秩序の崩壊は、時に突然訪れる。青年が人一人殺して世界大戦に発展する。これが小説の中の出来事ではないのだから恐ろしい。私たちは常に銃の引き金に手をかけながら生きているのだ。いつ、どんなキッカケでそれを引くかは分からない。そしてその弾丸が誰を殺すのかも知らないのに、私たちは何食わぬ顔で笑っている。

 混沌や戦争とはかけ離れた都内のカフェ。大学から歩いて五分もしない場所に立つその店は、オープンテラスとパンケーキが有名で、私も一年生の頃に何度か来たことがあった。いわゆる女性に人気の店でここで待ち合わせをすること自体はそう不思議な話ではない。

 しかし、その相手が先輩となるとまた話は変わってくる。電話がかかってきたのは、二限目を終え、さてどこで昼食を取ろうかと悩んでいたとき。名前を登録するのが何故か恥ずかしく思えて『先輩』で登録したことを、電話がかかってきてようやく思い出す。今度は何の用かと思って電話に出れば、誘われたのがここだった。あまりに驚いて2回ほど聞き返してしまった。

「今日は甘いもの気分だったんです?」
「まあそんなとこだ」

 10分ほど並び店に入ると、私はランチのドリアセット、先輩はチョコレートバナナパンケーキを注文した。さも逆であるかのような口調で。策士である。年齢不詳で、大学生とは思えないおしゃれな髭をはやし、煙草で味蕾など皆殺しにしてしまったような先輩でも甘いものを食べたくなることはあるらしい。私は失礼にならない程度に微笑みながら、頷いた。先輩のそういう案外可愛らしい一面を知っている人間のうち、私は何番目だろうか。この世の全てに順番がふられていることは分かっている。一等賞を目指すような幼少期ではなかった。それが中途半端に大人になった今になって、たった一人のたった一つになることに苦労している。

「だから私を誘ったんですか」
「――?」
「ほらここ。男の人とじゃ入りづらいでしょう」

 店内に男性もちらほらと見えるが、半分は女性と一緒、もう半分はいかにも学内で序列の高いノリの良さそうな男子大学生だ。先輩にあちら側の友人がいるようには見えない。私がそう言うと、先輩の返事を遮るようなタイミングで食事が運ばれてきた。私の前にパンケーキ、先輩の前にドリアが置かれる。店員さんにお礼を言って、いなくなったところで交換した。また一つ、誰にも話せない笑い話が増える。私は先程までの時間つなぎの会話のことなど忘れてスプーンを手に取った。「いただきます」を言う。どんな時でも「ありがとう」と「いただきます」は忘れるなと教えられた。先輩はフォークとナイフを手に取り、黙って可愛らしいパンケーキを食べ始める。やけに上品な銀食器の使い方が先輩らしいなと思った。

 退屈かつ退廃的な瞬間に安心を覚えることを、人間は得てして幸福と呼んでいる。その時間がまさにそうだった。私は先輩との無秩序で排他的な二つの夜から目を逸らし、カフェで過ごす平凡な幸せを享受していた。先輩は顔に似合わずパンケーキを食べ、私はチーズのたっぷりとかかったドリアで空腹を満たす。このまま先輩と共に時間を過ごせるのならば、この後の授業はサボってしまってもいい。そんなことすら頭の片隅では考え始めていた。しかし、日本に住まう八百万の神がそれを許しても、私の魂を握った目の前の悪魔が許さない。沈黙と平穏という均衡を破ったのは先輩だった。顔を上げ、先輩と目が合う。それだけで胸が躍っていた日々が嘘のように穏やかな気持ちで私は彼の目を見つめ返すことができていた。

「頼みがある」

 昼の喧しいカフェの中に、先輩の心地いい低音が響く。珍しいことを言うものだと驚いた。私が彼に何かを泣いて縋ることはあろうとも、彼が私に何かを頼みたいなど。私は「はい」と頷いて、スプーンをお皿の中に置いた。

