夜道、月の代わりに道を照らす街灯に虫が群がる。よくある都会の光景だ。その下を先輩が進み、その後ろに私がいた。先輩は夜を着こなし、冷たい冬の風が私たちの背中を押す。一歩、また一歩。コンクリートに私の足跡が沈んでいって残らない。私は確かにその夜に沈んでいた。一歩、また一歩と破滅へと進んでゆく。私たちは、否、私はどこへ辿り着くのだろう。薄ぼんやりと浮かんだ疑念が蛇のように足元に纏わりついた。しかし、それは私の足を止める一助とはならず。ゆったりと振り返った先輩が、少し遅れた私に気づいて手を差し伸ばす。掴んでいけない、蜘蛛の糸。天の助けではない。でもそれを掴まずにはいられない。私には、それが全てであったから。尾形百之助という男が私の全てに成り代わってしまったから。
深い泥の道をもがくような速度で進み、着いた先は先輩の住むアパートであった。大学のある駅から2駅。学生アパートが多いことで有名なその駅から歩くこと15分。大通りから外れひと気のない道に浮かび上がるようにして立っていたアパート。先輩はその前で足を止め、「ここだ」と言った。私にとっての先輩とは決して居場所を持たないひとだった。どこにも属さず、どこにも存在しない。先輩は夜という広い概念の中に浮かぶようにして在る。そんな漠然とした私の虚構を否定するかのように、先輩に誘われて踏み入れた先の部屋は騒然として、確かに人の住んでいる気配を漂わせていた。一口コンロの上には空っぽの鍋が置かれ、小さな冷蔵庫の横に空のビール缶が転がっている。床にはスウェットが脱ぎ捨てられ、ベッドのシーツは起き抜けのままめくれ上がっていた。
私が玄関でブーツを脱ぐ間、部屋の電気を点けた先輩は床に転がるゴミと服を拾い上げ、ストーブのスイッチをオンにする。私が「お邪魔します」と言って部屋に上がれば、先輩は小さく微笑んだ。先輩の家だ。ここは先輩の帰る場所だ。近頃はずいぶん慣れたものだと思っていたが、また急速に緊張が私の体に回り始める。部屋全体を満たす先輩の香りの中に身を置くと、否が応でも先輩と重ねた夜のことを思い出してしまう。また、体の芯を掴まれている。
「なんて顔してんだ」
先輩が、お茶の入ったグラスをローテーブルに置く。私の顔を覗き込むと、先輩は馬鹿にしたようにして笑った。
「ちょっと緊張してます」
男の人の部屋に上がるのは初めてではない。しかし、そんな事実が先輩の前では何の役にも立たないことを私はよくよく知っている。男性との様々な経験が初めてでなくとも、先輩とは初めてなのだ。それだけでどうしたらいいものか分からなくなり、私は未熟な娼婦のように自分の中の緊張や恥じらいを明け透けに晒してしまう。それが一層先輩の興を駆り立てると分かっていても、だ。
先輩が、私の横に腰を下ろす。その顔に感情はない。無感情が徐に距離を詰め、そして冷たい氷のような唇が触れ合った。突然のことに驚いた私が離れようと顔を引いても、それを逃すまいと後頭部に彼の手が添えられる。角度を変えて押し込まれる先輩の舌先が、何がなんでも味わえと私に迫る。部屋に入って数分。まだ10分も経っていない。それでもその時、一際強く先輩の匂いが私の周りを覆い尽くし、お酒に酔ってしまったように私はまた私を見失った。瞼を降ろす。行き場のない手が先輩の胸のあたりに触れると、私の後頭部に添えられたのとは逆の手がそれを握り返してきた。私は必死に先輩の口付けに応えた。
