アズール=アーシェングロットが教室の出口にて、目の前に立ちはだかった時、監督生は全ての終焉を覚悟した。そして、ゆっくりと目蓋を下ろし、息を深く吸い込んだ。それはさながら戦場へ向かう兵士のようだったと、のちにエース=トラッポラは語る。

「監督生さん、この後、少々お時間を頂いても?」
「はい。……グリム、これでお菓子を買って先にオンボロ寮へ帰っておいてくれる?」
「お菓子!?やりぃ〜〜! 分かったんだゾ!」

 グリムは、監督生からマドルを受け取るとサムのお店に向かい一目散に駆けて行った。二人で一つの監督生が、まさか人生の岐路に立たされているなんて考えていない。当然だ。

 監督生は、グリムを先に帰し、一緒にいたエースとデュースに別れを告げた。とても嬉しそうなお誘いには見えなかったが、しかし助けも求められていないのだから、難しい。引き止めるもの憚られた。「お、おう」と手を上げた時、チラリと見えた監督生の顔は真っ青だった。

「―――どうぞ、こちらへ」

 監督生は、バクバクと壊れそうな心臓を押さえ込み、至って冷静な風を装って、案内された通り、オクタヴィネル寮のVIPルームの皮張りのソファへと腰をおろした。VIPルームと言っても、ほとんどの用途がアズールへの相談に使われている。つまり、この部屋に案内されたこと、イコールこれからアズールと監督生の間でなんらかの交渉が行われることを意味している。

「今日は何の用件でお呼びしたか、お分かりですね」

 監督生はもう泣きたくなった。用件もクソもない。先日のKiss The Boyの一件(フロイド命名)に違いない。監督生はこの3日間、そのことしか考えていなかったと言ってもいい。
 コクリコクリと頷きながら、教会で顔も見えない神父に罪を懺悔する愚かな罪人のような心持ちがした。悪いことをしたわけではない。あれは事故だ。しかし、そんな言い分がこの自分よりもいっそう賢い人魚に通じるとは、とても思えない。

「あの、アズール先輩。その節は本当にすみませんでした。転んだことも、その後のことも含めて全て、お詫びします」
「謝罪は結構です」
「えっ。否、でも」

 アズールは貼り付けたようにカチカチの微笑みを浮かべていた。監督生はガクガクと震える足を両手で抑えながら、もうなす術のないことを理解し、そして黙った。謝罪すら許されない。他に何もすべきことなどない。それは結婚だ。

 結婚? 一生飼い殺しされる? タコの9本目の足として奴隷のように働かされるのかもしれない。よくて一生モストロラウンジで低賃金労働。結婚してしまえば監督生とアズールは家族だ。経営者の家族は賃金が払われていなくても税務署に怒られない。嗚呼、ああ。

「こちらを」

 アズールが、びっしりと文字の書かれた紙を取り出す。いよいよ契約書が来た。こんな状況ではサインせざるを得ない。黄金の契約書だ。監督生はとりあえずそれに目を通すか手をつけた。恐怖と絶望で目が文字の上を滑る。全く頭に入ってこなかった。

「まず、先日の転倒した際にこちらが負った怪我については軽傷でしたので、慰謝料等は結構です。むしろ監督生さんの方に怪我等残った場合、魔法でどうにかできるかもしれませんのでお気軽にご相談ください。そして肝心のきs、――ゴッホン。……キスの件ですが、フロイドから聞きましたが、人魚の世界にキスしたら結婚するなんておかしな法律はありません。そんなこと本気で思っていたら少々心配ですが、まあいいでしょう。あれについては、何事もなく終わらせるという訳にもいきませんので、こちらを用意させて頂きました。ご安心ください、契約書ですが僕のユニーク魔法ではありませんよ。何せ監督生さんは魔力をお持ちでないですからね。これは単なる誓約書です。内容は書いてある通り、この件について今後一切口外しないことをお約束して頂きます。また、事故とはいえ、あんな不純異性接触行為は相手が僕のような冷静で慈悲深い人魚でなければ単なる事故では済みませんでした。そこで監督生さんは今後卒業まで再発防止に努めること、そして他の男と絶対にキスをしないことをお約束ください。実に簡単でしょう? ああ、僕はなんて慈悲深い……」
「あっ、あのアズール先輩」
「なんでしょう、監督生さん」

