花が咲いて間もなく散るように春は去った。
ジメジメとした梅雨の気配に誰も彼もがため息を吐く。勉強するにも運動するにも梅雨は不向きな季節である。何より陰鬱とした空が、人の気持ちまで鬱蒼とさせてしまう。もちろん、私も例外ではない。梅雨は嫌いだ。曇った灰色の空を見ると、あまり良くない記憶ばかりが蘇るような悪い予感がする。
だから昔は雨も雷も台風も嫌いであったはずなのに、いつの間にかそれは『苦手』のカテゴリーから外れていた。今じゃ何とも思わない。それは私にとっての害ではないと理解したのだろう。
6月の雨降る火曜日。机の中に第2回の進路希望調査票が入っている。第1回は、悩んだ末に「進学」とだけ書いて提出し、担任から具体的な進学先を考えるようにと言われている。2回目は「進学」の二文字だけでは許してもらえないだろう。
「名前は、どうするの」
友人の興味があるともないとも言えない曖昧なトーンの問いかけに、「うーん」と悩むポーズを示す。いや、事実、悩んでいるのは本当なんだけど。でも、今考えたところでポンと答えが浮かんでくるとは思えない。
私が決めかねているのを察し、友人が「私は美容の専門」と自分の方へ話題を切り替える。それにいいねと言って、それから何も言えなくなった。
夢を持っている人間は総じて眩しい。羨ましいとも思う。心の端っこが火傷したようにジリリと痛み、私はそれに蓋をする。
「あ」
私がぼんやりとしていると、友人が私の背後を見て小さく声を上げた。彼女の視線を追って振り返る。クラスメイトのいくつかの視線もそこに集まっているようだった。いつも人の視線の先にいる男。仙道だった。
仙道であるならば、用事があるのは魚住だ。クラスメイトは言われるまでもなくそう確信し、仙道に向かい「魚住なら今はいない」と先に告げた。魚住は、それこそ部活動関係の話で田岡先生に呼び出されている。
「ああ、用は魚住さんじゃなくて」
騒がしいクラスの中で、なぜか喧騒をかき分けて声が通る。振り返ったままの私の耳は、自然と彼の声を拾っていた。
この教室の誰より歳は若いくせに大人びたその声に、皆が「そうか」と納得をする。そういう不思議な力みたいなものが、彼の声にはあるようだった。
「名前さん」
仙道がヘラリと笑い、大きな手を小さく振った。私に向かって。確かに、私の名前を呼びながら。
目の前にいた友人、ちょっと離れた場所のクラスメイト、通りがかりの同級生。彼を取り巻くあらゆる目が、一瞬にして私へ向けられた。私が嫌な顔をしたことなんかお構いなしに、仙道は人好きのする笑みを浮かべたまま「ちょっと」を私を手まねている。自分の言動が、どれだけ多感な高校生の興味を引くかなど、この男には微塵も興味がないのだ。
「……呼ばれてるけど」
「あ、うん。ちょっと行ってくる」
どういうことよと思いながら、すぐにアレコレと問いただすような品のない真似はしない友人に、心の中で感謝を告げて居心地の悪い場所を抜け出す。好きでも嫌いでもなかったクラスが、今は少しだけ嫌いになりそうだった。
彼の元へ行き、ここで話しても落ち着かないからと人の少ない階段の方へ向かう。体育・実験棟へ続く階段は用がなければ人が通らないので、メインの階段に比べれば往来は落ち着いている。階段の、廊下からは見えづらいスペースまで移動してから、足を止める。ここまで無言で着いて来ていた仙道の顔を見ると、最初に向けられた柔和な笑みがそのままそこに残っていた。
「すいません、急に来て」
「それは全然大丈夫だけど。何か用があったの?」
「用というか、最近名前さん屋上来ないんで」
「屋上?」
「屋上。俺にはもう飽きちゃった?」
思っていた斜め上の回答に、私は一瞬呆気に取られ、よっぽど気の抜けた顔をしていただろう。それを見ていた仙道がさっきまでとは違う形で笑ったから間違いない。
屋上。——4月に2回、屋上で仙道に会った。一緒にお昼を食べた。でもそれだけだ。約束をしていたわけでもなく、「またね」すら言わなかった。それがどうしたら仙道に飽きたという話になるのか。いやはや理解が追いつかない。
「……飽きたって、5回も話したことないのに」