時間にしてどのくらいだったのだろうか。次に瞼を開けたときには酸素が足りず、頭の中を星のような光がくるくると回っていた。その光の中から先輩が私を見る。満ち足りた顔で、蕩けた私の頬を撫でる。そして追い討ちのような頬への接吻。それら全てを幸福と呼ぶのは罰当たりのような気さえした。しかし逃れようがない。それが得難い光だとして、許されない罪だとして、私は握り返された手を離そうとは思えなかった。先輩が思わせないようにと企んでいたのかもしれない。何もかもが信じられなかった。先輩との恋も、先輩から与えられる甘い言葉も、優しい手つきも。私のすべてになってしまった尾形百之助という男のことが何も信じられない。信じられないことが、すべてだ。私という浅はかな人間のすべて。
愛とは往々にして得難く、得てみると、願望とは裏腹にひどく汚れたものである。私たちはキスのあと、シャワーも浴びずに体を重ねた。化粧も落とせず、先輩の髪を固めるワックスもそのまま。私たちはそれらを取り崩すようにして抱き合い、身体中に唇を落とし、一夜を前に孕んでいた迷いのような何かを舐め取った。思考を持たない獣のようだった。なれるのならば、そうなりたかった。しかし、私たちは悲しき哉、人間である。
抱き合い、少しだけ満たされたところで今度は空腹に気づいた。心が満たされると途端に体の枯渇に気が付く。先輩がベッドの上から手を伸ばして床に置かれたスマートフォンを取る。出前のピザを注文した。2人で一種類ずつ選び、ハーフ&ハーフのピザにした。そして私は一日の疲れからベッドの上で少しの間微睡んだ。先輩の体温をすぐ近くで感じるときもあれば、そうでない時もあった。不確かだがシャワーを浴びに行ったのかもしれない。私も汗と化粧を流したかったが、どうしても睡魔に勝つことはできなかった。はっきりと目が覚めたときには30分が経過していた。部屋にはピザの美味しそうな匂い。再び空腹が襲ってくる。
「ほら食うぞ」
キッチンの棚から皿を取り出した先輩の髪は濡れて、ワックスは綺麗に剥がされていた。私はベッドの上に脱ぎ捨てられた先輩のスウェットを着て、下には今日履いてきたスカートを履いた。アンバランスな格好で、寝起きの乱れた髪も直さず、私はお礼だけ言ってローテーブルの前に座る。先輩は私の格好を見て小さく鼻で笑いはしたが、脱げとは言わない。無言で私の髪に手櫛を通す。あくまでも自然な流れで、互いにとって互いが当然の存在になろうとしている。
「寝たら余計にお腹空きました。いただきます」
先輩はやっぱり「いただきます」は言わずにピザに手を伸ばしていた。
私たちがMサイズのピザとサイドメニューのチキンナゲットを食べ終える頃には、ストーブと暖房によって部屋の空気はカラカラに乾燥していた。つけっぱなしにしていたテレビでは夜の報道番組が始まっている。私は半分以上残った缶ビールを揺らしながら彼に向かって他愛もない話をした。その頃には先輩の家に来ているという緊張も解れ、先ほどまで少し寝ていたということもあって、じんわりとした睡魔に蝕まれていた。先輩は私の話をうんうんと聞いているだけで特に何も話さなかった。正直なところ、本当に私の話を聞いてくれていたのかも定かではなかった。彼は私の山もオチもない話に感想を述べたりしなかったし、私も私で「どう思いますか」とあえて彼に言葉を促すような真似はしなかった。私はただ、先輩が私のそばにいてくれるだけでよかった。それだけでいいのだと、頑なに思おうとしていた。
私がテレビの音をBGMに他愛もない話をする合間、先輩は時々思い出したように私の指や髪に触れた。それに溢れるような愛情を感じることはなく、愛していると私に信じ込ませるポーズのように思えた。指や髪の一本一本に何か想いを込めるような表情で、彼は私に触れた。彼の言葉も行動も私に見せる心もすべてがおそらく偽りだ。信じられない。でも彼に寄り添って息をしていたい。恋とはどこまで愚かしく、淫らな感情なのだろう。たった数週間でここまで変わってしまった自分を恐ろしいとすら思う。戻ることもできないのに。