 監督生は、アズールがタラタラと何か言っているのを華麗に聞き流しながら、精一杯の集中力を持って、その契約書に目を通した。座っている状態で見ても確かなことは言えないが、おそらく1メートル程度はありそうな長さだ。とんでもない。
 そして、アズールの口上が終わったと同時に読み終えた。赤面した。それは契約書ではなかった。読めば読むほど、疑問は確信に変わる。

「つかぬことをお尋ねしますが、アズール先輩は、その……私のことをどのように思ってらっしゃるの?」
「どのように、とは」
「例えば好きだとか嫌いだとか」

 アズールは質問の意図を図るために暫し考えた。

「――そうですね、監督生さんのことはもちろん憎からず思っていますよ。少々困ったところはありますが、あの双子ほどではありませんし、ラウンジでの働きにも文句はありません」
「本当に?」
「ええ、でも何故?」
「こちら、読み直してみてください」

 監督生はドギマギと焦る胸を抑え、ガクガクと今にも壊れそうな足を無視しながら、長い長い紙をアズールに手渡した。

 アズールの鋭い視線が書面を裂く。それは確かに契約書の外形をしているが、契約の中身は監督生の口止めと牽制だ。前者はまだいいが、後者は完全に意味がわからない。おまけにその後、つらつらと述べられている契約乙の正当理由は、アズールから監督生への告白であり、契約書は熱い思いを認めた恋文へと成り果てている。

 アズールはそれを読んで愕然とした。あの一件から頭が真っ白になり、この好機をどうにかしなくてはと三日三晩寝ずに錬成したのがこの契約書である。完全にイカれポンチのトンチキラブレターだ。理論展開は明らかに破綻しているのに、選ぶ言葉の美しさにアズールの持つ教養が溢れ出していて、生々しさを倍にしている。駄文だけで構成されている方がまだマシだったかもしれない。

「こ、これは……」
「私、アズール先輩のこと完全に勘違いしていました。ごめんなさい、もう一度謝ります。こんな真剣に考えて下さっていたのに、私ったら奴隷だなんて……」
「監督生さん、話を聞いてください」
「アズール先輩、お気持ちはとても嬉しいんです。こんなすごいラブレターもらったことありませんもの。でも、まだ、気持ちが追いついていないというか、「監督生さん」そんなこと思ってもみなかったから。「監督生さん!」ああ、私はどうしたらいいんで「ユウさん!!!」……はい?」

 監督生が落ち着いて目の前の彼に目を向けると、あの時と同じくらい顔を赤くしたアズールがとにかく必死な顔で立ち上がっていた。ぎゅっと唇を結んだ。慌てると周りが見えなくなるのは彼女の悪い癖だ。

「これは何かの間違いです。ラブレターなどではありません」
「えっ……そ、そうです、よね。また早とちりを、」
「いえ、それも違います」

 混乱して、目をキュルリと丸めた彼女の顔見て、アズールは観念したように眼鏡のブリッジを指で押さえた。疲労と眠気て頭が回らないのだ。このまま何かを話してもロクなことにはならない。それだけは確かだ。

 でも、もうここまできて逃げ出すのでは、グズでのろまなタコやろうだった頃とおんなじだ。あの頃とは違う。アズールは、アトランティカ記念博物館で言われた彼女の言葉を思い出し、彼女をしっかりと見つめ返した。

「監督生さん」
「はい」
「貴方が好きだ、結婚してください」

 これが稀代の努力家でありながら、のちの若手敏腕経営者として、ツイステッドワンダーランドのねじれた経済界に名を馳せるアズール=アーシェングロットの人生初めてのプロポーズであった。

 そしてそれを受けた監督生はというと、その突然の言葉に呆気に取られはしたものの、しかし、彼のこういった素直なのかそうでないのか分からない17歳らしさは実に愛すべきものだと思った。

「折角ですけれど今はお断りしておきます。どうぞ良きお友達から、よろしくお願いします」

 これがツイステッドワンダーランドにおそらくただ一人の異世界人が受けた、人生初めてのプロポーズであった。この時も先程までのビクビクとしていたのが嘘のように彼女は冷静な顔で微笑んでいたと言う。

 この後、お友達からよろしくどうぞと始めた二人が、紆余曲折経た後に、2回目のプロポーズを果たし、どこかのヴァージンロードを歩くのは、もっとずっと先の話である。

「キス・ザ・ボーイ〜結婚請求の巻〜」
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