夏とも秋とも言い難い、まだ肌に纏わりつく厭な暑さを確かに残した10月の初め。陵南高校の校門には「陵南祭」と書かれたアーチがかかり、校舎の道路側には色とりどりの横断幕がぶら下がる。普段に増して活気あふれるその場所で、文化祭が行われていた。

 文化祭も3度目となればそこまで浮き足立つこともなく、むしろ忙しさに振り回されていた。3度目と言ったが、食べ物を出すのは初めてなのだ。
 強運な文化祭実行委員が調理室を使う権利を獲得し、私たちの『サンキュークレープ』は無事に開店した。調理室の半分をイートインスペースにし、残り半分で必死に生地を焼く。イートインのほか、テイクアウトも設けたのがウケたのか、朝からお客さんの列は絶えない。調理班を任された私も、朝からもう五十枚以上は薄焼き生地を焼いていて、単純なのに神経質な作業の繰り返しに、気が狂い出しそうだった。

名前、休憩。代わるよ」
「助かる、疲れちゃった」
「お疲れさま。でもごめん、休憩1時間でいい?」
「ん。了解」

 調理班は七人。当初の予定では2人か3人で休憩を回して、最後の文化祭を楽しめるようにとシフトを組んでいた。しかし、想定を上回る盛況ぶりに、とても予定通りの人数では回らず、結局、コンロを全て使って五人体制で回している。これでもギリギリ間に合ってないのだから、文化祭とは恐ろしい。

 与えられた1時間の休憩をどう使おうか思案しながら、かけていたエプロンを外し、調理室を出る。廊下にはずらりと人が並んでいて、隣の隣のクラスの前まで伸びていた。ここまで中に篭りきりだったのでこの光景は初めてだ。普通に凄い。
 入口のところで注文と会計を取りまとめるのは、陵南高校バスケットボール部元主将の魚住。校内で「とにかく大きなお兄さんがいるのがクレープ屋」と散々触れ回ったおかげで、みんな魚住を目印にやってきてしまうのだ。おかげで人は迷わず来てくれるが、魚住もやっぱり抜けられずにいるらしい。

「お疲れ、純ちゃん」
「お前もな。休憩か」
「そう。なんか買ってこようか。というか代わる?」
「いい。俺もそろそろ休憩のはずだ」
「抜けられるの?」
「知らん。抜ける」

 はっきりと言い切る幼馴染の顔に明らかな疲労が浮かんでいるのが見える。笑いながら話をしていると、列の先頭まで来た男子生徒が弾む声で「魚住さん!」と声をかけた。サラサラの髪の子、髪の短い子、おしゃれな髪の子。みんな一様に背がすらりと高く、——魚住や仙道と比べればみんな小さいので比べない——いかにもスポーツマンらしい風貌に、すぐにバスケ部の後輩だと分かった。
 大きく『サンキュークレープ』と描かれたクラスTシャツを着ているのが恥ずかしいのか、魚住は複雑な顔をしている。

「クレープください、3つ!」
「900円だ」
「うす、あ。あと仙道のも」

 サラサラの髪をセンター分けにした男の子が、仙道の名を口にする。そうだ、彼もバスケ部ならば一緒に来てもおかしくない。にも関わらず、彼らの後ろに目立つ髪の長身の姿はない。
 以前ああ言った手前、仙道がいつ来るかと目で店内を探していたのも本当で、私の知る限り、まだ来ていないはずだ。それに仙道ならば、来たときには流石に声をかけるだろうとも思っていた。私が、必ず彼のために焼くとまで言ったのだ。

「仙道はいないだろう」
「そうなんすけど、なんか買っといてほしいって」
「合宿は日曜までのはずだ」
「俺も言ったんですけど。……あ、氷魚さん?って人います? その人に言って、焼いたやつ残しといてって言われて、オレ金まで持たされたんですよ!」
「氷魚?」

 魚住の目が私を向く。続いて、話していた男子の目も。
 彼の手に握られた100円玉が3枚。来られなかったのか。来られないの、知らなかったなと思う。あの日以来、会っていないのだから当然なのに、それが心底残念だった。
 合宿。代表選抜に選ばれて、練習試合を兼ねた合宿に参加しているらしい。最初に選ばれたメンバーが怪我で離脱して、補欠で召集されたから参加が決まったのは急だったそうだ。それでも仙道は私との約束を覚えていて、チームメイトにお金を託した。文化祭の出し物のクレープが2日ももたないと知っていただろうに。

 まだ蒸し暑さの残る昼間から、急に肌寒くなる10月の夜。羽織を持ってこなかったことを後悔しながら、駅前のベンチに座っていた。魚住から聞いた解散時間から考えれば、もうすぐ彼が来るはずだ。

 2日間の盛況の末、私たち3年9組のクレープは来場者の人気投票で1位に輝いた。3年生が本気で取り組んだ末に獲得した大人気ない称号だったが、クラスは大いに盛り上がった。そこまですれば目を回しながらクレープをひたすらに焼き続けた2日間も報われる。広告塔として役目を果たした魚住は、腰が痛いと嘆いていたが。

