「……それで、どうしたでござるか。拙者、このあとイベがある故、手短にお願いするでござる」
尻窄んだ声でイデアはさっさとこの状況から解放されようと監督生を促した。ベンチに並んで座ったが、二人の間はグリム1.5人分空いている。これでも十分イデアのパーソナルスペースを侵害しているが、流石に別々のベンチに座っては相談もクソもないので譲歩せざるを得なかった。
「あの……、例えばの話なんですけれど、先輩が道を歩いている時に目の前で誰かが転んだとして、」
「拙者は人のいる道は通らないからその仮定は不成立」
「その転んだ人に巻き込まれて自分も倒れてしまったことを想像して欲しいんです」
「無視乙」
「それで、その……転んだ拍子に、キス、されてしまったとしたら、先輩ならどう思いますか?」
「これなんてギャルゲ?」
「え?」
イデアは、災いしかもたらさない己の罪深き口を閉ざした。
何も言いたくなかった。監督生が冷静であったなら即刻キモがられている自信があった。しかし、どれだけ頭のググルを動員しても、丁寧で理知的な言葉がヒットしないので困っている。
「えーっと、つまり、君は転んだ弾みで誰かに事故チューしたってことでおk?」
監督生は、首まで赤く染めながら小さく頷いた。素直に可愛いと思った自分を、右腕でぶん殴った。これだから童貞は駄目なのだ。そして、改めて素直な気持ちで、監督生の言葉を噛み砕いて考えてみる。
転ぶ→事故チュー。イデアは、この流れで恋に発展しない漫画は読んだことがなかった。もしあったとしたら、「序盤のあれは何だったのだ」と出版社が炎上するに違いない。
しかし、これは漫画でもギャルゲでもなく現実だ。もし仮に、先ほど監督生が述べた仮定を、発生確率を無視して起こったと想定してみたらどうか。イデアの優秀な脳みそは、どうしても間一髪それを避けてしまうところまでしか考えられずに敗北した。
「事故は事故ですしおすし。そっ、そこまで深刻に思い詰める必要はないのでは?」
どうにかこうにかそれっぽいことを言ってみる。これ以上は無理だ。どうかこれで納得してほしい。全イデアが祈った。しかしこれも駄目だった。イデアの言葉を聞いた監督生は、まだ赤みの引かない顔をあげて、イデアを見上げる。イデアは、恐ろしく早い動作で再度左頬をビンタした。
「そうかもしれないんですけど、でも、その相手の方が、去ってしまう前に『ケッコン』って仰ったんです」
「ブフォッッッt」
「ケッコンって、どういう意味でしょうか」
彼女は真剣だった。本当にそんなことが今さっきあり、そして現在進行形で困惑しているのだろう。イデアにはそれが手に取るようにわかる。
「ケコーンとは、男女が入籍することでは……」
「ええ、そうなんです。でも、転ばされた相手と結婚ってどういうことか分からなくて。おまけに、相手の方は何というか、すごく賢いので意味のわからないことは言わないはずなんです」
「監督生氏」
「はい」
「今すぐ逃げて。その男とは二度と会っちゃダメだ」
転ばされた相手に結婚を迫っているのではなく、キスされた相手に結婚を迫っているのだ。イデアは素早く事の重大さと、その男の尋常ならざる様を察知。あれほど嫌がっていた距離をすぐさま詰め、監督生の両肩を掴むと、丁寧に理知的な声で言い切った。
イデアは、こんな純粋で可憐な彼女が、その不届きものの毒牙にかからないことを切に願った。また、願わくばその男に生を恨むような天罰が下らぬものかと思った。それは僻みだ。そして彼は、女子の身体に安易に触れたことに気付いた時、潰された蛙のような声をあげて死んだ。
フロイド=リーチは自由気ままな人魚である。その力強く美しい尾鰭は神が与えた褒美である。そして、その尾鰭でリーチ兄弟は誰よりも速く、そして強く、北の海を泳いだ。彼らは流氷が流れ着くような恐ろしく寒い海の中で、どの人魚よりも自由であった。まさにフロイドは、海を愛し愛された男であった。
しかし、フロイドは同時に陸も愛していた。初めて足を持ち、地面を踏みしめた時こそ、なんだこの動きづらさはと思ったが、今ではすっかり慣れたものだ。彼は陸の上ですら重力を感じさせない。
陸には面白いことがたくさんあった。魔法の種類も、食べ物も、お風呂の入り方だって違う。新しいこと、知らないこと、全てがフロイドを楽しませてくれる。飽きない日常こそ、フロイドが求めて止まないものなのだ。
面白いことに溢れたNRCにおいて、最近とりわけフロイドが気に入っているのが、監督生であった。男子校の唯一の女子生徒。それだけじゃない、この世界でおそらくたった一人の異世界人だ。面白くないわけがない。
おまけに、この監督生は小エビのようにちっこく弱っちいが、肝っ玉がなかなか座っていた。いつもオドオドとしているのに、みんなが慌てているような場面では人一倍冷静であって達観しているような顔をする。
先述のイソギン…(略)事件においては敵対していたが、それからは玩具のように愛でているし、最近ではバイト先の後輩になったこともあり、今度は人間の可愛い保護対象として目をかけていた。勿論、監督生はそんなフロイドの些細な心境の変化など気づかない。ずっとずっと『フロイドは本気で自分を小エビだと思っている』と思っている。面倒だし、面白いので否定しようとは、フロイドもジェイドも考えていない。
