地を焼く太陽の熱に晒されながら、学校へと続く道を行く。駅から学校までのわずかな道ですらこうも暑いと嫌になる。こんな日に外出するなんて無謀だったかと後悔しながらも、どうせ一度した約束を取り消すことはできなかった。誰々と誰々に電話して、代わりを探して。そっちの方が面倒臭い。

 期末テストを終え、高校3年の一学期も無事修了。試練の夏を迎えた。と言っても、‘試練’なのは、受験を控える一部の生徒のみで、私のように短大か専門を受けることが決まっている気楽な受験生はその限りではない。
 私たちのクラスは選択科目の関係からか、本格的な受験に向かう生徒は少なかった。そこで誰が言い出したか、夏休み明けの文化祭、ひとつ気合の入った出し物を出そうということになったのである。高校3年生なんて勉強を除けば、思い出を作ること以外に興味のない生き物である。クラスのほとんどが同意し、残り数名は雰囲気に気圧され、「いいよ」と言わざるを得なかった。

 そういう訳で、高校3年の夏休み。わざわざ学校に集合し、文化祭の準備をしている。午前中はそれぞれ勉強やらバイトやらに勤しんで、午後から夕方まで。もちろん有志だが、友人に「暇なら行こう」と言われてしまって、私も仕方なく参加した。こうも暑いならやっぱり店の手伝いがあると言うべきだったと、今なら分かる。今分かっても遅い。

「だからこれをこうして——」

 文化祭とはチープであればあるほど味が出るものなのだ。
 やる気はあっても話は進まず、結局一学期の間に決まったのはそれっぽい名前とそれっぽい内容だけだった。これではマズイと夏休みの学校に集まり、調理班に任命された女子数名が試作品をつくっている。他は教室で外装やら内装やらの打ち合わせだ。

 真夏の調理室。冷房の効いた部屋に甘い匂いが充満している。出し物はクレープに決まった。おまけに名前は3年9組だから「サンキュークレープ」。文化祭の出し物として百点満点のネーミングである。
 慣れない薄焼きに四苦八苦しながら、ああでもないこうでもないを繰り返す。それなりに何かを作った経験のあるメンバーが集まったとは言え、クレープを焼くのはそれなりにコツがいるのだ。しかも当日はこのメンバーと他のクラスメイトが協力し店を回さなくてはいけない。全部一人で、と言われた方がまだ楽。

 焦げたり焦げなかったり。お店で出すものとしては安定感にかけるそれに頭を悩ませていると、コンコンと何かが叩かれた音がする。コンロとフライパンを覗き込んでいた全員が顔をあげ、音のする方へ目を向けた。
 窓の外からヒラヒラと手を振る大きな男子生徒。スポーツ用のTシャツと首からタオルを下げて、手にはスポーツドリンクのペットボトルが握られている。
 学校の有名人、——少なくとも私たちのクラスでは誰もが知っている彼が、窓を叩いてまで呼び出しそうな相手は私しかいない。自惚ではなく。彼が声をかける時、相手は魚住か私と決まっているのだ。

「呼んでるみたいよ」
「ん」

 友達に急かされるようにしてそこを離れ、窓際へ。彼の待つガラス窓を開ければ、茹だった夏の熱気が一気に流れ込んで、温度を上げる。肌にまとわりつく湿った夏の暑さはいつになっても慣れることがない。不快だった。それでも、その向こう側に仙道の姿を見ると、開けないままではいられないのだけど。

「お疲れ。部活中?」
「今休憩中で、飲み物買いに。すいません、邪魔しました?」
「いいよ。行き詰まってたとこ」
「……料理?」
「文化祭の出し物」

 仙道は滴る汗をタオルで拭きながら、ああと頷く。何をしていたか思い当たる節があったらしい。彼のクラスがどんな様子であるかは知らないが、一言「気合入ってんなあ」という言葉で、彼がそれに対してさしたる関心を持っていないと分かる。素直なところが美徳である。

