『泥沼に嵌る』という言葉がある。だが実際に泥の沼に嵌って身動きが取れなくなったことのある人は少ない。かくいう私もそのような経験とは無縁の人生であった。山もなく坂もなく、越えるべき川も谷もない。平坦で面白みのない、例えるなら都会の中心を走るコンクリートの道路のような道を歩んできた。その私が、現在進行形で泥沼に嵌っている。そのことは誰も知らない。誰にも言うことができないとも言う。私の目の前でハンバーグの最後の欠片を口に放り込んだ男こそ、まさに私の泥沼である。尾形百之助。口の中で、声に出さずにその名前を転がすだけで体に痺れたようなビリリとした感触が走る。彼は甘く、魅惑的な泥沼だった。

 注文したトマトクリームパスタを先に食べ終えていた私は、彼の顔を穴が開くほど見つめていたが、彼はまるで気にしていないような顔で食事を続けていた。その彼の食事も終わり、ふと顔を上げた彼と目が合う。先輩は、私にずっと見られていたことなど知らなかったような顔で、「なんだ」と尋ねる。理由はない。理由がないのに見つめたいと思う感情は恋と同義だと誰かが言っていた。まさに。否定する気も起きやしない。私は今たまたま彼と目が合ったような風を装って、「美味しかったですか」と尋ね返す。そして、彼の「まあまあだな」という言葉で、また深く沼に沈んでいく。茶番のようだった。真剣なのだと声をあげるのが恥ずかしくなるくらいチグハグな恋。しかし恥を忍んで言うとすれば、やっぱりそれは真剣な恋だった。

 私の鞄に仕舞われたままのスマートフォンの画面が、メッセージを受信して明るくなる。時間は夜の8時を少し過ぎた時間だった。沈黙と共に夕食を終え、どこに行くということも知らされていないが、そろそろこの騒がしい店を出ようかというときだ。レストランのドアが開き、冷たい風が店内に吹き込んでくる。客の来店を知らせるチャイムが鳴り、私はそちらに目をやる。半ば、条件反射のようなものだ。

 長い髪を分厚いマフラーの中に仕舞い込んだ女と無精髭を生やした全身黒づくめの男。いかにもこの街にごまんといそうな胡散臭い男女と言った風貌だった。女の方と目が合う。無遠慮な視線を送っていたことを後悔したが、今更目を逸らすのも恥ずかしい気がしてそのままにした。彼女は私を見た後、私の目の前に座る先輩に目をやり、そして連れの男に声をかけてそのままこちらへと足の向きを変える。コツコツと彼女が歩く度に音が鳴る。流石の先輩も気がついたようで、彼女が私たちのテーブルに到着する頃には顔を上げ、そして彼女を見遣っていた。

「尾形くん、久しぶりだね」

 先輩が厭そうな表情をする。友達。否、昔寝た女。咄嗟にそう判断し、私は口を噤む。先輩は怠そうに「よお」と返す。彼女は不満気だった。

「久しぶりに連絡しようと思ってたんだ。丁度良かった」
「やめとけ。かかってきても出ねえぞ」
「どうして?」

 女は、これまで人に自分の好意を踏み躙られたことなどないという顔をしていた。私は女性のいろいろな表情に聡い。女は言葉だけではなく表情であらゆる物事を語る。だからそれが読めなければ、女の社会でうまく生きていくことは不可能だ。必然的に彼女の言いたいこと、思っていることが手にとるように分かってしまった。

「……お互い様だろ」

 先輩が、女の連れの方を見て心にもない笑顔を見せる。残忍な人だと思った。ガラガラと音を立て、女のプライドが崩れ去ってゆく。息をするのも憚られる。できればその場から脱兎のごとく逃げ出したい気持ちに駆られたが、生憎、私の動線を阻むようにして立っている彼女のおかげでそれは叶いそうになかった。息を殺し、マネキンのようにそこに鎮座する私に、女の視線が映る。男に傷つけられた自尊心は他の女を貶すことで回復されることを私はよく知っていた。

