「人類の長い歴史において、最も古くから存在する職業が何か分かるか?――猟師? 違う。小売業? 違う。答えは売春婦だ。人間が経済活動を始めたその頃から商品の一つとして自分の身体を提供することを考えた。売春の歴史は女性の権利の変遷を辿る上で非常に重要な役割を担っているとも言われていて――」

 金曜日の5限は女性の権利史。担当教員がとうとうと語る講義を聞き流しながら、すっかり暗くなった窓の外に目をやる。大学構内を歩く人の数もまばらになり、一足早く一週間の終わりを表している。せっかくの華の金曜日、五限目に授業を取ろうという学業熱心な生徒は少ないらしく、広い教室内は閑散としていた。まるで禁止されたようにぽっかりと空いた前列。私も含め、早く来て後列の席に陣取った生徒は各々がノートを取るふりをしながら他の課題に勤しんでいたり、開いたパソコンの影で寝ていたりと様々な時間を過ごしている。

 かくいう私も、特にこなすべき課題もなく手持ち無沙汰にシャープペンシルをクルクルと指の間で回しながら時間が過ぎるのを待っていた。娼婦が史上最も古い職業の一つであると高らかに述べる教授の声を聞いていながら、集中が欠けていたせいか、その文言はするりと脳内からこぼれ落ち、ノートには『娼婦』という単語だけが残った。娼婦、または売春婦。自身の身体を売り、一夜の出会いを『春』と称した先祖たちはどのような思いだったのだろうか。女性の権利史とはかけ離れたところで、また一人思いを馳せる。

 その時だった。ペンケースの横に置いておいたスマートフォンの画面が明るくなる。今どきあまり動くことのないショートメッセージで、「今どこだ」と一言送られてくる。相手の電話番号には見覚えがあった。昨日、昼休み後の食堂にて。先輩が私の履歴に残した番号。つまり、相手は先輩だ。それまでの長い講義時間が嘘のように時間が流れ出す。いや、今まで堰き止めていた分が溢れ出てきたようにすら感じられた。私はスマートフォンを手に取り、画面を開く。

[講義中です]

 迷ったが、そう返した。私の鼓動が、また馬鹿みたいに速くなっていく間も時の流れは変わらず、淡々としたつまらない講義は続いてゆく。もう、教授の声は聞こえなかった。あの日、あの朝、そして昨日の昼下がり。先輩の声だけが壊れたラジカセのように頭の中でリフレインする。よく思い出すことができた。先輩の返事を待つのも焦ったくなり、何か返って来る前に、今どこにいるのか尋ねた。相手が私の場所を聞いてきたということは、私に会いたがっているということだ。もし勘違いだとしても、もう恥ずかしいことなど何もない。裸だって見せてしまった。

[分かった][食堂]

 連続で返事がくる。私はそれを見て、音を立てないように静かにペンケースにペンを戻し、ノートを閉じた。教授が板書のためにこちらに背を向けている間に、こっそりと教室を抜け出す。音を立てないように慎重に行動していたつもりだったが、最後の最後で教室のドアがバンと大きな音を上げて閉まった。油断した。否、気が急いていたと言ってもいい。兎にも角にも、私は急ぎ足でキャンパスの少し外れに位置する食堂へと向かった。昨日、先輩と会ったのと同じ場所だ。もうすっかりと暗くなった時間。駅近くの門の方へと向かう人並みに抗って、一目散に彼の場所へ。何のために? 呼ばれてもいないのに? そんなことは後から考えればいいことだ。

 思った通り、食堂は昼時と打って変わってほとんど人がいなかった。カウンターの中では食堂の従業員が片付けを進めている。いつもは目移りするほど美味しそうなメニューの並ぶカウンターを素通りし、テーブルの並ぶ方へ。たった一言、彼から食堂と言われただけだったが、その姿を見つけるのはそう難しいことではなかった。ガラス張りの壁の前に先輩が立っている。日が沈み、明るい室内を反射するガラスに私の姿が映った。先輩は徐に振り返り、その真っ黒の瞳で私を捉えた。そこでようやく恥ずかしさに似たような感情が湧いてきたがもう遅い。

「講義中じゃねぇのか」

 口の端を意地悪く上げた先輩が、持っていたスマートフォンを尻ポケットに突っ込む。嘘でも暇をしていると言えばよかったかと思ったが、昨日、既に明日も同じスケージュルだと言ってしまっている。私は観念して、白い旗の代わりに両手を上げた。魂はすでに眼前の悪魔に売却済みだ。一夜を明かせば取り戻せるだなんて私の考えが甘かった。身体三つ分は距離が空いているのに、体の芯を掴まれたような気持ちになる。私は先輩を前にした時の自分をうまく表現することができない。