 仙道と会うのは、あの夏休みが始まる前の日以来だった。あのあとすぐに期末試験があって、夏休みに入った。学校という場所がなくなれば必然的に会う機会はなくなる。朝から晩まで部活動に勤しむ彼と、店の手伝いと時々図書館で勉強する程度の私は、最寄り駅が同じでも時間が合わない。
 仙道に、あの日垣間見たような影は見えない。落ち込んで、傷ついて、誰かに頼らなくてはいけない弱さは、もうどこにもなかった。それにひっそりと安堵する。もうすっかり、いつもの彼だ。少なくとも私の知る仙道だった。

名前さん、今日何時まで残ります?」
「さあ。みんなが帰るときに帰る予定だけど」
「時間合ったら一緒に帰りません? 帰る時、体育館覗いて」

 遠くから「センドー」と誰かが彼を呼んでいる。聞けば、魚住の跡を継いで陵南バスケ部のキャプテンに就任したらしい。ここで長々と油を売っていては格好がつかないだろう。早く彼を戻らせる意味でも、私は「いいよ、分かった」と言って、彼の背中を押す。仙道は名残惜しそうな顔をわざとらしくつくって、「それじゃ」と去っていった。
 仙道が去り、窓を閉める。夏の暑苦しい熱気は追い出し、再び冷えた文明の空気に浸る。休憩と言ってお菓子をつまむ友人の輪に戻れば、意味深な笑顔を浮かべた友人たちに「いいね」と言われてしまって。私は黙って、ヤングドーナツに手を伸ばした。

 夕方17時を過ぎた頃。文化祭の準備自体は16時前に終わったのに、話が弾んでなんだかんだこんな時間になってしまった。朝から練習していただろう野球部とサッカー部は17時のチャイムと同時に解散の号令がかかっていた。
 バスケ部はどうだろうか。昼間会ったときに休憩中だったということは、もっと前からやっているということだ。体育館は他の部活との兼ね合いもあるし、もうとっくに終わったかもしれない。体育館に向かう足を少しだけ早める。友人の「早く行ってあげなよ」というからかい混じりの声に背中を押された訳ではない。断じて。

 普段、授業以外で立ち寄ることのない場所。ギャラリー部分の窓は閉められていて、中からいつもの活気ある声はしてこない。電気自体は点いているようだ。それが他の部活だったら「間違えました」と言って帰ろう。心に決めて、開け放たれている入口から中を覗く。近づくと、覚えのある重い何かをつくような音がしてきた。

 広い体育館。窓は閉められ、部活で使うであろう道具もほとんど仕舞われていた。ボールの入ったカゴとモップだけが出しっぱなしにされている。
 橙色のボールを軽やかにドリブルし、まさに空に飛び上がるにして彼とボールが浮かぶ。ボールはもう何もかも決められていたような軌道を描き、ネットの中に吸い込まれていった。
 綺麗だった。
 仙道相手に綺麗だと思うのも、これが初めてではない。仙道という存在自体を、私は綺麗なものだと思っているのだろう。ことあるごとにそれを認識しては、彼の挙動に目を奪われて、わずかな間、息を止めている。

「……あれ。来てたんですか」
「今来たとこだよ」
「お疲れ様です」
「仙道くんも部活はもう終わり? お疲れ様」

 ボールを小脇に抱えた仙道が、私の方まで近づいてくる。数センチの段差のおかげで、ますます彼の顔が遠くにある。流れる汗をTシャツで拭った彼は、私を見ると「片付けてきます」と言って、小走りで体育館の中央まですぐに戻って行った。
 履いてきた靴を淵で脱いで、その背中を追うようにして体育館に上がった。体育館に散らばったボールを集める彼に倣って、同じように自分もボールを拾った。部活後、窓が閉められていたせいで、そこには熱がこもっている。夏の暑い空気に、汗と、ゴムの匂い。部活動をやっていないと感じることのない空気だった。

