「魚住さん」

 澄んだ声がした。クラスの視線が一時、扉の方へ向けられる。例に漏れず私の視線も引きつけられた。2メートル近い扉の上枠にほとんど頭がつきそうな背の高さの男子が、一人、私たちの方へ視線を向けている。正確には、私の前に立っている人間へ。
 私は、あ、と思った後で目の前の男子を見る。彼は一言断って、私の元から呼ばれた方へと歩いていった。二人とも、異様なほど背が高い。私の目の前にいた彼が2メートル超えだとして、それと目の高さが少し低い程度の彼もゆうに190はありそうだ。
 何を食べればあそこまで大きくなれるものなのか。160を過ぎたところでピタリと止まった自分の身長に特別不満はないが、彼と話すときに痛む首を思えば、あと10センチは伸びてもよかったと度々思う。魚屋の娘。健康的な食生活であるという自負はあるのに。

「……悪い、何の話だったか」
「委員会のこと」
「ああ、それなら——」

 彼が私の前に戻ったあとも、クラスの一部の視線は教室の入口へと向けられていた。「魚住さん」と彼を呼んだ男子が、まだそこに留まっていたからだ。
 高い位置から注がれる視線を遮れるようなものはここにはなく、それは真っ直ぐに私へと向けられていた。今度こそ、私に。視線の意味は言わずとも分かる。私がついさっき、彼を見て「あ」と思ったのと同じことだろう。分かっていて顔を向けないのは、わざわざ挨拶をして答え合わせまでする必要を今は感じないから。
 『あれって』、『やっぱりバスケ部の』。彼に届くか届かないかギリギリの声量でクラスメイトを噂する。背が高く整った顔をした運動部は、どの学生生活においても人の目を惹きやすい。おまけに、彼が陵南バスケットボール部の‘エース’であるなら尚更の話だ。

「なんだ知り合いか」
「ん?」
「仙道と」
「センドーって?」
「知り合いじゃないのか」

 魚住の眉間に皺が寄る。困ったとき、分からないことがあったとき、彼がよくやる顔だ。その体格でその顔をすると友達が減るよと親切心で忠告したのは、確か中学生の時だった。すごく不機嫌になったから印象深い。私は彼のそういう繊細さが好きだった。
 魚住が後ろに指を向けながら「あれ」と言う。あれが仙道。あの、入口のところに立っている背の高い、バスケット部のエースが、まさしく仙道というらしい。

「知り合いではないね」

 会ったことがあるだけで知り合いとは言わない。
 私がサラリと否定すると、魚住はそうかとだけ言って、また委員会の話を再開した。私たちの意識は自然にクラスの廊下側から立っている窓際へと移る。やがて廊下から私たちを見ていた彼のことなど忘れてしまった。
 仙道もいつの間に消えたのか、クラスからは漣のように彼に関する噂が引いていき、また新たな噂話の波が来る。高校生の日常に、噂が絶えることはない。
 私は努めてそれらを排除し、魚住の話に集中した。高校生の噂話。そう言ってしまえば簡単だ。でも、真実とも知らぬ話によって偏った見方を「普通」と言い切ってしまえるなら、何も知らずに生きている方がマシ。無知は怖い。容易く人の命を奪う。しかし、差別や偏見に比べれば、まだ生ぬるい。

「今度、啓治さんが地方の祭り手伝いに行くって聞いたか」
「聞いたような、忘れたような」
「再来週の土日だ」
「あ、うん。分かった」

 魚住が、やれやれと息を吐きながら首を振る。当然のように夕飯を食べに来るかと聞いてくるのは、彼がいわゆる幼馴染で、家族ぐるみで親交があるからという歴とした理由がある。
 男手一つで子供を育てるために、父はよく働いた。子供が幼くとも家を空け、遠くまで手伝いに行くことも珍しくなかった。そのときに「うちにおいで」と言ってくれたのが魚住家だった。私が幼い頃、父がいない夜は魚住家に泊めてもらった。子供の舌では到底味わいきれない良いお寿司を食べさせてくれたのは、他ならない魚住純の父である。
 そういうわけで、私が大きくなり一人で家にいられるようになっても、こうして関係性は続いている。というか、お世話になりすぎた結果、好意を無下にできず、甘えているというのが正しいか。

