人生に何度目かの冬が来た。毎日震えそうなほど寒かった。海は時々荒れて、思い出したように静かになった。気まぐれで、気性が荒く、たまにこの世で一等優しい。家から、電車の窓から、よく歩く道から見える海が、その日ごとに変える表情を私は毎日飽きることなく見ていた。
いつものように海を見ながら電車に揺られて帰路に着く。駅から出て歩いてすぐの商店街の入り口にある魚屋が私の家だ。階段に足をかけようとしたとき、隣から慌てて肉屋のおばさんが飛び出してくる。何事かと驚く私の腕を引いて、「ちょっと」と何かをすごく言いたそうにするので、階段にかけていた足を下ろして振り返った。
「あれ、何か聞いているのかい」
「あれ?」
「屋上にいるよ、さすがの私たちも話しかけられなかったんだけどさ」
「屋上に誰か来てるの?」
「ミコさんよ、ミコさん」
刹那、世界の時間が止まる。
固まった私の様子から、それを知らされていなかったと悟り、肉屋のおばちゃんは「大丈夫かい?」と甚く心配そうな顔をした。時間がチクタク動き出す。肺の中に空気が戻り、「大丈夫だよ」とかろうじて声が出た。
「知らなかったけど、大丈夫。何か用かも」
「今更用なんか聞いてあげる義理ないよ、追い出しな」
「まあまあ。お父さんはまだ外でしょう?」
「ああ、啓治さんがトラックで出てすぐ来たみたいだからねえ」
「分かった、ありがとね。みんなにも大丈夫って言っておいて」
まだ心配そうな顔のおばちゃんに精一杯の笑顔を見せて、今度こそ階段を上がる。二階の居室を飛ばして三階へ。ほとんど荷物置き場と化した屋上で、真っ黒の長い髪がたなびいている。背中越しのゆらゆらと立ち上るのは煙草の匂いで、それはすなわちその人の匂いだった。
変わらないなと思う。この世に不変なものなどないくせに、どうして、私の記憶の中にある美しいものは皆、そのままなのだろう。
「お母さん」
気がついたら、11年も経っていた。八歳のあの日、その人はここから去った。それからもう11年だ。8歳だった少女は、19歳になった。その人がかつて何歳であったか、定かではない。当時は、父よりもずっと若く見えていた。でも11年経って、もしかしたら、父とそう変わらない年齢であったのかもしれないとも思う。幾つなのか、今になって見てもよく分からない。若く見えたが、それがそのまま実年齢でないことは分かる。今更になって、何歳なのかを尋ねる気など毛頭ないが。
「おかえり」
煙草を吹かしながら、そう微笑んだその人は、紛うことなく自分の母親だった。美しさだけが取り柄のような人の目には、目尻に僅かに皺が増えた。でもそれだけだ。時を止めたように、その人はそのまま。
「何しに来たの」
おかえりと言われて、ただいまと返せない。娘のちっぽけな自尊心を、その人は何事もなかったように見ないふりをする。半分残った煙草を取り出した携帯灰皿に突っ込んで、静かに私の方へと近づいてくる。カツカツと、聞きなれないヒールの足音がこだました。その瞬間だけはいつもの波音も遠くにあって、ほとんど聞こえなかった。
「大きくなったわね、美人になった」
どうしてか忘れられない煙草の匂い。母の匂いだった。私を出産し、母という肩書きを持ち、でも育てることはしなかった女の匂い。決して美しい思い出ではない。
でも、嫌な気分ではなかった。悲しくも、悔しくも、恨めしくもなかった。ただ、何故この人がここにいるんだろうという疑問だけがあって、それ以外には何の感情も湧いてこない。眼前にいるその人は、母であって、家族ではない。
「何しに来たの」
頑なに、ここまで来た要件を尋ねる私に母は曖昧に微笑んだ。誤魔化すようなその仕草が気に入らないと言えば気に入らない。でも、昔は私に向かってニコリともしない人だったから、この人の中の時間もいくらかは進んだのかもしれないとも思う。かつて、私たちは歩み寄るということができなかった。恐らくは母と父も。だから私たちの家族という形は破綻した。
でも、今ならどうだろう。
