松田陣平は悩んでいた。無論、恋人である名前のことについて。目下、来週に控えた彼女の誕生日。プレゼントするものも決まらず、レストランすら予約していない。つまりプランがないのである。
しかし、思いがない訳ではなかった。どちらかというと、彼女が何を望んでいるのか分からないと言うのが本音だ。いつもニコニコと笑っている彼女が心の癒しであることに違いないが、彼女が何を心の癒しとしているのかは分からない。ダメな彼氏である。自覚はある。
欲しいものを聞けば、調理器具だの、美味しい食べ物だの、新しいキッチンマットだのもちろん買ってやるのはいいのだが、誕生日という記念すべき日に贈るにはいささか物足りないようなものばかりを候補に挙げる。彼女なりの気遣いなのかもしれなかったが、付き合い始めてからというもの、それが松田を苦しめてると言ってもいい。
「誕生日?」
「……ああ」
松田は不本意だった。でも致し方ない。
彼の周囲で一番女心というものに詳しいのは、幼馴染でもある萩原しかいなかった。恥を忍んでどういうものがいいかと訊いた。萩原は、あの松田が彼女へのプレゼントに苦心しているという事実に手を叩いて喜んだ。親友の恋ネタはどんどん聞いて揶揄いたい。今までの松田の恋が味気ないものばかりだったので尚更だ。
「そりゃあ、バッグとかネックレスとかが無難でしょ」
「それは去年と一昨年やった」
「じゃあキッチン周りは? 名前ちゃん必要じゃん」
「誕生日以外の日にもちょくちょくやってんだよ」
「あとは服とか」
「欲しいものは自分で買ってる」
「俺のアドバイス、聞く気ある?」
松田はやっぱりダメかと煙草の煙を吐き出した。いくら松田陣平とはいえ、それなりに人生を生きてきたのだからそれなりに恋人らしいことはできる。バッグもネックレスもピアスもこれまでにもう贈ってしまった。それを彼女が大切に使ってくれていることは知っている。だから余計に新しいものをとは思えない。お手上げだ。
「名前ちゃんならなんでも喜ぶっしょ」
「だから困ってんだよ」
「ああ、本当いい恋人だよなぁ。仕事にも理解あるし、飯も美味いし」
「絶対やらねえよ」
松田が萩原の頭を叩く。萩原はまだ運命の人と巡り会う気はないらしく、イケてる顔と巧みなトークスキルを活かして未だ合コン現役である。そんなことはさておき、無難に財布でも選ぶかと松田の心がやや折れかけたその時、萩原が名案だと言わんばかりの勢いで手を叩いた。
「なんだよ」
「手料理はどうよ」
「――はぁ?」
「ほらいつも料理は名前ちゃんに任せっきりだろ? だから誕生日くらい陣平ちゃんがなんか作ってあげれば喜ぶんじゃない?」
「料理なんかほとんどやったことねぇぞ」
「だから喜ぶんだってば」
そういうもんか? 松田が首を捻れば、萩原がそういうもんだと大きく頷く。松田は基本的に手料理とか手作りとかそういうものに価値を感じるタイプの人間ではなかった。バレンタインのチョコレートだって、大抵の女子は手作りより購入品の方が美味い。上手く作れるなら手作りすればいいし、作れないなら買えば済む話だ。そこに思いが込められているとしてもそういうものを汲み取ることが一番苦手なタチだった。ただ、名前の場合は彼女の手料理が一番美味しいので彼女の手料理が食べたいだけである。
さて、そんな男が誕生日にプロの料理人相手に料理を作る、と。黒歴史に刻むことになりそうだが、松田はこう見えて器用な男である。やろうと思えばできないこともない。ただやるチャンスがなかっただけだ。