「ううん。大丈夫。友達とご飯でも行く」
「そうか。気が変わったら言ってくれ」
「ありがとう。おじさんとおばさんにも言っといて」
「ああ」

 家族は父一人。血縁者は他に祖母がいる。もともと住んでいた神奈川の山の方の古い家に、祖父が亡くなったあと移り住み一人で暮らしている。歳も歳なんだからいい加減こっちで同居を、と父は会うたびに祖母に言い、その度に祖母は「海は好かない」とそれを断る。私に向かって「ねぇ」と言うまでがセットだった。
 祖母は、祖父の面影が色濃い場所に住むのが嫌なのだ。父は気づいていないだろう。ここは、私にとって紛うことなき‘ホーム’だけれど、祖母にとってはいつまでも祖父が大切に守っていた場所なのだ。だからここには住めない。寂しさから遠ざかることが、自分を守ると祖母は知っている。

 父一人、娘一人。
 ホームである商店街を一歩出れば、そこは途端に居心地の悪い場所になる。『片親だから——』。何かにつけて周囲は言うが、片親だから何だと言うのか。母親がいなければ娘は真っ当な人間じゃなくなってしまうのか。『あそこの家のお母さんは——』。学校の母親たちは噂する。授業参観に来た一人の父を見てヒソヒソと。
 何を言われても構わなかった。父からも、商店街のおばちゃんおじちゃんたちからも、魚住家の人たちからも、私はちゃんと愛情をもらっていたから。
 だけど、母がどんな人間であるかも知らない人が、母の話をするのは言うまでもなく不愉快だった。あの、何も成さず、残さずに去った人が、何かしたように語られるのは嫌だった。あの人がどれだけ苦しそうに生きていたかも知らないくせに。

 帰り道。春に似つかわしくない曇天が、依然として立ち込めている。帰るまでに雨、降らないといいけど。部活へ行く友達とは昇降口の前で別れ一人、門の方へ向かう。そこに立っていたシルエットには見覚えがある。つい数時間前に、教室で。私も彼も互いを見ていた。ツンと立った髪が風で少し揺れている。日に何度も会うなんて。そう思いながら歩く速度を僅かに緩めれば、足音で気づいたとでも言うように、彼がくるりと振り返る。

「あ、来た」
「え?」

 元々垂れ気味の目じりがさらに下がる。あの時も、今日の昼も。飛ぶ抜けて大きいとは思ったが、幼馴染ほど圧を感じないのは単に横幅と厚みがないせいなのか。それとも、この優しげな目元のせいか。いずれにせよ、柔和な雰囲気と端正な顔立ちは、学年を超えて噂の的になるのも頷ける。

「じゅ、——魚住なら、もう部活行ったよ?」
「魚住さんじゃなくて、先輩待ってました」
「私?」
「そう」

 何かあったと聞く前に、彼が背中から一本の傘を取り出した。あ。思わず声が漏れる。すっかり頭から抜け落ちていた。仙道という男のことはやけにハッキリと覚えていたのに、その男に帰りがけ貸した傘のことは、私の中にはほとんどない記憶だった。
 実物を見てようやくそれを思い出し、ああそれかと甚く納得する。私のその顔を見て「もしかして忘れてました?」と目を丸くする彼の姿は、存外可愛らしく見えた。それら全部を誤魔化すみたいに笑って、うん、と頷いてみる。正直、忘れてた。

「これ、助かりました」
「わざわざ返さなくてもよかったのに」
「いや、借りたもんは返さねぇと」

 戻ってくるとも考えずに貸した傘だったけれど、そういう律儀なところはいいなと思った。礼儀ある人はいい。こちらも気分が良くなるし、自分も正しくあろうと背筋が伸びる。ありがとう、と何に対してかも曖昧な礼を述べながら、その傘を受け取る。彼が持つと子供用みたいに短く見えたそれは、私の手の中では元の長さに戻っていた。