 最後のボールを拾って持っていくと、仙道が「すいません、助かりました」と言う。私はそれにうんと頷き、モップがけならやっておくよと買って出た。もちろん断られたけれど、着替えたりシャワーを浴びたりするならば、その方が効率的だ。何より、部活が終わった後どのくらいかは分からないが、待たせてしまったのは私の方だ。そうでなければ、モップがけも鍵閉めも、仙道ではない誰かがやっていたはずだ。

「大丈夫、やったことあるんだよ。こう見えて」
「……魚住さんと?」
「うん。ミニバスの頃かな、小学生の時だけど」

 練習試合を見に行った日だ。その日は帰りがけに魚住の家でお寿司を食べさせてもらう約束があって、片付けまで一緒に残った。右へ左へ忙しそうなのを見かねて、私がやるよと言ったのだ。懐かしい。なんでもない記憶のはずなのに、鮮明に覚えている。

「そっか、昔から仲良いんすね」
「そうね。仲は良かったかもね」
「なんか、羨ましいな」

 羨ましい、という一言にもっと違う毛色の感情が混じっている。それは分かったけれど、具体的にそれが何なのかは分からない。私は笑いながら、その時のことを思い出して、ああと、また記憶の一つが蘇る。そんな何でもない日のことを鮮明に覚えている理由。そう、あれはあの日だった。

「その日ね、相手チームの子だったかな。年上の、私より背が高くて純ちゃんよりは小さいくらいの子が、モップがけを手伝ってくれたの」
「へえ」
「……あれが初恋だったよ」

 あどけない思い出の鮮やかさに、私は笑った。仙道は、笑わなかった。

 静かな帰り道だった。学校から駅まで歩き、ガタガタ揺れる電車の中で何も言わずに海を見た。ようやく沈み始めた太陽の光を受けて、水面がきらきらと反射している。
 私はそれを最寄り駅に着くまでじっと見て、左隣から注がれる視線には気づかないふりをした。振り返る勇気がなかった。何と話を切り出すべきか分からなかった。まだ。気づかないふりで、許される気がしていた。

 最寄り駅から歩いて、商店街に入ればもうすぐそこは私の家だ。仙道の下宿先は、知らないがもっと先にあるだろう。本当ならここで別れて、バイバイと手を振る。曇ったガラス天井の下を泳ぐようにして進んでいく仙道の背中を、2階の玄関前から見送るのだ。
 でも、なんとなく、今別れてしまうのは駄目な気がして、家の下まで着いたところで彼の方へ振り返る。見上げた先の顔は、心なしか沈んでいるように見えた。

「もう少し、散歩しない?」
「散歩?」
「あ、疲れてる? 一日部活した後だもんね」

 無理しないで、ごめん。そう言おうとするのを遮るように、仙道が「行く」と言った。疲れてるから散歩行く、とよく分からない理論を、当然みたいな顔で言って、そしてようやく笑った。体育館で私を見つけた時以来、彼が笑った。それだけで馬鹿みたいに安心している自分がいる。

 並んで、商店街を通り抜けた。続く道を歩いて、4個目の十字路を左に曲がったところに仙道の下宿先があった。古い、この辺りではよく見かける感じの一軒家で、一階に老夫婦が住んでいて、2階が丸々仙道の居住スペースだそうだ。去年までは、もう一人、サッカー部が住んでいたが卒業と同時に出て行ってからは仙道が一人で世話になっているらしい。
 重そうな荷物を見て、置いてくれば、と言えば仙道は言うとおりにした。荷物を置いて、どんどんと階段を下る音が外で待っているところまで聞こえた。すれ違う人に変に思われないよう、口元を隠して笑う。仙道は一階にいる夫婦に「少しだけ外出ます」と言って戻ってきた。彼が急いでいるところを見るのは、きっとレアなんだろうなと思った。