早速、松田は仲の良いメンバーで一番料理に詳しい人間、――彼女を除けば諸伏しかない――に連絡を取り、最適なメニューを尋ねた。初心者かつ、記念日っぽい料理となればビーフシチューしかないということで、めでたく初めての手料理をプレゼントすることが決まったのである。
夜、22時。名前が店を閉めるとタイミングよく松田が店に入ってきた。普段であれば仕事から直接ここへ来るので黒のスーツを着ているが、今日はロンTにダウンと普段着。珍しいなと思いつつ、誕生日にも恋人に会えたことが嬉しくて素直に歓迎した。
「お疲れ様。ご飯にする?」
「いや、その前にちょっと外出ねぇか」
「この時間から?」
「つっても行き先は俺の家だが」
「陣平さんの家? いいけど、珍しいね」
名前は数えるほどしか行ったことのない松田の家を思い浮かべながら、頷いた。今日はそっちに泊まろうと誘われ、翌日は定休日なこともあって構わないが、ますます珍しいなと思う。大体お店の終わる時間に松田が来て、ご飯を食べてそのまま泊まってというのがお決まりの流れだ。松田の家より警視庁にアクセスがいいので自然にそうなる。
しかし、まあ何か考えがあるのだろうと素直に彼の車に乗る。行った数は少ないけれど、前回行った時にちょっとしたものは置いてきてある。持ち物は少なく済んだ。
「こんな時間だし、出前とかでもいいね。私、あんまり自分の料理以外食べないから」
「……そうだな」
ぐうぐうと鳴るお腹を恥ずかしいと思う時期も過ぎ、この人とならいつまでも一緒にいられると確信できるようになった今日この頃。ここがコナンの世界だと気づいた頃には想像もできなかった。名前は改めて時間の流れを実感する。数多の事件に巻き込まれたが、なんとか生き残って誕生日を迎えられたことは幸せなことだ。おまけに世界で一番素敵な恋人までいる。
「おじゃまします」
「ほらスリッパ。買っといた」
「あのね、陣平さん。これはスリッパじゃなくてルームシューズって言うの」
「同じだろ」
「違うよ……って、これ――」
見知ったリビング。違うのは綺麗に並べられたテーブルの上の食器と、キッチンに立つ恋人の姿。彼がコンロに火をつければ、部屋には美味しそうな匂いが広がってくる。俄には信じ難いが、これはどう考えても松田陣平の手料理だ。
「もしかして、」
「そ。アンタの誕生日だから慣れねぇことしてんだよ」
「これ、陣平さんが作ったの?」
「ああ。食えねえことはねえよ」
「嘘みたい……」
彼の手で綺麗に盛られたサラダに、素敵なお皿のビーフシチュー。立派なワインがテーブルの真ん中に置かれて、立派なディナーの完成だ。時間は夜23時を回っている。あと1時間も経たないうちに誕生日は終了だ。それでも名前は心底嬉しいと笑顔を見せる。彼が自分のために時間を割き、慣れないことに挑戦してくれた。料理を生業とする名前にとって、その時に彼が料理を選んでくれたことが嬉しかった。
「誕生日おめでとう。あと、いつも美味い飯をありがとな」
「こちらこそいつも美味しいって食べてくれてありがとう。今日もこんな素敵なプレゼントもらっちゃって、」
「返しきれねえんだよ。名前にもらってるもんに比べたら」
「そんなことないっていつも言ってるよ」
松田が、名前の両肩に手を置き引き寄せて額にキスを落とす。彼女の体によく染み付いた彼女の料理の匂いが好きだ。嬉しそうに目を細めるところも、謙虚なところも、いくつになっても照れ臭そうなところも。
「冷めないうちに食うか」
「うん。よく味わないとね」
「今度はアンタのビーフシチュー食わせてくれ」
「任せて」
きっと今日の感動を超えるものは作れないだろうけど。それでも日々募ってゆく思いの分も、彼への気持ちを込めてこれからも美味しいものを作ろうと名前は心に誓った。
「じゃあ、いただきます!」