「先輩に呼ばれたような気がして」

 先輩が、一瞬ぴたりと動きをとめ、そしてまたニヤリと笑う。一度抱いたくらいで何を思い上がっているんだ。そういう目だった。私自身もそう思っていた。たった一夜で勘違いして、のぼせ上がっているわけではない。彼の特別になりたいわけでもない。あの日はただ彼がどんな風に女性に触れるのかを知りたくて、今はただ会いたくてここまで飛んできた。すべての理由は私の質素な下心なのだ。

「この後の予定は?」
「先輩と、いっしょに行きます」

 それを勇気と呼ぶには烏滸がましい。しかし、他のどんな体面を取り繕った言葉よりも先にそれが出てきてしまった。本心だ。女子同士の会話に本音はほとんど存在しないと言った。では男女間の会話は? 少なくとも半分は本心だ。何故なら本心を晒さないと愛されないと、女も男も本能的に悟っているからである。私の言葉に何も言わない先輩が、得体の知れない存在のように思えて急に恐ろしくなり、そっと視線を外す。彼の背後にあるガラスには食堂に座って早めの夕飯を取っている学生の姿が映っていた。彼らがひどく羨ましい。尾形百之助という存在を知らずに生きることができるのだから。私が彼を知り、そして恋という呪いにかかったのは必然だったのだろうか。ひとの出逢いに理由を問い質すようになったらお終いだ。現実から一歩二歩と逃避してゆく私の手を、彼が掴んだ。その瞬間に、意識は目の前の男に引き戻される。それは掴んだ、というより握ったという方が近い。彼は物珍しい鉱石でも見つけたように私の手を取って、それをしげしげと眺めた。何の変哲もない手だ。左手の親指と、右手の薬指にささくれが出来ているだけで。

「小さい爪だな」

 そこに悪意はない。ただの彼の感想がゴロリと転がってくる。私はそれを受け取って改めて自分の手に視線を落とした。爪の大きさなんて気にしたこともなかった。言われてみれば、昔からネイルが映えない手だとは思っていたけれど。そこで初めて自分の手の爪が小さいことに気づき、それに気づいたのが自分よりも彼の方が先だったことにどうしようもなく喜びを覚えた。彼が与える一つ一つの言葉が毒のように私の中に溜まっていく。それらはいつか私を殺すだろう。望むところだ。

「……確かに。爪、伸ばそうかな」
「やめとけ」
「どうしてですか?」
「痕が残ったら、嫌だから」

 ふっと手が離れ、それは私の背に回る。彼の顔が私の真横にあり、反射的に息は止めていた。彼の手が、私の背中の下から上へ。唇を噛んで声は殺した。

「痛いのは御免だ」

 彼の動きは緩慢なのに、なぜか全てが一瞬の間に行われている。気づいた時、先輩はすぐ近くにいて吐息を感じ、次の瞬間には目の前で意地悪く笑っている。私は、こんな誰に聞かれるかも分からないような食堂でセックスの話をされていることにひどい興奮と羞恥心を覚えて息を呑んだ。彼が「行くぞ」と言いながら私に背を向ける。彼の後を追いかけて私も食堂を出た。その時、近くのテーブルで食事をしていた学生と目が合う。何か言いたげな顔をしていた。彼女もまた、先輩を知っていたのかもしれない。宵闇を着こなしたように歩く、あの悪魔を。

 先輩と二人でいる時――と言っても前回、昨日、そして今日の3回に限った話にはなるが、先輩はほとんど話さなかった。元々、飲み会で彼らのテーブルの話に聞き耳を立てていた頃から彼が無口な性格であることは知っている。一方、私は話すことは好きだし、相手が男性だから話せないということはない。サークルの他の男子メンバーとも比較的仲はいい方だ。しかし、先輩はその限りではなかった。どれだけ彼に焦がれ、二人になることを夢見てきたと言っても、いざ二人きりになると何を話していいか分からなくなる。そもそも彼は私が話すことをあまり望んでいないようにすら思えた。五月蝿いのは好きではないのだろう。彼が通る道にはいつも人が少なく、私たちの足音しか響かない。大学の喧騒においても彼を見つけたことはなかった。昼下がりに初めて会った昨日も、昼休み終わりの閑散とした食堂でだった。私は彼の半歩後ろを歩いた。夜に溶けてそのままなくなってしまいそうな真っ黒のコートを見失わないように、彼の歩幅を追って歩く。ゆったりとした歩みを、心臓のリズムが追い抜かす。話してもない。見つめ合ってもない。でも彼が時々、私が着いて来ているのを確認するように振り返るだけで、じんわりと手のひらが汗ばんでいく。どうしようもない恋だった。彼のような人に恋してみることに憧れていただけだった。でも、今はどうだろう?