 後夜祭の熱狂を抜け出して、一人、打ち上げも断り電車に乗った。一旦家に帰り、カバンを適当に投げ出して、クラスTシャツは洗濯機へ。もらっておいた余りの生地の材料は冷蔵庫に入れて、いつでもそれができるように準備をして家を出た。
 もう何本、ホームへ滑り込んでくる電車を見送って行ったか分からない。
 高校生にとっては楽しい祭りの夜だが、それ以外の人にとっては何の変哲もない日曜日の夜なのだ。電車を降りてくる人の顔は皆、明日から始まる一週間を思って沈んでいるように見えた。

 夜の7時を回り、あと少し待って来なければ。——終わりを決めようとしたとき、図ったようにして電車から目立つ長身が降りてくる。
 重そうなカバンを肩から下げて、長袖のジャージは今夜の気温ならちょうどいいだろうと羨ましく思う。気が急いたとはいえ、薄着で出てきたのは失敗だった。
 彼が改札を出てくる。立ち上がって、それから何と声をかけようか迷っていると、目敏く私を見つけた仙道が目を丸くして近づいてきた。

「……名前さん?」
「お疲れ様、仙道くん」
「え、なんで。文化祭はどうしたの」
「もうとっくに終わったよ」

 久しぶりだった。あの日、一緒に並んで歩いたときから1ヶ月ちょっと。文化祭の準備と、申し訳程度の受験勉強。仙道の方は夏休み明けから冬に向けた練習が本格化して、キャプテン業にもなかなか苦戦していると魚住から聞いている。
 会いたかったとは、少し違う。会いたいが積み重なった訳じゃない。
 ただ、今日だけは。文化祭だけは、会いたかったのだ。約束があったから。

「俺のこと待っててくれた?」

 改めてそう言われると、随分と思い切ったことをしたなと分かる。そうしようと決めたときには何とも思わなかったのに、今はそれを肯定するのも恥ずかしくなって、うんと頷くので精一杯だった。
 それでも、嬉しそうに笑った仙道の顔を見れば来てよかったと思ったし、行こうと言って歩き出した彼の靴に目を落とせば、私もきっと会いたかったんだなと感じる。もっと素直になれたなら。色んなことが変わるだろう。でもまだ今は、変わらないものを大切にしていたい。一人の時より狭くなった彼の歩幅に、どうしようもなく緊張するくらいがちょうどいい。

「……合宿だったってね」
「ん。文化祭、行けなくてすいません」
「ううん。分からないけど、呼ばれるの凄いことなんでしょう。おめでとう」

 ありがとう、と言った彼の顔には喜びと満足感が滲んでいて、3日間の合宿が充実したものだったのだと見てとれる。バスケットボールというスポーツにたくさんのものを懸けている彼だから、それが認められて評価されることは、素人なりに喜ばしい。つまるところ、仙道が嬉しそうなら私も嬉しいのだ。

「あーでも。食いたかったな。越野、ちゃんと買いに来ました?」
「うん。なんか他の子たちと一緒に」
「俺のも?」
「仙道くんのはお金だけ預かったよ」

 私の家の前で足が止まる。一階のお店はとっくに閉まり、二階に電気が点いている。父だ。今頃、テレビを見ながら夕食を食べている頃だろう。一時帰宅したときに支度して、ラップをかけてテーブルの上に置いてあるから分かったはずだ。

「……今で良ければ、作れるけど」

 丸くなった目が、次第に眇められて。口元が柔らかなカーブを描いた。その綺麗な笑みが、私だけに向けられていることが心底不思議だ。綺麗なものを自分だけのものにしたいという一丁前の独占欲。それに見合う誠意も真心も、まだ示していないのに。

 屋上に折り畳みイスを用意した。この前の釣りでも使ったものを。仙道をそこに待たせて、すぐ戻ると言って自分は2階の自宅で早速調理に取り掛かる。あらかじめ支度はもう済んでいて、冷蔵庫に入れておいた生地をフライパンで焼いていくだけ。中に入れる材料もカットまで終わらせた。

「何作ってるの?」
「クレープ」
「文化祭の?」
「そう」

 お酒を取りに来た父が、フライパンからそっと取り出した薄焼きを覗き込む。冷まして、落ち着いたらデコレーションしてくるむ。この2日間、気がおかしくなりそうなくらい繰り返した作業。もう慣れたものである。
 いちごと生クリームとバナナを並べて、くるくると巻いていくそれを見て、父が「上手いもんだね」と眦に皺を寄せる。出来上がったクレープは悪くはないが、一番の出来かと言われるとそうでもない気がして、そのままお皿に乗せて父に渡した。

