湿っぽい熱気が身体に纏わりつく。もう夏が迫っているのだと気づいたのは、その年初めて「暑い」と口にした日のことだった。暑い。ついこの間まで雨が降り頻り、いい加減うんざりしていたと言うのに、今度は気温に苦しめられている。
夏休み前、一学期最後の試験を控え、校内にはどんよりとした空気が漂っていた。ただでさえ空気が悪いのに。そうは思いながらも、悪い空気の一端を自分も担っていることは自覚している。憂鬱だった。試験も、夏も。
友人と机を向かい合わせにして、試験範囲のテキストを埋める。提出期限にはまだ余裕があったが、今後のことを考えれば早いに越したことはない。放課後、家事以外に予定もないので、家で一人でやるか、学校で友人とやるかの違いだ。今日は誘われたので、学校に残った。誘ってくれた友人は、六月末の大会を最後に部活は引退し、いよいよ受験に本腰を入れるらしい。
ひたすらに数字と文字を記述し続けた手を止めて、ふと窓の外に目を落とす。窓際の席からは海が見えない代わりに校庭がよく見えた。授業中も、昼休憩の最中も、手持ち無沙汰にここからよく外を見ているので半ば癖になっているのだ。
「アンタさ、いいの? 見に行かなくて」
「なにを」
「バスケ部。今度の試合で全国決まるらしいよ」
なんでそんなこと訊くんだという疑問は今更で、このクラスの大半が私と魚住の関係を知っている。小学校ぶりに同じクラスになった時は驚いたが、話す機会が増えたのは良かった。「名前」「純ちゃん」と呼び合う男女を見て、当初、クラスメイトは「付き合っているのか」と騒いだが、仲のいい幼馴染なのだと訂正すればそれ以上に茶化されることはなかった。高校生は案外大人であって、それに助けられている。
「いや、純ちゃんは私を試合に呼ばないよ」
仲のいい幼馴染。間違いない。どちらもそう認めるだろう。
しかし、魚住は私を進んで試合に呼ぶことはなかった。バスケットボールを始めてから、何度か見に行くことはあったが、それも全て魚住の家族に誘われていったのだ。魚住の父と母に挟まれて、頑張れと声援を送った。どんなに広い会場でも、コートの中で誰よりも大きな彼を見つけるのは容易だった。試合になると決まって「良い目印だな」と笑ったのは、身長194センチの魚住の父である。
思うに、彼はあまり自分がバスケットをしていることを私に見られたくなかったのだろう。私があまり興味を示していないことは明白だったし、何より、中学時代までの魚住はバスケットがすごく上手いというわけでもなかった。コーチにもチームメイトにも「デカいのはいいけど」と言われていたのは、私でも聞いたことがある。
だから、なんとなく恥ずかしさがあったのだと思う。私にとっては彼は十二分にバスケットボールというスポーツが上手いような気がしたが、それも何も知らない素人目線の話である。試合後、彼に「お疲れ様」と言うことはあっても、褒めるようなことを言うことはなかった。私の言葉には何の説得力もないと知っていたからだ。
「魚住もそうだけど、違くてさ」
「ん?」
「仙道くん。仲良いじゃん」
「……あー、」
思い当たる節がないと言ったら嘘になる。頭の中にニコニコ笑う仙道の顔を思い浮かべて苦笑する。
部活動のことで魚住を訪ねて私のクラスへとやってくる仙道は、ついでのつもりか、私の名前も呼んで手招きをする。少し話して、すぐに別れるが、クラスの目がその度に廊下の方へ向けられているのは気づいていた。どこにいても目立つ男なのだ。学校中の女子から人気もある。それなのに、未だ誰と付き合うだとかそういう話が出ないから、余計にみんながソワソワしている。
その中で、私とよく話しているのを知っているから、今、そんなことを言うのだろう。気持ちは分かる。逆だったら、どうだろう。私も同じことを聞いたかも。
「割と話すけど、でも、試合とかわざわざ見に行ったりするような仲ではないよ」
「誘われない?」
「うん、全然」
