※松田生存if
すれ違う人の煙草の香りに、ふと足を止める。振り向いてみても、そこに思い人の姿はない。違う、違うと分かっているのに、どうしてか、体が反応してしまうのは今でもまだ彼を恋しく思うことへの罪か。それとも。
「名前、何してんの? 知り合い?」
「……ううん。ごめん、行こう」
彼と別れたあの日から、もう3年が経っている。
理由のない恋だった。どういうわけで彼を好きになったのか、どれだけ考えても思い出せない。
でも、どうしようもなく彼が好きで、どこが好きかと言われたら、彼のくるりと曲がった髪の毛の先から、綺麗に磨かれた革靴の先端まで。彼の好きなとこをあるだけ言い連ねることができる。「そのくらい好きなのだ」と言えば、彼は決まって私を馬鹿にしたようにして笑い、人差し指で額を小突く。そんな小さなやりとりを愛おしく思う。あの頃の私たちの恋は、どこにでもある、ありふれた恋だったと思う。
時間はずっと続くと信じて疑わなかった。壊れずに動き続ける時計なんか存在しないように、時間には終わりがある。いつか針は止まり、もう二度と前に進むことはない。
私たちの時計が止まってしまったのは、3年前。冬の訪れを知らせる、冷たい風が吹き始めた頃だった。
いつものように食事をして、いつものように抱き締めあって、いつものようにキスをした。そして彼はいつものように、「別れよう」と言ったのだ。薄い笑みを浮かべ、私に『好きだ』と囁く時と同じ顔、同じ声で。
「どうして、突然そんなこと、」
「悪い」
「悪いって……」
「お前より大切なもんがある」
彼は、とても悲しそうな顔をしていた。その時の彼の表情を、私はそれまで一度だって見たことがなかった。彼は、私の髪を撫でながら、もう一度「悪いな」と言った。笑いながら、今にも泣きそうな顔をして。
「それは、萩原さんの事件のこと?」
彼の言う『私より大切なもの』に、心当たりがあった。
彼の親友の話だ。4年前の爆弾事件で殉職した、彼の幼馴染。心をふたつに分けた親友を殺した爆弾事件の犯人は、絶対に己の手で捕まえるのだと彼は言ったことがある。
私の問いに、彼はゆっくりと頷いた。
「今更そんなこと気にしてないよ。それに、警察官が恋人よりも平和を守るのは当たり前のことでしょ」
「でもだめなんだ」
「何がだめなの?」
「お前を悲しませるから」
だからだめなんだ、と彼は言った。そう言いながら、悲しそうな顔をしていたのはきっと彼の方だった。
私の髪を撫でる彼の手に自分の手を重ねてみても、彼は「冗談だ」とも「やっぱり別れない」とも言ってくれず、ただ添えるようにして、また『ごめん』と言った。
「今もこんなに悲しいのに、別れるのが正解なの?」
「大丈夫、すぐ忘れるさ」
「陣平も、すぐに忘れちゃうの?」
陣平は、うんともすんとも言わず。ただ、最後に私にそっとキスをした。覆ることのない彼の意思を前にして、私は何をすることもできずに、手を離してしまったのだ。
「あっ、この事件ようやく犯人捕まったんだ」
揺れるコーヒーの湯気から視線を上げれば、目の前に座っていた友人が私の背後を指差した。私の後ろ、喫茶店のテレビには夕方のニュースが流れている。【連続爆弾魔 とうとう逮捕へ】”円卓の騎士”を名乗る犯人が、今日ようやく逮捕されたのだとアナウンサーが伝えている。
「この事件って確か、名前の元彼が関わっていた事件じゃなかった?」
「……うん。そうだったかも」
彼が言った、『私より大切なもの』。それがこの事件の解決だった。良かったねと笑う友人に対して、うまく笑い返せているか自信がない。昼間、彼の同じ煙草に出会ったからか、それとも今日が彼と別れた日とよく似ているからか、何度も彼のことを思い出してしまう。
「ってことは、別れてもう3年か。名前もいい加減新しい恋人作りなよ」
「ん」
「いっつもそればっかり。本当に分かってんの?」
「分かってるって。心配してくれてるんでしょう、ありがとう」
“私を悲しませるから”と離れていった。彼と共にあることで得た悲しみは、この3年間で私が感じてきた悲しみよりもどのくらい多かったのだろう。その答えを誰からも得られないまま、私はいつまでもあの冬の初めの日に蹲っている。
▲
友達と別れ、家に帰る途中。あと少しで家に着くというところで、ふとまた、彼の煙草の匂いがした。必然のように足を止める。どうせ違うと頭では分かっているのに、確かめないと気が済まない。
風上にある近所の公園を見れば、誰かがそこに立っている。宵の闇に浮かび上がる小さな鬼火。見慣れた背広の背中に、黒い革靴。くるりとカーブを描いた髪を見て、私の心臓が大きく音を立てた。
嘘だ、きっと違う人だ。でも――。
公園の砂利に踏み入れる。私の足音に気づいて、彼が振り返った。煙草の火で浮かび上がった顔は、この3年間、何度も夢に見るほど恋焦がれたかつての恋人だった。
「――名前」
彼もまた驚いたのか、珍しく目を見開いている。似た人を見つけては、これは別人だと落胆してきたくせに、いざ会ってしまえば何と言えばいいか分からない。
「俺から会いに行こうと思ってたんだが、見つかったか」
「どうして、」
「ニュース見たか?」
頷く。彼は「そうか」と顔を緩ませた。そして、事件が解決したら一番初めに報告しようと思っていたんだと言った。3年ぶりの、何度目かの「悪かった」を添えて。
「それで、報告してどうするつもりだったの」
「――」
「良かったねって私が言って、それでお終い?」
彼が、バツが悪そうな顔で笑う。いつの間にか消された煙草は、匂いだけを残していた。
強く握った拳を、彼の胸にぶつける。ありったけの力を入れても対して強くは殴れない。離れていた時間で、どれだけ痛んだのだろう。私の心と、彼の心は。
「会いたかった」
「……」
「何度も忘れようとして、忘れられなくて。同じ煙草の匂いを見つけては足を止めて、事件の話を聞くたびに胸が痛んだ」
「ああ」
「会いたかったよ」
そう言って、壊れてしまったようにして泣いた私を、陣平が強く抱きしめる。会いたかった。恋しかった。愛していた。離れて言葉は交わせなくとも、事件が解決するように、彼が無事であるようにと祈っていた。
「俺も会いたかった」
「うん」
「もう一度だけ、お前の手をとってもいいか」
いいよの代わりに、縋るようなキスをする。何度も何度も。そのまま二人がくっついてしまうんじゃないかと思うほど長く、私たちはキスをした。返事はいらない。許可もいらない。ただ離さないと、もう離れないと誓ってくれるならなんでも良かった。
「愛してるよ」
愛が悲しみと同時にあるものならばそれでもいい。それでも、私は彼を選んでしまうから。