先週1週間降り続けた雨も止み、春らしい気候がようやく湘南の海に戻ってきた。
 受験だ、就職だと浮き足立つ4月は高校に入ってから初めてのことで、私もとうとう3年生になってしまったのだと強く実感する。机の上には、第1回進路希望調査票が配られていた。

 将来への漠然とした不安。社会全体に不景気の気配が漂う昨今では、若者が明るいはずの未来に不安を抱えていることが珍しくない、とワイドショーの社会学者は得意げな顔で言い切った。私は朝食の卵焼きを口に放り込みながらそれを見て、何も考えずに一人、家を出た。登校していの一番に配られた紙を見て、結局そのことを必然的に思い出す羽目になる。
 不安がないと言えば嘘だ。
 自分は何になるのか。何度か考え、結論は出さずに先延ばしにしてきた。しかし、延期の効かないところまでとうとう辿り着いたらしい。焦りと達成感が心の中で入り混じる。私も、今年で18歳になる。

 その日の昼休み。屋上に上がったのはたまたまだった。
 いつも一緒に昼食をとっている友人が部活の集まりで行ってしまって、かと言って他のグループに混ざるにはまだクラス替えから日が浅かった。いろんな小さな理由がある。
 私はお弁当を持ってクラスを抜け出し、どこに行こうかと悩んで屋上へ上がった。柵が立っているだけの校舎側の屋上とは違い、屋上農園のある体育・実験棟の屋上は開放されているのだ。1年生は、おそらくまだ知らない。いつ来ても人はまばらである。

 入口近くのベンチの辺りではしゃぐ2年生らしき団体から距離をとってフェンスの近くへ寄っていく。体は自然と海の見える側へ向かった。
 その時、視線を下ろした先に仙道が見えた。校舎の3階の廊下を気だるげに歩いているのがちょうど見えたのだ。大きな背中をまるめて猫のように欠伸をしながら、長い足を余らせるようにのんびりと闊歩している。大きいからどこにいても目立つんだ。そう思った。口に出した訳でもないのに、——たとえ口に出していたとしても聞こえる距離ではない——仙道は、まるで呼ばれたようにこちらへ振り返り、しっかり私と目が合った。
 彼の歩く足は止まらない。遠ざかれば彼がどんな表情だったかもよく分からないままだった。それでも目があったという確信を、彼は私に与える。

 仙道が教室の方へ行き完全に見えなくなった頃、私はようやくフェンス近くの段差に腰を下ろし、足の上でお弁当を広げた。空は晴れ、海は凪。ほとんど独占状態とでも思っているのか、やや大きめの声で話す下級生の声も今は心地よく聞こえてくる。今日は外でご飯を食べるにはいい日だと、ここへ来た自分の選択を讃える。気持ちがよかった。

 お弁当を半分食べ終えると、昼休憩は残り半分になっていた。
 気分の良さにかまけてゆっくり箸を進めていたこともあったし、そもそも迷ってここへ来た分、いつもより遅めのスタートだったのだ。食べ終えたら教室へ戻って次の授業の準備でもしようか。眠くなるだろう午後の授業に思いを馳せる。
 屋上のドアが開いたのは、私がここへ来てから初めてだった。顔は上げない。誰か来たのだと思うだけ。入口近くにいた集団の話し声が一瞬止んで、それから溢れるようにして声が上がる。

「仙道じゃん、珍しいな」

 知り合いなのか、その中の一人がそう言った。無意識に顔が上がる。入口のところに確かに背の高い学ランが立っている。背中越しでも彼とわかるツンツン頭。仙道は話しかけてきた男子に「よお」と「まあな」を返し、視線を集団ではない方角へ向けた。
 右、左。彼の頭が僅かに振れる。誰かを探しているみたいだった。
 それから、その頭がくるりと振り返るまで私はじっと彼のことを見ていた。何をしているんだろう、という純粋な好奇心で。

「どーも」

 仙道が私を見つけると、それが正解とでも言うように顔を緩めて私の方へ向かってくる。‘あ、来た’。そう言った雨の日と全く同じ顔だった。
 私は、彼がここへ来た目当てが私であることに驚きながらも、彼と同じように「どうも」と挨拶を返す。やけにぶっきらぼうな言い方になってしまったが、咄嗟のことでそれ以外に思いつかなかったのだ。許してほしい。

「いい天気だな」

 当然のように、寄ってきた仙道は私の隣へ座り腰を下ろす。一緒に食べるみたいな距離感だった。というか、彼は持っていたビニール袋から購買のパンらしきものを取り出し、その封を切っていた。確実に一緒にご飯を食べるという意志を示している。