「うん、だから。話、してぇなって」
「それを言いに来たの」
「それもあるし、傘も」
忘れてました。そう仙道に言われて、ようやく思い当たるくらいだ。私も忘れていた。律儀にまた傘の話を持ち出した仙道は、急に改まって、すいませんと小さく頭を下げた。謝られると、自分も忘れていたとは言い難い。何の意味もなく頷き、それから「全然大丈夫だよ」と付け加えた。これ以上、私の罪悪感を煽るのはやめてほしかった。
「今日、持って来たんで返します」
「そうなの? わかった、ありがとう」
「帰りでいいですか」
「うん。あの、体育館に近い方の門でもいい?」
「俺はいいですけど、名前さん遠くならない?」
「大丈夫、じゃあそこで」
仙道が頷いて、階段を下る。実験棟の方を通って教室へ戻るらしい。階段を一段下がるたび、仙道の背が縮んだように見える。見えるだけだった。でも、今、振り返ったらきっと目線の高さが同じくらいになるだろうなと思った。
放課後。午後の選択授業は5時間目で終わり。6時間目に向かう友人に「また明日」を告げて、靴を履き替え、仙道と約束している門へと回る。彼はまだ2年生なので六時間目まで授業だろう。それならば時間があると、一人門を出て目の前の大通りを渡る。道路を越えた先はすぐに砂浜に降りられるようになっているが、一年中遊泳禁止のためいつ来ても人は少ない。
私は砂浜ではなく、少し進んだ先にある海へ突き出た堤防へと降りた。テトラポッドに囲まれたその場所もまた人が少なく、時々釣りをしているおじさんがいる程度だが、今日は誰もいなかった。
波の音。砂浜を散歩する犬の鳴き声。車のエンジン音。ここは静かでいい。1年生の時からお気に入りの場所だ。ここでぼーっと海を見ていると、時間によっては体育館からバスケットボールの弾む重い音が響いてくることもある。直接見たわけではないが、幼馴染が目標に向かってそこで汗を流していると思えば、少なからず元気をもらえる気がした。
「名前さん」
静かな場所に、静かな声が響く。それはつい数時間前に教室で聞いたものと同じはずなのに、随分と違うものに聞こえるんだと思った。
声のする方へゆっくりと体を向ければ、思い描いたとおりの男がそこにいて、にこりと笑いながら手を上げた。
「……仙道くん、授業は?」
「自習だったんで抜けてきました」
「バレたら怒られるよ」
「まー、平気です」
何が平気なんだと思ったが、部活動にも彼の学業にも関わりのない人間がそれ以上苦言を呈すのは出過ぎた真似かと口をつぐむ。彼が長い足で二歩三歩と進めば、あっという間に距離は縮まる。
学ランの上を着ていない仙道からは、柔軟剤の匂いが少しだけ香ってくる。
「窓から名前さんのこと見えたから」
「いつも窓の外見て。ちゃんと勉強してる?」
「してますよ。それなりに」
いかにもしてなさそうな返事だったが、彼の声に偽りは感じられない。まじめに授業に取り組まなくても、それなりにこなせてしまうタイプなんだろう。よく知らないが、話し方や雰囲気で、彼の要領が良いことは察せられる。
仙道と並んだまま視線を彼から海の方へ移せば、仙道が「ここよく来るんですか」と尋ねてくる。「まあね」と言ったあとで少し素っ気なかったかと心配したが、わざわざそれを謝るのは違う気がして結局言えなかった。
仙道の方は、恐らくにはそんなこと気にもしていないだろう。「へえ」と言ったあと、自分もたまにここで釣りをしていると教えてくれた。そう言えば魚住が、仙道の自由人ぷりを語るときに、釣りが好きで、と話していたような気がする。
「ここじゃ、あんまり釣れないでしょう」
「釣りするんです?」
「私じゃなくて父親が好きで、昔はたまに一緒にね」
「へえ。確かに、ここはあんまりっすね」
「最寄りによく釣れるところがあるの。知ってる?」
聞くと、彼は知らないと首を振った。東京から越境進学でここへ来ているのだ。私と同じ最寄り駅の町に住んでいるとしても、確かに知る機会がないだろう。
仙道の口が「こんど」と開く。その後に続く言葉は容易に想像がついて、それを望んでいたような気さえする。「連れて行ってくださいよ」。私はそれに、少しだけ勿体つけて、そのあとで「いいよ」と言った。あの釣り場に、久しぶりに行きたい気分だった。
