彼女の指先から揺れながら昇ってゆく煙を見て、「意外だ」と「似合う」が同時に浮かんだ。汚いものなど触れたことのなさそうな真っ白な指先に、煙草が、アンバランスながら馴染んでいるように見えた。
その、林檎のように真っ赤な唇を齧ったら、甘いのではなく苦いらしいのだ。
わりかしどうでもいいことに興奮してしまうのは、男の悲しき性分である。水戸が小さく零した自嘲のような苦笑いを、彼女は見逃さなかった。

「……意外だって思ってるんでしょう」

不貞腐れたように。けれど言われ慣れた様子で、彼女が水戸を可愛らしく睨む。
水戸は、今まさに心の中にあったことはそれではなかったが、彼女がそう思うのも、水戸がそう思ったのもあながち間違いではなかったので、少し間をおいて「はい」と答えた。

「よく言われるよ」
「いつから」
「大学生のとき。ほら、悪い先輩に憧れちゃって」

「ああ、……ね」と理解を示しながら、奥歯を少しだけ強く噛む。
誰しも行動にはキッカケがある。それがマジョリティーでないなら尚更だ。春を常に纏っているような彼女が、煙草なんて対極の代物に手をつけるなら、それなりのキッカケがあったはず。
『悪い先輩に憧れちゃって』。
よくある話だ。しかし、だから良いって訳じゃない。

「私にすれば、水戸くんが喫煙者じゃない方がびっくりなんだけど?」
「ああ、昔は吸ってましたよ」

昔と言って誤魔化したのは、自分が煙草を吸っていた頃は、それを許される年齢ではなかったという後ろめたさからだった。
さほど昔でもないのに、彼女から漂う煙草の匂いの中にあると、随分と長いことそれから離れていたような感覚に陥る。いや。そう言っても、3年ほどだが。

「辞めたの? 禁煙するには若過ぎない?」
「いや、ツレがスポーツやるっていうんで、そいつの前で吸わないようにしてたら、自然に」

煙草は、別に絶対ではなかった。
ただ、喧嘩と馬鹿やることに明け暮れたあの頃、ほんの手遊びのように手を出しただけ。代わりがあれば、手放すことはそう難しいことではなかった。

水戸が言葉を選びながらそう言うと、彼女はポーッと水戸の黒い目を見つめた。そして徐にまだ半分あった煙草を、灰皿に押し付ける。ついさっき「意外だ」と思ったばかりなのに、煙草を持たない彼女の指先はがらんどうに見えた。

「……偉いね」
「いや、そういうんじゃないっすよ」
「ううん。自分の行動を、ひとのために変えられるのはすごいことだよ」

彼女の、林檎のような唇が曲がる。ひらがなの「へ」に近い形になった。それが示す感情を、水戸は図りかねていた。何か、言葉を与えるとしたら「悔しそう」にあたる。それは、何をもって、彼女にそんな顔をさせているのか。

「うらやましーって思っちゃった」
「え?」
「ほら。ここまで来るとキッカケないと辞められないし。早死にしたいわけでもないしさ」

彼女が、煙草ケースを揺らせば、中に入った数本が動いてカラカラ鳴った。
どうしようね。まるで委ねるみたいに、いや。試すみたいに彼女は水戸に話しかけた。どんな答えを期待しているか、考える。
別に彼女が喫煙者だって構わないけれど、「長生き」という言葉だけを拾うなら、答えは一つだ。

「じゃあ、やめてくださいよ」
「でもなあ」
「俺を、理由にしていいんで」

『していい』のではなく、『してほしい』の間違いだけど。
でもそれは今、指摘しないでほしい。バレたら最高にカッコ悪いから。

「俺とここで会った時は、煙草やめましょ。そうやって減らせば、いつか辞めれますよ」

この人の、キッカケになりたかった。それは、彼女の健康を気遣ってだとか、彼女の子供用のハードルみたいな試練に挑んだ結果とか、そういうのとは何も関係ない。ただ、この人の行動を左右する何かでありたいという、自分の欲だ。

「……だめ?」
「……ううん。良いけど」
「良いけど。なんです?」
「あー……なんかさ。たまに、……本当にたまにだけど、水戸くんのことが、世界で一番カッコ良く見える」

彼女の突飛な発言に、堪らず狼狽えたのは自分。
何を画策しても、結局行動を左右されているのは自分ばっかりで嫌になる。それでも、精一杯取り繕って、涼しい顔で「よっしゃ」なんて笑って見せれば、彼女はまた拗ねた顔をした。膨らんだ林檎みたいなその唇は、今はまだ苦いだろう。