鬱蒼とした天気が続く憂鬱な梅雨の季節に、珍しくも気持ちのいいからりとした風の吹く日だった。とはいえ、体育館の中にいれば外の天気なんて少しも関係ないのだが、それでもここへ来るまでの道中や、窓から見える景色に晴れた空があると少しは気分が上がる気がする。
 その日、これまた珍しく、私が体育館にいた。母校・陵南高校の体育館ではなく、地域の総合体育館である。行われるのは陵南高校対湘北高校の試合。種目は言わずもがな男子バスケットボール。夏の全国大会最後の席を賭けた、奇しくも昨年と全く同じ対戦だった。

 誘われたのだ。仙道に。
 『名前さん、試合来る?』と。
 断ってももちろんよかった。近頃は専門学校での勉強も忙しく、授業のない日にも実習や授業の予習復習にかなりの時間を奪われている。そしてそのことは、仙道にも少なからず伝わっているはずのことだ。私がそれをそうと見えないようにしていても、彼は会った次の瞬間に「疲れてますね」と言ってくるような男なのである。
 だから、「最近忙しいから」と言って断ったところで、仙道はどうとも思わなかっただろうというのは分かっていたことだった。彼はそういう小さなことでいちいち機嫌を損ねたりするような小さな人間ではないのだ。
 でも。どうしても、見たいと思ってしまった自分の心には抗えない。
 バスケットコートという小さな海の中で生き生きと動き回る仙道彰という男の試合を、どうしてもこの目に収めたくなったのだ。

「……まさか見に来るとはな。誘われたか仙道に」
「……まあ、そんな感じ」
「その様子じゃまだ付き合ってないのか」

 体育館へと向かう道中、不躾にそう尋ねたのは私の幼馴染であり、元・陵南バスケ部主将であった男である。
 私と仙道の関係に心底驚いたというような顔をしているが、自分だって板前の修行ばかりでまだ人生の春が遠いことはご近所付き合いから筒抜けだ。とはいえ、彼ほど性根の優しい男もそういないので見つけてくれる人さえいればそうそう失敗することはないだろうとは思っているが、悔しいので言わないでおく。

「だって。……好きとか付き合おうとか言われてないし」
「どう見たって好き合ってるだろう、お前ら」
「分かんないでしょ、仙道くんのことだもん」

 私がそう言うと、魚住はバツの悪そうな顔で口を閉ざした。私の言葉に多少なりとも感じるものがあったらしい。そうなのだ。仙道彰という男は、どれだけ考えても不可思議で魅力的で掴みどころがない。自分のものになったと思うのは間違いで、自分が彼のものになれたというのも勘違い。気が付いたら何事もなかったように消えてしまいそうな、そういう独特の雰囲気をあの歳で平然と身に纏っている。

「仙道は、悪い男じゃないぞ」
「分かってるよ、そんなの」
「やつも男だ、大事な試合が終わったら動くかもしれん」
「やめて、期待とかそういうのしないって決めてるから」

 仙道と出会って一年が経った。短くはないが、長くもない時間だった。彼は私にいつも優しかった。仙道のような、生きているだけで異性の心を掴むような人間を好きになるべきではなかったことだけは分かっている。でもそれは無理だったのだ。私も彼の周りに棲息する数多の魚たちと同じように、彼に振り返って欲しくなってしまった。彼が自分だけを見ればいいのにと願ってしまった。欲を持ったらもう戻れない。純粋に、先輩と後輩だった僅かな時間軸にはもう戻れないのだ。

名前
「んー?」
「お前は、もう少し期待して生きていい」
「……なに、突然」
「いろいろ大変だったことは分かってる。でも人生辛いことばかりじゃねぇ。もっと自分と周りに期待しろ」

 幼馴染と並んで歩くと、見上げるほど高い位置に顔があった。それをずっと見ていると首が痛くなると笑ったのは、私と魚住の母親で、小さな頃からずっと変わらなかった。同じ年に同じ町に生まれたはずなのに、彼はなぜかいつも私の先にいる。太陽で霞んで見えないくらいの場所に、いつも魚住がいる。
 それに追いつこうとも追い抜かそうともしてこなかった。彼はいつも、私の横を同じ歩幅で歩いてくれる人間だと幼心に知っていたからだ。

「……純ちゃんと出会えたのは幸運だったと思うよ」

 人生、悪いことばかりじゃない。寂しことばかりじゃない。それを証明するいくつかの事柄の一つに、魚住純という人間の存在がある。
 魚住は口を硬く閉じたまま私の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。せっかく整えた髪型が崩れたけれど、久しぶりの手の安心感にそんなことも忘れて笑ってしまった。この大きくて強く、そして優しい幼馴染は私の数少ない誇りである。