「約束ですよ」
「うん」
立てた小指をチラリと見せれば、仙道が笑う。そうしてようやく傘を受け取って、チャイムが鳴るまで、そこで二人で話をした。彼の持つ余裕ある振る舞いだとか、心地のいい声だとか、大きな体躯には包容力がありそうで。その少しずつが、海に似ていると思った。そう考えたけど、彼に言うことは最後までなかった。
彼との約束を叶える日は、思っていたよりもすぐにやってきた。
国民の祝日で、学校も父の店も休みの朝。父は朝からゴルフに出掛けていて、私は一人、進路調査票と課題用のテキストを開いていた。家のインターホンが鳴ったのは朝の九時を回ったあたりで、宅急便にしても朝が早いなと思いながら「はーい」と間伸びした返事をする。
何も考えずに扉を開けば、そこにいたのは仙道だった。予想もしていなかったその来客に思わず「え」と声が出る。向こうも向こうで私が確認もせずに鍵を開けたことに驚いているようだった。確かに、今のは私もよくなかった。朝だからと油断した。
「おはよーございます」
「どうしたの、朝から」
「今日釣り行こうかと思って。名前さん、なんか予定あります?」
気まぐれエース。自由人。しかめ面でそう並び立てた魚住の顔が一瞬浮かぶ。ああ、なるほど。納得する。思ったよりも厄介な男かもしれない。マイペースで自由なのに、それに巻き込まれることに嫌悪感を抱かせないのだ。敵にしたら勝ち目はないだろうなと思う。敵に回る予定はないが。
「いいよ。行こうか。待ってね、今用意するから」
今日は遊園地に行こうかと言われた子供のように、彼が素直に喜びを顔で表す。中で待つかと聞けば、中に誰もいないことを確認されたので、いないと答える。「それなら下にいます」。彼はそう言って階段を下っていった。あの容姿で、ああいうことを言えるなら女の子が放っておかないだろう。彼に沸き立つ女生徒の熱狂を少しずつ理解する。
仙道には知ったようなことを言ったが、釣りに行くこと自体は久しぶりだ。
用意と言っても何をすべきか迷って、とりあえず動きやすい服装に着替える。日焼けはするから暑くても長袖で、帽子は飛ばされそうだけど一応被る。生憎、子供の頃に使っていたような紐付きの帽子はない。
釣りをするのは私じゃないので、軍手やバケツは要らないだろう。自分用のタオルと日傘。あとは大昔の林間学校で使った折りたたみのイスを引っ張り出して。
「仙道くーん、聞こえるー?」
窓を開けて下に向かって叫ぶと、ビルの影からツンツン頭がひょっこり覗く。見上げた彼が私にも聞こえる大きな声で「なんですかー」と返してくれる。190センチ以上ある彼を見下げるのは、多分レア。
「おにぎり、いる?」
何時間それをするつもりか知らないが、ずっと座っているのはそれなりに退屈だしお腹も空くだろう。昨日の残りの白米が、連れて行けと言っている気がしなくもない。
私の問いに「食べたいっす」と返ってくるのは予想通りで、私は頭の上で大きくマルを作った。それを見て彼が笑う。そんなつもりはないのに、柄にもなくはしゃいでいるみたいになってしまった。
「いーえ。こっちこそ急にすいません」
「本当。仙道くんらしいけど」
「朝起きて、思いついて。それで——」
進み出す前、仙道の目が私の目の中に留まる。
ダークグレーの瞳は夜の海と同じ色をしている。綺麗だ。彼の横顔も、彼の瞳も。綺麗なものは好き。でも、それに真っ直ぐ当てられるのは苦手だ。顔の下を通る血管が沸騰しそうになる。
「名前さんに、会いてぇなと思って」
なんで。なんでそんなことを思ったの。聞いてしまえばよかったのに、なんて返されても困るような気がして、ただ「そっか」と言った。朝起きて、誰かに会いたくなる理由を私たちは知っているだろうか。まだ18歳と17歳の私たちは。
それから私たちは何事もなかったような顔で約束の釣り場へと向かう。祝日だが、釣りに一番適した時間はとっくに過ぎていて、そこには誰もいない。父と昔何度か来た時も誰かがいることはほとんどなかった。