先輩が絡めるようにして握った指を私も同じようにして握り返した。先輩の手に触れて始めて動き出した心臓は、確かに時間の流れを追い越して生き急いでいる。生きとし生けるものが生涯のうち、刻む鼓動の回数は決まっているのだという。その回数に達した時に心臓の動きが永遠に止まってしまうとして私の残り回数はあとどのくらいになるのか。彼と出会い、そして唇と体を重ねてからというもの、忙しくなく動き続ける私の心臓は年齢に対する規定回数を大幅に上回っている気がしてならない。しかし悪魔とはそういうものだ。その寿命と引き換えに、あらゆる願いを叶えてくれるのだから。
「先輩、前に私に言いましたよね。私は普通で、それがいいって」
「ああ」
「今でも同じように思っていますか」
先輩は不思議そうな顔をした。何を言っているのか分からないと猫のような目が語っている。私は彼の言う通り普通の人間だったはずだ。ファミレスで日が暮れるまで友達と話をしたり、夕飯に迷ってパスタを選んだり、二人きりの沈黙を恐れて話をしたり。特筆すべきことはなくて、見た目も性格もこれまで生きてきた人生も何もかも普通の人間だった。普通の人間だったから、先輩のような格好いい人に憧れたし、声をかけてもらえた時は嬉しかった。先輩の一挙一動に喜び、狂わされ、今、こうして愛の炎に心を焚べている。燃え上がった炎が私の身体を焼き尽くす時が来るだろう。それが先輩の父親殺しが果たされた時か、それとももっと先のことかは知れない。この先ずっと私はその日を恐れて生きていくのだ。これも全て普通なのだろうか。普通の人間が恋をしたときに抱く、普通の感情なのだろうか。
「思ってるが。どうした」
「先輩のことが好きです。もう気が狂ってしまったのかと思うくらい。そうしたら普通が何か分からなくなりました。だって私、先輩のために人を殺す手伝いまでしようとしてる」
「怖くなったか」
「先輩のお父様を殺すのは怖くないです。一番怖いのは、……その話をされた時、迷わなかった自分だから」
小さな子どもをあやすようにして先輩は私を優しく抱き寄せた。同じピザの匂いが服からふんわりと香ってくる。先輩の胸の中は夜のように終わりのない泥沼だ。嵌っている。囚われている。抜け出そうという気力すら奪われて私はいつもそこでシクシクと泣いている。
「俺が怖いか」
私は先輩の言葉でようやく、本当に自分がシクシクと泣いていることに気がついた。恥ずかしさよりも申し訳なさが勝る。先輩に辛い思いなど一秒だってさせたくなかった。私はすぐに「いいえ」と返した。しかし私が手を上げるより先に、先輩の顔が近づいてきて赤い舌が私の涙を舐めた。飼い主を慰める犬みたい。先輩がどう見たって猫そのものだが。
「父親を殺そうとする俺は普通じゃないか」
「分かりません」
「ならそれでいい。アンタは普通だ。不安に思うことはねぇさ」
先輩の言葉が薄い膜のようにして私を包んだ。私はうんと頷き、そのまま珍しく口をつぐんで先輩に抱きしめられたままでいた。偽りに僅かな本音を混ぜた会話。それでも温度は存在していて、部屋は異常なほど暖かい。刹那、冬ということを忘れそうになる程、私の体は熱く燃えたぎっていた。
もしも狂気を水で薄めてアルコールと混ぜたら、それは恋と全く同じ味がするはずだ。その日、私たちは部屋の電気を消す前に最後に口をつけたビールもそうだった。生温くなって炭酸が抜け、それでもほんの少しの苦味が後を引く。残ったビールを飲み干して、またベッドへ沈む夜。永遠に続けばいいと願っていた。
きっと、私だけが。