「……腹減った」

 低い声が静寂を破る。考え事をしていたせいで彼が歩みを止めたことに気づくのが遅れ、一歩分、彼のことを追い抜かしてしまった。先輩は一本向こうの通りにあるファミリーレストランの看板を見つけたようだ。空腹。それは”緊張状態”と同居し得ないものである。胸と頭がいっぱいでちっともお腹は減っていなかったが時間的に自然なこともあって、「私もです」と嘘をついた。男女の会話は本音と見栄が半々。今のは明らかに後者だった。私たちは方向を少し変え、そのままそこに入った。大学近く、夜のファミリーレストランは往々にして課題に追われる学生か、常識もなく騒ぐサークルの飲み会に利用される。私たちはそのどちらにも属さない。ある意味でひどく浮いていた。

 忙しそうな店員に「お好きな席にどうぞ」と促され、私たちは相談することもなく騒ぐ客から一番離れた席を選ぶ。五月蝿いのは嫌い。頭の中で、先輩に関するリストを作り、一つずつチェックで埋めてゆく。もっと知りたいと願う欲も、恋の一つの摂理だと言い訳をして納得することにした。

「先輩も、ファミレスとか来るんですね」
「家の近くのは静かだからよく行く」
「そうだったんですね。私もよく行きます。課題やったり、友達と延々話したり」

 彼は目玉焼きの乗ったハンバーグを、私はトマトクリームパスタを選んだ。タッチパネルでのオーダーが導入された昨今においては、店員と客の会話は必要以上に削減され、その分、テーブルを挟んだ相手との会話が迫られる。何を話して、どこまで聞いていいのか分からず、つい自分の話をしてしまう。私はペラペラとまるでどうでもいいことを心ゆくまで話した。高校の近くのファミレスに友達とよく行って、放課後から夜までずっと話し続けたこと。大学ではサークルの打ち上げで店が決まらず結局ファミレスになったこと。なんでも言える友達にだって話さないような中身のない話だ。でも彼は時々クスリと笑いながら最後までそれを聞いてくれた。

「お待たせ致しました」

 私の話を遮るように運ばれてきた料理。ようやく解放され、私はそっと胸を撫で下ろす。尾形百之助という人間だけに先に出会っていたら、私は彼をとてもやさしい人だときっと勘違いしただろう。そして別の形の恋をしていたはずだ。もっと甘く純粋で、漫画によくあるような恋を。何故なら私が彼と出会い、呪いにかかることは必然だから。形や色、匂いは違くとも私は彼に狂わされている。半年前も、あの夜も、そして今も。鉄板の上で熱くなったハンバーグをふうふうと冷ます唇に、口に入れたハンバーグがまだ熱くて歪んだ眉の形に、私の心は踊らされているのだ。

「見てないで食え」

 私は少しだけ笑って、はいと頷き、フォークを手に取った。ゆるゆるのパスタをそれに巻きつける。それは彼に絡め取られてゆく私の心と体に似ている。彼に咀嚼され、いつかどこかで吐き出される。それでもいいと言ったら、彼は困るだろうか。喜ぶだろうか。それともその場で吐き出されてしまうだろうか。彼に関することは全て試してみたい。そして彼がどんな表情で、どんな言葉をかけるのかを知りたい。ゲームやパズルはあまりやらないが、手をつけたらとことん最後までやり尽くすタイプだ。私の人生において最も難解なパズルが、今、目の前でハンバーグを食している。これはゲームではない。本気の恋だ。愚かで甘やかで、決して忘れられない。

「アンタは普通だな」
「え?」
「ファミレスで友達と話したり、パスタを選んだり。無口な俺に気を使って無理に喋ったり」

 彼の目が私に挑戦してくる。囁くように静かな声で。彼の声は夜によく馴染む。

「普通な女は嫌ですか」

 遠くで品のない笑い声が上がった。それだけが彼と二人きりで閉じ込められているわけではないのだと思い出させてくれる。彼の真っ黒の瞳に閉じ込められたらきっと私は抜け出せない。抜け出そうとするか否かは別として。

「嫌じゃない」

 彼は続けて「嫌なら誘ってない」と付け加えた。少しずつ、少しずつ彼が私を肯定する。これはどんな罠なのだろう。掛かったらどこまで突き落とされるのだろう。試してみたい。彼への恋心を覚えた時と同じような好奇心が、また私の背中を押す。悪魔に心を奪われた人間の末路とは。知りたい。触れたい。もっと言えば寄り添いたい。この先決して共にいられない魔法にかけられることになろうとも。

 私たちの右斜め後ろ。無限に出てくるドリンクバーのように、私の思いも止まることを知らなかった。しかし、それは”普通”のことなのだ。彼がそう言った。