「この本の続きを探している」
「……こりゃまた珍しいもん持ってるね」
「置いているか」
「待ってな」
 ――『Ville de la retrouvailles』


 ホテル・シャルドネの12階。貸ホールの一室に、見知った顔。一番最初に真紅のドレスに身を包んだ名前の姿を見つけて、その間にエースから声をかけられた。久しぶり、と昨日卒業したような口ぶりで、5年ぶりの再会を果たす。
 この男も、やはり変わらない。

「久しいな」
「だってセベク、全然同窓会来ねえじゃん」
「僕は忙しいんだ!」
「はいはい」

 学生時代も、今日のように赤いスーツを着ていた記憶がある。派手な色を好むのは、ハーツラビュル生なら珍しくはない。いくらか背も伸び、大人になった旧友は、昔と変わらないタチの悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
 その顔には、あまり良い思い出がない。自分と名前の関係を揶揄う時の顔だ。

「とか言って、本当は名前が来ねえからっしょ」
「ナッ……! 断じて違う」
「まっ、そういうことにしてやるよ」

テーブルの一つ向こう側、彼女はエペル=フェルミエと一緒にいる。ああして二人が話していれば、NRCの百合花が揺れていると、野蛮な男たちが囃し立てる。それにエペルが怒り、笑う彼女の前に僕が立てば、それをエースとジャックが笑った。

 とても美しい日々だった。物語としては物足らない、詩に謳うのは勿体無い。
 忘れ難く、愛おしい。愛せ、と言われるまでもない。

「セベク」
「なんだ」
「一応言うけど、お前に振られてアイツ泣いてたよ」
「……そうだろう」
「お前は泣いた?」

 いいや、と否定して、そのあとに続く言葉がない。泣きはしない。若様を守る自分が、恋の一つで泣いているようでは不甲斐ないだろう。悲しみで涙が出るかと聞かれれば、記憶にないからわからない。
 幼子の頃は泣いただろう。リリアはあの通り子供を揶揄うのが好きだから、なんども痛い目も見た。でも、物心がついてからは? 自分の心は、どこにあった?

「あいつはお前が思うより強いよ、きっと」


名前
 振り返った彼女を、テラスへ連れ出す。秋の終わりの迫る晩、腕を晒したそのドレスでは寒いだろう。着ていたジャケットを肩にかければ、彼女はまた頬を柔らかくして、「有難う」と微笑んだ。

「今日は来てくれて有難うね」
「マレウス様に暇を戴いた」
「そう、良かった」

 僕と名前は何もかもが違った。
 背の高さ、歩幅、声の大きさ、力の強さ。生まれた場所、生きてきた環境、課せられた運命、生きる時間。
 何もかもが違ったけれど、それを合わせることは苦ではなかった。彼女が僕に合わせて大きく踏み出し、僕が彼女に合わせて膝を折る。時に目の高さを合わせ、時に彼女が背伸びして。片手で担げば、目を丸くして驚くのも、可笑しかった。

 何もかもが違うことを理由に、彼女を遠ざけた。それが本当は理由にならぬことを知っていたけれど、彼女の涙がこれ以上流れないことを願うなら、それで良かった。

「以前会ったとき、」
「うん?」
「この5年が僕にとってはあっという間だった、と言っただろう」
「ええ そうね、言ったわ」
「お前にとっては長かった、とも」
「ん」

 耐え難いほど、長い時間だった。たった5年、されど5年。

 5回秋が来て、その度に舞い落ちる葉の影に、愛しい人の姿を思い出した。世に溢れるラブロマンスは、きっとこんな在り来りで、誰もが避けて通れぬ痛みを描いているのだろう。名前が好きだと言った本もそう。ちっとも面白くない。
 しかし、そこに流れる涙を、否定することは、もうできそうにない。

「お前が言うように、この5年をあっという間だとするなら、この先の10年も、100年も僕にとってはあっという間に過ぎるだろう」

 何も変わらなかった。ただ時計の針が進んで、季節が変わった。
 たったそれだけのこと。

「10年も、100年も、僕にとっては同じことだ」
「うん」
「いつも、お前を愛している」

 空を引き裂く、一筋の稲妻。それが、貴女の与えた心。
 この世界で最も脆い一等星。その名が、君だ。

「お前をいつも愛していた」

言葉にすれば、真実になる。声の限りに叫んでも、夜の静寂に紛れて囁いても、意味は同じだ。愛してる。ずっと、この命が尽き果てるその日まで。

「別れようと言ったのは、お前が耐えられないと思ったからだ」

種族も、役割も違う二人が共にあることに、耐えられないと思った。卒業を間近に控え、毎夜さめざめと泣く名前は、あの曇天の下では笑えないだろう、と。
「僕は耐えられる。――共にいなくとも、お前を愛せるから」

 彼女の瞳から、一筋雫がこぼれた。夜空に落ちて、きっといつか星になる。手で掬えば、小さな海に。彼女は、手に頬をすり寄せて、首を振った。彼女の声で、僕の名を呼ぶ。その声を、その体温を、忘れなければ、いつまでも愛せると信じていたんだ。
「……私は弱いから、セベクが言うように、耐えられないかもしれない」
「――」
「それでも、貴方のいない場所で笑うより、こうやって、貴方の側で泣いていたいのよ」

