 私は、視線を落とし、その鎖骨に問う。
 神さまみたいに見えた。私を救った背中とその声が。運の悪い私を、神さまが助けてくれたんだと思った。

 知りたい。尾形さんがなんであそこにいたのか。
 ただの喫茶店のマスターが、どうして神さまなのか。

◆◇

 尾形さんは、私のよくいく喫茶店の店長だ。
 引っ越してきたばかりの頃に近所を散歩していて、川沿いにいい感じの喫茶店を見つけた。それが尾形さんのお店だった。それ以来、そこは私の中のお気に入りリストに入り、私は彼の店の常連客として名を連ねた。

 カウンター席に座り、コーヒーを一杯。
 飲み終わるまで適当に近況報告や世間話をして、ショーケースの中のケーキを一つ頼む。それを食べ終えるまでに話したいことを全部話して、たっぷり1時間半ばかり滞在したら店を出る。それがいつもだ。

 一度だけ、友達を連れて行ったことがある。家に遊びにきた時に、お気に入りの喫茶店があると言ったら「行ってみたい」と言われたのだ。
 友達と行った時は流石にカウンターには座らず、テーブル席に座った。注文を聞いて運んできた尾形さんとひとつふたつといつも通りの会話を交わした後、前を向くと、友達はぎょっとした顔をしていて、それを見た私もまたギョッとする。

「……な、何」
「仲良いマスターってあの人?」
「そうだけど?」
「嘘でしょ」
「何が? いい人だよ」
「それはさ、」

 友達の言葉が途中で切れる。彼女の視線は私から、一瞬カウンターの方へ向けられ、また顔を僅かに顰めると、すぐに私の方へ視線が戻ってくる。

「多分、あんたにだけよ」

 その友達の確信を含んだ言い方に私は首を傾げながら、尾形さんの方を見た。丁寧にカップを拭いているところだった。その所作にどことなく品がある。顔は怖いが丁寧な人だ。低い声も最初はびっくりするかもしれないけど、話せばすぐにいい人だと分かるし。面倒臭そうな顔はするけど、いつも私の話をうんうん聞いてくれる。

 尾形さんは、きっと見た目で損するタイプだけど、本当はいい人だと思う。

「そんなことないと思うけどな」
「他の人と喋ったところ見たことあんの?」
「注文するとことかなら、あるけど」
「ほら」
「何がほら?」

 尾形さんは、いい人だよ。繰り返す。それ以外に言いようがない。だって優しいし。他の人にどうとか知らないけど、少なくとも私には優しいし。私は、私に優しいならそれでいいよ。正直、私に優しい人は、みんな『いい人』だから。

「——尾形さん」
「あ?」
「さっきの質問、黙秘ですか」

 a.m. 0:41
 さっきまでの狂乱が嘘のような静寂の中に、コーヒーのいい匂いが広がってゆく。腰が抜けて歩けなくなった私を連れて尾形さんは店へ戻った。カウンターのいつもの席へ私を下ろし、彼もまた、いつものようにカウンターの中に立つ。血で汚れたシャツも、彼がそこに立つと、不思議とおどろおどろしさが抜けて見える。

「黙秘」
「そうですか」
「んだよ、もっと食いさがれ」

 私の前に、コーヒーカップがひとつ。まだ熱がある。湯気が二人の境界線の上で昇ってゆく。
 食いさがれと言ったって、尾形さんは喋らないだろう。一度聞いて答えてくれなかったことは、二度三度繰り返しても意味がない。浅くも深くもない彼との会話の中で、私はそう学んでいる。
 生まれ故郷の話。家族の話。あの時も、尾形さんは答えなかった。彼はなんとなく、そういうものにいい思い出がないのかも。ちょっとだけ悲しそうな顔をした尾形さんを見てそう思ったのが、ずっと前みたい。

「言いたくないことなら聞きません」
「……悪かったよ」
「謝らなくて、」
「違う。今日のこと。原因は俺だ、多分」
「今日のことって、——あの?」

 私のことを殺そうとグルリ囲んできた人たちのこと?
 尾形さんが、ああ、と頷く。まるで他人事のような風で。私には大変な大ごとだったけれど、冷静すぎる尾形さんを見ていたら大したことなかったような気がしてくる。いや、でも。絶対おかしい。普通、あんな廃倉庫で殺されかけたりしないんだよ。

「尾形さんって、本当は何者なんですか」
「宇宙人」
「ん〜なんか、ありえる」