母は、かわいそうな人だった。
父と別れることが決まった時、虚な目で彼女が私の頭を撫でた。あの人に頭を撫でられたのは後にも先にもあれが最後のことだった。水仕事の一つもできない母の手は、今の私の手と似て傷も皺もなく、マネキンのように艶があった。誰かを養うことなど、まるでできそうにないその手は、いつも私に触れることを躊躇う。だから、母が私の頭に触れたのは、あの日が最初で最後だった。
今にも消え入りそうな声で「ごめんね」と呟かれる。 何を謝っているのか、その時の私には分からなかった。父と別れることか。自分が、家族に誠実でいられなかったことか。それとも、これまで碌に母親らしいことなどしてこなかったことか。
思い当たる節は散々あったが、そのどれにも、私は怒ってなどいなかったし、そういう感情を抱いたことすらなかったように思う。
幼い頃から母が家にいることは少なかったし、家にいたとしても、いつもベランダの手すりにもたれ煙草を吸っていた。窓一枚隔てたところから、娘がそれを見ていることなど気づきもしない。
ベランダにいる母は風に吹かれて揺らめく蝋燭の火のように頼りなく見えて、彼女がふらりとそこから落ちることがあっても、私は驚かなかっただろう。そのくらい、私には、母というものがひどく遠いものであったし、彼女が自分を産んだ人間であるという感覚が希薄だった。
その人を母親だと認識したのは、父が”そう”言ったからだった。
そうでなければ、私はあの人をただの同居人程度にしか思っていなかった。父が——何より大好きな、唯一の家族である父が——その人が私の母親だと言ったのだ。
教え込むように、「お母さんには優しく」、「お母さんにあのことを話してあげて」と父が言ったのは、私のためでなく、思うに母のためだった。父は、あの人をなんとか私の母親にしようと努力したのだ。そのためにあえて『母親』という言葉を子供の前で繰り返した。何も知らない子供の私は、その言葉を鵜呑みにした。あの人を「お母さん」と呼んだ。その人が誰であってもよかったが、ただ父がそう呼ぶから、同じように呼んだ。
私に「お母さん」と呼ばれるたびに息が詰まりそうな顔をするあの人は、真に私と血のつながった母親で、それでいて陸に打ち上げられた魚のようだった。ここでは、息ができなかったのだろう。苦しかったのだろう。母は呼んでも、私の方を見なかった。
だから、父に「母さんと別れるようになった」と言われた時も、そうなのかとしか思わなかった。父は諦めたのだと知った。父と母が夫婦であることでなく、あの人が私の母親になることを。
私は、父の悲痛な表情とともに事実を受け入れ、そして、母に別れを告げに行った。それも父に促されたからだった。階段を降りると、家の前に黒い車が一台停まっていて、その前に母が立っていた。荷物はすでにその手になく、車の中に運び終えた後のようだった。
階段を駆け降りてくる娘に、母はニコリともせず、じっと短い足がジタバタと動くのを見ていた。母の前に立つ。緊張も寂しさも嬉しさもなかった。ただ、この人はいなくなるのだと受け入れた。捕まえた魚を川に返す。そんな気分だった。
「お母さん、もう行くの」
母が、一つ頷く。それから先は、何を言うべきか分からなかった。私はまだ幼く、世界のことを何も知らなかった。8年ともに暮らした人間と別れる時に言うべき言葉は、学校では教わらなかった。
私は太ももの上で手を握り、握り込まれたスカートの皺に視線を落としていた。だから、母の真っ白な、到底人間のものとは思えない手が伸びてくることにも気づかず、反応が僅かに遅れる。
私の髪を撫でる母の手。日に焼けて傷んだ父の赤茶の髪色とは違い、夜の海よりも真っ黒なこの髪色だけは、私と母が揃いで持って生まれたものだ。
「……ごめんね」
その真意を、私は知らない。だから「いいよ」と言って許すことはできなかった。それが最後になるかもしれないと思っても、許して送り出すことはできなかった。だって、私はあまりにも母のことを知らなかったから。だから、どうしてそんな顔をしているのか分からなかった。母が、私の母親になれなかった理由を理解するのは難しかったのだ。