「じゃあ、私は——あ」
「あ」

 その一音は二人の口から同時に発せられたように聞こえた。頭上に広がる曇天から耐えきれなくなった雨水が滴る。それが私たちの頬へと降り落ちてきた。
 ポツリ、ポツリ。
 コンクリートの道路にあっという間に染みができる。雨だ。今年の春は、やけに雨が降る。私は慌てて彼から返してもらったばかりの傘を広げた。腕を伸ばして、仙道もその傘の下へと囲う。仙道は小さく目を丸くしたあと、柔らかに口元を緩め、一歩、私の方へと寄ってきた。

「降ってきましたね」
「ね。……今日は傘、これ以外に持ってる?」
「まさか」

 仙道の肩をすくめるような仕草はやややりすぎな気もしたけれど、事実、今日は天気予報で雨マークがなかったのも事実。私も傘は持ってきていない。今しがた彼に返されなければ駅までの道を駆け出していたに違いない。
 私はすっかり部活用のTシャツとハーフパンツに着替え終えている隣の男を見遣り、少し考えようとして、考えるまでもないことだと結論づける。考えるまでもない。私が「仙道くん」と呼び掛ければ露骨に首を曲げる彼は、我が陵南高校バスケットボール部のエースなのだ。

「傘、これ使って帰りなよ。多分、今日は夜まで止まないから」
「いや、でも」
「大丈夫。駅までそんな遠くないし、家も駅からすぐなの」

 知っているとは思うけど。そうは言わず、ただ事実だけを告げる。
 持ち手を「はい」と彼に押し付ければ仙道は戸惑ったままそれを受け取る。私の持つ高さでは窮屈そうだったのに、彼が持てばあっという間に天井が高くなるからおかしい。そういえば、魚住とだって一つの傘に入って並んだことはなかった。相手が大きくて、傘の広さが足らないというのは置いておいて。

「じゃあ、傘はまた——」
「待った、」

 また。……まただ。また、彼が私を引き止める。
 今度は駆け出して行こうとしたところを、腕を掴まれた。何、と答えればそれはすぐに離れてゆく。離れた後でその手が熱かったことに気がついた。

「駅まで送ります」
「いいよ。部活、もう始まるよ」
「魚住さんにはちゃんと説明するんで」
「でも」
「……俺に送らせて。先輩」

 じゃなきゃ流石に、なんて殊勝なことを言われてしまえばそれ以上断るのは気が引けて、私は頷く。大人しく、元いた場所まで戻った。持ち手は私の手に戻らない。彼が持っていた方が彼もいいだろうとそのままにした。視線は、傘で遮られた前方から自然と足元へ下がる。なんて長い足なんだろうと思った。

 寒くない? と尋ねる。彼が半袖だったのが気になった。季節は冬から春へ変わったとは言え、今日は雨でまだ肌寒さが残っている。その格好で外を歩いて風邪でもひかれたら目覚めが悪い。魚住に罪悪感が湧くような気もする。
 そんな私の心配など気にもせず、仙道はへらっと笑い「ダイジョウブですよ」と言った。何が大丈夫なのか、明確な理由がない時の「大丈夫」だった。しかし本人がそう言う以上、それ以上部外者が何か言うのも気が引けて、私は「そう」と言って黙る。彼の長い足に遅れないように歩けば、駅はもうすぐそこまで見えている。

「あれ、先輩の家ですか」
「あれって、」
「この前の」
「あー。うん、そうだよ」
「へえ」

 数日前の邂逅は、まだ記憶にも新しい。
 屋上まで駆け上がってきた仙道は、背が高く、どこかで見たことがあるような気がした。あの時は陵南の生徒だというところまでしか分からなかったが、今日、バスケットボール部であることも分かり、ああ、と納得したのだ。