「そっか。時間が経てば、女の趣味も変わるか」

 皮肉か、嫌味か。はっきりと判別することはできない。唯、捨て台詞のようにそう言い残して彼女がこの場を去ってくれたことだけに安堵する。連れの男の元へと戻ってゆく彼女の痛々しい背中をぼうっと眺めていると、先輩が立ち上がり「行くぞ」と声をかける。私たちはそのまま彼女との数分間の会話などなかったようにして、ファミリーレストランを立ち去った。

 店を出て、今度は迷いなく彼がどこかへと向かう。私はそれを問うでもなく、疑うでもなく、カルガモのように彼の背中を追って歩いた。五分経ち、先輩が街灯の光が落ちる場所で足を止める。彼の一挙一動に集中していたおかげか、今度は追い抜かすこともなく彼の後ろで足を止めることができた。先輩は振り返り、そして懐に手を入れる。数回見た動作。煙草だ。そして煙草を探り当てただろう瞬間に、彼は私の顔を見てその手を空っぽのまま外に出した。

「いいですよ。煙草吸っても」

 本音だった。彼に我慢を強いたくないという優しさも、彼の煙草を吸っている様を間近で見たいという下心もどちらも兼ね備えている。しかし私がそう言っても、先輩が再び手を懐のポケットに入れることはしなかった。それが彼の面倒臭がりな性格のせいか、はたまた私への気遣いなのかは知れない。煙草を吸うことを止めた先輩はすぐに歩き出すかと思いきや、一歩、私の方へと歩み寄り、私の顎のラインに手をかけた。ずっとポケットに手を突っ込んで歩いていたせいか、彼の手は冬とは思えないほど温んでいた。先輩に触れられて、反射的に私の体がピクリと反応する。実験に使うマウスと一緒だ。思考も行動も、全て彼の手に握られている。

 先輩がゆったりと近づいてくる。恐れはあったが、目を閉じることはできなかった。鼻と鼻が触れそうな距離で先輩の動きは止まり、時間だけが数秒流れた。メンズ特有の香水の匂いが香って、それだけで酔ってしまったように頭がクラクラする。

「――いいか」

 何を。そう尋ねる前に、私は頷く。彼が纏う夜がそうさせた。

 触れたのは二つの唇だった。冬の外気を飲み込むようにして私たちは口付けあった。誰の目にも止まらない学生街の路地裏でのこと。彼の手が、私の顎のラインから首裏へと回り、『もっと』と求めるようにして力を込められる。私は天と地も、風と星も分からなくなって目を閉じる。すべてが先輩だった。瞼の裏の闇には先輩だけが存在し、私たちは唇を通じて少しだけ混ざり合う。彼との何度目かのキスがクチュリと音を立て、それが強く耳に響いた。忘れられない。彼への恋はすべてが忘れ難い思い出で構成されている。今宵もまた、そう思う。

 先輩はキスを終えると、何故か私の髪を撫でた。私は息をするのもやっとでどうしようもなく、掴むところもないので彼のコートの袖を掴んで立っていた。外でキスをするという行為は別に恥ずかしくはなかった。だけど、オレンジ色の街灯に照らされた彼の唇に、私の口紅がはっきり移っているのを見るとどうしても卑猥な気持ちになる。先輩は手の甲でそれを拭った。それすらも見てはいけないもののように思えた。どうしても、どうしようもなく彼にあられもない興奮を覚えている。

「さっきのアイツの言うことは忘れろ」
「……はい」

 言われずとも、先輩との情熱的なキスによってそれ以前の記憶は全てなくなっていたが、先輩の言葉でああそんなこともあったと思い出し、さもずっと気にしていたようなしおらしい顔で頷いた。彼女の言いたいことはよくわかる。もし私が彼女のような人生を歩んできた上で先程のような場面に出くわせば、全く同じ言葉を吐いていただろうという確信すらもある。女にとってプライドとはブランドバッグやイケメンの彼氏と同じくらい大切なものだ。それを傷つけられることは許し難い。