さようならの言葉もなく、車は滑るようにして商店街の道を進み始めた。それはどんどん遠ざかってゆく。
商店街全体を覆う透けた青色の天井は劣化で曇り、道にぼやけた影を落としている。それが海底から空を見上げた時のように見えた。その中を進むあの黒い影は、さながら魚の群れだ。皆が同じ方を向き、一心に泳ぎ進める。その時、幼かった私は、母であったあの人は、ようやく水の中に帰れたのだと思った。
嵐の日には、決して海に近づくなと言われている。
父にも、祖母にも、幼馴染にも、先生にも。誰も彼も同じことを言うのは、海とともに生きるこの街の人にとって、海難事故が遠からぬものであり、最も痛ましいものであるからだった。
小学校の頃、私も一人、クラスメイトを海に取られた。夏休み明け、一つの空席。机の上には質素な花瓶に花が一本刺さっていて、それはしばらくの間そこにあった。それを見るたびに、その席が埋まらないという恐怖が私たちのクラスを取り巻いていたことを、強く強く覚えている。
誰がではない。海が私を誘うのだ。今日がいいよ、今日おいで、と。
荒い波が岸へ打ち付ける音に引き付けられるようにして、私は学校から家への電車を途中で降り、【遊泳禁止】の看板の横を通って海を見に行った。
灰色の海は、いつもの美しさとはかけ離れ、ただ自然の厳しさをむき出しにしている。私が少しでも気を抜けば、それはいつでも私の全身を食らうだろう。私は踏ん張る足に力を入れて、荒れる波と風を目の当たりにした。
私を誘うだけあって、そういう日の海はいいものなのだ。何者も寄せ付けない。だからかえって平等だった。いつまでも、誰にも平等な海の前で強い風に立ち向かっていたかった。でも、長い時間はいられない。いたくても、こういう日には地域の見回りが頻繁に行われていて、海へ近づこうとする愚か者を陸へ帰すように決められている。「ダメよ」と声をかけられたことは、一度や二度ではない。「もう次はないよ」と、父にも言われている。私は誰かに見つかるわけにはいかなかった。
同じ看板の横を抜けて、再び電車に乗る。今日の夜から雨が降り始めるだろう。屋上に並んだ鉢植えは中にしまった方がいいかもしれない。電車の揺れに身を預けながら考える。父は、そういうことには気の回らない人だ。私がやらなければ、大切に育ててきた小さな花たちは無惨な生ゴミになってしまう。食事の用意をする前にやることを順に頭の中でリストアップすれば、最寄駅にはあっという間に到着した。
駅から歩いて3分の商店街が、私の家だ。
より正確に言えば、その商店街の中にある、魚屋の入った3階建のビルが私の家だった。1階が父の魚屋。2階が空室。3階が父と私の居室。屋上には申し訳程度の柵があり、趣味の鉢植えが並んでいる他はほとんど物置になっている。
生まれて18年、ずっとここに住んでいる。母と別れたのもこのビルの前で、母が煙草を吸っていたのは3階のベランダだ。母はもたれれば壊れる柵のことを知っていたのか、滅多に屋上には近づかなかった。
商店街の人はみんなが家族のようで、生まれた時から私を知っているおばちゃんたちは見かけるたびに、悪天候などものともしないとびきりの笑顔で挨拶をくれる。おじちゃんたちは「みんなで守るんだ」を合言葉にするような人たちで、手を振ればいつも決まって「元気で何より」と言ってくれる。私は、母親以外の人間には恵まれていたと思う。
商店街入ってすぐの八百屋のおばちゃんに「天気悪いね」と話しかけられ、「海も大荒れ」と返したら、その隣の肉屋のおじちゃんから「また行ったのか」と叱られる。それでも笑って「ごめんなさい」と言えば、「ダメだって言ってるのに」なんて困った顔で温かいコロッケをふたつくれるんだから、大概おじちゃんも私に甘い。
「啓治さんなら、さっきトラックで出たよ」
「うん、わかった。ありがと」
啓治さんと呼ばれ、みんなから親しまれる魚屋が私の父だ。私の唯一の肉親で、世界で一番大好きな人。