 幼馴染が、それこそ昔から心血を注ぐバスケットボールというものを、私はあまり正しく理解していない。魚住は私に何か強要するようなことはなかったし、幼馴染とはいえ、性別と体格の違いから一緒に遊んだのは小学校低学年までだ。それ以降にバスケットを始めた魚住のことはもちろん応援こそしていたけれど、それも会う時に「頑張って」と言うくらいのもので、試合を応援に行くことなど稀。高校に上がってからはほとんどない。
 だから、薄ぼんやりとしている陵南バスケット部の青色のユニフォームを思い出しながら、そのメンバーの中に仙道の顔を探す。ピンとは来なかった。
 魚住の試合を見に行くことがあっても、彼がヒラヒラとした魚の鰭のようなユニフォームの裾をハーフパンツの中に仕舞い込む頃には、私の興味は大抵別のものへ移っている。

「俺のこと知ってました?」
「……いや、陵南のバッグ持ってるのは気づいたけど」
「あ。これ」
「うん、でもバスケ部なのは今日知った。名前も」

 仙道は素直にそう白状した私に、「そっか」と柔らかな笑みを浮かべる。仙道は有名人だ。有名人らしいのだ。彼が私たちのクラスへ姿を見せるだけで、クラスの話題は彼で塗り替えられるのがその証拠。『あれが噂の』。そんな枕詞がついて回る。仙道はそれに慣れていて、私のように噂を拒絶することも、受け入れて手を振ることもなかった。
 友達が、バスケットボール部に格好いい男の子がいると言っていた。それも仙道のことだった。背が高くて顔が素敵。隣を歩く男に当てはまるな、と今ならわかる。言われた時には分からなくって、「へえ」と「そうなんだ」以外に何も言わなかったけど。

「仙道くんは、家近いの。あの道通るってことはさ」
「……ああ、まあ。俺、下宿で」
「下宿?」
「実家、東京なんで」

 仙道は、東京の中学から田岡先生のスカウトを受けてわざわざ陵南へ進学したと言う。なるほど、スポーツマンにはそういうものがあるのかとまた一つ新しい世界を知った。生まれた頃から海に囲まれ、当然のように小中高とこの街で育った私とは違う。彼は、……いかにも海のような雰囲気を纏うこの男は、あのコンクリートジャングルで今までの人生の大半を過ごしてきたらしい。

「じゃあ、寂しいね」
「え?」
「親御さんと離れて暮らしてるんでしょう?」
「あ、まあ。そうっすけど。ハハ 初めて言われたな」

 仙道は、小さく乾いた笑いを零しながら、私の言葉を深く噛んでいるようだった。高校生が親元を離れて一人で下宿生活を送っている。「大変だね」と言われることは様々あったが、「寂しいね」と言われることは少ないのだろう。女子高生ならばともかく、仙道は男である。ましてや身長は190を超え、妙に大人びた顔立ちや飄々とした雰囲気から、彼と「寂しい」が結びつかない気持ちは理解できる。
 でも——。
 どうしても思うのだ。生まれた場所から離れるだけで寂しいものだ、と。そこが血縁はおろか知り合いも碌にいないような場所ならなおさら。私は知っている。故郷を取り上げられた人間の横顔を。何かに耐えて生きるような瞳の色を。

「大丈夫なの」
「毎日楽しいんで、そこまででも」
「そっか。なら良かった」

 ちょうど駅に着く。突然の雨の影響か、時刻表の時間にも関わらず線路に電車の気配はない。私は屋根の下まで来ると仙道の隣を抜け出す。振り返った先の仙道は、いかにもこれから部活に行くという格好に、青色の傘を持って、それが駅という背景の中で浮いて見えた。

「送ってくれて、どうもありがとう」
「こちらこそ、また傘借りることなっちまって」
「いいの。大丈夫。ほら早く戻らないと、部活始まるよ」

 もうとっくに始まっている時間だろうと思いながら、彼に戻るように促す。仙道は一つ二つと頷くと、じゃあ、と傘を持ったのとは反対の手をあげる。私がじゃあねと手を振れば、彼は長い足でくるりと方向転換して、雨の中へ戻ってゆく。その背中を見送りながら、今度こそ返さなくていいよと言い忘れたことに気が付く。
 また。彼は返しに来るだろうか。
 申し訳ないなと思った。でも、それを少しだけ楽しみに思う自分もいる。電車は、まだ来ない。