 その細い手を取って、抱き寄せる。小さくて温かい。しがみつくように回った腕が、あまりに必死だったから、心が痛んだ。あの秋の日に置いてきた心が、少しだけ。

「知らなかったでしょう」
「……ああ、それは知らなかった」
「うん、いいの。私もセベクのこと、たくさん知らないもの」

 先ほどまでホロリホロリと泣いていた彼女が、今度は一転、ふふと笑った。泣いて笑って。鈴を転がしたような軽やかな笑い声が、とても好きだったことを思い出す。
 共にいなくても平気だった。重ねて束の間の時を思い起こして、遠い場所にいる光を描いて愛することはできたから。でも、今、もう一度この腕に彼女を抱けば、同じ質問に同じ答えを返せる自信がない。だから会わなかった。だから連絡を取らなかった。
 どうしても、欲しいと願ってしまうことは知っていたから。

「ねえ好きよ、セベク。貴方が私を思ってくれた時間、私もずっと貴方を思ったわ」
「もういい」
「駄目よ 熱烈な告白には、同じものを返さなきゃ」
「いいから黙ってくれ!」
――こんな場所で泣きたくはないんだ

 名前の手が僕の背中を撫でる。そしてゆっくり離れて、今度は彼女の手が頬に伸ばされる。泣いていなくて残念ね、と笑った彼女の頬には涙の跡。強く擦れば消えてゆく。いつか、この5年間の悲しみも流れて消える日が来る。
 目と目があって、キスをする。そっと、いつかの秋の風が二人の間を抜けてゆく。

 ヒュ~ヒュ~
「っかぁーーーー!!やっとくっついた!!」
「な、何してるんだお前たち!!」
「久しぶりにセベク声でけェ~~」

 エースが無理やり肩を組む。エペルは名前の手を取って、「おめでとう」と言っていた。ジャックは「ほらよ」と何故か酒を持たせてきて、デュースは言葉も話せないほど泣いている。なんなんだ、全く。…学生の頃のように。

「本当!お前らがじれったいから俺らがどんだけヤキモキしたか!!」
「そうだったの?」
「そうだったの?じゃねえよ、同窓会も避けたくせに」
「僕は忙しいんだ!」
「はいはい 1年目にユウの出欠聞いてきたのはどこの妖精族だったけなあ」
「うるさいぞ!!人間!!」

 ドッと会場が沸く。品の良いホテルに似合わない、馬鹿みたいに大きな笑い声だった。その中心に彼女がいて、目尻に涙をためて笑っている。
 人生は選択の連続だ。間違っていたとは思わない。思ったところで変えられないから。でも、次の選択を迫られれば、彼女の手を離す道は選ばない。そうしてこれからも何かを選び、何かを捨てて生きていくのだろう。茨の谷で、若様の傍で。
 人一人を愛しながら、この命を燃やすだろう。

「じゃあ、もう一回乾杯でもしよう」
「それは良いな、ってデュース…」
「お前はいつまで泣いてる訳?」
「……ッグ 良かったな、監督生…セベグも、ほんどうよがっだ……」

 名前がハンカチを差し出す。気を撮り直して、グラスを掲げた。「二人のハッピーエンドに」グラスのぶつかる音がした。ぶどうの良い匂いが鼻を抜ける。パッと顔を上げた彼女と夜をそのまま切り取ったような彼女の瞳とぶつかる。
 そっと額にキスを落とせば、すぐにエースの叫び声が聞こえてきた。


「セベク」

 曇り空の下でも輝きを損なわない。この谷の太陽がマレウス様なら、彼女は夜を彩る星だった。数多ある中で、僕が一つ掴んで、地に堕ちた。手を差し出せば、当然のように彼女の手が重なる。
 歩きづらい靴はやめろと言っても、この方が近くなるでしょう、とその高さのある靴を譲らない。「それに掴まる理由にもなるから」と。女はいつも強かだ。きっと、ずっと敵わない。

「綺麗な場所ね、いつもここで本を?」
「雨の降っていない日はな」
「とても良さそう。また本を貸してくれる?」
 そういえば、と彼女にあの本の続編を見つけた話をする。『別離の門』。運命に導かれた二人が出会い、身分と社会に引き裂かれ、別れを告げた男が、汽車に乗るところで物語が終わる。
「面白かった?」
「……自分で読んで確かめろ」
「それもそうね。でも、セベクの顔を見て少し分かった気がする」

 彼女が足を伸ばす。風にスカートがひらりと舞う。花のような笑顔につられて、この谷にも春がやってくるそうだ。
「あの話、少しだけ私たちに似ていると思って、卒業してから何度も読み返したの」
「そうか」
「そう、だからきっと、あの二人も素敵なハッピーエンドを迎えたと思う」

 我が血は、最後の一滴までマレウス様のために流し切ると誓った。
 だから、僕の心を君に。いつか僕を置いてお前が遠くに行く時も、同じように心を持ってゆけ。そうすれば、再び出会った時に迷わなくて済むだろう。今度は一番に、お前の傍を選べるはずだ。
 人を愛し、この手で守る。彼女が与える傷を、栞代わりに本に挟んで。長い時間の瞬きのような永遠を、共に生きよう。

「早く行きましょう、ツノ太郎が待ってる」
「こら、城内では若様と呼べと」
「ふふ ごめんなさい」

「再会の都」〆
back