「結局、夏油が私のこと好きかどうか、最後まで自信持てなかったんだよね」

深夜と呼ぶには浅く、夜と言うには日が暮れすぎた。まだ外から聞こえてくる酔っ払いの大声を背景に、私の声が畳の上にポトリと落ちる。ちゃぶ台の向かい側、濡れた長髪から雫を滴らせながら、男が笑った。私の話を聞くときの彼はいつもこう。あまり興味がなさそうだ。

「まるで今日が最後みたいな言い方だ」
「いや、まあ。同じようなものでしょう」

今、8畳一間の二人を切り取って、そこに名前をつけるなら『別れ話』になってしまう。暖房の風みたいに重たい空気。どうやって茶化せばいいかもわからない。

 右手の指で、ちゃぶ台にくるりと円を描く。夏油傑は何も言わず、私も何も言わない。ぼうぼうと吹いてくる暖房だけが、空気を温めようと必死になってる。彼の長い髪から滴った雫が、畳の上にシミをつくっているのが見えた。もう最後だから、あえて腰を上げてタオルを持って来ようとは、とても思えないのだけど。きっとそれは夏油も同じで、そういう曖昧な横着さというのは、ふたりよく似ていたと思う。

「……変わる、という意味では確かに、同じだね」
「ずいぶん長く考えたね」

 もう五分も前の言葉に対する返事がやってくる。二人の間にある時間の歪みは、今になって始まったことでもない。夏油は、私よりもずっとずっと先にいるようで、時折すごく後ろの方で、私が振り返るのを待っていたりする。捨てられてしまった兎のような、おおよそ彼に似つかわしくない瞳に私を映して、私を、待っていたりするのだ。

「最初に君が言っただろう。私が君を好きか自信が持てないと」
「うん」
「それは、つまり、私が変わらなかったからだよ」

出会う前と出会ったあと。好きになる前と好きになったあと。恋人になる前と恋人になったあと。どこをとって、夏油傑があまりに変わらないものだから、私は彼のことに関して一切の自信を持てなかった。「ハハ、その通りだね。」私という人間は、夏油傑という物語の中では名前もない通行人に過ぎないのではないか。過去の恋人。いつか便利な枠で囲われて、2度と日の目を浴びない。そんな未来も、頭をよぎった。嗚呼。認めよう、きっと、夏油の言う通りだ。

「夏油はなんでも知ってるねぇ」

ぽとりと、また水が垂れる。長い髪は乾くのに時間がかかる。私は、彼のTシャツの伸びた襟元に吸い込まれる雫をじっと見ていた。いやらしい気持ちになる。い草の匂いも相まって余計に。あれ、それは昔夏油が言っていたんだっけ。

「私はこれからも変わらないよ」
「うん だろうね」
「変わらなくていいからこそ、君を選んだと言うこともできるけど」

ちろり。顔を上げる。夏油と視線がぶつかった。私をじわりじわりと犯していく熱も、ここまでのエスノメソドロジーも、すべて彼の掌上の出来事だったのかも。知らないし、知りたくない。「……そう来ましたか。」浅いようで深い。名前をつけるのが難しい、ちょうど今の時間のような関係性。否、それも今日でお終いだった。

「夏油は私のことを選んだって言ってるのに、選ばれた本人は好かれている自信がないって変な話じゃない?」
「それもそうだ」

薄い唇から、真珠みたいに綺麗な歯が覗く。いつの間にか、部屋の空気はカラカラになっていて、外の酔っ払いはいなくなっていた。静かに、夜が更けていく。真夜中に沈んでいく。彼と向き合っていると、このもう2度と這い上がれないような不思議な感覚が心地よかった。

「じゃあこれでどうかな」

8畳一間。荷物はすべて運び出し、あるのは真ん中のちゃぶ台と隅っこの薄い布団が二組。ちゃぶ台の上に現れた真っ赤な四角いケースは、合成写真よりも不自然に、その空間に存在している。

「もらう側が言うことじゃないけどね、今渡すもんじゃないよ、これ」
「ああ、知ってる」

かくり。壊さないようにそっと押しあける。藍色のクッションの上に堂々と鎮座するのは、聞かなくてもわかる。給料3ヶ月分のあれだ。

「愛も幸せも形じゃないけど、――嬉しい。」
「あんまり泣いたら明日に響くから」
「うん。わかってる。でも、なんか寂しくて」

 思うよりもずっと、この狭い部屋で愛を燃やして暖をとる生き方が好きだった。幸せで腹を膨らませ、窮屈な浴槽に思いを溶かしてしまう、二人の時間が、とてもとても。
「ありがとう、夏油。明日からもよろしくね」
「明日から君も夏油だよ」

じゃあなんて呼ぼうかと笑い合いながら、真夜中がやってくる。独身ふたり最期の、真夜中が。

春に告げる

song by yama