早くに亡くなった祖父の跡を継ぎ、24でビルの所有権と魚屋店主の地位を得た父は、若い頃からがむしゃらに働き信頼を得た。今では高齢化が進む商店街の息子的な存在だ。力仕事に人手が足りなければ飛んでいき、おじちゃんとおばちゃんの代わりにトラックで魚以外のものも運んでいる。私は、そんな父が誇らしかった。
そうでなければ、一人ぼっちで家にいる寂しさに十何年も平気な顔で耐えることはできなかったと思う。父はヒーローだ。私だけじゃない。ここに住むいろんな人たちを救って回るヒーローなのだ。
……だから余計に。
余計に、分からなくなる。どうしてヒーローは、あの人から水という空気を取り上げてまで、そばに置いたのか。あの人とどうしても家族になりたがった父の気持ちだけは、幾つになっても理解できないままだった。
嵐の日には、家の中はいっそうがらんとして空虚な感じがする。階段を上がり、立て付けの悪い扉を開けばカーテンも閉め切られた室内は真っ暗でまるで夜のようだった。照明のスイッチのすぐ下に鞄を置き、カーテンを開く。窓の外に濃いグレーの重たい雲が広がっていて、陰鬱な気持ちを増幅させる。誰にも聞かれないのをいいことに、大きなため息を吐き出して、私は制服を洗濯カゴに脱ぎ入れた。
やらなければいけないことならいくつかある。
筆頭は食事の用意だ。父が家に戻るのはだいたい夜の7時過ぎ。それからお風呂に入って汗を流し、ちゃぶ台の前に座るのが8時少し前。それまでにはちゃぶ台の上に食事が並んでいなくてはいけない。これは時間が決まっている。
他に、洗濯と朝使ったお皿を洗うのは私の仕事。お風呂掃除と、夕飯の後の皿洗いは父の役割だ。お風呂は朝に、父が洗っていく。帰ってくる時間によってお風呂に入る時間がまちまちな事情もあって、父の仕事になった。
毎日やることに加えて、こういう天気の悪い日には家のものがどこかに飛ばされないように家の中に仕舞うのも私の仕事だ。というか、父はそこまで気が回らないし、何か失くなったところで気付きもしないだろう。生来、いろいろなことに執着の薄い人に見える。父がその人生で失いたくないと願ったのは、おそらく、母と私だけだった。一つは努力実らず失ったけれど。
吹き付ける雨風で濡れてもいいように、制服から部屋着に着替え、屋上に上がる。
1階から続く階段を上がり続けた最上階が屋上だ。そこで一度だけバーベキューをしたことがある。父と二人、魚屋なので焼いたのは魚と貝とエビだけで、私の想像するバーベキューとは少し違った。でも、それが少し違うと思ったことは、満足そうな父には言い出せなかった。
屋上に出て、並んだ鉢植えを一つずつ屋根のついた階段の方へ仕舞っていく。植物を育てることに実用的な理由はなかったが、水を与えて肥料をやれば花と実をつける素直さが単に気に入っていた。
一つずつ、と言っても大した数があるわけではない。作業自体はすぐに終わる。弱い雨が降っている。風は強く、じきに雨も強まるだろう。海はまた荒れる。ビルの屋上からは、地形的にちょうど海が見えないのだ。柵に一歩だけ近づく。壊れやすいから普段はあまり近づかないが、こういう日に限って、なぜか危ないことばかり魅力的に見える。
雨に混じる潮の匂い。波の音も、黒ずんだ濁り水の影も届かない。ただそこに、その方角の先に海があることだけは知っている。
もう一歩だけ。まだ大丈夫。住みなれた家だ、落ちるほどじゃない。雨もまだ弱い。私を手招く海の声は、姿かたちが見えなくても関係なく存在している。戻っておいで。そう言って私を呼んでいる。早く。早く来なよ、と。
それは突然だった。曇り空を引き裂く雷。それは雷と共に、その場所へ現れた。
勢いよく扉の開く音がして、そのすぐ後に誰かが私を引き止める。どこにも行けない,
柵に囲われた屋上の上で、その声の主は、私に「待って」と少し大きな声で言った。……男の人だ。まだ若い。歳は私と近そうだった。肩で息をしながら、大きな手のひらを私に見せて、荒い息の合間に「なあ」と「考え直して」を繰り返す。仕草だけ見れば、飼い主が犬の躾をする時のようだった。
