「そういえば、松田さんの奥様ってこのあたりでお店やられてるんですよね?」
発端は、後輩の何気ない一言。
それに勢いよく吹き出して笑ったのは、松田の隣にいた萩原だった。飲んでいたお茶でむせたことも合間って、涙を浮かべて笑っている。何を笑っているんだか。
「まだ結婚してねえよ」
「“まだ”ね、まだ」
「あ、そうでした。“まだ”でしたね!」
「お前ら……」
今日は午前中から3人で外に出ており、確かに後輩の言うように名前の店が近い。もう昼の時間は過ぎて、腹の減る時間だ。ここでお昼に行くのは何も不思議ではないが、如何せん同行者が萩原と後輩である。松田がやや憂鬱になるのも無理はないだろう。しかし、ここで喫茶ポアロに行く選択肢はない。スリルに生きていきたい爆弾処理班だって、命は惜しいのだ。
「あー、俺も久しぶりに名前ちゃんの飯食いたいなー」
「お前はつい1週間前も来ただろうが」
「まあまあ。早く行こうぜ」
こういうとき、萩原研二という男に勝てた試しがない。松田は大きなため息を吐きながら、意気揚々と名前の店に歩を進める二人の背中を追った。休憩中とはいえ、仕事の時間だ。公私は分けていきたい派であるが、恋人に会うのが嬉しくないと言えば嘘になる。突然現れて驚く彼女の顔を思い浮かべて、松田は一人機嫌を少しだけ取り戻した。自分の機嫌は自分で取るものだ。
そうして、大の男3人で彼女の店を訪れると、店内には客が数組いるだけで席は空いていた。お昼のピークを外したことが幸いしたらしい。
店の前に立てられた【本日のおすすめ】のブラックボードを見ながら、ドアを開く。カランカランと聞き慣れた音がして、彼女の「いらっしゃいませ」が聞こえてくる。それが「お帰りなさい」でないのは、案外久しぶりだった。
「えっ、陣平さん? ……それに、萩原さんも?!」
「1週間ぶり〜」
「何かありました?」
「近くまで来たから飯食いに来た」
「ああ、なるほど」
松田に萩原。二人揃って昼間に店を訪れたことなどなかったので、名前的には何かあったかと心配したようだが、ただご飯を食べに来ただけだと知ると安心したように微笑む。そして、当然のようにカウンター席へと座ろうとする松田に、「3人ならテーブル席の方が」と促した。
「ご注文はどうされますか」
「俺、A」
「陣平ちゃん、それしか頼まないじゃん」
「うるせー」
テーブル席に座り、注文をして、出された水を飲んでやっと一息つく。事件がないのはいいことだが、現場周りで証拠集めは証人探しに走り回るのも楽じゃない。しばらく使っていない松田の綺麗な指が、テーブルをコツコツ鳴らした。
キッチンで3人分のオーダーを用意する名前の様子を見やりながら、松田は一抹の違和感を覚えた。いつも楽しそうに料理をする彼女が、今日はやけに疲れた顔をしている。テキパキを作業は進んでいるが、体は少々重そうだ。
ここ数日、仕事やら付き合いの飲み会やらが重なり、この家に戻ってきていなかった。松田に思い当たる節はない。仮に体調が悪かったとしても、彼女は無闇に店を休んだりはしないし、わざわざ松田に連絡してくるタイプでもない。
「なーに熱い視線送ってんのよ」
「松田さんの恋人さん、お綺麗ですね」
「……お前は見んな」
ギャーギャーと騒ぐ後輩たちの視線をなあなあに聞き流し、松田は席を立つ。キッチンの方へ近づき、ピッチャーに手を伸ばしたところで彼女が松田に気がついた。
「あ、お水なかった? ごめんね」
「いや。それより、アンタ大丈夫か」
「ん? 何が?」
「体調」
彼女の瞳が驚いたようにハッと開く。そして、柔らかく笑いながら首を横に振った。その真偽をここで問い詰めるのは良策だとは思えなかった。「大丈夫だよ」。彼女のその言葉を信じるほかない。松田は、そうかと頷き、水を入れ直して、席に戻った。その頭ではすでに午後の仕事の残量を計算し始めている。
「いいなあ、俺も彼女欲しい」
「俺も〜」
「お前ら、マジで追い出すぞ」
午後、17時半。松田は再び名前の店のドアベルを鳴らした。昼間に見た時よりも、さらに疲れた顔でキッチンに立つ彼女。まさか日に二度も松田と店へ来るとは思わず目を丸くして驚いている。
「あれー、松田刑事だ!」
「本当だ、久しぶりだな」