「ごめん、ちょっと失敗しちゃったからもらって」
「あはは そういうこと。いいよ。美味しそうだな」

 父が似合わぬそれをクシャリと食べる合間に、2枚目に取り掛かる。広げて、火を通して、取り出すところから慎重に。どれだけ鬼気迫る顔をしていたのか、横で見ていた父が笑う声が聞こえてくる。しかし、振り返っている余裕はない。「誰かにあげるの」と聞かれ、答えに悩んで「後輩」と答えた。友達でも、ただの知り合いでも、まして恋人でも何でもない彼を表す言葉は「後輩」以外にしっくりこないのだ。
 その後輩が屋上で待っているのだと言えば、じゃあ早く行かないとね、と父が言う。さっきよりも更に丁寧にクレープを包みあげる手の先までこそばゆい。ただの後輩のために、ここまでするものなのかと、友人が見れば言うだろう。父もそう思っているかもしれない。でもそれを敢えて言ってこない優しさに、いつの日も救われてきた。

「——お待たせ」

 屋上に出来上がったクレープを持って上がれば、仙道は屋上の柵に近いところに立っていた。私の声で振り返って、小さく微笑み、長い足で寄ってくる。狭い屋上で、二人の距離はあっさりと縮まってしまう。
 彼と、初めて出会ったのもここだった。ちょうど仙道が立っていたところに私がいて、派手に勘違いした仙道が、勢いよく駆け込んできた日。あれから半年経って、まさか今こうなっているとは夢にも思っていなかったのに。

「うわ、美味そう」
「人気だったんだよ。一位だったし」
「へえ。すげーな」

 お皿から、崩れないようにそれをそっと持ち上げて、生クリームが溢れないよう手で押さえながら仙道がクレープにかぶりつく。大きな口で、先っぽがほとんどなくなる。押さえきれずに溢れた生クリームは、彼の長い指に掬い上げられた。「うま」と子供のように笑う顔に、ただ良かったなと思う。学校を抜けて、彼に会って良かった、と。
 自分の分には、余りの生地でフルーツとクリームを包んだだけのクレープと呼ぶには余りにお粗末なデザートを用意してきた。四角く折りたたんでしまったので中身もこぼれず、これはこれで食べやすくていいかもしれない。売り物にするには弱いけど。

「……文化祭、やっぱ行きたかったな」
「え?」
名前さんがエプロンとかつけてこれ焼いてるとこ見たかった」
「黒の地味なエプロンだよ」

 特別見る価値もないようなものだよ。そういう意味で言ったのに、仙道は眉間にぎゅっと皺を寄せて「それでも」と言う。それでも、それが見たかったと。
 彼が垣間見せる嫉妬や独占欲によく似た言葉たちは、どれもふわふわと浮いているようだった。心がこもっていないのではない。その感情の根底にあるものが不透明で見えてこないから、だから、全部が曖昧なものに感じてしまう。

「行ったら、一緒に回りませんかって誘えたし」

 そんなことしたら、またみんなを驚かせてしまっただろう。学校の有名人である自覚があるのかないのか。彼と一緒に文化祭を回りたい女の子なんて、陵南高校中にいる。その仙道が、3年の女子を誘って、一緒に歩いているのを見たら? あることないこと噂されるに決まっているのだ。
 怖いな。そんな度胸はない。でも、もし本当に誘われていたら、断れもしなかった。きっと、いいよと言ってしまう。彼の笑顔に絆されるのは目に見えている。

「駅で待っててあげたから、それで我慢してよ」
「……ん。寒くなかったですか」
「ちょっとね。でも平気。そんな待ってもないし」
「嘘、」

 クレープを食べ終えた仙道が、手を伸ばして私の晒された腕に触れる。熱かった。まただ。彼の触れたところから火がついていくように、皮膚の一番下でぐんぐん温度を上げている。

「冷えてる」

 すぐ近くに、彼がいる。目と目は合わせたまま、私の腕に触れた手がゆっくりと自分の体の方へ私を引き寄せた。時計の針を無理やり引き留めているように、時間の流れが目に見えるほど遅く感じる。近づいてくる仙道の体温から逃れることもできたはずだ。そのくらいの力だった。彼が与えた逃げ道だった。
 でも私は、引力に抗う方法を知らず、身を任せることの弱さには見ないふりをする。仙道の長いまつ毛がおりた。夜の海に注ぐ星のように、その先々に光が宿って煌めいている。

 ケーキの蝋燭。化学室のアルコールランプ。絵本の中のガス灯。同じだ。
 彼に触れた場所から火が移る。初めて誰かと触れ合うことを知った唇は、燃えるようにして熱くなった。熱さと柔らかさを忘れるなと刻むように長い時間、もしくは目を瞑るのを忘れるくらいの瞬きの間。私は仙道とキスをしていた。人生で、初めてのキスだった。

「……あま」

 思わずこぼれた私の声を拾って、仙道が大きく口を開いて笑った。クレープにかぶりついた口が、私のそれと重なったばかりの口が、パカりと開いて、それはそれは楽しそうな笑い声をあげるのだ。
 初めてのキスは、いちごと生クリームの味がした。文化祭の夜だった。自分の家の屋上で。少し肌寒い日に、寒さなんかこれっぽっちも感じなくなったこと。キスの後、仙道が笑って、それが眩しくて目を逸らしたこと。忘れないんだろうなと思った。