廊下で、屋上で。時々会う最寄りの駅で。彼はいつも笑って挨拶をしてくれるけど、一度も試合の話になったことはない。当然だ。私たちはただ同じ高校に通う先輩と後輩だから。誘う義理も誘われる所以もない。そのことを私は少し寂しいと思うけど、でも、仙道はきっと思わないだろう。
6月の終わり。まさにその日だった。「今日が純の最後の試合になるかもしれない」と言ったのは魚住の母で、私を体育館へ誘いに来てくれた。予定はなかった。行ってもいい。でも。先週のクラスで、「週末試合だってね」と言った私に、魚住は「ああ」と言うだけだった。がんばれもその時に伝えてしまっていた。彼はまだ、私にバスケットは見られたくないままだろうか。確認すらしていない。
「私はいいよ。ありがとう、おばちゃん」
迷って、結局断った。父は「行けばいいのに」と言ったが、彼らも彼らなりに思うことがあるだろう。何も知らない部外者が特別なシーンだけを覗き見るのは忍びない。家に残り、店の手伝いを少しして、午後から図書館に行った。試験勉強の道具をカバンに背負い込んで、図書館の窓際の席に座って、今、コートで必死に戦う彼らのことを考える。
勝てればいい。勝って、念願だった全国の舞台へ。
大会に出る者が皆、そう願う。枠は確か二つ。昨日の試合で海南大附属が全国を決めていて、残りはもうひと枠だ。勝負事とはまるで無縁な場所で生きてきたせいか、それが一体どういうもので、どんな思いで戦うのか、ありきたりな想像力しか働かない。どれだけの重圧の中で、彼らはバスケットをするのだろうか。持ちうる限りの時間を費やしてまで目指す場所は、どれだけ価値があるのだろう。
その何もかもが分からないけれど、ゴールを前にした幼馴染の大きな背中や、伸びやかな仙道の手足などは、きっと綺麗でいいものなんだろうなと思った。
雨の日の海はいい。
海が、私を誘っている。近いせいか、一段と誘う声が大きい。早くおいでと言われて気持ちは揺らぐが、今ここで海に寄ったらカバンの中の教科書類まで全部ダメにしてしまう。それはダメだ。
海から目を離しかけたその時、視界の端に見慣れたジャージの男子を見る。うんと高い身長に後ろからでも目立つ髪型。大きなカバンも彼が背負うと妙に軽そうに見えるのがいつも不思議だった。試しに持たせてと言った時には驚くくらい重かったのに。
その背中。Tシャツの上から分かる背骨の窪みが、微かに動く。ジャージのポケットに突っ込んで一歩たりとも動かない。周りにチームメイトの姿はなく、雨の降り頻る中、海で黄昏ているその様を見れば、今日の試合の結果は自ずと知れてしまう。
「仙道くん」
ハッとして、踵を返す。通り過ぎた階段まで戻って、砂浜へ降りた。気に入りのローファーに砂が入るのも気にならない。ぐちゃぐちゃになって歩きにくい砂を踏みしめながら、その背中へ近づいていく。ドキドキした。なぜか少し焦っていた。何というわけでもなかったが、早くしなければとは思っていた。
「仙道くん」
もう一度、名前を呼ぶ。今度は届いた。彼がゆっくりと振り返る。
垂れた目を丸くして、彼が私の名前を呼ぶ。心臓の鼓動は速まって、今にも私の骨と皮膚を突き破ってしまいそうな程だった。
どうして。彼の口が動いた。雨で声はかき消される。
「あそこ通ってたらたまたま見かけた」
嘘ではない。でも、彼が聞きたかったのは、そのどうしてではなかったのかも。雨の日に傘も持っていないくせして、なぜここへ降りてきたのか。仙道はそれを聞いている。
「雨、すごいね」
「……からだ冷やしますよ」
濡れてべたりとした仙道の髪のように、彼の心も萎れているのだろうか。
仙道の目の前まで近づき、彼の手を取る。この前触れた手は燃えるように熱かったのに、今は水に突っ込んだように冷えている。これはいけないと直感で理解する。
「仙道くんの方が冷えてる」
手を取ったまま、行こう、と引いた。仙道は大人しくそれに従う。
こういう時には得てして一人になりたくなる。だから、ここに来たのだろう。雨の中、海へ近づく愚か者は、この町には私を除いて他にいないから。
しかし、一人になるのも黄昏るのも落ち込むのも、このままではダメだ。負けて落ち込んで、雨の中立っていたら風邪引きました、なんて私だったら許さない。きっと魚住も、田岡先生だって同じはず。