「……ここで食べるの?」
「ダメですか」
「いいけど。なんでまた」

 止まっていた手を再開しながら、私が尋ねる。屋上には入口付近の集団以外に私と仙道しかいない。その集団は仙道のことを知っていて、さっきまでの騒ぎ方が嘘のように声をひそめて、時々こちらへ視線を向けている。
 噂とは、そうして生まれるものだ。今、彼の行動が小さな波紋の中心を作ろうとしている。

「目合ったから」
「え?」
「あれ、俺の勘違いですか」

 どうやら十数分前の行動を、私も彼もはっきりと認識していたらしかった。キョトンとした顔をこちらへ向ける仙道に、「いや」と口籠った後で嘘をつく訳にもいかず「勘違いじゃないよ」と言えば、また彼の眉と目尻が安心したように下がる。
 クールに見えて案外、表情に出るんだな。話と全然関係なことが頭に浮かぶ。
 今、そんなことを考えている場合じゃない。こんなところで二人きりでご飯を食べてしまえば、どんな噂が出回るか分からないから。仙道彰は陵南高校の有名人なのだ。そんな男が上級生と屋上でご飯。私には何の価値もないことが、私の同級生や後輩たちにとっては、政治や経済の話のようにトップニュースになりうる。

「それだけで、ここに来たの?」
「まあ。一人に見えたしちょうどいいかと思って」
「何がちょうどいいの?」
「はは、質問多いな」

 彼の全然困っていない顔から、ちょっと困っているみたいな声が出た。どっちが本当か分からなかったが、確かに疑問符ばかり投げてしまったという自覚はあって、ハッと口をつぐむ。言ってしまったのはもう遅いけど、でも、気になったのも事実だった。

「……話したくて」
「私と?」
「うん、昼休みだし、晴れてるし、目合ったし。ちょうどよかった」

 意外にもはぐらかされずにストレートに飛んできた回答に、驚きながらも「そっか」と答える。肝心の彼が私と『話したい』理由は言われなかったが、それをまた問い質せば、今度こそ事情聴取みたいで失礼かと口を閉ざした。
 短い言葉のラリーをする間にも、仙道の手の中にあった手のひらほどの大きさのパンは無くなっていて、あとひと齧りを残すだけになっていた。私もまた思い出したようにお弁当を食べ進める。あとは卵とキノコの炒め物と、ご飯が少しあるだけだ。

「あそこから、よく見えたね」
「俺、目はいいんですよ。先輩こそよく気づきましたね、俺だって」
「仙道くん目立つし、誰が見ても気がつくよ」
「……そうかな」

 彼の声に少しの落胆が混じる。表情はあまり変わらなかった。さっきまで表情に出やすいのかと思っていたことを考えて戸惑う。分かりやすいのか、分かりにくいのか分からない。掴みにくいと言う方が正しい気がした。あるいは、掴ませないのか。

 お弁当の最後の一口を食べ終える。
 炒め物を口に入れたところで顔を上げると、仙道と目があった。自分の分はとっくに食べ終えたのか、頬杖をつき、私の方を見ている。見られていたことに分かりやすく驚くと、仙道がクスリと笑う。存外子供っぽい笑い方をするんだなと思った。

「お弁当、うまそう」
「ありがとう」
「え、自分で?」
「え、うん」
「マジか、すげーな」

 キラリと輝く眼差しを向けられるのはどうにも落ち着かなくて、自分のお弁当箱に視線を戻す。毎日、高校生になり給食がなくなってからは毎日、自分でお弁当を作ってきた。夕飯の残りが多いけれど、見た目や栄養に全く気を遣っていない訳ではないし、それを「すごいね」と褒められたことも一度や二度ではない。

 しかし、いつも、それを言われるとどうにも心がむずむずするのだ。
 私のお弁当を見て「すごい」と笑う友人の手元には、たいてい母親に作ってもらったお弁当がある。お弁当を作ってくれる母親の存在が当たり前すぎて、彼女たちは自分の母に「すごい」と言うことはないだろう。私が、彼女たちの立場でもきっと同じことを思う。
 お弁当を褒めてもらえることはもちろん嬉しい。でも、それと同時に、友人の中に当たり前に存在する「弁当を作ってくれる母親」を私は持たない。それが、時々すごく不幸なことのように思える。私は不幸ではないけど、でも、どうしようもなく、そう感じてしまう時があるのだ。

「仙道くんは、いつもそれだけ?」
「いーや、弁当は下宿先からもらってるけど。昼前にはないっす」
「純ちゃんと同じこと言うのね」
「……純ちゃん?」
「あ、」

 仙道が笑う。恥ずかしいのは私ではなく、魚住なので申し訳ない気持ちになる。しかし、もう十数年そうよんでいるのだ。今更、「魚住」などと単なるクラスメイトのような呼び名が板につくはずもない。思春期真っ盛りの中学時代ですら、私は彼を恥ずかしげもなく「純ちゃん」と呼んだし、彼もまたそれに臆することなく返事をしてくれた。

