時の流れは早い。瞬く間に過ぎるとはその通りで、夏は一夜の嵐のように過ぎ去っていった。不完全燃焼で終わった彼の夏に、その後大きな事件はなく、夏はただ暑いだけだった。全国へと駒を進めた神奈川二校が、どんな成績を収めたか、結局、私が知ることはなかった。私はバスケットに興味があるのではない。ただ、仙道彰のバスケットが見たかっただけなのだ。

 私の単調な専門学生ライフにも変化はなく、日々難度を上げていく授業には着いていくのが精一杯で、時々仙道に会っては、その愚痴を言うのがお決まりだった。彼はいつも笑っていて、最後に「楽しそうでよかった」と言う。私の話の何を聞いて、‘楽しそう’と表現しているのはさておき、仙道と会うのが楽しかったのは間違いない。

「あ、俺。東京戻ることになりました」

 涼しくも、暑くもない夜のことだった。学校帰り、駅から出ると仙道がいて、大きいスポーツバッグを肩から下げて立っていた。仙道ほど背が高ければ、雑踏の中でもすぐに見つけることができる。彼は私を見つけるとニコニコと手をふり、自分はちっとも疲れていないような顔で「お疲れ様です」と言った。
 それから私たちは歩き出し、家の前を過ぎて商店街を抜け、仙道の下宿の前を通り過ぎた。「もう少し」を重ねて、伸ばしに伸ばした散歩だった。前に一度来たことのある川辺の遊歩道まで辿り着いたところで、唐突に彼が切り出した。

「東京? 戻るって、帰省とかではなく?」
「来年の春から。東京の大学から推薦来て、それで」
「あ、進路」
「ここ、気に入ってたんですけどね」

 柵にもたれかかった仙道は、星のない空を見上げて言った。あまりにあっけらかんとした言い方だった。それをきいて私の中に生まれたのは、驚きや寂しさではなく、納得だけだった。
 仙道のことをよく知らない。知っているようで、きっと知らないことの方が多い。バスケットに関することなら尚更だ。彼がすごいプレーヤーであると言われていることは知っていても、それがどのレベルであって、どんな風に評価されているか、私には分からない。
 だから彼の言う『東京の大学』がどんな場所で、そこへ行くことがどういう意味合いを持つのか、きっと知る日は来ないだろうと思う。それでも、彼がそういう場所へ行ってしまうということだけには甚く納得していて、『ああ、やっぱり』と思っている自分が確かにいる。

「ここから遠い?」

 納得していると思いながら、その質問はひどく未練がましかった。
 神奈川と東京。大した距離じゃない。電車に乗れば一時間と少し。二時間はかからない。そんなこと分かりきっているくせに、あえて彼にそう訊いた。本音を言うと、仙道の言葉で「遠くない」と否定してほしかった。大丈夫だと安心させてほしかった。私がそう願う立場にないことには見て見ぬふりをして。

「んー、海は見えないかも」

 そっか、と返す。私の声は小さかった。
 海の見える町で育った。波音が絶えず響く場所で生きてきた。海の見えない場所は、すなわち遠いところである。

「……寂しくなっちゃうね」

 私に言えることは何かと考える。ただそれだけだった。引き止めることはない。春には笑顔でバイバイと言うだろう。でも、せめて「寂しい」とは伝えたい。わたしたちがなんでもない関係であったとして、少なくとも友達ではあったから、友との別離をただ惜しむのである。

 仙道の眉が下がった。困ったときにする顔だった。困ったと言っても、迷惑に感じているわけではない。どう言えば私が傷つかないか、悲しませないか、思案して困っている時の顔である。
 困らせたくなかった。でも、彼が困っているということにわずかばかりの喜びも感じている。彼を傷つけるとしたら、それは自分だけであってほしかった。彼の心を、他の誰かが揺らしてしまえるのは、どうしても、耐えられない。

「会いに来ます」

 星のない空で、仙道という存在だけが輝いて見えた。彼はたった一つの星のようだった。目を背けたいほど眩しいのに、ずっと見ていたいほど美しい。綺麗だから、やっぱり彼がほしかった。離れないでほしいと、本当は思っている。

「どうせ俺が会いたくなるから」
「……なにそれ」

 自分がちっぽけに思えた。それなりに大きな水槽でゆらゆら泳ぐ熱帯魚みたい。自分自身はその場所に何の不満を感じていないのに、遠くの美しき魚の鱗を見た日から、それが忘れられなくなった。海を知らないくせに、何者かに憧れている。私も‘それ’になりたかった。願うだけで努力が足らない。努力しても叶わない。
 私の目の前にある星は、やっぱり近いようで遠いのだと殊更感じさせられる夜だった。

 朝が来る。
 鮮やかな朝日が海を照らしている。私と仙道は、また同じ道を歩いていた。もちろん、夜通し歩き続けていたわけではない。明日も会えるかと聞かれたので、朝、学校へ行く前でいいならと答え、「俺も部活あるから」と彼が言って、今、一緒にいる。
 会うと言っても、こんな早朝にどこかに行けるわけではない。できることと言えば、精々一駅分ともに歩くことくらい。だから、私たちはまた同じ海沿いの道を進んでいた。波音もまた共にある。ここは私の町だと強く実感させられる音。

 ザブンザブンと寄せては返す波の音。歩いている道から砂浜を見下ろすと、ちらほらと人影が見える。こんな早朝から海にいるのは、散歩好きの犬と老人、それか波乗りくらいだ。
 海の水面をスイスイと進む波乗りの中に、一人見知った顔を見つけた。褐色の肌と焦茶色の髪。スポーツマンらしい体躯は、彼が生粋のサーファーなのだと誰もが信じられるものである。

