ここにいます、とシンプルなメッセージと共に店のURLが送られて来たのは、もう2時間以上も前のことだった。それに漸く既読をつけて、急いで車に飛び乗る。ラストオーダーギリギリに店に飛び込めば、夜景の見える窓側の席に、一人、彼女が座っていた。
「すまない、遅くなってしまった」
彼女が目を丸くする。ついでに言えば、店員ですら「やっと来たのか」という表情をしていた。確かに女性が待ち合わせだと言って2時間以上も一人でいたらすっぽかされたと思う方が自然だ。彼女に恥をかかせたことに対して、もう一度「ごめん」と言えば、名前は微笑いながら首を横に振った。
「来てくれただけで嬉しいです」
「待たせただろう。ご飯は?」
「頂きました。何も注文せずに待つわけにもいかなかったので」
「そうだな。僕も何かもらおう」
店員からメニューを受け取ると、一番大きな写真のハンバーグを指さして彼女が「これがおすすめです」と言った。そのままそれを注文する。外でハンバーグを食べるのは随分と久しぶりだ。かと言って、家で自炊するほどでもないけれど。
夜の20時49分。アルミホイルに包まれたハンバーグとアイスティーを注文する。彼女は2杯目のホットコーヒーを頼んでオーダーストップ。名前とこうしてゆっくりと向き合って食事をするのは、実に3ヶ月ぶりだ。そう言いながら、待ち合わせよりも2時間以上遅刻したわけだが。文句や愚痴の一つも言わない彼女に、あえて何か言ってくれと言うのも変な話で、結局いつも彼女の優しさに甘えている。――否、付け込んでいると言うべきか。
「実は昔このお店でアルバイトしてたんです」
「そうだったのか」
「はい。久しぶりに来てみたくなって。当時の店長やキッチンの人も誰もいないけど、懐かしいです」
彼女は、白いコーヒーカップを傾けながらそう言った。彼女の後ろには、大都会東京の夜景が広がっている。
いつもこの景色を見ながら楽しく働いていたのだと彼女は語った。白いブラウスに、グレーのパンツを履いた目の前の彼女を離れ、もっと幼い顔で、青いシャツにストライプのエプロンをつけた名前を想像してみる。一度も本物を見たこともないのに、それはまるで生きているように鮮明だった。熱々のハンバーグを口に頬張って、彼女の過去に思いを巡らせながら、彼女の表情が移り変わるのを見ている。それは確かに幸福な夜だった。
「あの頃は、今がこんな風だなんて想像もしてませんでした」
彼女の伏せられた睫毛、一つ一つに光の粒が宿る。何も手放したくないと思わせるような、でもだからこそ、彼女と一緒にいてはいけないような。そんな気持ちが不意に湧いてきて、どうしようもなく胸が痛んだ。
「それは警察に入ったこと? それとも、僕に出会ったこと?」
警察官になろうと思っていたわけではなかった。
ただ大学生になっても大してやりたいことも見つからず、大きな夢もなく就活期を迎え、どうせなら安定思考で公務員にでもなるかと思っただけの話。試験の勉強はあれこれしたけれど、結局警察庁しか合格が出なかった。だから行政職として警察庁に入った。本当にそんなつまらない理由だった。
冷蔵庫の一段目。警察官の制服を着て、桜の下で敬礼をしている写真。これは警察に入った時に母が撮影してくれたもの。その隣には、ポピーの花畑を見に行った時の写真。制服ではなく、黄色のスカートを履いている。これは、降谷さんが撮った写真だ。
公安警察である彼は、写真に自分の姿を残すことができない。いつどこで死ぬか分からない彼は、いついかなる時も自分が何者かという証を残してはいけないのだ。だから、スマートフォンのアルバムには、どこに行っても私一人の写真が増えていく。
『寂しくない』と言えば嘘になる。
本当は私も彼と並んで笑っている写真を残したい。いつどこで死んでしまうか分からないなら、いつ一人ぼっちになってもいいように彼の痕跡を残しておきたかった。
「――名前?」
「起こしました?」
「戻ってこないから心配になって」
彼のまっさらな肌が、薄い寝巻き越しの背中に触れる。それは、まだ蒸し暑さの残る晩夏の夜には不必要なほど熱かった。
彼が冷蔵庫の写真を指して、「いい写真だ」と言って笑った。自分で撮ったくせに。でも本当にいい写真だ。見る度に、これを撮った時の彼の顔を思い出すことができるから。
「綺麗でしたね」
「ああ」
「本当にちゃんと覚えてますか?」
「覚えてるさ。でもあの時は、花より君に夢中だったんだ」
「……またそんなこと言って」
綺麗だったよと言った彼に、どっちがと訊く勇気はなかった。でも愛されている自信はあった。だからそれでいいのだ。
たった5分ベッドに戻らないだけで心配になったと降谷さんは言う。じゃあ3ヶ月音沙汰のない彼を待ち続ける私はどうなるのだろう。心配もするし、寂しくもなる。でも今どこで何をしているのかと尋ねることは許されない。恋という熱から覚めて、正気に戻ったらどう感じるんだろう。それもまた恐ろしい。
「さっきレストランで、降谷さん、私に訊いたでしょ。想像していなかったのは、警察に入ったことか、それとも貴方に出会ったことかって」
「ああ」
「答えはどっちもハズレです」
「ハズレ?」
「そう、ハズレ。想像していなかったのは、貴方を心の底から愛したことです」
先のことは誰も知らない。だから私が何になっても、誰と出会ってもおかしくはない。
でも、あの頃、夜景を見ながら学生らしいデートに思いを馳せていた私は、こんな恋をすることになるなんて夢にも思わなかったはずだ。夜景を見ながらデートどころか、3か月に一度会えるかどうかも分からない恋人。いつ死ぬか分からず、私は彼が死んだかどうか知ることができるのかさえも分からない。
いろんなことが許されないのに、誰の許可もなく、なぜかひたすらに彼を愛していた。
「後悔は」
「逆にしてると思いますか?……こんな幸せそうに笑ってるのに」
私を強く抱きしめる腕にそっと触れる。この夜のことも、あの春の日も。いつ消えてしまうか分からないこそ、忘れられずにいられるのだ、と。私たちのこの恋を正当化するには都合がいい。
「あいしてる」
彼のその声で私は笑い、いつの日か私は泣くだろう。その覚悟はもう済んでいる。だから大丈夫。今は笑って、「私もよ」と言いながらキスをしよう。今晩のことを、もっと、もっと忘れられなくするために。