その小エビ――監督生が、今日はいつも以上に体を小さくさせ、ビクビクとしている。何故か。来た時からずっとキョロキョロ。周りを必要以上に警戒して、フロイドが声をかけようものなら、びくりと跳ねた後、決まってフロイドの横や後ろを念入りに確認した。挙動不審だ。
「今日はいつも以上にビクビクしてんねぇ、小エビちゃん」
「そ、そうですか?」
「うん、本当に小エビみたぁい」
フロイドがキャハキャハ笑った。監督生はカラッカラの笑い声をあげた。
休憩中というわけでもないが、木曜日ディナーの人入りは悪い。フロイドがキッチンからカウンターへ頭を出して、監督生と談笑しても誰も気に留めなかった。フロイドは、長い指で小エビの頬をぷにぷにと突っついた。いつもなら「やめてください」と少し顔を赤らめるのに、今日の小エビは青白い。
「なんかあったの〜? 相談乗ったげる」
「えっ、本当ですか」
「うん、オレ、小エビちゃんの先輩だも〜ん。あはっ、オレってえらぁい」
トレンチを抱え直して監督生が、周囲に聞かれないようにカウンターに向き直り、フロイドの方へ顔を近づけた。監督生は、またも蜘蛛の糸を掴むような気持ちで、フロイドと対峙する。イデアに続き、致命的な人選ミスであるが、そんなことには気が付かない。
「あっ、あの今日ってアズール先輩は……」
「アズール? アズールなら二日前から部屋に篭りっぱなし」
「部屋に?」
「そぉ。理由聞いても教えてくんねぇの。なんかぁ、3日で完成させるとかなんとかって言ってたけど、知らねー」
フロイドは、監督生がやけに深刻な顔をしていたので、どんな相談をされるかとワクワクしていたが、あんまり単純な質問で拍子抜けした。アズールの居場所など、そんな顔で思い詰めることか。いやいや。
それだけか、と聞こうとして、フロイドはハッとした。
――もしかして、監督生はこんな深刻な顔で思い詰めるほどアズールに会いたいのではないか? そう考えるのも無理はない。何せ今日の監督生は、右を左を、ずっとキョロキョロしているのだ。あれはアズールを探していたのでは。そんなにも誰かに会いたい=恋。Kiss The Girl!!
フロイドはやっぱり己は天才だと思った。しかも、その論理飛躍が論外人魚にしてはあながち間違いでもなかったのでややこしい。
「小エビちゃんってもしかして「フロイド先輩、もう一つ質問なんですけど、」……うん、なぁに?」
「人魚の皆さんの言葉に、ケッコンって言葉はありますか?」
「ケッコン?」
フロイドはなんのこっちゃ黙った。ケッコン、けっこん、結婚。そんな発音、人魚の言葉にも魚の言葉にもない。
「ケッコンは結婚でしょ?」
「やっぱり、そうですよね」
「なんで〜?」
「あの、その…誰にも言わないってお約束してくださる?」
フロイドは頷いた。今日の小エビはやけに女の子らしい。
「あの、つい2日ほど前に、私ったら不注意で転んでしまって、その時アズール先輩にぶつかってしまったんです」
「うん」
「その時、バランス崩してアズール先輩を巻き込んで倒れてしまって、それで、――その、口と口が、あのね、全然わざとじゃなくって偶然なんです。でもね、その」
「待って」
「――はっ! もしかして人魚の皆さんはキスをしたら、結婚しなくてはいけないんですか? だから、アズール先輩……」
「小エビちゃん、待って」
「アズール先輩が、その時、私の顔見て言ったんです。ケッコンって」
「Stop!!!」
フロイドの声に、フロアの誰もが動きを止めたので超次元魔法のような空間になった。しかし、それが自分たちに向けられたものでないとわかれば、またゆっくりと時計の針が動き出す。フロアの誰もが関わりたくないと思った。
フロイドは3秒、監督生の顔を見つめた。今にも泣き出しそうな顔で、遥か彼方のオッドアイを見上げている様は実に小エビらしく、本能が「守らなくては」と言っている。しかし、小エビの秘密話が斜め上に貫通していて、あのフロイドですら驚いているのだ。
「つまり小エビちゃんは道で転んでアズールにぶつかって、そのままKiss The Boyしちゃったってこと?」
「ええ」
「それでアズールに結婚って言われたの?」
「ええ。――先輩、私どうしたらいいんです?」
フロイドは、この小エビは本当に飽きないと感嘆した。そして、あのウブで純情だが、3回転半ほど捻くれた幼なじみが結婚と言ったなら、それはもう事実になると確信した。この瞬間にフロイドの人生は一生楽しいことが確定したようなものだ。
先程の可愛い後輩との約束も忘れて、バイトが終わったらすぐさま己の片割れにこの話をしようと決めた。
「小エビちゃん」
「はい」
「それはもう結婚なんだよ」
ああ、と顔を覆う監督生の頭をフロイドはなるべく優しい力で撫でた。フロイド含め、NRCに通う全員が、自分はどうしたっておとぎ話のヒーローになるような人間ではないことは分かっていた。そんな学校に迷い込んだだけでも不幸なのに、この純粋な小エビがあのアズールに目をつけられてしまうなんて。愉快極まりない。
本当に本当に陸に上がってきて良かったと、フロイドは万物に感謝した。