雨の中、なるべく早足で歩く。仙道は何も言わずに着いてきた。本当に言葉の一つも漏らさなかった。私の心臓は相変わらず早くて、私にだけはその音が大きく響いていて恥ずかしい。恥ずかしいし後先のことなんか何も考えていなかったけど、でも、握ったまんま離れていかない手の冷たさに、ただ焦らされていた。
「入って。今、拭くもの持ってくる」
狭い玄関に仙道を残し、廊下に濡れた靴下で足跡を残しながら洗面所へ向かった。靴下を脱いで、私も父も使っていないバスタオルと一番手前にあったフェイスタオルを取る。小さいタオルは自分用に、大きめのバスタオルを仙道に渡せば、彼は受け取って、そのままそこに立ち尽くす。受け取っただけだった。垂れ下がった髪から滴る雫は玄関に小さな水溜まりを作っていたけれど、彼は拭こうともしなかった。
「仙道くん」
「……ごめん、俺、スッゲー濡れてんね」
「うん。貸して」
仙道の手からバスタオルを取って彼の髪から拭っていく。されるがままでそこにいる仙道は、私よりはるかに高い位置に頭があって背伸びしないと届かない。
ちょっと屈んで、と言ってみる。自分でやりますとは言わず、大人しく腰を屈めてくる。誰だって、そういう時の一つや二つあるだろう。私は「ありがとう」と言って彼の髪を拭いた。拭いても拭いても濡れている。私だって同じ濡れ鼠だ。髪から雨が垂れている。でも、廊下は後で拭けばいい。今は、彼のことだけ考える。
「乾かさないと風邪引くよ」
「はい」
「お風呂、溜まってないけどシャワーだけでも浴びていく?」
「いや、流石にそこまでは」
「じゃあちゃんと拭かないと」
髪を拭いて、耳の後ろも、頬も拭いてあげる。首も拭こうと後ろに手を回したら、キスでもするみたいに顔を近づけてくるから、形のいい額を軽く小突いて押し返す。「ちぇ」と言った顔は、いつも通りにほど近い。そっと、目の前の男に悟られないように安堵する。
「上だけでも着替えれば。お父さんの服貸すよ」
「ん。自分の替えが多分あります」
「そっか。じゃあ私あっちにいるから着替えてね」
彼からバスタオルを受け取って、洗面所へ。自分の髪も拭いた。彼にしてあげた三分の一にも満たない丁寧さで自分の雨粒を払う。タオルと濡れた服はまとめて洗濯機に放り込んで、適当に引っ張り出したTシャツに袖を通す。下に履いていたスカートは濡れたままで、すぐにお風呂に入るからいいだろうとそのまま玄関へ戻った。
「着替えた?」
「はい。ありがとうございました」
「帰ったらすぐお風呂入ってね」
ゆっくり暖かいお風呂に入って、冷えた体を温めれば少しは気分も晴れるだろう。そうしたら涙も出るかも知れない。いや、今日、体育館で彼は泣いたのかもしれないけど、それを私は知らないから。だから、今、あの砂浜で雨に打たれても彼が頑なに泣かなかったことしか知らない。
「今日、家族はいないの?」
「車なかったら外行ってるよ、多分」
店の横に停められているトラックがなかった。今日の夜はいないと言っていなかったから、じきに帰ってくるだろう。それが今ではないだけで。
「じゃあ、ちょっとだけこっち来て」
何が‘じゃあ’なんだろうと思った。思ったところで断ろうとまでは思わず、彼の目の前まで足をすすめる。珍しく固くなった顔に無理やり笑みを浮かべて、仙道が眉尻を下げる。控えめな動きで手を取られた。それはまだ冷たい。でもさっきよりは幾らかマシになっている。
触っていい?と彼が聞く。
手を握ることは、触るに入らないんだなと思いながら、いいよと言った。
手が離れて、それが私を彼の方へ引き寄せる。触れるって、そういうね。緩やかに迫る引力に身を預けて、彼の腕の中に収まった。頬の着いた先は彼の胸元で、すぐ向こう側に心臓がある。静かに生を刻むその心は、今、何を思うのだろう。
「濡れるかも」
「……いいよ。私も濡れてる」
「名前さん、いいよしか言わねぇな」
笑ったのか、呆れたのか分からない。軽い口調で、仙道が溢す。確かに、仙道にはいいよとしか言ったことがない。断られるようなことを言ってこないのは仙道の方だけど。