「魚住さんのこと?」
「……そう。秘密よ」
「りょーかい。てか、バレたら俺がシメられますよ」

 昼休憩も残り15分となり、そろそろ教室に戻ろうと片付けを進めると、フェンスに背中を預けた仙道が、「あー」と気の抜けた顔を上げた。その声に釣られて彼の方へ目を向ける。それがいけなかった。
 抜けるような青い空。それに向かう横顔が、純粋に綺麗で、目を離せなくなる。綺麗なものは好きだ。美しいものには理由が要らない。理由なく好きだと思えるし、見つめていても、理由は「綺麗だから」で説明できる。単純でいい。余計な混じり気がなく、それが一層美しく思わせる。

「——なんか腹減ってきたな」

 綺麗な人が、綺麗な声で、綺麗な空に向かってそんなことを言う。
 私はおかしくなって笑った。不思議な男だと思う。不思議なことに、綺麗なものはおかしなことを言っていても、まだその綺麗さを失わないのだ。

 木曜日。雨だった。ここ3日間の春の晴天が、幻のように雨音にかき消される。雨の日は電車もバスも混雑するから少し早く家を出ると決めている。
 前日から雨が分かっていたその日は朝、時間に余裕があった。いつもなら支度をして、お弁当をカバンに入れたら家を出る時間になる。でもまだ15分も時間があった。

 その時、たまたま昨日の残りの白いご飯が目に入って、早く食べないと駄目になってしまうなんて言い訳がましいことを考えた。迷うくらいなら。そう思って、ラップをとってご飯を温めてラップの上に転がす。具になるようなものはないから、冷蔵庫にあった海苔の佃煮をご飯と混ぜて、三角形にし、その上からまた海苔を巻いた。ケチャップライスを卵で包んでまたケチャップをかけるみたいな間抜けさがある。しかし、美味しい。美味しければいいだろう。

 別に何の約束もないし、そもそも会えるかも分からない。ハナから会おうという気もそこまでなかった。ただ、なんとなく彼の綺麗な横顔が、綺麗とは言えない空の中にぼんやりと思い出されたのだ。
 お弁当カバンの上に自分用には大きすぎるおにぎりをのせて学校に向かう。雨の日は靴の中がぐちゃぐちゃになって、服も濡れて、髪型も決まらない。いい日でないことは確かだった。それに、こんな日は海が荒れやすい。海は荒れると私を呼ぶので、気をつけなければいけないのだ。

 高校3年生なのに授業に身も入らず、午前の授業は過ぎた。過ごしたのではなく、まさに過ぎたという実感だった。そこに実感は伴わない。いつの間にか昼休憩の時間になり、周囲は慌ただしくなっている。未だ埋まらない進路調査票は、机の中に所在なさげに仕舞われていた。

 お弁当を取り出そうとしたところで、お弁当箱に上にのった大きなおにぎりの存在を思い出す。そういえばこんなものも作ったな。簡単に言えば気まぐれで、理由もない。でも、それは誰かの胃袋に収まらなければ無駄になってしまうことは明白で、仕方なく友人に断って席を立つ。お弁当カバンを右手に。これといった当てはなかった。

 2年生の教室に直接行くほどの勇気も気概もなく、結局、屋上へ向かった。こんな日にそこに上がっているとは思えないが、しかし、他に思いつかないのだ。何せ、私は仙道のことなど何も知らないに等しい。
 屋上へ向かっていなければ、教室へ戻ろう。そう決める。会えなければ、おにぎりは魚住に渡せばいいことだ。部活の前か後にでも食べて、と言えば彼は疑いもなく受け取るだろうし、お米が無駄になることもない。

 普段よりいっそう人気のない階段を上がる。今日は鍵すら開いていないかもしれないと考えたところで、踊り場にいる人影に気が付く。階段に座り、踊り場の窓から空を眺めている。
 憂を帯びたその横顔に、黒々とした雲の影が落ちる。はっきりとした顔立ちがより際立って見えた。

「仙道くん」

 視線が、こちらへ向く。彼は私を見ると驚きに目を丸くして、小さな声で「先輩」と呼んだ。
 いなくてもいい。そう願うときに限って、巡り合えるのは皮肉な話だ。わざわざ雨の日にこんな場所まで足を運んでおいて至極今更な照れ臭さが湧き上がる。彼の隣に座ることすら躊躇われてその場に立ち尽くせば、それを不思議に思った仙道が立ち上がり、私の目の前まで来た。
 見上げれば首が痛くなるくらいには、彼は背が高い。そんなことは幼馴染のおかげで慣れっこだが。