「私にできることなら。何でしょう」

 彼の表情も雰囲気もいつもとなんら変わりなかった。大学生と言うには落ち着いていて、艶かしく蠱惑的。私は例えるならば蜘蛛の網にかかった蝶々であり、薄翅蜻蛉の罠に落ちた蟻である。逃れようともがくほどに白糸が体に絡まり、穴深くまで落ちてゆく。だから私はただじっとしてその運命を受け入れることにした。それが最善であり、束の間の幸福であると気づいたからだ。

「父親を殺す手伝いをしてほしい」

 刹那、時が止まる。彼は今、なんと言った?
 父親を殺す。―確かにそう聞こえた。そして彼の頼み事はその手伝いであった。動揺を隠しきれない。取り繕う余裕も持っていなかった。ただ、この人目に溢れたカフェの中で誰かにその話を聞かれていないかとそれが気に掛かる。驚いて大きな声を出さなかったのは幸いだった。人はあまりに大きな衝撃を受けると声も出ないのだ。きっと私は沈黙の中で死んでいくだろう。それがいつかは知らないが。

「どういう、ことですか」
「そのままの意味だ」
「父親って、先輩のですか」
「ああ」
「私には人殺しなんてとても……」
「殺すのはお前じゃない。俺だ」

 私はその時、混乱と絶望の渦に飲み込まれていた。状況を理解するには日が高すぎる。私たちは夜の中でしか逢瀬を交わしてはいけなかった。そんなことを悔いてももう遅い。先輩の揺るぎのない瞳が、私の中の動揺と迷いを打ち消してゆく。混沌の中にあっても、私の中で燃え滾る彼への劣情が消えることはなく、むしろ倫理に背くことでさらに強く燃え上がってゆく気さえした。

「お前にしか頼めない」

 20歳。人生の転機が往々にして訪れる年齢である。これが、私の人生の大きな分岐路であることには違いない。私たちは望まずして大人になる。どれだけ宵闇に願いを掛けようと、ネバーランドの住人にはなれやしないのだ。私がここで泣いて喚いても誰も答えは教えてくれない。どうすればいいかは己の心に従う他ない。そして私の心は一つの答えを導き出した。

「分かりました」

 その一言で私たちはいつもの平穏な日常へと戻った。先輩はパンケーキの残りをナイフで切り分け、私はすっかり冷めて硬くなったチーズドリアにスプーンを入れる。今日、午後12時46分に出したこの答えを後悔する時は来るのだろうか。その時がもし訪れるとしてそれはいつだろう。悪魔から魂を取り返したとき? 次の恋に落ちたとき? 真っ当な人間になりたいと願ったとき? 知るものか。

「午後の授業は?」
「あとは三限だけです」
「じゃあ14号館の前のベンチにいる」

 私たちは、あんな物騒な話をした後とは思えないほど穏やかに微笑みあった。この店にいる誰もが私たちはこれから一人の人間を殺すとは思わない。平穏に潜む狂気は見つけ出すのが難しい。人間そのものが狂気であるから。木を隠すなら森の中。有象無象の中に私たちはこっそりと狂気と恋を隠し、何でもないような顔で息をする。恐れも迷いもなかった。彼に恋に落ちる呪いにかかった日から、こうなることも必然であった。そう信じることだけが救いになる。愛は、迷わない。

 人を殺したことはない。殺そうと、殺したいと思ったこともなかった。ただ漠然とした将来への不安と現実からの逃避のために大学へ進学することを決めた私が、まさかそこで殺人を持ちかけられるとは夢にも思わなかった。命を奪ってまで憎む相手とはどんな人なのだろうか。純粋な疑問だった。加えて彼はその相手を父親だと言った。自分の父を頭に思い描く。好きでも嫌いでもない。しかし死んでしまったら悲しいとは思うだろう。先輩は? 先輩はどうなのだろう。どうして父親を殺したいのだろう。三限の授業の合間にも疑問はいくつも浮かび、しかしそれは噛み殺した欠伸と共に霧散してしまう。まるで初めから存在などしていなかったように。

 古代神話や創作、特に悲劇において父親殺しは一種の決まった文学の型であり、通過儀礼的に描かれていることが多い。歴史上の王たちは跡目を継ぐために血族を殺すことを厭わず、また栄華の終わりを過ぎても権力に固執する父は邪魔な存在になる。父親という偉大な壁を越え、物語の主人公たちは大望を果たすのである。それに対し、現代における父親は単なる殺人罪であり、尊属殺人は特に重い罪として扱われる。そのため、現代を生きる作家たちは残酷までに悲しい事情をもって、子に父を殺させるのだ。先輩は、どんな理由をもって父を手にかけるのだろうか。