しかし、松田が彼女に声をかける前に奥のテーブルから声が上がった。暑さで公園から逃げてきた少年探偵団だ。ご丁寧に、コナンや灰原も含め、全員揃っている。ツインタワービルの事件、東都水族館の事件と続いて、すっかり顔見知りだ。
「松田刑事も名前さんのご飯を食べに来たんですか?」
「あら、愛しの恋人に逢いに来たんじゃなくて?」
「灰原お前、面白がってるだろ」
「まさか」
松田は店内を見渡し、幸いにも彼ら以外に客がいないことを確認すると、ズカズカとテーブルの方へと歩いて行く。昼間は同僚に遊ばれ、夜は顔見知りの小学生にいじられる。松田と名前の恋模様は、米花町民の楽しみの一つと言っても過言ではない。
「お前ら飯は食い終わったのか」
「うん! 美味しかったよ」
「んじゃもう帰れ。親御さんが心配すんだろ」
「ええ、まだいいじゃないですか」
「そうだよ、夏は昼が長いしよ」
「お巡りさんの言うことは聞くもんだ」
松田がトンと優しく、少年たちの頭を押す。不服そうだったが、結局コナンと灰原に促され、全員が帰路についた。口の立つ幼馴染と違って、小学生は素直なだけまだ楽だ。彼女が『名探偵』と呼ぶあの眼鏡の少年を除いて。
そして松田が少年探偵団を外まで見送り、その手でドアにかけられたopenをcloseへとひっくり返した。ちょうど店へやってきた客らしき人が、それを見て残念そうに眉を下げた。申し訳ないが、仕方がない。体調不良者をキッチンに立たせるわけにもいかないだろう。
「今日は店仕舞いだ、片付けやっとくから寝てろ」
「――陣平さん?」
「体調、やっぱり悪いんだろ」
彼女の方へ近づき、額と額を合わせる。顔を寄せる前に首裏に手を入れれば、そこはじっとりと熱い。クーラーの効いた店内で、いつもより汗の量も多いように見える。
「やっぱりお巡りさんの目は誤魔化せないか」
「バーカ、お巡りじゃなくても恋人の体調なら気づくに決まってんだろ」
「あー熱上がった。陣平さんのせい」
クスクスと笑った彼女の額に手を寄せる。風邪の引き始め、今休んでおけばそこまでひどくなることもないだろう。
やっぱり辛いのは本当なのか大人しくエプロンを外した彼女から店の鍵を受け取る。食べ物だけタッパーに移して冷蔵庫に入れておいて欲しいというお願いに頷いて、彼女の背中をそっと押した。
「薬とスポドリも買ってくる。他になんか欲しいものあるか」
「強いて言うなら後で顔、見たいな」
「ふっ 了解」
さて、松田も一人暮らしが長いとは言え、彼女と付き合い始めてからは自炊なんてしていない。皿にラップをかけるのも数年ぶり。早速切るのに失敗して、小さく舌打ちをした。
午後8時。買ってきた飲み物やらゼリーを家の冷蔵庫に入れ、お皿に出した桃缶と薬を持って、彼女の部屋へ入った。片付けに買い出し、清潔な方がいいかとシャワーを浴びたらちょっと遅くなってしまった。
ドアから入ってきた光で、彼女が目を覚ます。一番小さい電気をつけて見ると、顔色は先程よりもいくらか良くなっているように見えた。
「どうだ」
「少しスッキリした、でも頭痛い」
「桃食うか」
「陣平さん、桃むけたの?」
松田は黙って桃と薬、水の乗ったトレイをベッドサイドに置いた。見るからに缶詰の桃を見て、彼女は子供のように笑う。ふにゃふにゃと柔らかい桃を切るのは、包丁初心者にはやや危険である。
「缶で悪いな」
「いいえ。嬉しい、いただきます」
「練習すりゃできる」
「陣平さん器用だもんねぇ」
早めに冷蔵庫に入れておいたのがよかったのか、よく冷えた桃は美味しかったらしい。名前は嬉しそうに顔を綻ばせる。でもその顔にはいつものような元気はない。どんな時でも前向きで明るい彼女に元気がないと、調子が狂う。
「それ食って、寝てさっさと治せよ」
「うん、もうすぐ治りそう」
薬まできっちり飲んで、彼女が顔を横たえる。額に指を当てると、擽ったそうにしている。松田はそっとそこにキスを落とした。触れた箇所が熱い。それはいつものことだけど。
「な、」
「早く治るまじない」
「悪化するって……」
恥ずかしそうに顔を両手で覆った彼女を見て、松田が笑う。
無理は禁物。何事も体が資本だ。早く治りますようにと願いを込めて、彼女の手を取る。熱と照れで潤んだ瞳も嫌いじゃないが、今それを言えば本気で家から追い出されてしまうので、笑いだけで黙っておいた。