風呂から上がると、杉元さんが桶を持って歩いてくるところだった。彼もまたさっぱりとした顔をして、今お風呂から上がったばかりだとすぐに分かる。私たちは特に用事があった訳ではなかったけれど、どうにもその場ですぐに別れてしまうことを惜しんで、散歩へ出かけることにした。
宿のすぐ近くには海があって、ちょうど水平線に太陽の一部が重なりかけているような時間だった。今日もここまで歩き通しで、アシリパちゃんと白石くんは今頃部屋で大の字で寝ている頃だ。
私は湯上がりで浴衣のままだったので、杉元さんが自分の軍服をそっとかけてくれた。まだ冬ではないとはいえ、海の近くは風が強くてやや冷える。
「汗臭かったらごめんね」
「大丈夫。暖かいです」
彼は笑って「よかった」と言った。彼の顔の中央を走る大きな傷が歪む。そこに伸ばしたくなる手を、グッと堪えて結んだ。
私に彼を引き合わせたのは、他でもなく今頃爆睡しているであろう白石くんだった。私と彼はいわゆる情報屋同士の間柄で、彼は何かに困ると私の元へ来て、パチリと両手を合わせてアレそれを売ってくれと頼みにくるのだ。
あの日も彼は刺青の囚人の話で私の元へ来て、その時たまたま第七師団との抗争に巻き込まれた。その後はなし崩し的に、私は彼らと旅路を共にしている。私には情報屋としてのツテはあれど、軍人から身を守れる術はない。銃剣を向けられたらお終いだ。
「私、海って今まで見たことがなかったんです」
「……そうだったの?」
「ずっとあの町にいたから、あの町で死んでしまうと思ってたのに」
何もかもが不思議なことの連続だった。私は旭川の一角に暮らす根無草の情報屋。親も旦那もいない女が、一人で生きていくためには花街に身を売るほかはそれしかなかった。阿漕な連中に魂売って、それでも生きていられたらいいと思っていたのに。
生まれ、いずれそこで果てると思っていたおんぼろ長屋にはもう戻れない。
「後悔してない?」
杉元さんは、私が出会ってきた人の中で一番優しい人だった。そして一番強い人だった。たくさん戦場に行って、たくさんの敵に出会い、たくさんの傷を受けたけれど、そのどれもを跳ね除けて、彼は逞しく生きている。そして私に「一緒に行こう」と、その傷だらけの分厚い手を伸ばしてくれたのだ。
「全然。あんな町に未練はありませんよ」
私が努めて明るくそう言えば、彼が笑った。視線の先に陽が落ちる。もっとゆっくり時が進めばいいのにと願う。私の願いは、いつだって叶えられた試しがない。
思うに、私は不幸な女だった。
生まれてすぐに親に捨てられ、犬に齧られ、猫にどつかれ、馬に轢かれそうになりながら、泥水を啜って生きてきた。奉公先の主人には、親がいないからと苛められ、囲炉裏で負った火傷は今も背中に大きく残っている。お金がなくて盗みをしたこともある。字が読めなくて苦労もした。でも、どうしても生きていたかった。
生きるために、生きる術を学んだ。盲のじいさんから字を学び、寺の住職にはご飯を食べさせてもらった。「受けた恩を仇で返している」。そう言われたこともある。それでも、私は生きていたかったのだ。
「私実は、甘味処を開くのが夢だったんです」
「甘味処?」
「はい。昔、奉公していた先がそうで、ずっと手伝いもしていたし、これでも結構上手いんですよ」
「へえ。そいつはいい夢だ」
「だから金塊を見つけて、分け前をもらったら、そのお金で海の近くに甘味やを開きます」
無様に生に執着し、まるで当然のように夢を語る。自分の人生が惨めなことは自覚していたから、そう思っていないふりばかりが上手くなった。
杉元さんが振り返り、私に優しく微笑みかける。生き方に嘘がない。本当は、彼のような人間になりたかった。
「甘味やはいいけど、どうして海の近くに?」
「人が多いし、海は見ていれば落ち着くし、いいことはたくさんあるでしょう」
「……そっか」
「それに、こうやって杉元さんと海を見たことも、何回でも思い出せる」
驚いたのか、杉元さんは目を丸くしたまま固まった。
言わなければよかった。そんなどうしようもない後悔が脳裏を掠めて、咄嗟に「ごめんなさい」が口をつく。彼の事情は知っている。地元に一人残った親友の嫁さんのために。否、大好きだった人のために、目の手術代が必要なのだ。結局彼は、いつも人のためにばかり命を張っている。それが、ひどく悲しくて妬ましい。
「忘れていいよ」
困らせたいわけじゃないのと言えば、彼は黙って私の右手を取った。彼が掛けてくれた上着と同じ、温かい手だ。手が冷たい人は心が温かいのだと聞く。じゃあその逆は? 彼の心が冷え切っていないことを願ってみても、それもどうせ叶わない。
彼は私の手を握ったまま、五歩十歩。砂浜の上を何も言わずに進んだ。私は時折湿った砂に足を取られながらも、彼の手を頼りに、後をついて歩いた。そして宿が小さくなったところで、彼の足が止まる。その背中は少しだけ小さく見えた。
「名前ちゃん」
握ったまんま、宙ぶらりんと浮かんだ手と手を見つめてみる。いつか一人で海を見るとき、私はこの傷だらけの大きな手のことも、きっと思い出してしまうだろう。
「名前ちゃんは俺が守るから、俺より長生きしてよ」
杉元さんは軍帽を被り直しながら振り返って、そんなことを言った。目元はよく見えない。でも悲しそうな顔をしていたと思う。
私は彼のくれた言葉を噛み締めて、うんともすんとも言えなかった。彼は『不死身の杉元』だ。どんな死線もくぐり抜けて来たような彼が、私より先に死ぬなんて。そんな日は、夢の中でも来ないだろう。
私は、私の死に目を見送るような瞬間はとても想像できなくて、黙りこくっていたけれど、杉元さんが、あんまり切実な目で「ね?」と言うものだから、もうどうしようも無くなって、「わかった」と頷いた。
「杉元さんに守ってもらわなくてもいいように、危ない真似はしないよ」
「うん、ありがとう」
ただ、彼を安心させたかった。いつまで経っても誰かのために身を削るこの人を、せめて私だけは傷つけまい、と。彼のような、嘘のない生き方をしたかった。でも、今となっては誰よりも愛しいこの人のため、自分のちっぽけな願いなどひっくり返して笑ってみせる。
私と彼は手と手を結んで宿の方へと歩き出し、少し進んだところで、今度は私が彼を呼び止めた。
「最後にお願いがあるの」
私は彼の手を離し、代わりに両腕を鳥のように広げて立った。
「抱いて。今だけでいいの。強くね、忘れられないくらい強く」
杉元さんは、何も言わずに私を抱きしめてくれた。彼の軍帽が砂の上に落っこちて、それでも強く強く抱きしめてくれた。
海の風に混じって、杉元さんの匂いをすぐ近くに感じた。もう太陽は、頭の先まで水平線のしたに隠れてしまっている。早く帰らないと、二人が腹を減らして起きる頃合いだ。
「名前ちゃんも、……あったかいね」
その日、どうしても生きていたい理由がまた増えた。
だって最後はひとりになるから
▲「死に化粧」 20210627杉元佐一に続く