今、目の前のいるこの人が八歳の頃の母であったら、もう少しだけ長く、私たちは家族でいることができたのかもしれない。
「啓治さんに用があって来たのよ」
「今いないよ、帰ってくるの遅いかも」
「そうね、いつも遅かったものね」
11年前の‘いつも’が今でも変わらないと信じて疑わない。この人のことを、父は世界で一番愛している。かつてと今では色々なことが変わったけれど、その事実だけは今でも変わらないのだろうと、聞いたわけでもないのに確信がある。
「じゃあ、今日は帰るわ」
「お父さんに用なら私から伝えるけど」
「いいの。自分で言うわ」
私の目の前で、ポケットに仕舞われていた手が伸びてくる。皺一つない、水仕事などしたこともなさそうな手だった。ツルツルとして、顔よりもずっと若い手に見える。それが私の頬に触れた。冷たかった。冬の冷えた空気からは遮断されていたはずなのに、今まで水に浸けていたかのように冷えている。それがスルリと私の輪郭をなぞった。
「ごめんね、……名前」
母に触れられたことも、名前を呼ばれたことも、思い返せば初めてであったような感じがする。少なくとも、私の記憶の中にはない。初めてだったが、初めてに相応しい感動はなかった。すんなりと受け入れた。こういうものかと納得した。つまるところ、血は繋がっているのだと嫌でも認めざるを得ない。
「いいよ」
11年前は到底言えなかった。
でも、きっと、もういいのだ。もうたくさんの時間が流れたから。私も母も父も前に進んできた。川の流れに乗ってここまで流されてきた。別れた川が再び交わることも時にはあるだろう。でも、それだけだ。一つになることはない。私はまだ、この人のことを何も知らないままだけれど、でも知らないままでも生きていけることは知ったから。
だから、もういいのだ。
母が突然現れて風に攫われるようにして去ってから、二週間が経っていた。よく通る海辺の道で、これまたよく現れる男がニコニコと手を振っていた。肩から大きなカバンを提げて、見慣れた陵南のジャージを着ている。その格好じゃ寒いのか、中に着た紺色のセーターがジャージの下に見えていて、ちょっとだらしない様がいかにも仙道らしかった。
「今、帰り?」
「そうです、今日は部活に顔出してて」
「まだやってるんだ」
「代替わりしたんで毎回ではないですけど」
彼からは、まだ爽やかな青春の香りがした。夏は過ぎ、秋も終わり、とうに冬も佳境を迎えようかという頃なのに、仙道からは鮮やかな青色の気配がするのである。
「名前さんも帰り? 早いね」
「今日は学校お休みだから家の手伝いとかしてたよ」
「へえ、もう終わり?」
「ん、まあね」
仙道が私の横に並ぶ。彼が今来た方向に、人が二人立っている。そこに視線を寄せる私に気づいて、仙道は笑いながら「また知り合い?」と尋ねてきた。知り合い。まあ、間違いではないけれど。
「んーん。父親と母親」
それは本当にたまたまだった。私と父が店仕舞いをしている時に母が再び現れて、父に話があると言った。家の中で話せばいいのを母が嫌がって、結局私が店仕舞いを引き受けた。二人がどこへ行ったかは知らなかったけれど、片付けが終わって、よく歩く道を散歩していたら、そこに二人がいたのである。
先へは進めなかった。二人に近づいて話しかけようなんて、とてもじゃないが思わない。さっさと引き返せばよかったものを、なぜか足が縫い止められたように動かなくて、結局仙道が現れるまでそこにいた。
「あれ、名前さんのお母さんなんだ」
「そう、私もこの前すごい久しぶりに会ったよ」
仙道が現れて、ようやく息ができたような気がした。ここは陸で、水の中ではなくて、私は魚でもなくて。それまで何故か息が詰まっていた。溺れるほどではない苦しさがあった。それが、この男の微笑み一つでなかったことになってしまう。ほんの少し、それが怖かった。自分の中で膨れ上がる彼の存在が、ほんの少し。
「本当に、綺麗な人なんだね」
今は、素直にそれに頷くことができる。母に「ごめん」と言われて「いいよ」と返せた今なら。仙道の言葉を、父の変わらぬ愛情を、「そうだね」と肯定することができた。