ここだよ、と仙道をそこへ案内すると彼は爽やかな笑顔で感謝の言葉を告げた。そしてカバンから折りたたみのイスを取り出し、そこへ置く。私も横に持ってきたイスを並べた。二人の間にバケツ一つ。何匹も釣れたら小さいが、そこまでの釣果は見込めないだろう。あの高校近くの堤防よりはマシだろうけど、それにしても。
仙道が肩に担いでいた釣り竿の糸を垂らす。それからあとはもう魚が食いつくのをひたすら待つだけ。この釣り場に来るのも誰かが釣りする姿を横で見ているのも、子供の頃以来。ひたすらに懐かしい気分だった。ここでは決まってやることがなくて、私は足を伸ばしてブラブラさせるだけ。帽子を深く被り、父が何度も日焼け止めを塗り直してくれた。お前の肌は母さんに似て白いから。それがどんな声だったかまで、はっきりと覚えている。
「お父さんは、よく釣りに?」
「うん、昔はね。今はもっと遠くに行ってるみたい」
「魚屋さんも釣りするんですね」
「父のも仙道くんと同じで、趣味とか息抜きとかそういうもんだよ」
今はゴルフに行っていることの方が多いけど。時々釣り竿を持っているなと思った日には大抵車がない。ここではないどこか、もっといい場所へ行っているのだろう。それを、私は知らなかった。
仙道は、垂らした糸の先も見ず、私の方を向いていた。
退屈じゃないか。彼が尋ねる。それは今も、昔も含めての問いだった。
「退屈じゃないよ」
嘘ではない。やることがなくて、そのくせ自分が釣り竿を握ろうとは思わないが、退屈だと思ったことはなかった。いつも忙しく働き『啓次さん』と呼ばれては飛んでいく父が、ここにいる間だけは私だけの父だったから。私のことだけを見て、私の『お父さん』という声にだけ反応してくれる。それがたまらなく嬉しかった。他愛もない話だけで何時間でもそこに座っていられた。
今もそうだ。今も、退屈じゃない。
仙道も私も決して口数が多い方じゃないのに、ポツポツと重ねていく会話はそこそこにテンポが良く心地悪さが一切ない。元々気性やペースが合うのかもしれない。彼の中に海を見出しているからかもしれない。何にせよ、仙道と二人きりでいることは退屈ではなかった。
「仙道くんは、どうして釣り好きなの?」
「好きというか、息抜きみたいなもので。ここ海が近いし」
「海?」
「俺、実家が東京の真ん中らへんで、海が近くにあるのって新鮮なんです」
「そっか。そうなんだね」
生まれた時からすぐそばに海があった。海は時に家族であり、時に全くの他人であり、時に私たちを飲み込む怪物だった。でもいつもそばにはあった。
それが当たり前ではない場所で、彼は生きてきたのだ。海に似ていると思った彼の瞳に、今は青く光る海が映る。もうすっかり海の色に染まりきった私たちとは違い、確かにそれはまだ新鮮な輝きがあるような気がした。
「進学決めたの、先生に熱心に誘われたのもありますけど、海も」
「近くにあるのが?」
「はい、海が近いって良いだろうなって」
凪いだ水面が揺らめく。水面の下で何かが動いた。何かは見えない。
ああ、これはとその先を考えるよりも前に小さく息を吐き出した。慌てたわけでも驚いたわけでもなかったが落ち着きたかった。海と空と、釣りをする男。真横の風景を切り取れば、そこには綺麗なものだけが存在している。それをいいな、と思った。
「……引いてる」
「あ。あちゃー逃した」
「せっかくかかったのにね」
「まァ、気長にやりますよ」
これと決めることもなく会話を重ねる。好きな教科と嫌いな教科。部活動のこと。父の商いのこと。明日になったら忘れているかもしれないし、1年後まではっきり覚えているかもしれない。なんでもよかった。その時間を埋めるものだったらなんでも。
私は自分が魚屋の娘であることを話し、だから魚も捌けると言ってまた彼を驚かせた。釣れたら捌いてくださいねと彼が言ったのに、釣れたらねと返して二人で笑った。それだけで、退屈なんて言葉は忘れている。
仙道のためにまた大きく握ったそれを手渡す。私は両手で持たないとこぼしそうになるのに、彼の大きな手はそれを易々と包み込むことができる。片手に釣り竿、片手におにぎりを持って、仙道は器用にそれにかぶりつく。大きな口でどんどん減っていくお米を見ているのは、やっぱり気持ちがいい。