「あ」

 思わず、私の足が止まる。声も出た。久しぶりに見たのだ。四年か、五年ぶり。中学の頃以来だったのだ。自分でもよく気づいたなと思う。

「どうしたの?」
「うーん、知ってる人見つけた」
「知り合い?」
「まあ、正確には純ちゃんの知り合いだけどね」

 私の視線の先を、仙道が追う。探そうにも、そこには一人しかいない。どの人?と聞く必要もなかった。
 その人は、私の記憶の中の面影と寸分違わぬ形をしてそこにいた。もちろん背も高くなり、成長しているが、醸し出す雰囲気や、目を背けたくなる爽やかさは、まさに思い出と一致している。記憶とは得てして美化されてしまうものだから、彼が、私の淡い思い出を裏切ることなく、変わらぬまま存在しているというのはある種の奇跡だった。

「知り合いって、……牧さんのこと?」
「……もしかして、バスケで知ってる?」
「うん。というか、牧さん有名人だし」
「そうなんだ、昔から上手い上手いって言われてたもん」

 そうだ、私と彼が知り合ったのも純ちゃんがプレーしていた体育館である。彼もまたバスケットに傾倒している人間の一人だった。
 あのかつて私がよく行っていたミニバスの体育館で、いつも人の目を引いていたのが彼だった。彼を見ると、おじさんたちは示し合わせたように「上手いねえ」と言った。私にはバスケットの上手い下手は分からないので、それをそうなのだとしか受け取ることはできなかったが、確かに、彼はいつもたくさん点を取っていたような記憶がある。バスケットというものに根本的に興味が薄いので、誰であれ、プレーの内容はどの時代でも曖昧だ。

「昔から知り合いなの?」
「純ちゃんがミニバスやってた頃によく見に行ってて、別のチームに牧くんもいたの」
「へえ」

 それは、まさに幼く、可愛らしいだけの思い出である。
 あれは、小学生の私が初めて抱いた他者への淡い感情だった。かつて仙道にも話したことがある。

「ほら、前に年上の子がモップがけ手伝ってくれてって話したの覚えてる?」
「あーはい」
「あれが牧くん」
「え、でも年上じゃあ」
「そう、昔から大人びてたから年上だと思ってたんだけど、後々同い年って知ってビックリしちゃった」
「……へえ、そうなんですか」

 手伝うよと言ってくれた男の子。優しいなと思った。ありがとうと告げた後の微笑みが素敵だなと思った。ただそれだけで始まって、何事もなく終わった。憧れに近い。何度か体育館で姿を見ることがあったからその度にいいなと思って、でもそれから何かをすることもない。純ちゃんにも打ち明けることはなかった。あれが、私の初恋である。初恋は、ガラス瓶に入れて心の中に仕舞ってある。

「初恋が牧さんかぁ」
「もうずっと昔の話ね」
「でも、見る目ありますね。名前さん」
「そうなの?」
「だって男から見てもカッケェもん」

 仙道はポケットに手を入れて複雑そうな顔をしていた。彼の寝癖まじりの黒髪が海風に吹かれている。
 今も、私は恋をしている。そしてそれは、あの頃に牧に抱いていたような淡く不確かなものとは全くの別物なのだ。匂いも温度も、感触も違った。同じ‘恋’というラベルを貼ってしまうのが躊躇われる程。この感情はどこへ行くのだろう。昔のように、泡沫と消えるとはとても思えない。明確な終わりのある恋を、私はまだ知らない。

「今見てもかっこいいじゃん、牧さん」
「そうだね」
「初恋は特別?」
「どうだろう、……終わったものはみんな特別なんじゃないかな」

 終わってしまったから、失ってしまったから、それを惜しむ。だから特別なものであったように思う。それは物体でも感情でも人でも同じだ。初恋というガラス瓶に仕舞った記憶が、殊更大事なのではない。初めて味わって、それで形にならずに終わったしまったものだから少しだけ特別なだけ。
 今、終わっていないものの中で‘特別’に感じるものが、真に一番大切なものであると思う。家族とか、友人とか、将来とか。隣で難しい顔をしている背の高い彼とか。

「仙道くんはどうなの」
「どうって何が」
「仙道くんにも初恋の思い出が?」
「んー」

 仙道の中に、それらしい記憶が浮かんでいる。その横顔を見ているのは、少しだけ胸が痛んだ。でも、少しだけ。だって私と彼はそもそも生まれ育った場所が違うのだ。同じ時間をほとんど共有していない。知らない彼が多くあることは当然のことだ。それを全て知ってしまいたいというのは私のエゴで、それを叶えることは許されない。

「それっぽいのはありますけど、今考えると多分違います」
「違うの?」
「強いて言うなら真っ最中すね」

 仙道が、大きな手を自分の首裏に当てる。見られたくないものを隠すような、でもとても自然な動作で。
 初恋の‘真っ最中’だと言った。胸がどきりと音を立てる。ここで、誰に?と聞くのは反則だろうか。望まれないことだろうか。恐れがある。彼の口から、全然知らない女の子の名前が出たら、どうなるだろう。

名前さん」
「ん?」
「行きましょ、学校遅れますよ」

 自分がその時、どんな顔をしていたか。鏡を見るのも怖かったから、俯いて、初恋からも、今の恋からも目を逸らした。直視する勇気が湧かなかった。やっぱり自分が強いだなんて、とてもじゃないが思えない。

「仙道くんに言われると変な感じ」
「はは ひっでぇ」
「進路決まったからって学校サボっちゃダメよ」
「分かってますって」

 彼は前に、いつまでも前に進んでいく。
 私はいつまで、この道でその背中を見ていられるのだろうか。