 三限終わりの大学。まだ人は多い。授業を終えて、14号館を出ると、目の前のベンチに座っている先輩を見つけた。片手にコンビニのコーヒーカップを持っている。私が「お待たせしました」と声をかけると、ゆっくりと顔を上げた。私は先輩の隣に座る。当然のように肩が触れ合う。私は少しだけ彼の方へ体重をかける。冬の風が吹く空の下で、そこだけが嘘のように暖かい。私たちは、きっと恋人同士に見えるだろう。私たちの前を歩く生徒たちは時々こちらを見て、女子のグループはバレないようにこっそりと話題の種にする。先輩は有名人だ。女遊びが激しい男にもとうとう彼女ができたのか、と。おおよそそんなところだろう。

「お父様はどんな方なんですか」

 彼がハッと笑う。何かを馬鹿にしたような先輩特有の笑い方。先輩の父親がどんな人間で、どうして殺してしまいたいのか。私は知る必要がない。知らない方がいいとまで言える。しかし、どうしても知りたかった。何も知らずにただ手を貸すのではなく、理由と事情を知った上で罪の意識を保ちたかった。この先どんな道を進むことになっても手放すことのない十字架を私に与えてほしい。他でもない、先輩の手で。そうすれば何があっても、地獄で再会できるだろう。

「父と思ったことはない。だが血が繋がっていることは知っていた。本妻との間に子ができず他で女を孕ませた。それが俺の母親で、本妻に子ができてからは母にも俺にも会うことはなかった」

 彼は、ファミリーレストランでハンバーグを食べている時と同じ顔でそれを語った。自分が婚外子であること。父親は高い地位にある人間だということ。先輩の母親は父親に捨てられて以降気をおかしくして、早くに亡くなってしまったこと。それから先輩は祖父母に育てられ、その祖父母も先輩が大学に上がってすぐに亡くなったこと。悲しそうでも、辛そうでもなかった。私たちは重なったコートの下で手を繋ぎ、そんな楽しくもない話をした。明日のデートプランを決める恋人たちのように、彼は私に秘密を共有し、私はまた泥の奥深くへ沈んでゆく。

「だからお父様を憎んでいるんですか」

 この世の中は大抵が嘘と秘密で塗り固められていて見えなくなっている。でもそれを誰も暴こうとしないのは、知ってしまったら責任を取らないといけなくなると知っているからだ。だから秘密を知ろうとする人間は覚悟を持って行うべきである。私はもう引き返せない。彼を愛していなかった頃の自分は死んでしまった。

「いいや。ただ。―ただ、確かめたいだけだ」

 彼は、何を確かめるのだろう。そしてそれを確かめた暁には彼はどうなってしまうのだろう。突如として恐ろしさがやってきて、私の周囲を取り巻く。もう引けないと分かっている。引くつもりもない。誰かにこの場所を譲るという行為は、今の私にとっては死に等しい。彼の中の特別が私でなくとも、私は、先輩が誰かに分け与えるであろう罪の一片にまで嫉妬して、気が狂いそうになるのだ。しがみつくようにして彼の腕に抱きついた。先輩が私のつむじにキスをする。祝福だ。赦しかもしれない。愛おしさはいつもそこにある。陽だまりのように慎ましく、燃える炎のように卑猥な愛が、私たちの間に巣食っている。

「先輩、わたし、こんなはずじゃなかったんです」
「……だろうな」
「でも、これでいいです。愛してるから」

 使うほどに薄まってゆく言の葉の価値を、私たちはまだかろうじて見出すことができるだろう。重ねるほどに冷たくなってゆく唇で、まだ意味のある言葉を残したい。私は愛を、先輩は秘密を語らう。じきに日が暮れる。再び夜が、先輩の元へ帰ってくる。ただ寄り添うだけの私という存在を証明するように、そっと白い息を吐いた。美しく華やかな地獄への道は、こうして開かれる。