 他のOBたちと合流する魚住とは体育館の入り口で別れ、私は一人で陵南サイドの観客席後ろに自分の席を取った。
 緊張感に包まれた体育館。コートの中央には青と赤のユニホームを着た選手たちが対峙している。普段道を歩けば頭ひとつ抜け出てしまう彼も、こうしてバスケットマンの中に混ざればそう目立たない。
 試合開始の笛が鳴り、中央の二人が高く跳ぶ。あっと思う間もなく、彼らの運命を決する試合が始まってしまった。選手たちはコートの中に散り散りになり、一つのボールを追いかける。右へ攻めたと思ったら今度は左へ。宙へ上がったボールはゴールネットを揺らす時もあれば、虚しくリングに阻まれることもある。その度に観客席からは「ああ」や「よし」と言った声が漏れた。
 行き場のない両手は、無意識に胸の前で重なっていた。
 神様なんて曖昧で不安定なものに、彼らの勝利を祈っていいのか。でも他に、私にできることはない。

 少しずつ少しずつ得点が積み重なっていく。両チーム、力はほとんど拮抗しているのか大きく差が開くことはない。僅かに湘北がリードしているが、ベンチや陵南サイドからは「まだ行ける」と大きな声が飛んでいる。
 プレーの合間に時々笛が鳴り、選手たちがベンチへ下がる。ベンチに座ってタオルを被った仙道の顔はここからは見えなかった。
 彼が今、何を思ってプレーしているのか。どんな重圧を背負って、チームメイトに笑いかけているのか。分かるはずがなかった。思い返すと、遠い昔に何度か見た試合中の魚住は怖い顔ばかりしていて、笑っているところなんてほとんど見たことがなかったのに。
 仙道は笑うのである。商店街の片隅で、陵南高校の屋上で、通い慣れた浜辺で、私にするのと同じように。試合中も、優しくみんなの緊張をほぐすように。まだ余裕だと証明するように。

 勝ってほしいと思う。当然の感情だった。彼らの頑張りがどうか報われてほしい。去年の今も同じことも思っていた。ここではない場所で、彼らのプレーも見ずに。
 あの日はもっと気楽だった。勝てばいい、きっと勝つだろうと。バスケットのなんたるかも知らず、そう思っていた。しかし、現実はそう甘くない。魚住たちは全国へ行けなかった。あれだけ頑張ったって、同じように頑張っている相手とは僅かな差で決着がついてしまうのだ。

 じわじわと試合時間がなくなってくる。未だ六点ビハインド。
 まだ行けると言っていた観客たちの声にも焦りが混じる。同じ言葉をかけながら、良くない未来が頭をよぎって、言葉が詰まる。まだ勝てる。信じている。信じたい。
 コートの中の選手たちはそうした周囲の焦りや不安などものともせずに、ただひたすらにボールを追いかけている。右へ跳び、左へパスを渡し、正面からリングを狙う。点を決めればキラリと笑い、厚い手のひらをバシンと重ねる。そこに、正しく輝く青春があった。あまりに眩く、あまりに美しい。それは高校生という時間の全てをバスケットに注いだ彼らが、今日まで必死に築き上げてきたものだ。
 仙道の長い腕が宙へ伸びる。ボールはするりと転がるようにネットの中へ吸い込まれる。流れるようなそのワンシーンに、誰もが息を呑む。みんなの目を奪っていることよりも、次の点を取ることにだけ集中した男は涼しい顔でハイタッチをかわし、すぐにディフェンスへと走っていく。

 仙道彰という男が、その場所で生き生きと生きていた。
 まさに水を得た魚のように。楽しくて楽しくて仕方なのないという顔で、彼はバスケットをしていた。誰よりも高く跳び、誰よりも点を決める。誰もが彼を天才と呼ぶ。技術の上手い下手など知らないが、それでもそう呼びたくなる人たちの気持ちは少しだけ理解できる気がした。そう呼びたくなるような人を圧倒する力が、彼にはある。

 試合時間はあと二分。点差は四点。届きそうで届かないもどかしさに、固く握った手にも力が入る。頑張れと叫ぶことも憚られるような雰囲気にじっと試合を見守っていると、タイムアウトから戻ってきた仙道がふと観客席の方へ目を向けた。視線は陵南サイドを端からなぞり、一番隅に座っていた私の方へ向く。
 あっと思った。目があったから。
 仙道が私を見つけ、顔を緩ませる。笑っている余裕などもうないだろうに、仙道は私に向かって笑ったのだ。大丈夫の願いを込めて、握った拳を彼に向けてそして頷く。仙道も同じように頷き返してくれた。