母は魚のような人だった。人の目を惹く魅力的な鱗を持っている。美しかった。手に入れたいと願う人がいた。でも、彼女は陸ではうまく息ができない生き物だから、だから虚しく離れて行ったのだ。
それが仕方のないことだと今なら理解できる。さようならの言葉もなく去った人を、私は自分の中で許したから。僅かな苦しみだけを残して、過去をゆっくり消化していく。そうしてまた、私は前へ進んでいく。
「何話してるか、名前さんも知ってるの?」
「ううん、いいの。私は知らなくていいことだと思う」
私が知るべきことであるなら、父が教えてくれるだろう。今はまだその時じゃない。そして私はここに留まるべきでもない。私に決して見せない父の表情は、きっとあの人だけのものだから、私がここから見るべきではないのだ。
仙道へ「行こう」と言った。同じ場所に帰るわけでもないのに「帰ろう」と言った。仙道はそれ以上、何も尋ねない。そのちょうどいい距離感に甘えている。
「名前さん」
「なぁに」
「もっと我儘に生きてもいいよ、多分」
仙道が空いた手で、私の手を取る。大きい手にすっぽり包まれた私の手は、そのまま彼のジャージのポケットに仕舞われてしまった。ガサガサとちょっと固くなったカイロが当たる。起き抜けのベッドよりも暖かなそこは、なんと言っても心地よかった。
「……純ちゃんも似たようなこと言ってたよ」
「魚住さんが?」
「二人とも、優しいのね」
別に無理をしているわけじゃないのだ。人よりも生きるのが下手くそなだけで、不幸でも可哀想な人生でもない。そういう風に見せているという自覚もない。
だから、ただ「ありがとう」と返す。もっと他人に期待して、もっと自分の心に我儘になる。二人がいいよと言ってくれたような、そんな生き方が自然にできる日が、いつか来るかもしれないし、そんな日は来ないかもしれない。それで構わないのだ。そうやって言ってくれる人がいるという事実だけで、人生はきっと素晴らしいものだから。
「じゃあ、我儘、今言ってもいい?」
「勿論」
「卒業する時、仙道くんの何かを頂戴」
「何か?」
「そう。ほら、憧れの先輩とかにボタンとかジャージとかもらうでしょう、ああいうの」
私の我儘が意外だったのか、仙道が目を丸くした。それから声を上げて笑い出す。彼のツボというのはよく分からない。突然笑ったり、困ったり。不可思議な生き物だ。だから余計に惹かれてしまうのだろうけど。
「名前さん、そういうの興味あったんですね」
「人並みにね」
「いいっすよ、何欲しい?」
「なんでもいいの。仙道くんがあげてもいいものなら何でも」
思い出が欲しかった。強いて言うならそれが最大の我儘だ。彼の卒業を機に終わりにするとか、そういうことではなくて、ただ何となく、青春と呼ぶに相応しい彼との時間を形にした何かが欲しかった。
「名前さんになら、何あげてもいいよ」
迷いのない瞳で、彼が告げる。やっぱり、彼が眩しかった。
「じゃあ、ボタン。心臓に一番近いとこ」
「ボタンだけでいいの」
「うん、十分」
「分かった、約束」
ポケットに入れたまま、器用に小指を結んで、顔を見合わせて「約束ね」と言い合った。他愛もないことだった。叶わなくても怒る気にもならないような、冬の日に交わした小さな小さな約束だった。
私たちはそれをポケットに仕舞ったまま、二人の体温と冷め始めたカイロで温めた。それが恋の温度そのものだった。火傷するほど熱くはないけれど、でも確かに温度がある。触れたら優しい気持ちになって、ずっと手離したくないと思う。でもそれを握り続ければ、いつかは火傷してしまう。手離さなければいけない日が来てしまうとしたら、ずっと先であればいいと、その日の私は願っていた。父と母が迎えたような寂しい別れが、もっとずっと先の未来であるように、と。
結局、その約束が叶わなかったのは結果論で、正直なところ春を迎える頃にはそれどころではなかった。信じて疑わなかった、美しく切ない春は予想とは全くかけ離れた形で訪れた。