「牧くんのことが、好きなの」
唐突に、口から零れた言葉は教室の喧騒の中に吸い込まれてゆく。音になった言葉は忘れたあとも生き続けると聞くが、本当だろうか。誰にも届かずに死んだように見えた言葉は、私の目の前にいた彼にはしっかり届いてしまったらしく、目を丸くさせている。驚くのも無理はない。牧くんにそれらしい素振りを見せたことは、今の今まで一度もなかった。だからこそ、伝えてしまおうと思ったのだけど。『ありがとう』の言葉以外は要らないよ。私がそう言うと、彼は私の目を見て口を開く。
「ありがとう」
「うん」
そういうところが、好きなんだ。
好きな人について、書いてみようと思ったのは自然なことだった。世の中に溢れる小説や歌は多くの場合で愛を謳って説いている。筆者の体験に基づくものも少なくない。つまり人は恋をするとどうにか形に残したくなる生きものなのだ。だから、私が牧くんのことを書きたいんだと告げる為には、想いを伝える必要があった。私がその話をすれば、牧くんはまた少し驚いて、それでも「かっこよく書いてくれ」と冗談っぽく笑った。ただでさえこの上なくカッコイイのに、これ以上カッコよくだなんて、ドストエフスキーにだって書けやしない。私がそんなことを考えているなんて、彼は露ほども思っていない。そんなところが、やっぱり好きなんだ。
牧くんの背中は大きくて、たくさんのものを背負ってる。真後ろの席の私にも見えない大きなものを沢山だ。
毎日練習は大変そう。受験勉強が本格化して他の運動部がどんどん引退していっても、彼のスポーツバッグはいつも膨らんでいる。残るは野球部とバスケットボール部。教室のカレンダーを見て、私は彼の背中の影で指折り数えて試合の日を待っている。
眠そうに、傾いた身体。珍しいとは思うけれど、あれだけハードな練習をこなしていればそうなるのも無理はない。英語の授業。先生の流暢な英語が右から左へ流れてゆく。牧くんの右手がシャーペンを握ってノートの上を滑る。文字通り滑って、後ろからじゃミミズみたいな字にしか見えない。やっぱり珍しい。
昼休みを告げるベル。カバンから出てきた靴箱みたいなお弁当箱。私のそれがおもちゃみたいに見えてくる。牧くんは振り返って、申し訳なさそうにノートを見せてくれないかと手を合わせる。もちろんいいよって、差し出したそれ。いつもより丁寧に分かりやすく書いたんだ。バレてしまうのは恥ずかしいから、前のページは捲らないでおいてね。
時間の流れは目に見えたらどれだけ早いことだろう。その、太陽が強く照りつける夏の日。広島の体育館で、彼の夏が終わってゆく。蝉はまだ鳴いていて、残りわずかの命を輝かせる。
〈準優勝〉
どんな物語にも終わりはある。これの高校バスケの締めくくりは、全国2位という、華々しくも悔しさの残るものだった。私はそれをどんな風に言葉にしようかと悩みに悩んで、結局出た答えはあまりに在り来りで、それでもそれ以外のものは何も生まれないような気がした。
「名字」
私は彼に良いパスは出せないし、彼のパスでシュートを決めることは出来ないし、美味しいはちみつレモンは作れないし、とにかく彼の力になれることなんて何にもないけど、牧紳一という人間がこの夏、どんな風に戦ったのか、みんなに届くように伝わるように文字に残すことができた。いつかこの夏が思い出の影に消えていっても、手元に残ったこの言葉たちが何度でも、この夏を甦らせてくれるだろう、と。私はそう祈っている。
「好きなんだ」
今更かもしれないけれど、と彼は言う。いいや、私だってそう。今更かもしれないけれど、これから先、どんな夏が来ても、牧くんが好きだ。