 最後の二分に向けて、選手たちがコートへ出揃う。秒針も追い抜いてしまいそうな速度で心臓が鳴っている。怖かった。コートに立っているわけでもないのに、試合が終わってしまうということがただひたすらに怖かった。
 青いユニホームの選手が跳ぶ。相手の守りもかたい。当然無効だって必死だ。みんな同じものをかけて戦っている。残り時間を告げるタイマーが次第に数を減らしていく。焦りだけがあった。不安はもうない。目を逸らすことすらできそうになかった。息を止め、残り僅かの彼らの青春を見届ける。あと一分。二点差。一本で追いつける。その一本が遠かった。陵南が一本決めれば、負けじと湘北にも点が入る。距離が縮まらない。あと一本。あと一本だったのだ。
 誰もが夢を見た。陵南のエースがチームを救う夢を。
 試合終了のホイッスル。最後に仙道の手から放たれたボールは、放物線を描いてゴールへ向かった。ガゴンと鈍い音を立ててリングが揺れ、ボールがゴトリと落ちた時、陵南高校、全国への夢は絶たれたのである。

 人生どうにもならないことがある。スポーツなんていうのはまさにそれで、究極の平等は不平等の紙一重だ。努力がすべて報われるわけではない。勝利の女神は気まぐれで、何が足りなかったのかは教えてくれず、ただ残酷な結果だけを知らせてくる。
 何がどうしていれば勝てただろう。それは誰にも分からない。分からないからこそ苦しい。

名前さん」

 誰かが私を呼ぶ。帰り道の浜辺で、私を呼ぶこの声の主を私は知っていた。

「お疲れさま、——仙道くん」
「すみません、勝てなくて」
「謝らなくていいよ。悔しいのはみんなでしょう」
「うん、でも。……あー、うん。悔しい」

 一年前、同じ場所で仙道に会った。雨の中、バッグを肩からかけて立ち尽くす背中に駆け寄った。試合を見にいかなかったのに、それだけで結果は知れてしまって。それがあったからか、今日もここへ彼が来るんじゃないかと思ったのだ。
 そうであるなら待つべきだと思った。彼が一人きりで苦しむことがないように。今日はあの日と違って晴れだけど彼が一人、心の雨に打たれることがないように。

「見せたかったな、勝つとこ」
「格好いいところはたくさん見れたよ」
「はは そりゃよかった」

 私の隣に立つ仙道は、ここではやっぱり大きかった。彼より大きな人はいなかった。さっきまでは違和感なんてまるでなかったのに、コートを出れば彼の存在は途端に浮いてしまう。

名前さんは、よく海にいるね」
「……たまに呼ばれる気がして。見においでって」
「呼ばれるの?」
「そう。それで嵐の日も海に行って、昔はお父さんによく叱られた」

 どこにいても思い出せそうな母なる海の音が、私を呼ぶのだ。ちょっと驚いたような顔をした仙道の顔を見て、ああそういえば誰にも話したことなかったと思い出す。怖いかな。怖いだろう。海に呼ばれるなんて、死ぬ直前の人間みたいだ。
 私の話は終いにしようと、「仙道くんは?」と尋ねる。私ほどではないだろうが、仙道もよく海にいる。釣りが好きだとは言っていたけれど、釣り竿がない日も彼をこの場所で見かけることはままあった。

名前さんがいそうな気がして」
「……え?」
「特に今日は。絶対いてくれると思いました」

 高くにある彼の顔を見上げる。白い肌は夕焼けのおかげで朱に染まっている。私と目が合うと一層下がる彼のまなじりには、少しの照れ臭さが隠しきれていなかった。

「触っていい?」

 一年前と同じ。彼が尋ねる。躊躇いもなく「いいよ」と言えば、仙道がふっと笑った。

「仙道くんだから、いいよって言ってる」

 一年前にはなかった勇気を奮ってみる。彼らの頑張りに感化されたみたいで恥ずかしいけれど、そっかと微笑んだ仙道の顔を見ればまあいいかと思える。
 つい数時間前、ボールを巧みに操っていた分厚い手が私の肩を引き寄せて、二人の距離はゼロになる。夕方の海で抱き合う男女にわざわざ興味を持つような殊勝な人間は、もうこの湘南にはいないに等しい。

「お疲れ様」

 大きな背中だった。一年前は魚住たちが彼らに示したように、仙道の背中もまた大きかった。後輩たちもきっとそれを感じ取って、来年以降に繋げてくれるはずだ。そうして、チームは続いてゆくものだから。
 何も言わずに私を抱く仙道の体温がいつもより少しだけ低い。それが分かって悲しくなる。悲しくなると泣きたくなって、瞳の膜が潤んだけれど、今泣いていいのは私ではない。溢れないように目を閉じなければ、涙になりきれなかったものは全部海の風が乾かしてくれる。

名前さん、あったけぇ」

 君が冷たいんだとは、言えなかった。
 だからトントンと彼の背中をさすりながら、自分の体温を分け与える。もう七月だ、寒いわけではないだろう。でもまだ暑いというほどでもない。寄せては返す波の音に耳を澄ませて、彼に触れるたびに悲しくなる心の声は聞かなかったことにした。