「美味いっす」
「よかった」
「名前さんのおにぎり、美味いから好き」
私は「ありがとう」と言いながら、自分の分のおにぎりを食べ進める。仙道の分を意識しすぎて自分の分まで大きく握ってしまった。普段は手に納まるサイズしか作らないのに、今日は自分のまで両手で持たなくてはいけないサイズだ。お昼は要らないかも。これで十分かな。真っ白で大きなおにぎりというのは、食べるだけでも結構大変だ。
黙々と、おにぎりを食べることに集中して、食べ終えた仙道は満足げな顔で釣り糸を垂らす。私がやっとの思いでそれを食べ切る間に、竿は四回しなって、バケツの中には小ぶりな魚が二匹追加された。鱗が陽の光に反射して煌めいている。普段、死んだ魚ばかり見ているせいか、生きて動いている意味はいろんな意味で‘新鮮’だった。
「綺麗ね」
「んね」
「……魚って、素手で触れちゃダメなんだって」
綺麗なものは好きだから、自分のものにしたくなる。手を伸ばして、触れて、これは私のだからと言いたくなる。そういう気持ちが、私には小さい頃からおそらくあって、小さな頃、父が釣りに連れて行ってくれた時。その時も私は、父が釣った綺麗な鱗の魚が欲しくて、クーラーボックスの中に手を入れようとした。その手を柔く、父が止める。だめだよ、と言った優しい声と瞳を、今でもちゃんと覚えてある。
「どうして?」
「ひとの体温は魚には高すぎるから、火傷しちゃうらしいよ」
冷たい水の中を伸びやかに泳ぐ魚たちには、陽の光の下を駆ける私たちの手は熱すぎるのだという。だから触れてはいけない。父は言った。優しいけど、悲しいという顔で。そう、ちょうど、あれは母と父が別れた頃だった。私たちが正真正銘、二人きりで生き始めた頃。
バケツの中に手を入れて、水にだけ触れる。そこは冷たい。当然だ。私たちの生きられる温度ではないのだから。
「お母さんがね」
「うん」
「魚みたいなひとだったの」
どうして。そこでそんなことを言ったのか。人間って時々おかしい。言うつもりもなかったことが、ずっと準備して言いたくて仕方なかった言葉みたいに口から出てくる。そんなこと言われたってどうしようもないはずの仙道は、柔らかな笑みを浮かべて、私の向かいにしゃがみ込む。側から見たら大の大人のような二人が、コンクリートの上でバケツを挟んでしゃがみ込んでいる。変な光景だなと思う。ザリガニ釣りに来た子供みたいだ。
「綺麗なひとだったんですね」
言うつもりも、言われるつもりもなかっただろうに。仙道の、あまりに美しい答えが、私の心臓の瘡蓋になりきれない部分をゆっくりと刺した。うん。頷いて。それからなにも言わずに、バケツの中の綺麗な魚の鱗を追いかける。揺らめいて、回って、時々濁る。見ていて飽きない。父にとっての母も、きっとそうだった。
綺麗だから欲しかった。自分のものにしたかった。でも生きる場所が違うから、それはできない。どんなに広い水槽に入れたって、海よりはどうしたって窮屈なのだ。綺麗なものは、綺麗な場所にないと濁っていってしまうから。だから、父は手放した。あの人は海で生き、私たちは陸で生きる。海が満ちては引くを繰り返して広がるように、私もゆっくりと大人になる。大人になれば、父が母を愛した意味も、母が私を愛さなかった意味も、いつか分かる日が来ると信じて。
「……名前さん、髪」
「え?」
「濡れちゃいそう」
下を向くのに一生懸命で、自分の髪がもうすぐバケツの中の水に入ってしまいそうになるのも気づかなかった。
仙道に言われ、自分でどうにかする前に目の前から手が伸びる。仙道の手が私の髪を掬って、それを耳にかけてくれる。太くて硬い指先が、私の耳に触れた。顕になった耳朶に、ピアスを見つけ、仙道がそれを撫でる。躊躇いなく触れられて、私が顔を上げたらすぐに離れた。
「綺麗ですね」
一瞬だった。彼が私に触れた一瞬。少しだけ波が止んだ。心臓も、皮膚の下の血の流れまで止まってしまったみたいになって、それからすぐに動き出す。耳が熱くて仕方なかった。咄嗟にそれを手で隠して、どうしたのと訊かれたら、日焼けしたと答えようと考えた。