彼は、バスタブとベッドの上でだけ、私にアイシテルと言った。今になって思うと、あれは嘘で、彼の存在は幻で、時折繰り返される走馬灯のようなこの景色は全部私の脳みそが作り出した都合のいい夢なんじゃないかと疑いたくなるような時間だった。
「クロロ=ルシルフル」
初めて聞いた時、口の中でつっかえたその名前を、彼は私にくれた。本当か嘘かなんて今になっても分からない。一生分かるはずなのないことを、私は今でも知りたいと思っている。そうしていれば、一生ずっと彼と過ごした時間と彼がくれたあの甘美な名前を私は忘れられないでいられるから。もし、彼がそれを知ったなら彼は「惨めだな」と言うかもしれない。それでも、私は今でも彼に会いたいし、彼の名前を忘れないでいたいと思ってる。
彼は、私がお風呂から出て髪を乾かす前の姿が好きだとよく言った。化粧は落ちて、髪はボサボサで、安いソフトブラとパンツに透け透けのTシャツを着た私が好きだ、と。元々、彼の心を私が理解するのなんて地球が100回回ったって無理な話で、だから私は諦めて、彼の望むままでいた。クロロはシャワー上がりの私をベランダまで呼び寄せて、濡れてゴワゴワになった髪をあの綺麗な手で撫で付ける。先に髪を乾かしてきてもいいかと聞く私に、わざとらしく眉を下げて、もう少しだけと、おもちゃを前にした子供のようにせがむのだ。
「わかった」
私が頷けば、満足そうに笑みを浮かべて、ベランダの柵に肘をつきながら、私の髪が少しづつ冷えていくのを眺めていた。彼曰く、自分にしか見せない無防備な姿を見ると落ち着くらしい。自分は私にこれっぽっちも隙を見せなかったくせに、本当に自分勝手な男だった。彼のせいで私は何度風邪を引いたことか。それまで10年来熱を出していなかったような健康体が、2ヶ月に一度は風邪を引くようになったのだ。クロロのせいだと言う他あるまい。静かにドアを開けて、私がベッドで荒い息を吐いているのを見つけると、彼は眉を顰めて、風邪かと分かりきっていることを聞く。そしてそれに頷けば、「すまない」と泣きそうな顔をする。それを見ると、彼の死人のように冷たい手が私の額に触れると、私はどうしたって彼を許してしまうのだ。どうしたって、その青白い手を握り返して、熱に浮かされ、熱い言葉を吐いてしまうのだ。
ある晩も、彼は髪を濡らした私を隣に置いた。外の夜風は冷たかったけれど、彼と触れ合う左腕は燃えそうな程に熱かった。彼は時折思い出したように私の髪に触れた。そして、その格好は目に毒だと私のはみ出したブラ紐を引っ張りながら笑った。何もかも、思い出せばいつも心臓が潰れてしまいそうになる。
クロロの瞳は私たちの頭上に広がる宇宙のように真黒だった。私が横からじっとその手近な宇宙を覗き込んでいると、きっと気づいていただろう彼は、空に手を伸ばして、月が綺麗だと言う。確かに、彼の言葉通り、満月に満たない十三夜月は鮮やかに空を照らしていた。
「月が綺麗なのは、どうしてだと思う?」
私の言葉に、クロロは薄く笑みを浮かべて、少し考えるふりをした。そして、数秒経つと小首を傾げて、皆目見当もつかないと呟く。私はそのわざとらしい彼の小芝居がなかなか気に入っていた。
「昔、私たちが生まれるよりずっとずっと大昔、月の女神は人間の少年に恋をした。そして、月の女神は彼をそばに置いておくために、永遠の眠りと引き換えに永久の若さと美しさを彼に与えた、ふたりは夢の中でだけ愛を交わすことができた」
月は永遠に眠っているから、だから永遠に美しい。
「……それは、知らなかった」
「証明できない真実は信じられない?」
「まさか」
私はすごく悲しくなって、もう少しだけ彼の方に自分の体を寄せた。永遠の愛と引き換えに、愛する人の命を奪うことは正義か罪か。神がそれを許すのなら、それは正義だ。
「きみの言うことは全て信じている」
自分は、 私にこれっぽっちも信じさせようとはしないくせに、心の底から自分勝手な男だった。
「──嘘吐き」
それでも、嫌いになれない。私も貴方の命と引き換えに、永遠の愛をこの手にしたい。あの晩の私は酷く愚かだった。彼の黒々とした瞳、その月の光のように青ざめた頬に手を伸ばす。
「クロロの愛を頂戴」
私の手が彼に触れたと同時に、彼は私の言葉を消し去るように私の唇を飲み込んだ。
「全部きみのものだ」
息を吐くように嘘を吐く。身体中が熱くて熱くて仕方ない。きっと熱が出たんだとぼんやりと思った。サラサラと私の髪に触れる彼の手が、そのまま耳に触れて、彼はその耳に自分の唇を寄せた。
「風呂に入り直そうか」
冷えてしまったと彼はおどけて笑う。そうね、と言った私も同類。彼はバスタブの中では、素直にアイシテルと伝えてくれるのだ。
クロロは嘘吐き。私に、彼の全てなんてくれやしない。例えもし、今、彼がこの世界に生きていないとしても、彼の愛は私のものにはならない。彼は、私に、一緒に生を止めることを許してくれない。もうずっと、彼が居なくてなってずっと、この世界で息をする理由はないのに、私の脳みその中の彼が息を止めることを許してくれない。もう少しだけ。生きていたい、他でもない彼のために。どこかで生きているか、どこかで死んでいるかもしれないクロロの為に。だから今も、お風呂上がりに髪を乾かさないで月を見上げている。
ラブレターフロム地獄
企画サイト「救済措置」様に提出