 行くあてはない。右も左も、どこもかしこも見たことのある景色だった。生まれた時からずっとこの街に住んでいる。ここが私の海であり、水槽なのだ。きっと目を瞑ったって家まで帰れる。大袈裟じゃなくて、本当に。
 しかし、私には慣れた町でも、仙道にとっては違う。歩くたびに変な形の建物を見つけては、あれは何、と私の袖を引く。いちいちが幼子みたいでちょっとだけ可愛いなと思う。あれは、と一つ一つ答えるのは本来つまらないはずなのに楽しくて、よく知った町も、一緒に歩く人の力では素敵なものに思えるのだと知る。

「川だ」
「うん」
「川もあるのか、知らなかったな」
「海があるんだから、川もあるよ」

 至極当然のことを言った。つまらなくて、可愛げのない返事だった気がする。でも、それもそうかと頷いた仙道はわずかに微笑んでいた。
 川沿いの緑地公園を散歩の折り返し地点として、私たちは手すりに手をかけた。日はとっくに暮れて、蒸し暑かったが外にいても心地悪さは感じない。水辺の涼しげな風が吹き付けて気持ちいいくらいだった。
 暗くて黒い水面に、街灯の光が揺れる。ここの川はお世辞にも綺麗だとは言えないが、それでも嫌いではなかった。潮の匂いもしないのに、そこに確かに海の面影を見る。

「……どうだった?」
「え?」
「散歩。楽しかった?」

 伺うようにして仙道の顔を覗き込む。パチリと合わさった視線はすぐに逸らされてしまって、それがちょっとだけ惜しかった。長い指で頬をかいた仙道は、苦笑いを浮かべて、「分かりやすかった?」と私の方へ向き直る。分かりやすかったかどうかと言われれば、そんなことはなかった。彼の考えていることなんてちっとも分からない。たまに見えそうになるけれど、それは泡のようにすぐに消えてしまうし、掴みどころもないものだった。

「機嫌、悪くしちゃったかと思っただけ」
「機嫌悪くした、つーか。あ、いや。ダセェな」
「ん?」
名前さんのせいじゃねぇよ」

 手すりから仙道の手が離れて、体ごとこちらへ向いた。改まって、言おうか言わざるべきか悩みながら、向けられる視線には優しさと、よく似た別のものが混じる。恥ずかしい、照れ臭い。どれも致し方のない感情だった。私はそれをよく知らない。知らないものを上手く扱える器用さも、持ち合わせてはいなかった。

「嫉妬かな」
「……嫉妬?」
「羨ましいのかな、初恋とか幼馴染とか」

 いつもより弱々しく笑った仙道に、自分がこの場で差し出せるものを考える。言葉は駄目だ。変なことを言って、失敗しそうな気がする。そもそも何が成功で、何が失敗かもまだあやふやなのに、言葉に命を与えてしまうのは迂闊すぎる。
 と言っても、行動で示すのはもっとややこしいことになりそうで勇気が出ない。本当は波に乗って水平線の彼方まで泳ぎゆく魚たちのように、気のまま流されてしまいたいけれど、それを願うのはあんまりにも傲慢だ。
 考えて、まだ‘言えない’と‘できない’ことが分かった。だから、今あげられるものを引っ張り出して、彼の前に示す。それが誠意だった。伝わるかどうかは別として。

「仙道くん」
「何ですか」
「私のクラス、文化祭でクレープ屋やるからおいで」
「え?」
「クレープ、仙道くんのは私が作るよ」

 当日までも、当日も、それを何度も焼くことになる。そうして上手くなったうち、一番綺麗に焼いたやつを彼に渡そうと今決めた。それならできる。それでいいなら、私にもできそうだと思った。こんなことでしか示せない、私の誠意とも言えない思いを、仙道はゆっくり咀嚼して、それから「うん」と飲み込んだ。

「純ちゃんにもつくらないから。だから、私のクレープは、幼馴染でも初恋の子でもなく、仙道くんが食べて」

 そいつはいいや、と彼が笑った。
 私も、そっちの顔の方がいいなと思った。