「どうしました? 屋上に用?」
「いや、」
「残念だけど今日は開いてないですよ」
「あ、うん。そうだろうね」

 何と切り出そうか迷う私を、彼が「座れば」と導いた。ひとまず腰を落ち着けて、隣に座れば意外と近くに座ってしまったことにまた心がざわめきだす。
 何か言いたそうにしている私のことなどお見通しなのか、仙道は目を向けて、私が話し始めるのを待っているようだった。その目を見つめ返してみる。私の言葉を待っているのは分かるのに、焦らせるでもない視線の向け方が不思議だった。

「……今日は、パン持ってないの」
「ああ、購買行くのめんどーで」
「お弁当は、もうない?」
「うん、今日の朝練キツくて」

 予想通りの答えだ。うまくパスがつながっている。彼らの言葉を借りるなら、きっとそんなところだろう。

「今日も、お腹空いてる?」

 いいえと言われたら、そっかと笑って、さっさとご飯を食べて教室へ戻ればいい。この後に及んで、そんなことを考える私は、意気地が無いのだ。本当は、彼がなんと言うか知っている。分かっていて、朝も、今も、行動を選び取っている。

「いつもペコペコですよ」

 私からの拙いパスを、彼はとても丁寧な声でゴールに入れる。全部見透かされているようで気恥ずかしいが、ここまで来て後に引く気もなく、カバンから自分用のお弁当と大きなおにぎりを取り出した。裕に私の拳くらいの大きさはある。

「はい。もし要るならどうぞ」
「えっ、俺に?」
「うん。ご飯余ってたから握ってみた」

 私の手から、彼の手におにぎりが渡る。彼は‘おにぎり’というものを初めて見るような目で、それを見た。そんな大したものじゃない。単なるおにぎり。なんなら具がなかった時点で手抜きだ。昨日のご飯のあまり。そう言うために、やけに手の込んだものは用意するわけにいかない。

「いただきます」
「どうぞ」
「うわ、でけ。うまそ」

 いつも控えめに笑う彼の口が大きく開いて、それにかぶりつく。自分のご飯などどうでもよくなる爽快な食べっぷりに、作ってきてよかったと思った。父と娘の二人暮らしでは、早々お目にかかれない光景だ。
 男の人が大きな口でたくさん食べる様は見ていて気持ちがいい。たまに私が魚住とご飯を共にしたがるのもそういう訳なのだが、これは秘密。言ったら恥ずかしがる純粋さを、あの大男は持ち合わせている。

「うまいっす」
「よかった。ごめんね、具がなくて」
「海苔の佃煮、十分すよ」
「そう? よかった」

 私がまだ三口もお弁当を進められていない間にも、大きかったおにぎりは見る影も無くなっている。育ち盛り、食べ盛りの食欲には驚かされてばかりである。

「——俺、ひとが作ったおにぎり初めて食ったかも」
「そうなの?」
「母親が、そういうの作んないひとだから」

 弁当って言ったらサンドイッチとか、そういうのばっかで。仙道が言う。彼の母親にとってはお弁当というよりランチボックスという方がイメージには近いのかもしれない。そもそも母親が手作りでご飯を作ることが少なかったという言葉で、なんとなく深掘りする気はなくなった。ひとにはひとの家族があり、それぞれの当たり前が存在する。

「……私も、自分が作ったおにぎり以外、食べたことないよ」

 別に何を言いたかったわけでもない。そこに深い意味はなく、単なる事実を述べただけだった。友人たちとの会話では出てきようのない告白に、僅かな沈黙が流れる。しかし、それは彼が最後の一口を食べ終えた咀嚼音で破られた。

「じゃあ、今度は俺が握りましょうか」
「……ふふ、嬉しいけど、仙道くんのは大きそうだからなあ」

 食べきれないかも。そう言って笑う。母親のおにぎりというものを知らない二人が、互いにおにぎりを握り合うところを考えるとなぜか笑えた。
 私たちは18歳と17歳で、大概のことを笑いに変えることができる。寂しさの上にいろんなものを乗せれば、一番下にあるそれは薄くなるものだ。なくなることはない。でも、それを笑い飛ばせるくらいには、私たちは逞しかった。

「ね、先輩」
「なに?」
「名前、教えてくれません?」
名字だけど」
「そっちじゃなくて、魚住さんが呼んでる方」
「……名前?」
「うん、それ。名前さん」

 何かを確かめるように、仙道がもう一度私の名前を呼ぶ。父も友人も魚住も呼ぶ名前だ。なのに、誰が呼ぶものとも違う。それは仙道が、家族でも友人でも幼馴染でもない存在だからで、かといってどのカテゴリーに入れるべきか、今は知れない。

「おにぎり、ご馳走さんでした」