「気にしてるつもりはないんですが、でも私もあの人が言うことはよく分かります。今でも、先輩がなんで私を選んだのか分からないから」

 あの晩、一夜の相手に。あの昼下がり、連絡先を渡す相手に。そして今、路上で人目も憚らずに口づけされる相手に。なぜ私なのか。星の数ほどいる女の中で、同じサークルに存在しながら、私と先輩は近いようで遠い場所にいたはずだ。
 明確な理由など要らないが、だからと言って気にならないかと言えば嘘になる。考えないようにしようとしても、ふとした拍子にその疑問が湧いてきて、先輩の猫のような目の前に突き出したくなる。それは一度や二度ではなかった。

「俺も、お前も同じだ」
「え?」
「俺は、お前が今まで好きになった他の男とは違うはずだ」

 風が止む。先輩の言葉はよく聞こえた。私はひどい羞恥心と絶望が押し寄せてくるのを感じながら、しかしそこから逃げられないことを悟る。先輩の言葉に間違いはなかった。先輩は、私がこれまで恋に落ちたどんな男性とも違っている。似通った部分など一つだって見つけられない。先輩に対するこの感情を恋だと定義するなら今までの恋はそうではなかったのかもしれないと思うほどに違っていた。今の私はすべてが先輩に狂わされている。右も左も、天も地も、すべてが彼だった。

「先輩、わたし、」

 言葉を続けようとした私の口を塞ぐように、先輩がキスをする。それは先程とは違い手を叩く間に終わってしまうようなキスだ。私が黙ったのを見て、先輩は何も言わずに私の手を引いた。どんどんと加速していく私の心臓のビートに追いつきそうな早いテンポで路地を進む。先輩が急いでいるなんて珍しい。のらりくらりと猫のような足取りで夜を闊歩するひとなのに。

 私たちはそのまま言葉もないままにホテルへと辿り着いた。前回とは違うホテル。今夜のホテルの方がいくらか清潔感があるような気がした。また、私のよく知る街に知らない建物を見つける。彼は迷いなく私をそこに誘った。薄ぼんやりと明るい廊下。なぜかここだけ新しいエレベーター。重い扉。分厚いカーテン。スケスケのシャワールーム。どれにも目をくれず、私たちは進んだ。

 部屋に着くや否や先輩は早急に私の顎を掴んでキスをした。前回と思い出すような、先輩という人間を私の中にねじ込んでくるようなキス。舌の味がする。ドロドロと舌の先から順に溶かされているような気持ちになる。私たちは互いの服に手をかけながら、ベッドへ雪崩れ込む。一瞬でも離れるのが惜しいとでも言うようにずっと唇を重ねていた。なぜこんなに必死なのか。なぜこんなに生き急ぐのか。世界に溢れる『なぜ』のほとんどには答えがない。今夜のことにも答えはないだろう。

 先輩の乱れかかった髪にそっと触れてみる。厭がられるかと思ったが、意外に先輩は好きにさせてくれた。整髪料で整えられた髪の固さや先輩の皮膚を覆う柔らかな毛の感触を、私はいつまで覚えていられるだろう。ドロドロに溶かされた私の一部は、先輩の身体のどこをつくるだろう。先輩、わたし、こんなはずじゃなかった。一晩を捧げれば終わるはずの恋だった。沼の中で暴れれば暴れるほどに沈んでいく。誰も手を差し伸べてはくれない。誰にも明かさずに秘めた恋だったから。

 先輩の指が掌が、私の肌を滑る。ざらざらの本当に猫みたいな舌が、私の首筋を這う。彼の指先からこぼれた髪が顔にかかって、それを払ったのも彼の手だった。

名前

 夜の中に彼がいるのではない。彼こそが夜だった。

「あいしてる」
 嘘は電飾のように世界を彩る。不可欠なものだ。それは時に希望を、往々にして絶望をもたらす。その晩、あの埃の匂いを隠しきれないベッドの上で彼が灯した光はどちらだったのか。私はまた絶望と愉悦の狭間で彼に両手を伸ばしていた。

「私もあいしてる」