「ねえ、誰にでもこんなことするの」
敬語はすっかり抜け落ちて、言葉に恐れと呆れと焦りを混ぜたような曖昧なものが混じっている。
こんなことって。例えば雨の日に見つけて家に連れてきたり、濡れた髪を拭いてあげたり、黙って抱きしめられたりすること? まさか。
「しないって、言って」
「しないよ」
「マジで、誰にもしないで」
「……うん」
抱きしめられて心臓は壊れそうに鳴っていて、腕の触れる背中は熱かった。仙道が私の肩に顔を埋める。恋人でもないのに、誰よりも近いところに仙道がいる。おかしなことだ。でも振り払えないし、やっぱりダメだよとは言えない。彼の背中に、腕を回してあげることもできないまま、ただ彼の好きなようにさせていた。
「負けました」
小さく息を吸い込んだ。仙道の凛とした声から奥深くにある感情は読み取れない。予感した不吉な何かが、今、可視化されて突きつけられる。
陵南バスケット部は負けたのだ。全国への道は断たれた。それは紛れもない現実である。仙道は敗れ、魚住の夏は終わった。いや、魚住のバスケットボールが終わったのだ。
今日、図書館の一角で思いを馳せた。彼らが目指すものの価値は、やっぱり私には分からない。そこに行ったら何があるのか。何が変わるのか。それは今でも分からないけれど、魚住や仙道が、弛まぬ努力をする人の頑張りが報われて欲しかった。傍観者であり、他人である私が願ってあげられるのは、それだけだったから。
「そっか」
「すいません」
「私に謝ることなんてないでしょ」
「そうっすね。でも、魚住さんたちと、全国行きたかったな」
「うん、……うん」
左手で、彼の髪に触れる。小さな手じゃ何の慰めにもならないけれど、お疲れ様、と言ってそれを撫でた。濡れていて、少し硬い。自分のものとは全然違った。初めて触れた仙道はどこもかしこも冷たいのに、彼に触れられた私はどこもかしこも熱くなって仕方ない。
今、彼に触れる手も、熱くて、溶けてしまいそうなほどだった。
仙道がははっと笑って、小さな声で「泣きそー」とつぶやく。そんなこと言って、泣かないくせに。言わない。言わなかったけど、泣きたい時に泣けない人間の顔を私は知っている。そういう人は、私の肩に埋まって見えない仙道と、同じ顔をするのだ。
二人して沈黙して何分か経った時、車のエンジン音が近づいて、それが家の下に止まる。父が帰ってきたのだ。私が気づいたのと同じタイミングで、仙道もそれに気づいたのか顔を上げる。仙道がゆっくりと私を解放する。何時間もそうしていたわけでもないのに、離れるのは名残惜しくて、でも改めて向かい合った仙道のことを直視できない。
「帰ってきましたね」
「ん。お父さんだよ」
「じゃ、俺、そろそろ帰ります」
「傘、持って行って。まだ降ってると思うから」
また、彼に傘を貸す。返さなくてもよかったけれど、それを言わなければ彼が律儀に返しにくることは知っていたから言わなかった。
私の浅ましさなど見通したような顔で、仙道が「はい」とそれを受け取った。色々ありがとうございました、と言った彼の顔は、心なしかスッキリしている。
「風邪引かないでね」
ドアノブに手をかけた仙道にそう言った。仙道は小さく笑った後で、「名前さんも」と言った。彼が出て行った後の玄関は、先ほどまでの十数分が嘘のように広く感じる。がらんとして、物寂しい。いつも通りのはずなのに。仙道の匂いと冷たさが、そこに残っているのだ。
「——名前?」「おかえり、お父さん」
「今、男の子と会ったけど来てたのか」
「たまたま会って濡れてたから傘とタオル貸しただけだよ」
「そうか、背高かったなあ」
バスケットボールしてるんだとか、魚住の後輩だとか、言うべきことはたくさんあったけど、どれも言わずに「そうだね」とだけ返した。それで終わりだ。今日は終わり。ずっと長い時間走り続けた後みたいに、心臓がオーバーヒートしかけている。だから仙道彰という男のことを考えて、思って、疲弊するのは、今日はもう終わりにしたかった。