何か、勘違いをしている。彼のただならぬ様子から、そのことにはすぐに気が付く。
「あの、」
「——考え直してくれました?」
嵐の前触れになる雷が、私の眼前に現れる。長い睫毛と真っ直ぐ通った鼻梁。垂れていながら意志の強そうな瞳が印象的だった。
持っていた鞄が肩からずり下がっていることも意に介さず、私に対して必死そうな彼が、自分の考え違いを寸分も疑わないことがおかしい。思わず笑いを零すと、彼が露骨に安堵の表情を浮かべるから、これも‘そう’捉えるのかと、おかしみを超えて驚いた。
「死にたそうだった?」
「え」
「死にたそうに見えたの?」
「……あ。あー……」
近づこうとした柵から離れる。一歩、もう一歩。屋上の入り口で、アチャーと気まずい顔で首の裏をかく彼は、近づくとすごく背が高いことに気づく。背の高い人間には、育ちの関係上慣れていたが、そうは言っても大きいものは大きい。おまけに、私に知っている限り最も背の高い男とは違い、彼の場合は縦にすらりと長く、程よい筋肉のつき方はまるでモデルだ。
肩からずり下がる鞄にチラリと視線をやる。そして、やっぱりと顔には出さずに納得する。彼を知っているか否かでいえば知らないと即答するが、見たことがあるか否かと言われれば、迷ってあると答える気がする。鞄に、RYONANの文字が見えれば尚更だ。
「勘違いっスカ、俺の」
「うん」
「うわ、ダセー。すんません、急に驚かせて」
その人は、私を止めに来たのだ。私が陰鬱な天気に煽られ、思い余ってビルから飛び降りようとしていると盛大に勘違いして。
彼はよほど慌ててきたのか、呼吸はまだ落ち着かなかったし、靴は片方を脱げかかって踵を踏んでいた。私に勘違いを指摘されると恥ずかしそうにしていたが、その表情には確かに安堵が滲んでいる。死のうとしているんじゃなくてよかった。そういう顔だった。
「よく気づいたね」
「雨止まねーなって上見てたらタマタマ」
「下から屋上なんて見えたっけ」
「いや、ここじゃなくて。あの辺から」
彼が私の横に並んで指差したのは駅前から商店街へ続く道の途中だ。確かにそこなら角度の都合でここが見える。しかし、思ったよりも離れた場所から飛んできたことを知れば、彼の瞬発力にまた驚かされる。いかにもスポーツマンといういでたちの彼だからこそ出来た芸当だ。もし立場が逆で、ここに立った人間が本当に自殺志願者だった場合、私は間に合わない自信がある。
「てか、ここ家? すんません、勝手に入りました」
「そう、家。本当はダメだけど、でも、ありがとう」
「なんで礼なんか、」
「私がもし本当に死のうとしている人間だったら、あなたを見て、思いとどまったと思う」
何を言っているんだ。彼の顔にそう書いてある。私はその顔に向かって、もう一度「ありがとう」を投げかける。死にたいわけじゃなかった。死のうと思ったこともなかった。そういうつもりでここに上がったわけじゃない。ただ、私は強風から鉢植えを守りたかっただけだ。
でも、その様子を勘違いして、それを止めようとした人がいる。大きな声と大きな手で私を引き止め、ここに繋ぎ止めようとした人がいた。その事実に感謝くらいはするべきなのだと思う。心配、してくれてありがとう。単純にそういう意味だった。
「……どーいたしまして?」
「あは 何それ」
「いや。俺にもさっぱり」
また、遠くで雷が鳴る。雨脚は強くなりつつある。
私たちはそこまで話してようやく今が嵐の只中であることを思い出し、屋根のある階段の方へ入る。礼をする理由も義務もなかったが、気をつけてと言い添えて傘を貸した。こんな日に傘も持って出ないのに、人を助けようとする不思議な彼に。
「ざっす」
商店街を覆う天井の青も、今日は空の色に濁っている。それは全体に暗い影を落とし、薄灰色の道がやっぱり海のように見える。その中を傘をさして歩く男。天井のおかげで雨が降り落ちてこないことは承知だろうに。
海は広い。父とも母とも違う、ああいう変わった魚もいるのだろうかと、その時ふと考えた。